徒然読書日記201402
サーチ:
すべての商品
和書
洋書
エレクトロニクス
ホーム&キッチン
音楽
DVD
ビデオ
ソフトウェア
TVゲーム
キーワード:
ご紹介した本の詳細を知りたい方は
題名をコピー、ペーストして
を押してください。
2014/2/19
「なぜヤギは、車好きなのか?」―鳥取環境大学のヤギの動物行動学― 小林朋道 朝日新聞出版
彼らの関心事――それは、駐車場にとめてある車の前に立ち、一台ずつ車のボディや車内を点検することであった。もちろん、 "点検”というのはわれわれの擬人化であり、本当は何をしているのかわからなかった。でも、車の臭いを嗅ぐような動作や窓から中を 覗くような動作、車の後ろに回るような動作・・・それは"点検"をしているように見えたのである。
「こいつは車を変えたなー。がんばって高級車にしてるじゃない」
「この人はいつも内装のセンスが悪いのよねー。成長がないわねー」
などと言いながら、20メートルほど離れたところにある放牧場の柵を脱走して、平然と駐車場を歩き回っているのは、脱走の常習犯、 クルミとミルクというヤギの母娘だった。
2001年、鳥取市に設立された公設民営の鳥取環境大学に講師として招聘され、広々としたキャンパスの緑地に魅せられた著者が、 「緑の中に、のどかにヤギが草を食んでいる姿、いいだろーなー」と、無責任に妄想を膨らませ、
「皆さんで、大学のキャンパスでヤギを飼ってみてはどうですか」
なんて、生態学入門という講義の初回に、受講した一期生に向かって、その場の気分で具体的な計画もなく呼びかけてしまったところ、 その数分後には、成立してしまっていたという、これは鳥取環境大学「ヤギ部」の興味津々の活動記録なのである。
<ヤギは他のヤギの行動を見て学習することはできるのか?>
―意欲がなければ学習は成立しない―
<ヤギの角突きは一種の挨拶や遊びとして行われるのか?>
―他個体の心理を読み取りながら"重いもの”を背負って行われる場合もある―
なんてことがわかったからといって、特に何かの役に立つことなどなさそうなのではあるが、「ヤギも、自分たちと同じ"気持ち"をもった 生き物である」と感じながら、ヤギ部の初代ヤギ「ヤギコ」との、「外へ出してよ」というアイコンタクトなどから、自分とヤギコの間には、 確かな心のやり取りがあったと確信する、
これは「ヤギが可愛くて仕方がない」という著者の、科学者としての観察眼の裏に隠された「やさしさ」に心癒される、お茶目なヤギたちの 「観察日記」なのである。
ところで、『なぜヤギは、車好きなのか?』
ヤギらしいシルエットの"発泡スチロール・ヤギ"を柵の中に入れておくと、ヤギたちは10メートル以上離れたところですでにそれに気づき、 体に緊張感を漂わせ、立ち止まってじっと見つめているが、やがて、恐る恐る近づいてきて、肛門や鼻先のニオイを嗅いで、第一段階の出会い の儀式を終える。
ヤギが同種を認識する上では、嗅覚よりも視覚のほうが重要な役割をはたしているのである。
結局、ヤギたちは、車のボディに映った自分の姿に反応していたのだった。
2014/2/15
「日本史の謎は『地形』で解ける」 竹村公太郎 PHP文庫
この広重の絵(『山王祭ねり込み』)には、祭行列が江戸城に繰り込む様子が描かれている。・・・しかし、今まで私は、この絵の 重要な部分を見落としていた。・・・祭行列が江戸城に入る「土手」が今と同じなのだ。・・・祭行列が堀を渡ろうとしているのは「橋」 ではなく「土手」であった。
「半蔵門の土手は江戸時代からあった!」
世界の城を見回しても、敵の攻撃を防ぐのが役目であるはずの堀をわざわざ土手で埋めるなど、常軌を逸しているといわざるを得ない。 これは、「絶対にこの土手を守ってみせる」という、徳川幕府の覚悟の表明であるに違いない。
私たちが一般的に皇居の正門として認識しているのは、正月の一般参賀が行われる「二重橋」や、各界の要人が宮内庁訪問の際に利用する 「大手門」であり、これらの反対側に位置する「半蔵門」は、その名称(忍者・服部半蔵に由来すり)からも脱出用の門という、いかにも 裏口のイメージである。ところが、その裏門を天皇・皇后両陛下はお通りになって、出入りされているのだから・・・
「半蔵門は江戸城の正門だった」
これが、元建設省河川局長として、地形と気象だけは人に負けないほどの知識と経験があると自負する著者が、江戸城の地形などから推理 してみせた、胸のすくような結論だった。
<関ヶ原勝利後、なぜ家康はすぐ江戸に戻ったか>
―巨大な敵とのもう一つの戦い―
<なぜ信長は比叡山延暦寺を焼き討ちしたか>
―地形が示すその本当の理由―
<なぜ頼朝は鎌倉に幕府を開いたか>
―日本史上最も狭く小さな首都―
などなど、18章にも及ぶ歴史ミステリーの謎を解く。
この本は、「素人が何を言うか」という歴史の専門家からの叱責を覚悟しながら、地形と気象という「ぶれない事実」を解釈の根拠として、 今まで定説と言われていた歴史の常識を覆して見せようという、まことにスリリングな試みなのである。
さて、半蔵門は江戸城の大切な正門であったから、その半蔵門の土手を防御するために、幕府は四ツ谷見附から江戸城までの郭内に御三家や 親藩の屋敷を配置し、戦闘集団の旗本たちを住まわせると同時に、賑わう麹町の商店街には密偵をくまなく張り巡らしていた。
しかし、江戸で最も警備が厳重なこの麹町に、副官の吉田忠左衛門、武闘派急先鋒の原惣右衛門をはじめとして16名もの赤穂浪士が潜伏 していた。
ひょっとして「赤穂浪士は江戸幕府に匿われていた」のではないか?
徳川家の真の狙いは、「吉良家の滅亡」だったのではないか?
<なぜ徳川幕府は吉良家を抹殺したか>
―徳川幕府百年の復讐―
後は自分で読んでください。
2014/2/13
「悪魔に仕える牧師」 Rドーキンス 早川書房
あなたは、ソマリア南部のインド洋に面した海岸に立ち、北を向き、左手で母親の右手を握る。つぎに彼女はその母親、つまり あなたの祖母の手を握る。祖母はそのまた母親の手を握る、ということを続けていくのだ。鎖はゆっくりと海岸から出発して、乾燥した 低木地を抜けて西に進み、ケニヤ国境に向かう。
「チンパンジーとの共通の祖先にたどりつくまでに、どれくらい進まなければならないだろうか?」
という、まことに鮮烈なイメージを喚起させながら、私たちのふやけた脳に刷り込まれた固定観念に、一撃を加えようとしてくる。
『利己的な遺伝子』、『盲目の時計職人』など、魅力的な言語センスと、刺激的な論述により、目下欧米ででは最も人気の高い生物学者が、 進化論や遺伝子工学など、現代的な話題はいうに及ばず、永遠のライバル、SJグールドとの往復書簡を始めとする、さまざまな交友関係 なども交えてセレクトされた、これはRドーキンス・ファン待望の、初のエッセイ集なのである。
恵み深く全能の神が、イモムシの生きた体の中で養育するという明確な意図をもってわざわざヒメバチ類を造られたのだと、私は どうしても自分自身を納得させることができません。(Cダーウィン『エイサ・グレイ宛の手紙』)
進化論の父・ダーウィンが、自然淘汰につきまとうこの避けがたい帰結を、獲物をすばやく咬み殺すことは苦しみを与えない慈悲のためだ と述べることで軽減しようとしたのは、信心深い人びとに「悪魔に仕える牧師」だと謗られることを恐れたからだったのだとするならば、
そんなダーウィンを、学問にたずさわる科学者としては、熱烈に支持するダーウィン主義者であることを宣言しながら、こと人間界の諸問題に どう対処すべきかという、宗教的な立ち位置からは、圧倒的な反ダーウィン主義者へと豹変することも厭わない、
「自然にもしも慈悲があるとすれば、それは偶然のことにすぎない」
ときっぱりし適してみせるドーキンスは、「悪魔に仕える牧師」と名指されることも意に介しない、明晰で合理的な科学啓蒙家の第一人者 なのだった。
というわけで、たとえば・・・
冒頭にご紹介した「人類の最初の祖先」の右手に握っている娘から、私たち子孫は生まれてきたのだが、彼女の左手はもう一人の娘の手を 握っており、この娘からは、チンパンジーの子孫が生まれてくることになる。この折り返された母娘の鎖には、どこにも著しい不連続は 見つからないことに気付くだろう。私たちが心のうちにうち立てた人間と「類人猿」のあいだの不連続な断絶は嘆かわしいものである。
というのが、このまことにチャーミングな「悪魔に仕える牧師」の主張するところなのである。
いずれにせよ、神聖視された断絶という現在の立場は恣意的なものであり、進化的な偶然の出来事の結果である。もし、生き残ったもの と絶滅したものの賽の目が異なっていれば、断絶は違った場所にできていただろう。偶然的な気まぐれに根拠をおく倫理的原則は、絶対的な もの(石に刻まれたもの)のように尊重されるべきではない。
2014/2/11
「穴うめ短歌でボキャブラリー・トレーニング」 産業編集センター・編
<ウミウシに 話しかけたら □□□□□
ような気がする からやめておく>
□のブランクに1音ずつをうめて、この短歌を完成させろというのである。
というわけで、早速やってみることにする。
<ウミウシに 話しかけたら 無視される>
<ウミウシに 話しかけたら ヒトが引く>
・・・・・などなど。
ページをめくると掲げられている、歌人・村上きわみの元歌は、
<ウミウシに 話しかけたら 長くなる
ような気がするから やめておく>
というものなのだが、もちろんこれが正解というわけではないし、そもそも正解を求められているわけでもない。
1.課題短歌で詠まれている場面、状況を想像する。
2.ブランク部分の音数に注意しながら、自分の表現したい事柄に見合った言葉を探す。
3.課題短歌の内容設定の可能性を何通りも考え、ブランクをうめていく。
ことによって、あなたの「発想力」と「語彙力」を鍛え、「うまいコトバが浮かばない!」という、ボキャブラリー・コンプレックスや、 ボキャブラリー・ストレスを解消して差し上げましょう。という、これはまことに画期的な試みなのである。
取り上げられた「課題短歌」は、石川啄木、与謝野晶子、正岡子規などの大物から、山田航などの現代歌人の作品まで、全部で17首。
<オール5の 転校生が やってきて
□□□□□□□ □□って噂>
が、中でも暇人の一番のお気に入りで、
<送り迎えが パパって噂> とか、
<テレビは大河 だけって噂> なんて、
どうよと鼻を膨らませてみたりもしたのだが、
いまや人気随一の現代歌人・穂村弘による元歌は、なんと衝撃の「字余り」なのだった。
<オール5の 転校生が やってきて
弁当が サンドイッチ って噂>
2014/2/10
「関東連合」―六本木アウトローの正体― 久田将義 ちくま新書
「飲食店で知り合った仲間と飲んでいて、その後酔いつぶれた人を介抱していたらいきなり殴られた」としているが、その後の報道 などで、テキーラを灰皿に注いで飲ませようとしたり、髪を引っ張る、頭を叩くなどの行為に及んだとする証言が浮上している。
2010年11月、明け方に一緒に飲食していた仲間たちと別れて、独りで飲んでいたところをトラブルに巻き込まれ、生命の危険を感じる ほどに殴られて逃げだした。
<歌舞伎界のプリンス殴打事件> の報道を目にした時、あなたは、「なぜ歌舞伎界のスターが暴走族OBなどと一緒に酒を飲んでいたのか」 と、不思議に思わなかっただろうか。
<元横綱の泥酔暴行事件>
<元男優のホステス遺棄致死事件>
<元女優の覚醒剤所持・使用事件>
これら芸能界周辺のお騒がせ事件も、いずれも2009年から2010年の短い期間に立て続けに起きているわけなのだが、なぜかその 現場は、六本木・西麻布周辺に集中しているという、共通点を持っている。
「一体、六本木と西麻布では何が起きているんだ。」
2012年9月2日、深夜3時40分近く、東京都港区六本木のロアビル内にあるクラブ「フラワー」のVIPルームで一人の男性が 襲われた。10人くらいの目出し帽を被った男たちに金属バットのようなもので1〜2分にわたって殴られ続け、死亡に至った。
この「六本木クラブ襲撃事件」、いわゆる「六本木フラワー事件」を受けて、警察庁は「関東連合」及び「怒羅権(ドラゴン)」を 「準暴力団」と「規定」することになった。
「関東連合」とは、各暴走族が集まった集合体であり、1980年代の東京アンダーワールドの中で、渋谷を拠点に活動し、やがて六本木に 進出したのだが、ヤクザのような組織ではなく、先輩後輩の序列はあっても、トップが存在するわけではなく、本部ビルがあるわけでも なかった。(ちなみに「怒羅権」とは中国残留孤児を中心に結成された暴走族で、「関東連合」とは友好関係にある。)
六本木でのさまざまな芸能スキャンダルが起きるたび、「関東連合」の名前が取り沙汰され、週刊誌は連日その模様を報じたけれど、警視庁は 黙認状態だったのだが、「六本木フラワー事件」は殺人事件であり、しかもヤクザ同士の抗争事件などでなく、犠牲者は人違いによって襲われた 一般人であったため、警察も(そして、面子をつぶされたヤクザ組織も)本格的に腰を上げたように思われるということらしい。
「関東連合」とは一体何者なのか。
なぜそれほどの影響力を持てるのか。
数々の事件の背景には何があるのか。
新しい反社会的なネットワークの実態に興味のある方は、ぜひ本書をお読みください。
(正直言って、私はあまり興味がもてなかっけど。)
2014/2/5
「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」 辺見じゅん 文春文庫
昭和32(1957)年1月半ばの底冷えのする晩、大宮市大成町の山本モジミの借家を、シベリア帰りのひとりの男が訪れた。 男は、山村昌雄と名乗った。
ちょうど勤務先の大宮聾学校から帰宅したばかりのモジミが玄関先にでると、山村は緊張した面持ちで、・・・一通の封書を差しだした。
「私の記憶してきました山本幡男さんの遺書をお届けに参りました」
第二次世界大戦後、旧満州、樺太などからソ連軍によってシベリアに連行された日本人は、57万4530人(昭和51年厚生省調査)とされて いるが、今もなおその正確な数が把握されているわけではない。
広大なソ連領内の各地に設けられた俘虜収容所(ラーゲリ)は、約1200ヶ所。極寒の異郷の地で飢えと重労働の日々を強いられ、望郷の熱き 思いを胸に抱いたまま、極北の地に果てた日本人の数は、7万人を超えると言われている。
明治41年、隠岐島の小学校長の6人兄弟の長男として生まれた山本幡男は、弟妹が多かったため京大進学の夢を諦め、東京外国語学校の露西亜 語科に入学したのだが、昭和11年には、そのロシア語の実力を買われて、大連の満鉄調査部に入社し、北方調査室に配属され、内務班の リーダーを務めるほどに、その能力を発揮した。
学生時代にマルキシズムの影響を受け、ドイツ侵攻に対するソ連の最終的勝利を力説していたほど、ソ連贔屓の中心人物であったにもかかわらず、 そんな山本が、1948年の日本人俘虜第一次帰還の列車から、目的地ハバロフスクの直前で突然下車させられ、別のラーゲリ送りとなって、 「前職者」=「反動」分子としての苛烈な吊るし上げを喰らうことになったのは、まことに皮肉な運命だったと言わねばならない。
そんな逆境にあっても、決して心折れることもなく、
「ぼくたちはみんなで帰国するのです。その日まで美しい日本語を忘れぬようにしたい」
と、密告に走ろうとする同胞や厳しい監視兵の眼をかすめて、山本が立ち上げた「アムール句会」は、やがて、その時だけはみな日頃の作業の 辛さも忘れ、作業中にも次の句会に投ずる句を考えていれば、単調で過酷な労働も違ったものに感じられてくる、そんな、とげとげしいラーゲリ 内の雰囲気をウソのようなものと感じさせてくれる別世界として、じわじわと浸透していくことになるのだが・・・、
昭和29年、末期の「喉頭癌性肉腫」に侵されていることが判明し、見舞いに来た友の様子から帰国できないことを悟った山本は、 薄れかけた視力のなか、痩せ細った指に握った鉛筆で、最後の力を振り絞って、ノート15頁にわたって、大きな文字で書き綴った。
それは、「本文」、「お母さま!」、「妻よ!」、「子供等へ」と題された、4通の「遺書」だった。
文字を書き残すことはスパイ行為と見做され、特に帰還前の検査は厳重で、これを日本に持ち帰ることは至難の技であることは誰もがわかって いた。
「なんとしてでもこの遺書を山本さんの家族に届けよう」
それは山本の遺書ではあったが、帰国の日を待ちわびて死んでいった多くの仲間たちの無念の声でもあったから、強制収容所で山本が密かに 書いたこの遺書は、戦後11年も経ってようやく帰還がかなった友人たちにより、「記憶」という尋常ならざる手段によってほぼ完璧な形で 届けられたのである。
「山村が届けてくれたのは、実は夫の最初の遺書にすぎなかった。」
第7通目にあたる遺書が山本家に届けられたのは、昭和62年の夏の日のことだった。山本氏が世を去ってから実に33年目にあたる。
先頭へ
前ページに戻る