徒然読書日記201403
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2014/3/28
「ああ知らなんだこんな世界史」 清水義範 朝日文庫
トロイの王子パリスが、スパルタの王妃ヘレネを奪ったことが原因で、アガメムノン率いるスパルタ軍がトロイを攻める。スパルタ軍 の英雄が、かかと以外には弱点のない英雄アキレウスで、映画(2004年公開の「トロイ」)でブラッド・ピットが演じた人物だ。
インドへ3回行ったことがあるだけで、ほかの外国へは行ったことがなかったにもかかわらず、ある航空会社の機内誌の依頼で、 イスタンブール紀行を書くことになった。
そんな著者が、とても魅力的な街・イスタンブールを後にして、次の観光ポイントに向かった時、期待していたものは、モスクやメドレセ (マドラサともいう、イスラムの神学校)などなど、いかにもイスラムのムードのある風景だろうなあというものだった。 ところが、真っ先に行かされたのは、19世紀にドイツの考古学者シュリーマンが発掘したことでも有名な「トロイの遺跡」であり、 そこは、古代ギリシアの詩人ホメロスの作になる叙事詩『イーリアス』に描かれた、トロイ戦争の舞台なのである。
「どうしてトルコへ来ているのにギリシアやローマの遺跡を見るのだか、わけがわからない。トルコって、イスラムの国じゃなかったっけ?」
トルコがトルコになったのは、セルジュク・トルコが11世紀にじわじわ侵入してきてからのことで、オスマン・トルコが半島を征服した 1453年に、コンスタンティノープルが陥落して、イスタンブールと名を変えた。それより前のこの半島の、特にエーゲ海に面した地方は、 トルコとはまったく無関係で、つまりはギリシアだったのだ。(正確にはギリシア勢力圏のイオニア地方だった。)
こうして、あたかもヨーロッパ史を裏から見るような体験をして、「だからこそいろいろわかってくるなあ」という実感を抱いた著者の、 イスラム巡りが始まることになったのだった。
<ギリシアと中近東の意味>
中世の頃まで、ヨーロッパ人は古代ギリシアに優れた文明があったことなど知らず、イスラム世界に比べて自分たちのほうが遅れていると 考えていたはずだ。
<エジプトの栄え>
ツタンカーメンの黄金のマスクが出てきたのは、何十もある他の墓より貧弱な墓だったために、盗掘を免れたからなのかもしれない。
<イランとイラクに花開いた文明>
アラブとはアラビア語を使っている国々という意味で、文字はよく似たものを借用しているとはいえ、ペルシア語を使っているので、 イランはアラブ世界ではない。
<北アフリカは地中海世界>
アフリカの最北に位置するチュニジアの首都チュニスの緯度は、東京の緯度とほぼ同じである。つまり、アフリカだからといって、 どこでも暑いわけではない。
などなど、私たちが学校で学んできた「世界史」というものが、実際にはほとんど「ヨーロッパ史」といういびつなものであったことを、 今になって思い知らされることになる。これは、まさに「目から鱗」の逸品なのである。(なんたって、著者が清水義範なんだから。)
本書で私が伝えたかったのは、イスラム側から見てみると、世界史がまったく違う角度からわかって、知的刺激に満ちていますよ、 ということだ。そういう大きく世界史を見ようとする目には、最近の情勢の変化は重要な問題ではない。こっち側も知っておかないと 世界史の全体像を見たことにはならない、という私の目のつけどころは今も有効であると思うのである。
2014/3/26
「記憶のしくみ」(上・下) LRスクワイア ERカンデル 講談社ブルーバックス
この30年間で、我々が記憶したり学習したり思い出したりするとき脳で何が起きているか、についての理解には大変革があった。 本書の目的は、こうした大変革の発端となった事柄や脳にまつわる研究の大筋を述べ、記憶のしくみや神経細胞と脳システムのはたらき方 について、現在までに明らかにされてきたことを記述することにある。
<学習して、それを思い出すとき、脳では実際にどのような変化が起こるのか?>
フランスの哲学者アンリ・ベルクソンは1910年、「過去は、身体的な習慣あるいは独立した思い出として存続する」と記述していた。
つまり、「記憶」というものには、友人の名前や今朝の会話など、言葉による表現や視覚イメージとして意識的に想起・回想することができる 「陳述記憶」と、自転車の乗り方など、自覚することはできないが、行動に大きな影響を及ぼすような無意識の記憶「非陳述記憶」の、 二種類があるらしいということは、100年以上も前から、すでに知られていたことだった。
そして、個々のニューロン間の信号伝達における変化とニューロン内の分子の活性に依存して、脳の中に書き残された「痕跡」こそが、 「記憶」なるものの正体である、という最近の研究成果によれば、「陳述記憶」と「非陳述記憶」とは、異なる脳のシステムを利用し、 記憶を貯蔵するのに異なる戦略を用いているようなのだ。
というのが、上巻『記憶するとはどういうことなのか?』
一方、「記憶」には、数分続く「短期記憶」と、数日あるいはそれ以上続く「長期記憶」とがあるわけだが、シナプス強度の一時的な変化のみ に依存して、記憶を貯蔵している「短期記憶」に対し、「長期記憶」においては、ニューロンの解剖学的(構造)変化が基礎となって、恒久的な 貯蔵に結び付くことになる。「短期記憶」が「長期記憶」に移行するためには、遺伝子のスイッチをオンにする必要があるらしいのである。
というのが、下巻『脳はどのように学習し記憶するのか?』
医学系の大学院の「神経科学」の演習科目用テキストとして採用された原著“MEMORY”を翻訳したものなので、決してスラスラ読める という類の本ではないのだが、人間の脳はいまやここまで「自分」のことを理解し始めているのだ、ということを垣間見るだけでも、 一読の値はあったと言わねばならない。
2014/3/18
「穴」 小山田浩子 文藝春秋
顔のすぐそば、穴の縁でコメツキムシが跳ね出した。跳び上がるたびにぱちっと硬い音がする。細長くて黒い背には浅い縦筋が いくつも走っている。頭部には曲がった触角が見える。コメツキムシのどこがどう鳴っているのかはわからない。私の体はどこも痛くない。 穴は胸くらいの高さで、ということは深さが一メートルかそこらはあるのだろう。私の体がすっぽり落ちこんで、体の周囲にはあまり余裕 がない。まるで私のためにあつらえた落とし穴のようだった。
蝉の声が肌中に張りついて窒息しそうな、ある夏の日。ソファでうつらうつらしていたら、突然携帯が鳴って、姑から頼まれた「使い」に 出ることになった私は、コンビニに向かう川沿いの遊歩道で、正体不明の真っ黒な獣に遭遇し、それを追って歩いているうちに・・・
「私は穴に落ちた。脚からきれいに落ち、そのまますとんと穴の底に両足がついた。」
同じ県内だがかなり県境に近い、田舎の営業所に夫が転勤することになったため、夫の実家の隣に実家が所有する借家に引っ越すことになり、 「朝から晩まで働らかなければ生活できない」はずだった非正規の職場を辞めて、「昼前には一通りの用事が済んであとは夕食を作るまで 呆然としていてもいい」専業主婦に納まったはずの私の日常生活は、
私が「穴に落ちた」この時を境に、なにやら微妙に捩れ始めていったようなのだった。
本年度「芥川賞」受賞作品。
嫁姑、という言葉から想起されるような類の感情を抱かせず、隣に住むだけなら拒否する気持ちにはならない、明るくて、若々しい姑。
結納、結婚式、盆暮れの帰省、の際にはその場にいたはずなのだが、喋っていたのが主に姑だったせいで、印象が薄い義父。
何の意地か、私への気づかいなのか、どんなに遅くても夕食は家で食べるにもかかわらず、箸を操りながらも、決して携帯の画面から目を 放そうとしない夫。
毎朝、早くから庭に立ち、雨の日には合羽を着てまで、水を撒くホースを手放そううとしない義祖父。
そして・・・、二十年前に隠棲して以来、実家の庭の物置に一人で暮らし続けている、夫も姑も教えてくれなかった義兄との出会い。
「変わらずそこにあった」はずにもかかわらず、少しだけ立つ位置をずらしただけで、それらはまるで、「コメツキムシの黒い背にある浅い 縦筋」のように、異様な相貌を露わにし始めてくることになる。
私は確かに「穴」に落ち、そしてどうやら、この家族の一員となったらしいのである。
土手の緑の中にぽつぽつと赤い色があった。老人が刈り終わった草を小山に掻き集めていた。その中にも赤い色が混じっていた。彼岸花の ようだった。獣も穴も子供も見えなかった。家に帰り、試しに制服を着て鏡の前に立って見ると、私の顔は既にどこか姑に似ていた。
2014/3/6
「開かせていただき光栄です」―DILATED TO MEET YOU― 皆川博子 ハヤカワ文庫
「隠せ!」
裏口の扉を細く開け顔をのぞかせたクラレンスが、切迫した声で囁き、すぐに閉めた。
台の上に仰向けに置かれた躰の、盛り上がった腹部の皮膚は十文字に切り裂かれ、四方にめくりあげられ、膨らんだ子宮が露出していた。
18世紀、ロンドン。
解剖台に乗せられた妊婦の屍骸から、得がたい胎児の標本を作らんと、子宮の表面を走る血管に着色した蝋を注入しているのは、聖ジョージ 病院の外科医ダニエル・バートン。
「先生、いったん中止してください」とあわてて飛び込んできたのは、彼が開設している私的解剖教室に通ってきている、若き5人の弟子たち。
饒舌(チャターボックス)クラレンス。
肥満体(ファッティ)ベン。
骨皮(スキニー)アル。
天才素描画家ナイジェル。
そして、容姿端麗な一番弟子エド。
禁止されている「墓あばき」から、屍体を買い付けた疑いで、ウェストミンスター地区の犯罪捜査犯人逮捕係――通称ボウ・ストリート・ ランナーズ――の捜索を受けたのだった。
めったなことでは手に入らない貴重な屍骸を、この日のために仕掛けを施した暖炉の裏に、うまく隠しおおせたはずなのに、なぜかそれが、 四肢を切断された少年と、顔を潰された男の屍体にすりかわっていて、物語は一気に本格ミステリーのモードに突入していくのだが・・・
『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』
(Wムーア 河出書房新社)という極上のノン・フィクションに触発されて構想されたこの作品の、あらすじをご紹介することは控えておこう。
凝りに凝った舞台設定、魅力的な登場人物、知的なユーモアセンス、耽美なまでのグロテスク、18世紀のロンドンの町の臭いまでもを 髣髴とさせてくれるようなこの珠玉の作品を、どうぞ心ゆくまで楽しんでいただきたい。
お断りしておくが、これは決して「翻訳物」ではない。
溜息をつくベンに、「やってしまえば、それでことが済むものなら、早くやってしまったほうがいい」クラレンスは朗唱した。マクベスの 科白だ。「此の一撃で以て萬事が終局となるものなら、未来なんかどうなろうと、かまうものか」
そうして、「さて、開かせていただいて光栄です」delighted to meet you ――お目にかかれて光栄です――を、dilated to meet you と 言い換えて、クラレンスは男の骸に会釈した。
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