徒然読書日記201406
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2014/6/27
「薬害エイズ『無罪判決』、どうしてですか?」 櫻井よしこ他 中公新書ラクレ
安部英元帝京大学副学長に対する刑事裁判は、非加熱濃縮血液製剤を投与されHIVに感染、AIDSを発症して死亡した一青年に 対する業務上過失致死として行われていた。非加熱製剤の危険性が明らかになっていた時期の投与であり、多くの人が有罪を確信していただけに、 判決には誰もが驚いた。
2001年3月28日ーー、
「被告人は無罪!」シーンと静まり返った法廷に裁判長の声が響きわたった。
「ええっ!」傍聴席からどよめきの声があがった。
なぜ、裁判所はこのような「判決」を下すにいたったのか?
この「判決」は、日本社会全体にどのように受け止められていったのか?
これは、このような理不尽な「無罪判決」を、このまま日本の歴史に残しておくわけにはいかない、と立ち上がった、ジャーナリスト、弁護士、 医師、刑法学者らが、それぞれの立場からこの判決の問題点を徹底的に考察して見せた、告発の書なのである。たとえば・・・
82年7月、米国で血友病患者3名がカリニ肺炎を発症した。3人に共通していたのは非加熱濃縮製剤を使用していたことだった。 同年12月、米国で新生児がエイズを発症した。輸血しか原因は考えられない。血液による感染であることが強く疑われた。
83年1月、早くも米国では非加熱濃縮製剤の使用を、新生児や使用経験の少ない血友病患者については、控えるべきだということが確認された。 一方日本ではその翌月、83年2月に厚生省が非加熱濃縮製剤の保険適用を認め、自己注射も認めるようになった。
これは決して何かの間違いではない。
米国内市場から一気に撤退させられることになり、早晩世界中の市場からもてったいさせなければならなくなった非加熱濃縮製剤のはずが、 まるで米国の血友病患者の悲劇は日本には無関係とでも言わんばかりに、日本の厚生省は非加熱濃縮製剤の大量消費時代の到来を宣言した のである。ここには、誰かの意図が働いているのではないのか?
<「有罪」は安部氏だけではない>(弁護士・清水勉)のである。
両判決で、全く論じられていないことがある。
すでに一部触れたが、お金の問題である。非加熱製剤によってもたらされる薬価差益が、いかに病院経営に大きな意味をもっていたかは、 言うまでもないが、それはまた、そのような利益を病院にもたらす医師の影響力を強める結果ともなっていた。(櫻井よしこ)
2014/6/19
「杜甫」 川合康三 岩波新書
平生獨往願 平生獨往の願い
惆悵年半百 惆悵として年 百に半ばす
罷官亦由人 官を罷むるも亦人に由る
何事拘形役 何事ぞ形役に拘せられん
(かねてから一人自由に生きたいと願いながら、悲しくも人生百年もはや半ば。官をやめてしまうのは人のせい。食うために縛られる暮らしなど まっぴらだ。)
乾元2年(759)秋、ようやく手に入れた華州司功参軍の官を、まる一年ほどで辞めてしまった杜甫は、家族を引き連れて秦州へと移り、 これ以後、正規の官職に就くことはなかった。
「既に自ら心を以て形の役と為す。奚ぞ惆悵として独り悲しまん」
(精神を肉体に奉仕させてしまったからには、そのことをいつまでも一人悲しんでも仕方がない)
とうたって官を辞し、「帰りなんいざ、田園将に蕪れなんとす、胡ぞ帰らざる」と、深い懊悩と迷いを抱えながら郷里へと向かったのは、 もちろん『帰去来の辞』の陶淵明であるが、この有名な章句をあっさり借用したかに見える杜甫はといえば、生前はまったく無名で、59歳で 没してのち、ようやく詩名と評価が高まっていくことになるのだから、それはもちろん、知人の世話にすがりながら、次から次へと移動を 繰り返し、貧困と放浪のうちに与えられた人生の時間を使い果たしてしまう、そんな悲惨な生涯の選択することでもあった。
老妻書紙為棊局 老妻は紙に画きて棊局を為り
稚子敲針作釣鉤 稚子は針を敲きて釣鉤を作る
多病所須唯薬物 多病 須むる所は唯だ薬物
微躯此外更何求 微躯 此の外に更に何をか求めん
まわりの人々の援助を得て、浣花渓のほとりに小さな住まいを構え、ようやく安らぎを得たかのような成都での暮らし。妻は紙に碁盤の罫を引き、 子供は近くの川で魚を釣ろうと釣り針を作る。囲碁にしても釣りにしても、中国では型通りの隠逸生活の徴しなのである。
「病弱の体に必要な薬さえあれば、ほかに何もいらない」・・・はずだった。
現在、私たちが見ることができる杜甫の詩は1450首あまり、これは唐代で最も多い白楽天の2700首に次ぎ、後世並び称されることに なった李白の1000首を上回っている。後世に読まれるためには、何よりもまず作品がのこっていなければならない。
杜甫自身が放浪生活の間、自作に対してすさまじいばかりの執念を持ち続け、いまだ評価の定まらない自分の作品を書き留め蓄えていたなれば こそ、杜甫の子供のもとに作品は残された。そこには詩を人生と等価のものとみなす、あるいは人生以上に大切なものとする強い思いがあった からに違いない。
というのが、中学生の時から『新唐詩選』などに親しんできた、この中学古典文学者の「読み」なのであった。
「此の外に更に何をか求めん」と言うことじたい、やはりこの暮らしに完全に満足しているわけではないと解していいだろう。これぞ理想の 暮らし、と言っているわけではなく、まあこれも一つの生き方として味わうことにしようとでもいった、安らぎとともに諦観も帯びた一コマを 描いている。
2014/6/13
「だから日本はズレている」 古市憲寿 新潮新書
ただ「強いリーダー」を待望するだけで、なかなか自分では動き出さない。「クール・ジャパン」や「おもてなし」と言いながら、 内実は古臭い「挙国一致」の精神論。これからは実力主義の時代だと煽りながら、結局はひとを学歴や社歴でしか判断できない。自分では それほどITを使えないのに、やたら「ネット」や「ソーシャル」の力を信じている。・・・国や企業の偉い人たちのこうした考え方は、 往々にして、ピントがズレていたり、大切な何かが欠けていたりする。
<なぜこの国はいつも大事なときにズレてしまうのか?>
『絶望の国の幸福な若者たち』を出版してから、「若者」が「若者」について語るという意味で、「若者」代表としての発言を求められるように なったのは、「若者のことがわからない」にもかかわらず、いやそれ故にこそ、この国の大人たちが「若者」のことを知りたがってくれている からなのだろうが、そんな自分にとっては、「大人たちの世界」のほうがよほど謎に包まれたものだった、という著者は、
日本が抱える大きな「ズレ」に焦点を当て、そんな「ズレ」の中でもがき苦しむ「若者」たちを描き出すことで、この様々な「ズレ」を放置し 続ければ、結果、この国はどうなってしまうかという「2040年の未来図」を突きつけ、警鐘を鳴らして見せる。
<「強いリーダー」なんていらない>
いなくても大丈夫なくらい、豊かで安定した社会を築き上げてきたことを、むしろ誇るべきだ。
<オリンピックさえ開催されれば「日本は復活する」なんてことはない>
東日本大震災以降、あまりにもみんなが「ニッポンが一つにまとまること」や「絆」の大切さを訴えすぎた。
<「テクノロジー」だけで未来はこない>
誰もそんなの欲しがっていないから、「スマート家電」が全然スマートじゃない。
<「ノマド」とはただの脱サラである>
「安定」が本当に脅かされる時、もはやただ「自由」の賞賛や、「スタイル」の話をしている余裕なんてなくなる。
<「若者」に社会は変えられない>
社会を変えられるのは、若者よりも人脈もお金も経験も、あらゆるリソースを多く持っている「おじさん」のほうだ。
「おじさん」とは、いくつかの幸運が重なり、既得権益に仲間入りすることができ、その恩恵を疑うことなく毎日を過ごしている人のことである。 もちろん、堅牢だと思い込んでいた「おじさん」の世界自体が崩壊しつつあることに気付いてはいるが、その解決策がまた「おじさん」流で、 「見果てぬ夢」を追い続けんがため、取り返しのつかない「ズレ」を引き起こすこともになる。「おじさん」は、「今ここにないもの」に過剰に 期待してしまい、「今ここにあるもの」に潜んでいるはずの様々な可能性を見過ごしてしまっているのだ。
人は、今いる場所を疑わなくなった瞬間に誰もが「おじさん」になる。
2014/6/11
「はなとゆめ」 冲方丁 角川書店
朝、白露が置くのを待つか待たないかの、ほんのいっときの間・・・それしか咲いてくれない朝顔の花は、むしろ見てしまうことで 残念な思いに駆られる。そんなことなら、いっそ花など見ないほうがよかったのではないかと――。
<白露の置くを待つ間の朝顔は
見ずぞなかなかあるべかりける>
「あの肥後守の――歌人元輔の娘が、参内出仕したらしい」
その歌名の高さにもかかわらず、望むほどの出世を果たすことができなかった、藤原元輔を父に持つ娘、後の清少納言が内裏に出仕することに なったのは、他の女房たちに比べて随分遅い、28歳という「色褪せた中年女」になってからのことだった。
出仕のお相手は、時の天皇・一条帝と結ばれて3年で、後宮で最も貴い立場におられる中宮様・藤原定子。その年、僅か17歳のあるじは、 自分より11も年下とはとても思えない威厳と品格をお持ちの方だった。その若さにしてすでに、人を見抜き、導き、そしてその才能をその人 自身に開花させるという、優れた君主の気風と知恵とを身に備えておいでた、
そんな中宮様によって、自分の中に隠れていた華の一端を見出すことになった清少納言は、次第に宮中での存在感を増していくことになる。
「帝は、これと同じ紙に、『史記』という書物を写してお書きになるそうよ。わたくしの紙には何を書けばよいと思う?」
そうおっしゃるので、
「それでしたら、『枕』ということでございましょう」
中宮様の兄・藤原伊周から一条帝に贈られた、沢山の真新しい上質な紙の束を、畏れ多くも賜ることになったのは、『しき』という言葉から 『敷』を連想し、『畳を敷く』のであれば『枕』の一つも欲しいという、他愛もない冗談ではあったのだが、
真っ白くて美しい紙と高麗縁の畳さえあれば、人生諦めずに生きていけると言い放つ清少納言に対し、ならば、帝の『史記』に負けないほど 分厚いけれど、他愛もなく気軽な『枕』のような何かを、あなたが書いてごらんなさいという、中宮様の思し召しであったのだろう。
一条帝を補佐してきた、父である関白・藤原道隆が死去し、後宮での後ろ盾を失い、自らの娘の彰子を無理やり中宮の座につかせようと画策する 叔父・藤原道長の策謀によって、次第に、かつての「華」を失っていくことになる中宮・定子のもとで、「わたしは、あの方を守る番人になる」 と見守り続け、戦い続けてきた清少納言が、愛した「華」のすべてが千年ののちも輝き続けてくれることを願って、あの、最も素晴らしく、 愛しい思い出だけを「夢」に描いた、
これは『枕草子』の誕生秘話のような物語なのでもある。
このときのことを思い出そうとするたび、決まって、あの朝顔の歌がよみがえります。・・・
ですが、やはりわたしは花を見たことを恨みはしません。
花は確かにそこに咲いていたのです。
2014/6/7
「いちえふ」―福島第一原子力発電所労働記― 竜田一人 モーニングKC講談社
<今日は俺たちの職場“1F”に皆様をご案内しよう>
<1Fは「いちえふ」と読む>
<現場の人間 地元住民 皆がそう呼ぶ 1Fをフクイチなんて言う奴はまずここにはいない>
「1F(いちえふ)」とは、東京電力福島第一原子力発電所の通称である。
大学卒業後、職を転々としながら、売れない漫画家としても活動してきた、竜田一人(たつたかずと→たったひとり?、もちろん仮名である) が、震災後に、当時働いていた会社を辞し、わざわざ出身地でもない福島の、この危険な職場ではたらく道を選んだのは、もちろん「高給」と 「好奇心」に釣られたからではあったが、そこにほんの少しは被災地の為にという「義侠心」もないわけではなかった。
安全面についての不安は無かったと言えば嘘になるが、一部のマスコミや「市民団体」が大袈裟に騒ぎ立てるほどのものではないことも、 自分なりに調べてわかっていた・・・はずだったのだが。
<まず下着 APD(個人用線量計)等は胸のポケットに入れておこう>
<次にタイベック(防護服)1枚目 どれにも必ず名前を書く>
<続いてゴム手を1枚 袖口をテープで目張りする>
<そしていよいよ全面マスクだ ゴムのバンドは締め過ぎると頭が痛くなるから気をつけろ>
<リーク(息もれ)チェックは超大事! マスク周りの目張りは人にやってもらった方が確実だ>
<さらにその上からもう1枚タイベックとゴム手 これで・・・>
《おっと待った》
<線量の高い場所へ行く時は背中にこのシール(防護区域内作業者)を貼る これで安全装備の完成だ>
「ご安全に!」
の掛け声に見送られて、これでもかの重装備に身を固めた「本日の作業」に、ようやく取り掛かれたと思ったら、
ヒュイ! ヒュイッ!
《誰だ?》 <俺ッス>
《何回目ですか?》 <たしか4回ッス>
1日の設定線量の 1/5 に達する毎に警告音を鳴らすAPDは、常に放射線管理員によるチェックを受け、4回鳴ってしまったなら、たとえ わずか1時間しか経っていなくとも、現場を離れ免震棟に戻らなければならないルールなのである。
「フクシマの事故は収束していません!」・・・ああ、その通りだよ。
<俺向こうで騒いでる人たち見て思っちゃったんスよね・・・> 《ん?》
<中には収束しない方が自分たちの主張に好都合ぐらいに考えてるような人もいるんじゃないかって>
《そんな事お前が考えてもしゃあねぇべ 俺たちはここをやっつけるだげだっぺ》
2014/6/6
「大栗先生の超弦理論入門」―九次元世界にあった究極の理論― 大栗博司 講談社ブルーバックス
ブルーバックスは今年で創刊50周年ということで、私とほぼ同い年です。私は小学校高学年の頃、都筑卓司さんが当時著された ばかりの相対性理論や量子力学、統計物理学の本を読んで物理学に興味を持つようになりました。そのため物理学の研究を職業にするように なってからは、いつかはブルーバックスで自分の研究のことを書きたいと思っていました。
という、ベストセラー
『重力とは何か』 (幻冬舎新書)
の著者が、ついに長年の夢をかなえることになったこの本は、
1916年に発表された、物質の間に働く重力が空間や時間の伸び縮みに依って伝わることを示す、アインシュタインの重力の理論と、それから 10年後に確立さたミクロな世界の法則である量子力学との間に生じた、まことに深刻な矛盾を克服して、両者を統合する新しい理論を構築する という、現代物理学における時空概念の最先端の動向を「ごまかしなく」解説してみせた快著である。
『超弦理論』(「超ひも理論」の方がお馴染み?)
つまり、物質をつくっているのが「粒子」ではなく、なにか「ひも」のように拡がったものであると考えれば、重力の理論と量子力学を矛盾なく 統合することができそうだというのだ。
<なぜ「点」ではいけないのか>
たとえば、電子が大きさを持たない点粒子であると考えると、電磁場を変化させた電子自身の質量が無限大になってしまうという難題が発生する。 (ここで電子が固有の負の質量を持っていと考え、電磁場のエネルギーを起源とする無限大の質量を相殺てみせたのが、朝永振一郎の「くりこみ 理論」だった。)また、電子・光子などをそれぞれ別の種類の粒子として扱うそれまでの素粒子理論では、大きさを持たない点状の粒子である にもかかわらず、十七種類に区別しなければならなかったが、「超弦理論」では、すべての素粒子は一種類の弦の振動状態の違いによって説明 できることになったのだ。
<なぜ九次元なのか>
なぜ私たちの空間は三次元なのかというのは、根源的な問いである。意外にも、物理学の理論の多くは「次元」の数を選ばず、アインシュタイン 方程式も、どんな次元の空間を設定しようとも、解を求めることができる。ところが、「超弦理論」では理論自身の整合性から「空間は九次元」 に決定されてしまう。しかし、それは逆に私たちの三次元の空間を導くための戦略的ヒントになるのではないかという。
1+2+3+4+5+・・・= −1/12
正の整数を無限に足していくと、なんと負の数になるという「オイラーの公式」。
ここで用いられるこの「驚異の公式」の証明を読むだけでも、だらけた日常にふやけてしまった私たちの脳は賦活すること請け合いである。
ある次元が、異なる次元に変化する現象があったり、ある次元で起きていることが、見方によって異なる次元で起きているように見えたり するのでは、空間という概念がはたして本質的なものなのかどうか、疑わしくなってきます。温度が分子の運動から現われるものにすぎない ように、空間というものも何かより根源的なものから現われる二次的な概念、つまりは幻想にすぎないのではないか。超弦理論はそういって いるのです。
2014/6/4
「最後の晩餐の真実」 CJハンフリーズ 太田出版
イエスが死に至るまでの最後の週は、世界史上、特筆すべき一週間だと言ってよいだろう。この週は“受難週”とか“聖週”と呼ばれ、 これほど頻繁に書物に記載されている週はほかになさそうだ。絵画の世界でも、あらゆる歴史的事件のうち、イエスの磔刑ほど繰り返し描かれた 場面はないかもしれない。
しかし、イエスの最後の週を知るための主要な情報源、、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる四つの「福音書」の記述には、辻褄の合わない 部分があるのだという。
1.きわめて多忙な最後の週であったはずなのに、金曜の磔刑の前々日の水曜日には記述がなく、何も起こらなかったかのように見える。 この“失われた曜日”にイエスは何をしていたのか。
2.歴史上もっとも有名な食事である“最後の晩餐”は、マタイ、マルコ、ルカでは“過越の食事”だとされているのに、ヨハネでは“最後の 晩餐は過越の食事の前に行われた”と明言されているのはなぜなのか。
3.従来の説による「木曜夜の最後の晩餐」から「金曜午前九時の磔刑」までに、起きたと福音書に記されている出来事がすべて実際にあった とみなすには、時間が足りないのではないか。
4.それでも3が正しいとすれば、最高法院によるイエスの裁判は夜に執り行われたことになるが、それはユダヤ教の法的手続きを明らかに 無視して行われたことになるのではないか。
「そんな大昔の出来事の細かいことなど、どうでもいいじゃないか」と、あなたは思われたかもしれないが、イエスの最後の週に起きた出来事の 順序を正しく整理することで、世界史上もっとも重要な週の枠組みが理解でき、そうして初めて、イエスの最後の週の言動の真意を新たに理解 する知見が得られるというのが、この聖書学者であると同時に半導体研究の物理学者である著者の確信なのであり、そんな確信があればこそ、
<磔刑の日付は西暦33年4月3日の金曜日で、最後の晩餐は西暦33年4月1日だと特定できた>りもしちゃったりするというものなのだ。
イエスの磔刑が、西暦何年の何月何日の出来事なのか、それは多くの専門家の頭を悩ましてきた大問題だった。その謎をこの著者だけが、一片の 疑いを差し挟む余地もないほど、完璧に解いて見せることができたのは、福音書を初めとする古代の多数の文献に証拠を求めるという従来の方法 を踏襲するだけでなく、最新の天文学という、普通の聖書学者にはない「味方」を手にした自然科学系の専門家であったからだった。
マタイ、マルコ、ルカが“最後の晩餐”を記述する際に使っていたのは、一日が日の出とともに始まる太陰暦だったのに対し、ヨハネでは、 “最後の晩餐”も、イエスの裁判と磔刑も、すべて<公式のユダヤ暦>に基づいた出来事として記述されていた。採用していた暦の違いのうちに 謎は吸収され、隠されていた真実が洗い出されたのである。
本書は、最高の探偵小説である。本書を読んでいると、ホームズかポアロの説明を聞いているような気分になる。いや探偵小説以上だ。 よくできた探偵小説においてさえも、探偵は本書ほどうまく謎解きはできないだろう。本書を読み始めた者は、途中で、読書を止めることが できなくなるに違いない。(大澤真幸『解題』)
2014/6/3
「田中角栄」―戦後日本の悲しき自画像― 早野透 中公新書
田中角栄(1918〜93)という稀代の政治家がいた。「田中」というよりは、ひとこと、「カクエイ」と呼ばれた。その角栄が 死んで、故郷の越後で、盛大な葬儀が行われた。角栄という農家のアニが東京で大政治家になって、総理大臣にもなったけれど、ロッキード事件 で逮捕されて、そして故郷に帰ってきた。お骨になって、娘の眞紀子の膝に抱かれて、角栄の政治的作品といっていい新幹線に乗って。
<田中角栄とは、どんな政治家だったのか−−。>
1972年(昭和47)12月10日。
東大駒場の生協食堂に集まった大勢の学生たちは、衆議院議員選挙の開票速報がテレビに映し出されるたびに、歓声を上げていた。大都市で 驚異的な伸びを見せた共産党は、結果として38議席を獲得し躍進したのである。政権発足からわずか85日で日中国交正常化をなしとげ、 中国から贈られた上野動物園のパンダ人気に舞い上がって、「パンダ解散」を目論んだはずだった、自民党は意外にも271議席と、解散前の 297議席から大きく後退してしまった・・・。
共産党が議席を取ることなど天地がひっくり返ってもありえないような裏日本の地方都市から上京したばかりの私が、目にすることになった 異様な光景に途惑いを覚えていた、そうか、あの時首相の座にいたのは、田中角栄だったのか。
<それにしても、角栄はなぜ敗れたのか。>
新潟の貧村の馬喰の跡取り息子に生まれながら、高等小学校卒業で、徒手空拳のまま伝手を頼って上京し、類稀な才覚を発揮して、弱冠19歳で 土建業を創業すると、敗戦の焼け跡闇市の時代に、時に悪知恵を働かせて、巨大な財を築き上げた。27歳で政治の世界への転進を決意するや、 「コンピューター付きブルドーザー」と称された、数字の記憶力と行動力を発揮して、権力の階段を駆け上がっていく。
1957年、岸内閣で郵政大臣として初入閣。
1965年、佐藤内閣で政党人最高ポストの幹事長に就任。
1972年、54歳で「角福戦争」を勝ち抜いて、首相の座を射止めてみせた。
角栄は「戦後」の日本の復興のために、道路をつくり、住宅をつくり、農地を整備する。高速道路や新幹線を全国に張り巡らす「列島改造」に よって、経済の高度成長を促そうとした。それは、日本の国民に「平和」と「豊かさ」を実現しようというものだったが、実際のところは 「少しでも豊かに暮らしたい」という「地方」の民衆の願いに答えようとする、徹底した「利益誘導」型の政治でもあった。角栄はそれを端的に 「カネ」という形で表現し、新潟三区の地元選挙民はそれを熱狂的に支持してくれた。
そして権力の座を上り詰めたとき、逆にそのことが引き金となって、あっけなく転落することになったのである。
それにしても、なぜ角栄はロッキードのカネをもらっていないと言い続けたのだろう。あれだけの証言が揃ってどだい無理な話である。 おれはもらった、すまなかったと詫びて、越後に戻っていればよかったろうに。しかし、それまでに注いだ力と汗、投じた膨大なカネ、 そして築いた「田中角栄」という存在、それは捨てるに捨てられぬ、自ら擲つことがついにできなかったということか。それが「上り列車」 の終着駅だったのである。
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