徒然読書日記201303
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2013/3/19
「未完成」―大作曲家たちの「謎」を読み解く― 中川右介 角川SSC新書
≪未完成交響曲≫の初演は1865年12月17日にウィーンで行なわれた。作曲者シューベルトが31歳の若さで亡くなったのは 1828年11月19日なので、37年後のことだ。この曲が作曲されたと推定されるのが1822年なので、それから数えると43年後と なる。その間、この交響曲については、その存在すら知られていなかった。「忘れられていた」のではなく、「知られていなかった」のである。
1822年の10月からこの曲に取り組んだシューベルトは、第三楽章の途中まで書いたところで中断し、以後も多くの曲を書いた にもかかわらず、なぜかこの曲はそのままになってしまった。つまり≪未完成交響曲≫はシューベルトの「突然の死」によって未完となって しまったわけではないし、なんと「最後の作品」ですらないのである。
≪未完成≫という作品名(もちろん、シューベルトが付けたものではなく、一種のニックネームである)を持つものは、誰もが思い浮かべる であろうシューベルトのこの交響曲しかないが、クラシックの「未完成作品」ならば、実はこれ以外にもいくつも存在している。
ブルックナーの「交響曲第九番」が、実は第四楽章もほぼ完成していながら、なぜか第三楽章までで終わってしまった、ことになっているのは、 「第四楽章の楽譜はなかった」のではなく、仕事場に散逸していた書きかけの楽譜を、死の床を見舞った多くの「関係者」が「記念」に 持ち帰ってしまったかららしい。
モーツァルトの「レクイエム」は、断片しか遺されていなかったものを弟子のジュースマイヤーが補筆完成し、いまや「悲劇の絶筆作品」と しての地位を確立しているが、もともとは、あるアマチュア音楽家の依頼を受けて、代筆を請け負ったモーツァルトが、 その約束を果たせなかったため、未亡人のコンスタンツェが残金回収のため愛人のジュースマイヤーに完成を依頼したものだった。 つまり、モーツァルトの「レクイエム」は、なんと二重のゴーストライターの手によって生み出されたのである。
マーラーの「交響曲第十番」(交響曲は九番までという「九のジンクス」伝説)
ショスタコーヴィチの「オランゴ」(スターリン体制下の忖度政治による抹殺)
プッチーニの「トゥーランドット」(イタリアの二大巨星ムッソリーニとトスカニーニの確執) などなど、
どことなく哀愁を帯びた未完成作品の、捏造された物語による粉飾を剥ぎ取ろうとするかのようなこの本は、未完成作品が未完成に終わった 事情の謎に迫ろうとしたものなのである。
では、≪未完成交響曲≫という不朽の名曲は「なぜ未完成なのか」。
二つの楽章だけでも、ベートーヴェンの第八番全曲と同じぐらいの二十五分前後となる≪未完成≫を、このペースで第四楽章まで書けば、 一時間近い曲になってしまう。この時期のシューベルトの位置付けは、依頼されて曲を作るほどの大作曲家、人気作曲家ではなかった。 シューベルトは第二楽章まで書いたところで、このまま完成させても演奏されないと気づいてしまい、続きを書く気を失ってしまった のではないか?
というのが、この『クラシックジャーナル』編集長による名推理なのである。
この曲が「なぜ未完なのか」は音楽史上最大のミステリと言っていい。そして、おそらく永遠に答えは出ない。未完の理由はシューベルト しか知らない。そして、彼はこの曲が未完になった理由について誰にも語っていないし(少なくとも、シューベルトからその理由を聞いた と言っている者はいない)、書き遺したものも発見されていないからだ。
2013/3/14
「ヒトラーの秘密図書館」 Tライバック 文春文庫
かつてヴァルター・ベンヤミンは、蔵書を見ればその所有者の多くのこと――その趣味、興味、習慣――が分かる、と語った。 その人が手元に残した本も捨ててしまった本も、読んだ本も読まないことにした本もすべて、その人の人となりのなにがしかを物語る、と。
ドイツ人でしかも著名な文化批評家でありながら、ユダヤ系であったため、ヒトラーが政権を掌握するや、自らの蔵書を隣人に託して フランスへ逃れねばならなかった。そんなベンヤミンが、1940年に絶望的な状況を悲観し、モルヒネを飲んで自殺することになった 背景には、「蔵書の喪失」という実存的危機があったからではないかと、友人のハンナ・アーレントは推測していた。皮肉なことに、 彼の蔵書はゲシュタポに押収されたおかげで、最終的にはベルリンのベンヤミン記念館に収まることになった。
では、少なくとも一晩に一冊、時にはそれ以上の本を読んだと、自ら豪語するほどの読書家であったヒトラーが、 ミュンヘンとベルリンの私邸、オーバーザルツベルク山荘の3か所の書斎に所有していた1万6千冊の本はどうなったのかといえば、 そのうち、なんとか散逸を免れた1300冊足らずは、アメリカ議会図書館希少図書部の、空調の効いた薄暗い書庫に収蔵されたのだが、 なかば意図的に「無視」されたまま、過去半世紀もの間、特に調査・研究されることもなく放り出され、忘れ去られてきたのだった。
<これら現存するヒトラーの蔵書には、欄外に書き込みがされているものが数十冊含まれている。>
この掘り出し物の蔵書の分析だけにとどまることなく、ヨーロッパ各地に散らばって存在している貴重な資料や、生き残りの人びとへの インタビューまで試みた著者が、これら欄外の書き込みから浮かび上がらせてみせたのは、誰の言うことにも聞く耳を持たず、 一方的に滔々と長広舌を揮う男、という世間一般が思い描くイメージとはいささか趣きを異にした、
ページを繰る手を止めて書物の内容と向き合い、単語や文にアンダーラインを引き、段落全体に印を付け、ある一節には感嘆符を ある一節には疑問符を書き込み、気になった段落の脇に数本の平行の縦線を入れる男の姿だった。
植民者を先祖に持つアメリカ人の人種的起源は、実は混血ではなく純粋な北欧人種であった、というアメリカの移民制限の思想こそが、 ヒトラー・ナチス政権の「聖書」となり、ユダヤ人根絶計画の礎となったのは、
マディソン・グラント『偉大な人種の消滅』
煩わしいユダヤ人は、その一人一人が、ドイツ人のアイデンティティの真正性と真実性に対する深刻な侮辱である、という人種差別的 ドイツ民族主義の古典として、ナチスドイツの原則となり総統の座右の思想書となったのは、
ポール・ド・ラガルド『ドイツ論』
などなど、低学歴という知的コンプレックスを埋め合わせるかのように、貪るように読んだ本の中から、ヒトラーの感情ないし知性にとって 重要な意味を持つものとして選び出され、私的な時間に熱心に読み、公人としての言葉と行動の形成に役立ったのではないかと思われる、 ヒトラーの蔵書の中の十冊の書物。
まず目次や索引を調べ、それから「使える」情報を探して選んだ章を読む。時には、あらかじめ何を探すべきかを決めるために、 まず結論を先に読む。ヒトラーは読書というプロセスを、自分が元々抱いている観念という「モザイク」を完成させるための「石」を集める プロセスにたとえていた。
つまりヒトラーは、すでに自分の頭の中に何らかの形で存在している観念を補完するのに、必要な知識を取り入れるための本を選び、 自分が元から抱いていた考えの正しさを証明するために、その本を読んでいたということのようなのである。
彼の人並み外れた異様な記憶力の源泉はそこにあったのだ。
本をせっせと大量に「読んでいる」輩がいるが、彼らは「本をよく読んでいる」とは言えない。まことに、彼らは大量の「知識」を 所有してはいるが、彼らの脳には、自分が取り入れた知識を系統立てて記憶に留める能力がないのだ。書物の中から自分にとって価値のある ものと無価値なものを選り分ける技術が彼らには欠けている。一つのものを永遠に記憶し、そしてできることならその他のものには 目を向けることさえしないでおく技術が彼らには欠けているのだ。(アドルフ・ヒトラー『我が闘争』)
2013/3/11
「噂の女」 奥田英朗 新潮社
女は年齢がよくわからなかった。二十歳にも、二十八歳にも見える。決して美人ではなく、スタイル抜群というほどでもないのだが、 どこか蛙を思わせる面相と白いもち肌が男心を誘い、洋平たちは関心を抱かずにはいられなかった。
「セックス好きそうやな」「あれはやりまくっとる顔やね」
貧乏で複雑な家庭環境の中で育ち、高校までは地味な存在だったが、短大に進むと急に服装と化粧が派手になり、男好きのするタイプへと ガラッと変わってしまった。そして、キャバクラのバイトから始まり、中古車販売店の事務員、麻雀荘の従業員などを経て、 ついには年の離れた不動産会社オーナーの後妻、そして柳ケ瀬の高級バーのママへと、矢継ぎ早に華麗な転身を遂げていく。
「小太りの女が火の点いた練炭の入った七輪コンロを持って現れると・・・」(@
『その未来はどうなの』橋本治
)
という、まるであの木嶋佳苗の生き方を髣髴とさせるかのような、「稀代の悪女」糸井美幸の「成り上がりの人生」を描くことが、 この興味津津の物語の主題なのではない。名古屋近傍の地方都市で巻き起こった、10編のさまざまな抱腹絶倒のドタバタ劇において、 糸井美幸は実は主人公ですらないのだ。
「だって、うちらが異議を唱えて、それで初めて頭を下げとるわけでしょう。うちらがついてこなきゃ、はい修理しました、またよろしく、 で済ませる腹だったわけでしょう。とにかく、こっちはちゃんとした補償の話がしたいで、立ち話もなんやし、そこ、座ってもええ?」 (『中古車販売の女』)
購入してすぐに故障した中古車をダシにして、気弱な仲間に代わってディーラーにクレームを付け、小さな商事会社勤務の同僚たちは、 あわよくば金品をせしめようとする。
「まあ、待っとれ。今度のボーナス次第では、おれはやるぞ。共産党に知り合いがおるでな。やり方はわかっとる」 (『麻雀荘の女』)
毎夜のように場末の雀荘で卓を囲みながら、社員たった20人の衣料問屋の職場の上司は、「組合作らなアカンな」という出来もしない ボヤキが口癖だった。
「何を言っとる。たとえ社長でも、親父の付き合っとる女を調べるのに、会社の金を使ったなんてことがばれたら、税務署にどんだけ 苛められるかわからんぞ。それだけは勘弁してくれ」(『マンションの女』)
父親が建てた柳ケ瀬の二つのビルを引き継いだ長男は、興信所の調査費用を「会社の経費で落とせ」という兄弟姉妹の要求に、 自分は贅沢三昧であるにもかかわらず「空室だらけで苦しい」からと割り勘を主張して顰蹙を買う。
「タワケらしい。タケさん、何を気い使っとる。はっきり言うが、ヒロさんは今や裏切り者やぞ。だから正当防衛や。わしらには談合と 天下りの受け入れが必要なんやて」(『和服の女』)
仲間が<しきたり>を破ることを阻止せんがため、東工大から大手ゼネコンに就職し戻ってきて「自由競争」を主張している相手の息子を、 「色仕掛け」で落とそうとしている小さな建設会社のオーナー社長は、自分の息子との出来の違いに溜め息を吐いてもいた。
そして・・・
「こんなこと言うとなんやけど、わたし、糸井さんを尊敬するわ」(『スカイツリーの女』)
だって「田舎の普通の女がやれる一番どデカイこと」(=保険金殺人)をやったのだから、という友人のあくまでも仮定の話に、 大物県会議員(=美幸の現在の愛人)の女性秘書が、妙な説得力を感じてしまったのは、どこにでもあるような地方の小さなまちで、 今日も繰り広げられているに違いない、こんな「取るに足りない」営みと「他愛もない」会話のやり取りの中でこそ、 『噂の女』の影は、次第にその色を深めながら、膨れ上がってくることができるからなのだろう。
「平凡な結婚をして、子供を二人産んで、小さな建売住宅を買って、家事と育児とローンに追われて、田舎の女はそういう人生の船にしか 乗れんやん。でも糸井さんは、女の細腕で自分の船を漕ぎ出し、大海原を航行しとるんやもん。金持ちの愛人を一人殺すぐらい、 女には正当防衛やと思う」
2013/3/3
「弱くても勝てます」―開成高校野球部のセオリー― 高橋秀実 新潮社
ゴロが来ると、そのまま股の間を抜けていく。その後ろで球拾いをしている選手の股まで抜けていき、球は壁でようやく止まる。 フライが上がると選手は球の軌跡をじっと見つめて構え、球が十分に近づいてから、驚いたように慌ててジャンプして後逸したりする。 目測を誤っているというより、球を避けているかのよう。全体的に及び腰。走る姿も逃げ腰で、中には足がもつれそうな生徒もいる。 そもそも彼らはキャッチボールでもエラーするので、遠くで眺めている私も危なくて気を抜けないのである。
「本校ハ専ラ他日東京大学予備門ニ入ラント欲スル者ノ為メニ必用ナル学科ヲ教授スル所トス」
東京大学進学を開校の目的として明治4年に創立された「共立学校」を前身とする、開成高等学校は毎年200人近くが東京大学に入学する、 日本一の進学校である。だから、その「野球部」(あること自体が驚きである)の、わずか週に1回、それも3時間程度という練習風景を 見た著者が、「下手なのである。それも異常に。」という感想を持ったからといって、別に不思議でもなんでもないのだが・・・
平成17年の全国高等学校野球選手権大会の東東京予選で、そんな同校の硬式野球部が4勝してベスト16にまで勝ち進み、最後は優勝した 名門・国士舘高校に敗れて涙を飲んだ。
などと聞けば、イニングの合間に野球理論を問う「筆記試験」でもあったのだろうかと、いぶかしく思ってしまうのは、 決して私だけではあるまい。ところが、その結果なるものをよく見てみると、
1回戦 開成10−2都立科学技術高校(7回コールド)
2回戦 開成13−3都立八丈高校(5回コールド)
3回戦 開成14−3都立九段高校(7回コールド)
4回戦 開成9−5都立淵江高校
5回戦 開成3−10国士舘高校(7回コールド)
と、なんとも大味な試合展開で、多くはコールドゲームで試合の決着をつけてしまっていることに、さらに驚いてしまうことになるのである。
「一般的な野球のセオリーは、拮抗する高いレベルのチーム同士が対戦する際に通用するものなんです。同じことをしていたらウチは 絶対に勝てない。普通にやってたら勝てるわけがないんです」
と語る、東京大学野球部出身(群馬県立太田高校卒)の青木秀憲監督が編み出した「弱者のセオリー」とは、たとえば、 足の速い1番が出塁して、小技ができる2番が送って、クリーンナップがそれを還して、確実に1点取ったとしても、 相手の攻撃を抑えられる守備力がなければ、その裏の攻撃で10点取られて、結果的に負けてしまうのだから、 「10点取られる」ことを前提として、一気に15点取ってしまうような打順(たとえば2番最強打者とか)を、よく考えなければいけない、 と、真剣に聞いてることがバカバカしくなってくるようなたぐいのものだった。
我々のようなチームに打たれてショックを受け、浮き足立つ相手の弱みにつけこんで、勢いにまかせて大量点を取るイニングを作り、 「ドサクサ」に紛れて、コールドゲームで勝ってしまうという、ハイリスク・ハイリターンのギャンブル戦略。 つまり、「開成の野球には9回がない」ということなのである。
開成高等学校野球部は、今冗談抜きに、甲子園大会への出場を目指している。(らしい・・・)
――甲子園に行けますか?
私が念を押すと、彼(半田常彰・開成高校野球部OB会長)は「可能性は高い」と言い切った。
――どれくらい高いんでしょうか?
半田さんは真剣な面持ちでこう答えた。
「東大が六大学で優勝するより、開成が甲子園に出るほうが先になる可能性が高い」
2013/3/1
「天平グレート・ジャーニー」―遣唐使・平群広成の数奇な冒険― 上野誠 講談社
「臣下は、大君の赤子すなわち赤ん坊というが、汝らの任の第一は、生きて帰るにある。生きて帰るが、第一の功なり。なぜならば、 汝らは朕が赤子であるがゆえに」
と天皇は言い、大使・多治比真人広成の盃に酒をなみなみと注いだ。大使は、その酒を一気に飲み干し、顔をぶるぶると震わせた。 そして滝のごとき涙を流したのであった。大使の背中を擦りながら、天皇は、
「朕、東宮でありしとき、侍講・山上憶良の大夫より、唐楽を学んだ。こたびの判官・平群朝臣広成は、いずくにおる。 憶良の弟子というではないか。朕と同門なるが・・・」
天平5年(733)3月、天皇よりの国書を授けられた遣唐使594名の一行は、四艘の遣唐船に分乗して出発し、 途中東シナ海で嵐に揉まれて散り散りになりながらも、何とか無事に入唐、全員の再会を喜び合った。
夜明けを待って丹鳳門に行くと、そこには各国の国王、王子、大使が勢ぞろいしていた。・・・間もなくして国名が呼ばれはじめて、 ついに含元殿への入堂の儀がはじまった。しかし10番目となっても、20番目となっても、日本は呼ばれない。呼ばれたのは、 なんと最後であった。ようやく含元殿に到ると、用意された席は、最後列であった。
なんと序列33位の最下位で、着席するとすぐに「日本国」と呼び出され、こんどは最初だと思って、喜び勇んで前に進もうとすると、 「もう終わったから帰れ」と言われる。三流国としての悲哀を味わいながらも、とにかく玄宗皇帝への謁見という最大の務めを果たし、 勇躍帰国の途につくことになるのだが・・・
吉備真備ら留学生と、唐から招聘した僧や技術者たち、そして唐で入手した珍品・書物などを満載した四艘の船は、またしても嵐に翻弄され、 第一船はかろうじて種子島に漂着するも、第二船は唐に押し戻され、第四船はついに行方不明となるなか、第三船は、はるか南方まで流されて、 崑崙国(現在のベトナムあたり)に辿り着くことになる。
そして、実はここからが、広成の数奇な冒険と、艱難辛苦の物語の始まりだったのである。
唐との関係悪化を危惧する崑崙王に幽閉されることとなった広成は、海賊商人・安一族の助けを借りて辛くも脱出に成功するも、 風土病の蔓延と、現地人の襲撃により、同船していた115名は次々に倒れ、最後まで生き残ったのは広成と一緒に幽閉されていた 3人の水夫の、わずかに4人だった。
唐に戻った広成は、留学生ながら科挙試験に合格し、唐の高級官僚として出世を果たしていた阿倍仲麻呂の力を借りて渤海へと北上し、 新羅との抗争の中で、日本との交誼を望んでいるはずという仲麻呂の読み通り、渤海使節団とともに日本海を渡ることになる。
ここでもまた嵐に巻き込まれ、使節団二船のうち大使の乗った船を失うという悲劇に遭遇しながら、出羽国の「吹浦」(現・山形県飽海郡遊佐 町吹浦)に辿り着いたのは、天平11年(739)7月、遣唐使判官・平群朝臣広成にとっては、じつに足かけ7年ぶりの日本の土だった。
なんと、万葉挽歌研究の第一人者である国文学者の手になる、この波瀾万丈の広成の冒険物語は、『続日本紀』にも記述がある通りに、 歴然たる事実にほぼ忠実に基づいて描かれたものなのだ。
そして、広成が嵩張って持ち帰ることが出来ぬからと、玄宗皇帝の下賜品と交換することで手に入れた、天下の名香『全浅香』が、 驚くべきことに、今も正倉院の奥深くに、大切に保管されているということが、その何よりの証拠なのである。
「ここに、天下無二の香がございます。名香、全浅香でございます」
「かの全浅香が、この日本にあるのか」
「はい。こたびの遣唐使では、第三船<近江>と第四船<播磨>で、約240名の死者が出ました。その家族は、 いま、困窮の淵にありましょう」
「わかった。それで」
「もし、この香木を陛下にお買い求めいただければ、240の家族と千人の困窮者が、救えます」
「平群広成よ。朕にふっかける気だな」
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