徒然読書日記201305
サーチ:
すべての商品
和書
洋書
エレクトロニクス
ホーム&キッチン
音楽
DVD
ビデオ
ソフトウェア
TVゲーム
キーワード:
ご紹介した本の詳細を知りたい方は
題名をコピー、ペーストして
を押してください。
2013/5/29
「機械より人間らしくなれるか?」―AIとの対話が、人間でいることの意味を教えてくれる― Bクリスチャン 草思社
キャサリン(C) 昨夜CNNで放送していた、日曜日にホワイトハウスのパーティーに現われた例のレズビアンのカップルの ニュースを見た?
エリオット(E) ああ、見たよ。わたしはエレンの売名行為ではないかと思う。
C エレン・デジェネレスだけじゃなかったわ――彼女ビル・クリントンの目の前で恋人とキスをしてた。彼は目のやり場にとても困っていた と思う?
E 彼は同性愛者の票が欲しいんだと思うね。そのためなら彼は何でもするさ。彼には保守派の支持基盤がないからね。
C あなたはまだビル・クリントンを支持しているの?
E 彼に本当の支持者がいるとは思えない。彼は多くのことを実現してきたが、多くの人々を見捨ててきた。
C あなたは本当にあの男が好きじゃないのね――うん、少なくともそれは確かだわ――わたしはみんな無関心か無感覚になっているのかと、 いままで思ってた。
事実上「考えている、知能がある、脳みそを持っている」と言っても差し支えないほど高度なコンピュータを作ることはできるのだろうか?
審判団がコンピューター端末を使って姿の見えない相手(人間が務める「サクラ」役とコンピュータープログラムのペア)にいくつかの質問を し、どちらが人間でどちらがコンピュータかを判断する。会話の内容は、軽いお喋りから一般常識、有名人のゴシップ、さらには深遠な哲学 まで、人間が話題にすることならどんなことでも構わない。イギリスの数学者アラン・チューリングは、「2000年までにコンピュータが 5分間の会話で30%の審判員を騙せるようになるだろう」と予言した。
1994年から毎年一回、人工知能(AI)の団体が開催するようになった「チューリングテスト」と呼ばれる競技大会において、 この予言はいまだに実現してはいないが、2008年にイギリスのレディングで開催された大会で、≪最も人間らしいコンピュータ≫ (Most Human Computer)の称号を贈られたAIプログラムは、30%をクリアするまであと1票という成果を収めるまでになったのである。
この本は、2009年の「チューリングテスト」の大会に参加した著者の、あの手この手による果敢なる挑戦の軌跡を丹念に跡づけた記録で ある。しかしこのアメリカ人・科学ジャーナリストは、コンピュータサイエンスの学位を取得しているとはいえ、審査員の30%を騙し おおせるような、自慢のAIプログラムを引っ提げて立ち向かったわけではない。
実はこの大会にはもう一つ、審判員から最も得票を集めた<サクラ>に贈られるという、まことに興味深い称号が存在していた。
≪最も人間らしい人間≫(Most Human Human)賞!
そう、彼は審判員とのわずか5分間の会話によって、「自分の方こそが人間である」と認めさせることができるかという、 AIとの戦いに挑んだのである。
・「最も人間らしく」振る舞うにはどうすればいいか
・そもそも「人間らしい」とはなにを意味するのか
という二つの核となる問いをめぐって、言語学者、情報理論学者、心理学者、法律家、哲学者など、およそ思いつく限りの「専門家」 (人間らしさの!)からアドヴァイスを求める。≪最も人間らしい人間≫の称号を得るために、大会前数ヶ月に及んだ彼の、知的行脚の 渉猟の記録が、この本のすべてではあるのだが、それはご自分で当たっていただくとして、
ここでは、もしも機械に「人間らしさ」で負けるとすれば、それは「機械が知的だからではなく、人間が無能だから」という オックスフォード大の哲学者、ジョン・ルーカスの警句を挙げておきたいと思う。
少なくとも、機械がテストに合格することを防ぐための対策なるものは、確かに存在しているようだ。
たとえば、2006年に米国標準技術局の機械翻訳コンテストで圧倒的な差で優勝したグーグルのチームは、コンテストで使用された言語 (アラビア語と中国語)をだれも理解していなかった。このソフトは膨大なデータベースを利用して、国連の議事録という「質の高い翻訳」を、 その意味や文法規則をなに一つ知ることなく、ただ過去の訳文に従ってつなぎ合わせただけだった。
冒頭の一連の流れるような会話においても、審査員の≪エリオット≫が≪キャサリン≫を、魅力的な女性と信じてお茶に誘うような羽目に 陥らないためには、別の≪審査員≫のように、ちょっと流れを外してみるだけでよかった。≪キャサリン≫には驚いたことに、会話のパターン が一つしかなく、つまり彼女は、全ての会話をその唯一のパターンに乗せるように仕組まれた≪端末≫だったのである。
C あなたはまだビル・クリントンを支持しているの?
審 彼とは会ったこともないな。
C あなたは本当にあの男が好きじゃないのね――うん、少なくともそれは確かだわ――わたしはみんな無関心か無感覚になっているのかと、 いままで思ってた。
審 映画の『マーズ・アタック』は見た?
C 冗談言わないで――わたしがくだらない質問に答えるためにここにいると思ったら――大間違いよ!なにについて話しているんだった かしら・・・OK・・・つまり、・・・
2013/5/24
「英語のたくらみ、フランス語のたわむれ」 斎藤兆史 野崎歓 東京大学出版会
「文法」の学習は無駄であり、「会話」ができない人間を生み出す役にしか立たない。「訳読」の偏重は誤りであり、 翻訳などというプロセスを飛びこす訓練が大事である。日本人の教師に習っても語学は上達しない。ネイティヴについてとにかく会話を 心がけよ。それも赤ん坊のころから、バイリンガルをめざして励むべしである。――
そもそも、日本語というものを媒介することをぽんとやめて、外国語は外国語のままで理解できるようにしてしまわなければ、外国語教育の 能率は上がらない。という「産学協同」の要請が、大学の「教養課程の外国語」を隅に追いやろうとしている。
しかし、そんな「コミュニケーション英語」を身につけるためだけの空疎な訓練で、「グローバル」な世界への参列を果たせるかに思いこむ 発想の貧しさこそが、読んだり翻訳したりといった、異国の言語との付き合いにおいてもっとも豊かな実りをもたらすはずの部分を切り捨てて しまうことで、逆に、語学力の増進という可能性の芽を摘んでしまっているのではないのか?(怒!)
「ディケンズを読みたいとか、作家に対する興味というよりは、とにかく英語をやりたいと思っていました。英語を極めたいというか。 いまだにもちろん極めているなんてとてもおこがましくて言えないですが、そういう延長線上で、では何をやるかというときに、 まず文学テクストというのがあたりまえのようにあるわけですよ。」
と語る、とにかく英語が好きで、よくできて、ぜひとも英語の道をきわめてやろうと英文科に進んだ斎藤兆史に対し、
「僕自身はフランス語への愛って、あまり感じたことはないんですよ。そういう点でも、自分はいろいろとかたよった人生だったなって 最近しきりに感じるんですね。実際、勉強の仕方もかたよっていたし、なにしろフランス語と出会う前に<フランス文学>と出会ってしまった わけです。実存に本質が先立ってしまったというか(笑)。」
自分はただ翻訳文学の濫読からやみくもに仏文科に進んだだけなのだと明かすのは野崎歓。
この本は、東大駒場の教養課程でお互いに語学教師をやりながら、文学や翻訳も専門に研究しているという、同年代で「キャラがかぶっている」 二人による、「語学・翻訳・文学」を主題とした討論の記録なのであり、「外国語や異文化と出会うということ」の醍醐味を、わたしのような <語学落ちこぼれ>でさえも味わうことができるという、絶好のテキストなのである。
野崎 われわれが一生懸命文法をやってから、英語やフランス語の書物に立ち向かってちょっとでも「あ、わかった」と思うときは、 やっぱりいままでの世界から一歩外に出たっていう気がしますよね。自力で世界の枠を広げていっているという感覚が確実にあるわけで、 その体験の豊かさというのはいわゆる実用的なコミュニケーション中心の発想とはちょっと違う次元のものなんですよ。
斎藤 うん。そもそも自分の殻を破って出て行ったところに世界がまたあって、それは非常に豊かなものだというのを繊細に感じ取るには、 それをもともとの体験として意識化している日本語もやっぱり豊かでないと駄目なわけですよ。
「英語で考え、英語で議論する」ことが当たり前になってしまえば、当然母語能力は損なわれてしまうに決まっているにもかかわらず、 まるで母語能力も高くなったかのような幻想に縛られて、それがおかしいことにすら気づかない状況にある。と、実用志向の英語教育を 批判する二人の意見は、健全な言語・文化多元主義による教養語学の復権を目指すという点で、完全に一致しているのであるが、
なんといってもこの本の白眉は、第W章「翻訳家という仕事」における翻訳家養成講座のような翻訳技術論の丁々発止にある。
この二人の俊英にとって「翻訳」とはつまり、原作との単なる語学的格闘に留まるものではなく、日本文学の創造にさえ関わっていく営み であるということらしいのである。
業績が数値化できるような学問のあり方からはこぼれおちる、しかし捨てるには惜しい美味なるもの、それを一手に引き受けられるのは われわれなのだから。人はだれしも、精神の愉悦なしに生きられるはずはないのだし、愉しみ方を教示するすべをもった人間が真に無用に なることもありえない。「語学・翻訳・文学」を基盤にすえて、世の潮流に対し「たくらみ」をめぐらしつつ、しぶとく「たわむれ」 続けようではないか。
2013/5/22
「漢字雑談」 高島俊男 講談社現代新書
今は「理屈」と書く。従前は「理窟」と書いた。
「理窟」が「理屈」になったのには経緯がある。敗戦直後政府が制定した漢字制限によって「窟」の字の使用が規制(事実上禁止)された。 昭和31年にいたって政府は「同音の漢字による書きかえ」と題する文書で、「理窟」は今後「理屈」と書け、と指示した。これによって、 法令、公文書、学校の教科書などはもとより、新聞・雑誌その他社会一般も「理屈」と書くことになった。
しかし、「りくつ」は話のすじみちが通ることであるはずなのに、「屈」という字は、まっすぐに行けず折れ曲がること、行きづまることを 言うのであるから、「理が屈する」では、話のすじみちが通らなくなって行きづまることになり、まるで正反対になってしまう。だから、 「りくつ」を「理屈」と書くのは、りくつから言えばおかしい・・・と、高島さんはいうのである。
政府の漢字いじりは敗戦直後の昭和21年(1946)にはじまったことだから、もう60年以上もつづいている。ことばや文字に関する ことを政府が国民に指図するというのがそもそも不当であり大きなお世話であるから、いいかげんによせばよいと思うが、やめればこれまでの 指示がそのまま生きて、役所の文書や学校教育、新聞・テレビなどをしばることになるわけだから、時々見なおさねばならぬのだろう。
2010年に文化審議会が文部科学相に答申した「改定常用漢字表」に新しく加わった常用漢字196字のうち、書きかえ・言いかえを させていたのを、本来の正常なものにもどしてよいと許可したらしいのは、せいぜい7字なのだそうで、「ひろい」という意味の「広汎な」を、 音が同じというだけで「くぎり」を意味する「広範な」とせざるを得なかった、「汎」が復活したのがその例だが、
「崩壊」が、本来の「崩潰」と表記できるようになったのは、どうも「胃潰瘍」を漢字で書けるようにしろという、医師会方面からの圧力の お蔭らしい(「瘍」もめでたく復活したのである)ので、「名誉棄損」が、名誉を「すてる」のではなくて、名誉を「こぼつ」という本来の 意味を取り戻し、「名誉毀損」となったについては、ひょっとしたら弁護士団体あたりからの要求があったのかもしれない。
それでは、その他おおぜいの追加漢字にはどんな物があるのかといえば、カツ丼の「丼」や、埼玉の「埼」など、何を今さらというのが ほとんどで、こんなことまでお上の許可制だと思っている権威感覚が常人の感覚とズレている。と、高島さんは怒っているのである。
さて、「りくつ」の本字「理窟」の「窟」は穴カンムリが示す通り「ほらあな」であるが、では「理のほらあな」が、なぜ 「すじみちの通った話」になるというのか?
これが難しいのだ、と高島さんは嬉しそうに薀蓄を語りだすことになるのだが、つまるところ・・・
常用漢字表に対する一般人の態度としては、一々気にしない、というのが最も当を得ているであろう。
2013/5/17
「脳はこんなに悩ましい」 池谷裕二 中村うさぎ 新潮社
自分の「実存」をえぐる視線をここまで冷静に持っている方はそういません。表面的な娯楽性と哲学的なメンタルトラベルを 両立させる「離人症」すれすれのバランス感覚・・・
と、下手をすれば「誉めているのか貶しているのかわからない」ような、専門分野的な興味から、
『進化しすぎた脳』
『脳はなにかと言い訳する』
『単純な脳、複雑な「私」』
『脳には妙なクセがある』
でお馴染みの脳研究者が、一度お話してみたいと惹かれていたという中村うさぎとの、これは対談記録なのであるが、
池谷 もしこの世界に男性がいなかったら、女性は化粧をするんでしょうか?
中村 う〜ん・・・、すると思うな。私は中高六年間女子高だったんです。女子しかいない場所でも、お互いに美醜をすごく気にするんですよ。 勉強ができることよりも、おしゃれだったり、きれいだったりする方が価値が高いの。
池谷 それは「外部の男性にモテてる=きれい」という価値観と連動している面はありますか?
中村 ああ、それはあるかも。男性の目がまったくない世の中だとしたら、化粧はしないのかなあ・・・ところで先生、
「その世界では誰とセックスしたらいいんですか?」
と、クローン技術の急速な進化により、今や、生命科学的には男性が必要ない時代を迎えているのではないか、という池谷の真摯な思考実験の 末の問いに対し、中村はまるで「神の教示」のように唐突に、鋭い指摘を浴びせかけてくるのであるし、
池谷 薬効から醒めると、「何であんなに信じたんだろう」と不思議に思うらしいのですが、ふたたび鼻に噴霧されると、 また信じちゃうんです。そのくらい作用が強烈。
中村 それがセックスのときに出てるんですね。惚れ薬みたい。
池谷 そのとき、甘い言葉を信じちゃったとしても不思議ではないですね。「ずっと一緒だよ」みたいな(笑)
中村 鼻に噴霧したい人がいるんですけど、売ってますか?
と、セックスで放出されるホルモン「オキシトシン」の効能を、「神経倫理学」という机上の議論に持ち込もうとする池谷に対し、
「気持ちいセックスと、そうでもないセックスでオキシトシンの量は違うのかしら」
と、中村はどこまでも貪欲で、まことに実践的なのであった。というわけで、
「セックスをしているときの女性の顔って苦悶の表情でしょう。あれはなぜなんだろう?」
快感なら、微笑みとかになりそうなもんじゃないか、という中村の素朴な問いに、
「笑いのときの脳の活動は、てんかん状態に近いようです。進化的な起源が同じなのかも知れませんね。」
とまことに歯切れの悪い池谷に比べて、中村の方がはるかに根源的な考察を提示できたのは、思春期の頃から、ずっと「私とは何だろう?」 という疑問に取り憑かれながら、「私探し」の焦燥と闘い続けてきた、彼女の実体験的「戦歴」の手柄なのだろう。
中村 限りなく不快な顔をしながら、限りなく快楽の極致に達している。これは、快と不快を直線の両端と考えるから 不思議なんじゃないかと思うんです。
池谷 円ってことですか?
中村 そう、ウロボロスの輪のような円環をもっていて、我を忘れるほど気持ちいいときには、不快と紙一重の状態にあるんじゃないか と思うんです。
2013/5/16
「想像ラジオ」 いとうせいこう 河出書房新社
おーい、ミサト、どこにいるんだー?
とまあ、思いっきり公私混同で放送させていただいております想像ラジオ、ついでにもうひと声、お許しをいただいて。
ソウスケ、たまにはそっちから電話して来いよー。ほんとはスカイプでいいんだけど、今ちょっとパパはあれだから、説明しづらい状況 っていうか、自分にもよくわからない事態になってて、とにかく手元にパソコンないから。・・・ま、だからしばらく連絡なくてもいいかも。 ・・・電話だと高いから。
ラジオ・パーソナリティの<DJアーク>は38歳。東京の三流大学で、ちょっとひねくれたバンドに加入するもメジャーデビューはできず、 裏方として小さな音楽事務所に勤めるも夢破れ、生まれ育った小さな海沿いの小さな町に、妻の美里と戻ってきたばかりだった。
<想ー像ーラジオー>と高らかに、あるいはしっとりと、もしくは重低音で鳴り響くジングルの音。
このラジオには、スポンサーはないし、それどころかラジオ局もスタジオもない。つまり、彼はマイクの前にいるわけではないし、 実のところしゃべってさえいない。あなたの想像力が電波であり、マイクであり、スタジオであり、電波塔であり、つまり彼の声 そのものなのである。
<こんばんは、DJアーク>と、次々に届けられるリスナーからの声。
「番組冒頭の呼びかけを偶然ちらっと聴きとった気がして、俺もなにげに想像してみたんだけっども、・・・みんなで聴いてんだ。 山肌さ腰ばおろして膝を抱えて、ある者は大の字になって星を見て。黙り込んで。だからもっとしゃべってけろ、DJアーク」 (想像ネーム・ヴィレッジピープルさん)
あ、このへんで曲かけた方がいいですかね。じゃ、番組最初の一曲。1967年、ザ・モンキーズで『デイドリーム・ビリーバー』、 お聴き下さい。
「わたしはこんな夜中にアパートを出て、あなたの声がより強くする方へとよろよろ歩き続けています。・・・閉店後の花屋の前の いつ盗まれてもおかしくないたくさんの鉢を横目にふらふらと、この二年間でガリガリに痩せてしまった体をあてなく運んでいるんです。 ・・・あなたの放送があと何日続くのかわからない。イヤホンからつたってくる水滴のようなつながりを失わずに、出来ればわたしは このまま歩き、よろめき、そこへたどり着いてあなたをねぎらいたいと願っています。・・・」(想像ネーム・Mさん)
ではここで一曲。1968年ブラッド・スウェット&ティアーズ、日本語で言えば血と汗と涙で、『ソー・マッチ・ラブ』
「こんばんは。いえ、こんばんはかどうか私にはわからなくてごめんなさい。こちらは深い闇です。冷たい水の底へと私はたぶんゆっくり 落ちています。・・・真っ暗な宇宙の中を私は落下し続け、ある地点でゆらゆらと立ちながら止まり、それでも耳をそばだててあなたの、 もはやチリチリと指で紙をひっかくようにしか聴こえなくなってきたラジオ放送に集中しているのです。」(匿名希望さん)
ではここで一曲、あなたに。マイケル・フランクスで『アバンダンド・ガーデン』、打ち棄てられた庭。
故郷の町に帰ってきて、とりあえず住むことに決めたマンションの5階の部屋に荷物を運びこんだ、その翌日。ベランダに出て煙草に火を つけようとした瞬間、突如体がぐらぐら揺れて、そのまま空をふわりと飛んだ・・・
そんなDJアークが、もっとも連絡を待ち焦がれている相手から、いまだに一報も受け取ることができないということは、高い杉の木の上に 逆様に宙吊りになったまま、想像トークをし続けている彼にとっては、言祝ぐべき事態であったのかもしれない。
いいやつなんですよ、草助は。やつが小学校三年くらいの時だったか、・・・二人で道を歩いていると僕の左側に必ず回り込んでくる。 ・・・
「お前、さっきからパパの左とか右とかを歩くけど、なんの決まりなんだ?」
そうしたら、息子がきまじめな顔をしてこちらを見上げながら言うんです。
「パパが車にはねられて死んだら困るから、僕が車の方を歩いてる」
すぐに僕は言った。
「お前がはねられて死んだら、お前は困るだろう」
「僕はもう死んでるから困らない。だけど、パパが死んだら僕は生きているから困る」
草助のやつ、話しながら泣き出すんですよ。ほんと馬鹿なやつで。ただ息子が馬鹿なのはきっと親が馬鹿だからで、僕も今話していて つい涙ぐんでしまいました。あはは。
2013/5/10
「日本人のための世界史入門」 小谷野敦 新潮新書
ともあれ、歴史の知識は、だいたいでいいのである。その「だいたい」がないから困るともいえるので、歴史学者は細かすぎ、 教わる学生には「だいたい」すらない、というのが現状である。知識人や学者が専門的な議論をする時は、「だいたい」では困る。 しかし、一般読書人の歴史の知識は、だいたいでいいのである。
と宣う著者が、古代ギリシアから現代までの3千年に及ぶ歴史の“流れ”を大づかみするための“コツ”を伝授してあげようという、 とても便利な入門書だと“帯”にはあるのだが、これ一冊さえ読めば、日本人に特有の世界史に対する苦手意識など、たちまち克服できる なんて思ったら、それは大きな間違いである。
まずは西洋史のとっかかりとして、古代ギリシアの「トロイ戦争」あたりから語り起こされることになるわけなのだが、友人パトクロスを 殺されたアキレウスが、トロイの猛将ヘクトールを打ち倒すという『イーリアス』に描かれた逸話は、古代ギリシアでは一般的な男色(少年愛) を暗示させるもので、これを映画化した『トロイ』では、ブラッド・ピットが演じたアキレウスとパトクロスは従兄弟となっており、 男色関係は隠されていた。
「アキレス腱」にその名を残すアキレウスはまた、哲学者ゼノンの「アキレスと亀」のパラドックスでも知られているが、小林秀雄が文藝時評 に『アシルと亀の子』と、わざわざ一般人に分かりにくいフランス語読みの題を付けたのは、もちろん小林一流の「こけおどし」なのであり、 吉本隆明も、普通は「マタイ伝」として知られるキリスト伝を『マチウ書試論』とし、イエス・キリストを「ジュジュ」と呼んで、 「こけおどし」をしている。云々・・・と、
驚くなかれ、ほぼ全編にわたりこの調子で、読んだ本や、観た映画は言うに及ばず、見た絵画や聞いた音楽についての微に入り細にわたる 「蘊蓄」が、まさに「こけおどし」のお返しのようにして、山川出版の有名な「歴史教科書」の記述をさらりと流す程度の歴史の“流れ” の中に、ふんだんに散りばめられていくことになるのである。
つまりこの本は、そんな意味での“コツ”さえつかめば、たとえ教科書のようなものであろうとも、面白く読むことができるという、 著者一流の「楽しみ方」を、一緒に楽しむことができる人にとってのみ、格好の「小谷野入門書」というべき本なのだろう。
たとえば、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』は、何やら往年の和辻哲郎の『風土』を思わせて、拍子抜けであり、 「なぜ西洋が優越したのか」という問いに対して、ダイアモンドが用意した三つの批判はいずれも政治的なもので、「偶然ではないか」 という反論への意識が乏しいと、小谷野さんはいうのだが、ダイアモンドは、だから「偶然だ」と言っているのではないのだろうか、 などなど突っ込みどころも満載なのだ。
なにはともあれ、面白ければそれでいいのである。
しばしば歴史の勉強は、現代を考察する参考になる、といったことが言われる。確かにそれはあるし、昔の東洋では、歴史を学んで 実務の参考にしようとした。しかし、だから歴史を勉強しろ、と言えるほど役に立つかどうか、それは疑問である。・・・ 私が歴史の本を読んだり教えたりするのは、単純に好きだからである。「役に立つから勉強しろ」という及び腰の態度はもうやめよう ではないか。面白いから勉強する、でいいではないか。
先頭へ
前ページに戻る