徒然読書日記201307
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2013/7/31
「上野に行って2時間で学びなおす西洋絵画史」 山内宏泰 星海社新書
ん?館内の案内表示によれば、ここは右側に進むとある。それなのに、彼は自信を持って左手に回る。
あの、順序が違うんじゃ・・・。
「ええ、今日は館が勧める巡り方をやめて、ここから逆回りに行ってみましょう。
この館では、先ほどの14世紀シエナ派の絵画にはじまり、時代を追っていく形で作品が並べられています。じっくりと観ていくならば、 それをたどるのももちろんいいでしょう。でも、今日は午前中のみで全体を観てみようというのですから、多少の急ぎ足が必要ですね。 となると、時代を遡ったほうがわかりやすはずなのです。」
現在から過去へと眺めていけば、歴史の転換点、因果関係、後世に影響を及ぼした作品など、ポイントが明瞭になるから、という、何やら怪しげな アートコンシェルジュに誘われて、まず入ったのが、鮮やかで、色とりどりの華やかな作品群が、部屋全体を湧き立つような雰囲気に染め上げている、 20世紀の画家たちの展示室だった。
たとえばジョアン・ミロに代表される「シュルレアリスト」たちの作品など、「理想的な美」の追求という確固たる規範が、20世紀初頭に崩れ 去ったことにより、彼らは主題からして自分で選ばねばならぬという、オリジナリティを求められることになったのだが、
そんな西洋美術の大きな転換期を準備したのは、19世紀末のフランスで結成された20歳前後の若手画家グループ「ナビ派」であり、 そんな彼らが師事したのが、「自然から抽象を引き出しながら創造するのが絵画だ」と喝破した、ポール・ゴーガンだった・・・
後ろ向きに前へ進んだ「ラファエル前派」(19世紀) ダン・ガブリエル・ロセッティ
眼そのものになった「印象派」 クロード・モネ
徹底して「いま、ここ」を描く エドゥアール・マネ
「写実」を突き詰めることこそ新しい ギュスターヴ・クールベ
自分をアピールする「自画像」(18世紀) マリー=ガブリエル・カペ
画家の地位向上を目指した「肖像画」 ジョシュア・レノルズ
風景だけを描く(17世紀) クロード・ロラン・・・
あちらから、こちらへと、次々に時代を遡りながら駆け巡っていくこのアート・ツアーが、これほどまでにめくるめくようなものであったのは、 入口の大きな吹き抜けに蠱惑的なスロープを備えたこの美術館の空間構成の中に、そもそも螺旋的な企みが埋め込まれているせいであった のかもしれない。
なんたってこの建物は、20世紀建築界の巨匠ル・コルビュジェが設計した「国立西洋美術館」なのである。
「表現されてきたものを時代順に見なおしても、前進しているというより行ったり来たり、往還運動をしているような印象が強くありませんか。
前の時代の表現を乗り越えようと、画家たちは必死に考えを巡らせて画面をつくる。それが受け入れられると、次の世代の画家はその受け入れられた 作品とはまた逆の方向に走る・・・。
そういうことの繰り返し。
それでも、同じところをうろうろしつつ、知らず徐々に高いところに上っているというような。
美術の歴史はかたちで表すとしたら、らせん階段みたいになってる気がします。」
2013/7/29
「聖書考古学」―遺跡が語る史実― 長谷川修一 中公新書
「聖書考古学」とは、「聖書」と「考古学」という二つの言葉を合わせた学問分野である。・・・聖書を歴史文献と目し、考古学的発掘の 成果によって聖書記述の史実性を裏づけることが、聖書考古学が世に出てきた当初の目標であった。
しかし、聖書考古学者が同時に「聖書学者」でもあった当時とは異なり、専門の考古学者による遺跡の発掘調査が進むにつれて、聖書記述の史実性 には、少なからぬ疑問が生じ始めるようになってきた。
「書かれていることすべてが本当に起こった」こととは限らないのは言うまでもないが、「本当に起こったことのすべて」が書かれているわけでも ない。ゆえに、文献史料批判の際には、複数の異なる資料(遺物と遺構)を、できるだけ先入観にとらわれずに公平に見ることが求められる。
というこの本は、「旧約聖書」に描かれた世界の実際の姿を、遺跡の発掘調査に基づく地道な研究から、丹念に浮かび上がらせようとした試みなの である。
たとえば・・・「アブラハムは実在したか」
神への絶対的な信仰を示すことで、神よりパレスチナという契約の地を与えられた、イスラエル人の「民族の父」アブラハム。聖書の記述に頼って 計算してみると、アブラハムは175歳、その子イサクは180歳、孫ヤコブは147歳まで生きたことになる。
彼らはそれほどまでに長命な家系だったのだろうか。
実は日本の「古事記」においても、そこに記載されている初期の天皇たちの寿命はとても長くて、初代・神武天皇は127歳、第10代の崇神天皇 は168歳まで生きたことになる。
考古学における人骨の研究では、古代人が何歳で死んだのか、ある程度推定できるようになってきており、古代人は概してはるかに若死にで、 100歳まで生きたと推定される人骨さえ発見されていない。
では・・・「アブラハムは実在しなかったのか」
ずっと後の時代に「父祖たちの物語」を書いた人々は、「民族の父たち」が活躍した時代を想定するに際して、具体的に年代が示されている方が、 族長たちが実在したという信憑性が増すと、しかし、自分たちの時代にあまりに近いと、逆に真実味に欠けると考えた、のではないかというのである。
「モーセは出エジプトを果たしたのか」
「ダビデは巨人ゴリアトを討ち取ったのか」
聖書の多くの物語には時代錯誤や誇張などが含まれている。まったくの創作にちがいない、という物語すらある。こうした物語すべてを歴史的 には価値のない嘘っぱちだ、と退けてしまえばそれまでである。だが、こうした創作的な話も実は立派な歴史史料なのだ。それは、その話がつくら れた時代の人々の考え方、暮らしを豊かに教えてくれるからに他ならない。
2013/7/24
「武士道とキリスト教」 笹森建美 新潮新書
(東京にある開拓伝道教会、駒場エデン教会は、)教会としては中堅規模で珍しくありませんが、他の教会とは違うところがあります。 それは礼拝が終わると、机や椅子が片付けられておよそ30名の門下生が剣を振るう道場へ変わることです。
指導するのは、背広から剣道着に着替えた駒場エデン教会の牧師であるこの本の著者。彼はまた、柳生新陰流と並んで将軍徳川家の剣道指南役を 務めた小野派一刀流の第十七代宗家なのであり、日本に一人だけの「牧師兼剣術宗家」が、なぜ誕生する次第に至ったのかという歴史的経緯や、 「武道とキリスト教は矛盾しないものなのか」と、キリスト教関係者にも、剣道関係者にも驚かれる、その疑問にお答えしましょうという企みなのだった。
「多くのアングロ・サクソン的恣意妄想を含むキリスト教は、武士道の幹に接木するには貧弱なる芽である。・・・(日本に)従来からある幹、 根、枝(武士道)を根こそぎにして荒れ地に福音の種を蒔くような事は、イエス御自身は決してなさらない。」(『Bushido』)
と、日本には武士道なるものが存在して、宗教に変わる道徳規範となっていることを欧米人に知らしめた新渡戸稲造や、
「神の義につき、未来の審判につき、そしてこれに対する道につき、武士道は教うるところが無い。そしてこれらの重要なる問題に逢着して、 われらはキリスト教の教示を仰がざるを得ないのである。キリスト信者たる事は、日本武士以下の者たることではない。」(『基督教徒のなぐさめ』)
と、キリスト教が求める倫理性は武士道がすでに実践してきたものであり、違うのは宗教上の救いがないことだと、キリスト教の必要性を説いた 内村鑑三にしても、「武士道を持ったキリスト者」こそが、神が日本人に求めた姿であり、さらに言えば「武士道を持たないキリスト教」はもろい とさえ指摘していたように、時代が明治に変わり、260年もの間禁止されていたキリスト教が解禁された時、それを熱心に吸収できたのは、 元の武士階級、士族たちだった。
江戸時代、剣術のほかに武士が学んでいたのは、儒学者・林羅山により徳川幕府の正学とされた「朱子学」だったが、「知先行後」の中央集権的な 考えが特徴で、旧秩序や体制を維持しようとする権力者には非常に都合のいいものであったのに対し、幕末になると、同じ儒教でも体制維持に 批判的な吉田松陰らが主導した「陽明学」を学ぶ武士たちが増えていく。「知って行わないのは、いまだ知らないことと同じである」(知行合一) という実践重視の考え方は、保守的な朱子学とは異なって、進歩的で希望に満ちたものであった。
そして「キリスト教は陽明学と似ていた」(高杉晋作)のである。
な〜んてことを考えながら、最初の一太刀で相手を倒してしまう、極意「切落(きりおとし)」の技を今日も磨き続けている、 とっても素敵な牧師さんなのだった。
確かに、武士道は規範や心得であり、キリスト教は宗教という大きな違いはあります。ただ、どちらも人の死に方、生き方を真剣に問う「道」 です。そしてともに、死を前提にした生を考え、死の後にある生を教えています。言い換えれば、どちらもいかに死ぬかによって生を見つめ、 いかに生きるかによって死を追及しているのです。
2013/7/22
「栄養学を拓いた巨人たち」―「病原菌なき難病」征服のドラマ― 杉晴夫 講談社ブルーバックス
栄養士が料理の献立をつくる際に食品のカロリーを計算するのは、読者も周知のとおり、われわれが食物として体内に取り入れた栄養素を ゆっくりと燃焼させ、そのとき発生するエネルギーを利用して生活しているからである。しかし、いまでは「当たり前」となったこの事実に人類が 気づくまでには、多くの孤高の天才たちの努力の積み重ねがあった。
「生物は体内に摂り入れた食物を呼吸によって燃焼させている。」という事実を最初に発見し、燃焼する物質は燃素という因子をあらかじめ持って いるという、当時の科学者たちが信奉していた「燃素説」を粉砕してみせたフランスのラボアジエは、莫大な研究費を自己負担で賄うために選んだ 「徴税請負人」という職業が災いして、フランス革命で人民搾取の罪を問われ、断頭台の藻屑と消えた。
「生物はこの燃焼で発生する熱エネルギーを利用して生活する。」つまり、熱エネルギーは仕事を行う力学的エネルギーに変換されるという事実を 見出し、熱が物質を構成する分子の運動であることを明らかにしたオーストリアのボルツマンは、エネルギーは実在すると主張し続ける当時の学界の 主流たちとの論争に神経をすり減らす中、妻と娘との些細ないさかいが引き金となって、イタリアの保養地で首吊り自殺した。
「肝臓はそのエネルギー源となるブドウ糖を、この物質(後にグリコーゲンと呼ばれる)のかたちで貯蔵している。」体内での糖質の代謝プロセスを 解明し、肝臓こそがその代謝反応の中心的存在であることを示してみせた、フランスのベルナールは、イヌを使った動物実験を「麻酔なし」(まだ 開発されていなかったのである)で繰り返したことから、動物虐待の非難を浴び、ついには妻と2人の娘までもが彼の元を去る結果となった。
さて、病原菌による伝染病をついに克服したと胸を張っていたはずの人類の前に現れた次なる難問。それは「病原菌のない病気」の原因解明の歴史だった。
航海術の発達により、長期間の航海を強いられることとなった船乗りたちを悩ませた「壊血病」。
(ミカンを積んだ船では患者が出なかった)
米国南部の貧しい人々の間に蔓延し、毎年数千人もの死者を出した「ペラグラ」。
(入院患者の食事を、病院従業員と同じ内容にしたら快癒した)
麦飯を採用していち早く問題を克服した海軍の成果を無視し、病原菌説に固執して白米食を続けることで日本帝国陸軍に多大なる犠牲を出すことに なった「脚気」。
(陸軍の軍医総監が森鴎外だったことは有名な話である)
ひょっとしたら、三大栄養素のほかに、生命の維持に不可欠な「未知の微量物質」があるのではないか?
20世紀の初頭に、オランダのエイクマンと英国のホプキンスは「ビタミン」の概念の提唱により、早々とノーベル賞を授与されてしまうことになる のだが、エイクマンは食物中の必須微量成分を「ビタミン」と命名しただけにすぎず、ホプキンスのマウスを用いた実験に至ってはのちに再現不能 であることが判明した。ビタミンの実態を明らかにする「血みどろ」の研究は、実は彼らの受賞後にスタートしたのである。
食物に有毒な物質が含まれていれば病気になることは誰でも容易に理解できるが、食物中にごく微量の物質が欠けていても病気になることを 人々に納得させる困難さは、現代のわれわれの想像をはるかに超えるものであった。
2013/7/11
「和歌とは何か」 渡部泰明 岩波新書
どうして、和歌は五句・三十一音なのだろう。難しい問題である。五・七・五・七・七音形式に定着した経緯も不思議だが、もっと不思議 なのは、この形式が続いてきたことだ。
和歌という形式が、日本の歴史を貫くほどの生命力を見せたのは、「詠む」人と「読む」人がいる、そういう連鎖のスタイルを「営み」として守り 育ててきたからだ。だとすれば「なぜ五句・三十一音か」という問いは、別の形の問いとして問い直されなければならない。
「何のために、何が面白くて、人は和歌という形式を選び続けたのか。」
恋愛なら「相聞」という部立(分類)に入っているはずなのに、これは「雑歌」に入っている。「雑歌」という部立は、『万葉集』では公的な 歌が多く集められているところなのだ。
<あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る>(万葉集・巻一・雑歌二〇 額田王)
<紫のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも>(同・二一 大海人皇子)
「番人がみてるじゃないの、そんなに袖を振ったりして」と諌めようとする額田王(天智天皇の妻)に対し、恋する気持ちを抑えがたく吐露しよう とする大海人皇子(天智天皇の弟、後の天武天皇)。天皇の「妻」に「弟」の皇太子が不倫をしかけるような、こんな危険極まりない歌が、 天皇の「遊猟」(薬狩)の際の公式記録として、堂々と残されているのは、これらは、『万葉集』の初期を代表する二人の歌人が、公的行事の宴席の 場の座興として、あたかも恋人どうしであるかのように、ラブ・シーンを演じてみせたものだからなのだ・・・
「演技という行為の視点を持ちこむことで、和歌のさまざまな謎をほどいてゆくこと」
それが、東大教授で中世和歌の専門家である著者が、この本で展開して見せる、まことにスリリングで魅惑的な主張なのである。
<あまざかる鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ>(万葉集・巻三・二五五 柿本人麻呂)
呪文やまじないの言葉は、おおむね声に出して唱えられるものであり、その多くは意味不明な言葉であって、唱えられた後に、期待されている物事が 不可思議にも現実となる。<あまざかる>と、たった五句しかないうちの一句をご丁寧にもわざわざ消費しながら、文脈から孤立して、不思議で 不可解な違和感を生み出す言葉。「枕詞」とは、呼び出す声を装い、呪文を装う言葉であり、いわれや由来を求める気分を喚起して、そこに 儀礼的空間を呼び起こす言葉なのだ。
共同の記憶を作り出す――「序詞」
偶然の出会いが必然に変わる――「掛詞」
宿命的な関係を表す――「縁語」
<駒とめて袖うちはらふ陰もなし佐野の渡りの雪の夕暮>(新古今集・冬・六七一 藤原定歌)
しんしんと我が身に降り積もる雪を振り払うことさえできない、という定家が描き出してみせた、しいんと静まりかえった世界を想像してみることで、 初めて、
<苦しくも降りくる雨か三輪の崎佐野の渡りに家もあらなくに>(万葉集・巻三・二六五 長忌寸意吉麻呂)
という、雨に降られ今にも走りだしそうな心情と動きが、つまりこの歌のもつ魅力がかえって鮮明に引き出されてくるのだとすれば、「本歌取り」 とは決して模倣などではなく、「ある特定の古歌の表現をふまえたことを読者に明示し、なおかつ新しさが感じ取られるように歌を詠むこと」、 つまりは、「詠む人」と同じ貴族的教養を身に付けた「読む人」が、同じ空間をともにする形式を前提とした、「儀礼的空間」を言葉で呼び起こす 作法だというのである。
2013/7/7
「言語が違えば、世界も違って見えるわけ」 Gドイッチャー インターシフト
言語は文化的差異を反映するという受け身の役割を超えて、文化が私たちの心に慣習を刻印するさいの、積極的道具になりうるだろうか。 言語が異なれば、話し手の知覚も異なるものだろうか。私たちの言語である英語は、外界を見るさいのレンズとして働くのだろうか。
1858年、ロンドン。<葡萄酒色の海>など、詩的と呼ぶにはあまりも奇妙な色の描写から、ホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』を 読み解いたグラッドストン(後の英国首相)は、「ホメロスと同時代人たちは世界を総天然色というより、白黒に近いものとして知覚していた」と 結論づけた。古代ギリシャ人は全体的に「色弱」だったというのである。
しかし、我々の色の識別能力は過去数千年のうちにじょじょに進化したものであるという、この驚くべき主張は(獲得形質は遺伝しないという常識 は、この時代まだ通用していなかったのである。)1878年、ベルリンの目抜き通りで行われた、ある「見世物興行」を契機として、変更を 迫られることになる。
ヨーロッパ初お目見えの、30人前後の肌の浅黒い「未開人」の男女と子どもの集団。スーダンから連れて来られた「ヌビア人」たちからは、 鼻や耳たぶや性器の寸法といった重要な数値データが集められることになったのだが、ベルリン動物園が実施した、その「色感」の調査によれば、 彼らは「青」を表す言葉を持たず、青い毛糸をある者は「黒」、ある者は「緑」と呼んだ。しかし、語彙の欠陥が色覚の欠陥を反映しているはず、 という推論はものの見事に裏切られることになる。
彼らは「緑」と「青」を見分けることはできるが、同じ「色」のその「濃さ」が違うだけなのに、違う名前をつけるのは馬鹿げていると考えていた。 たとえ色の違いを見分けることができても、それぞれに違う名前をつけるとはかぎらない、ということなのである。
理論上、どんな言語もあらゆることを表現できるのだから、――言語間の決定的に重要な違いは、話し手になにを表現することを許すかではなく、 話し手にどんな情報を表現することを強いるかにある。
と、言語学者のローマン・ヤコブソンが簡潔に言い切ったように、「隣人」(a neighbor)という単語に男女の区別がないからといって、 アメリカ人がフランス人(voisin/voisine と男女で使い分けねばならない)とは違って、隣人が男であろうが女であろうが無関心だということ ではなく、(言い分けようと思えば言い分けることはできるのだから)、ただ、隣人を話題にするたびに性別を特定するよう強いられることはない、 というだけのことなのである。
では、生まれた瞬間から環境として私たちを包む「文化的慣習」が、私たちに押しつけた「言語的特徴」は、私たちの思考の仕方に影響を与える ことはないのか?
「前後左右」という自己中心座標を持たず、すべてを「東西南北」という地理座標で把握する、オーストラリア先住民のグーグ・イミディル語の 驚くべき空間感覚。
ふたつの色の違いを認識するのにかかる平均時間の違いから判明した、ロシア人の「青」(英語のblue一語が、siniyとgoluboyの二語に分明されて いる)の色調知覚の相違。(日本の「アオ」信号だって、厳密に言えば日本人にとっては「ミドリ」の範囲に入る、緑色灯なのである。)
などなど、このまことに魅惑的な読み物が、その後半部分で明らかにして見せてくれたのは、「言語が変われば、見る空の色も変わる」という事実 だったのである。
今日大方の言語学者は、世界中に散らばる小部族の、私たちがなじんでいるやり方と大きく異なる言語こそ、なにが自然で普遍的なのかを教えて くれる、ということに気づいている。だからこれらの言語についての知識がそっくり永遠に失われるまえに、ひとつでも多く記録しようという時間 との戦いが進行している。
2013/7/6
「青年のための読書クラブ」 桜庭一樹 新潮社
夏休みが終わり、1968年の9月がやってきた。教室に舞い降りた不良少年は初めのころ、おとなしかった。周囲には家族とのバカンス で軽井沢などにこもり、テニス焼けしたお嬢さまたちが鼻の頭を赤くして、相変わらず清楚な様子で笑いさざめいていた。しかし彼女たちはすこし ずつ違和感を感じ始めた。教室に一人、なにかべつのものがいた。たしかに一学期から、すえたような貧乏が匂うよそ者がいることは知っていた のだが、それとはちがう違和感であった。
<教室に一人、男がいる。>
東京・山の手に広々とした敷地を誇る、二十世紀初めに修道女の手によって建てられた、という伝統ある女学校・聖マリアナ学園は、戦前からの 雅な空気をいまなお引き継ぎ、外の世界の変化にも何の影響を受けることもなく、密封されてどこかグロテスクな乙女の楽園だった。
そんな学園のクラブ活動には、二つの花形があった。成績優秀で、容姿も派手ではないが粒ぞろいの、知的な花々が、少女の姿をした政治家集団と して、学園の様々な行事を司るのは「生徒会」。廊下を歩けば下級生たちが道を譲り、「ごきげんよう」と挨拶を返しただけで、キュンと胸を 押さえるような、スター性のある華やかな生徒が集まるのは「演劇部」。
抑圧された性欲を抱える女ばかりの楽園には、捌け口となる安全で華やかなスターが求められる。毎年6月の聖マリアナ祭において、「生徒会」が 主催する投票で一人だけ選ばれ、三年生から二年生へとバトンタッチされていく、王子と呼ばれる“偽の男”は、演劇部の少女から選ばれることが 常だったのだが・・・
1969年は我々にとって記念すべき年である。哲学者たり、理学者たり、詩人、剣客、音楽家たる我が「読書クラブ」から“王子”が生まれた のだ。これは偽王子であって、後々、学園に不幸をもたらす事件となったが、我々としてはまずまずの満足である。
醜女の才媛・妹尾アザミが、異臭漂う関西からの転入生・烏丸紅子を、<王子化>しようとする、『シラノ・ド・ベルジュラック』の変奏曲のような 『烏丸紅子恋愛事件』を皮切りに、活動といえば、めいめい勝手に本を読むだけの、学園内の外れ者が集う「読書クラブ」の、その時代を担うユニークな 面々が狂言回しとなって、数々の痛々しい、しかしある意味では珍妙な事件が、ムンムンとむせ返るような女の園を舞台に展開されていくことになる。
学園の名誉を守るために、学園の正式書類たる生徒会誌からはとっくの昔に抹消されていたはずの、これらの事件の痕跡が記憶に留められることに なったのは、<読書クラブ>の名もなきメンバーが、ひっそりとその記録を書き記し、百年もの長きに渡って秘密裏に引き継いできた、暗黒の <読書クラブ誌>があったからだ。
そして、驚くべきことに、創立百年を機に男女共学へと舵をきり、取り壊されることとなった部室ビルの中から、たった一人になってしまった、 最後の<読書クラブ>メンバーが、命がけで救出してきたその<読書クラブ誌>は、今も予想外の場所で、その命脈を保っていると聞いて・・・
暇人は、なんだかとっても嬉しくなってしまったのである。
のっそりと入ってきたアザミの姿に、カウンター内にいたママが目を細めた。この女もまた、銀色に変わったくせ毛をポンパドール風にまとめ、 貴族風のレースのブラウスを着、カメオのブローチを飾った、70近い老女であった。老女に似合わぬつやつやと薔薇色の頬をしており、アザミに 向かっていきなり消しゴムを投げつけた。<中略>
この謎の喫茶店『慣習と振る舞い』は、聖マリアナ学園におけるかつての異形の少女たち、読書クラブOGによって経営されていた。中野ブロード ウェイの家賃の安さと、OGの一人である資産家の娘が援助してくれたおかげで、十年ほど前にオープンしたのだった。
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