徒然読書日記201302
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2013/2/26
「戦いの日本史」―武士の時代を読み直す― 本郷和人 角川選書
日本には諸外国と比べると、驚くほどたくさんの文字史料が残っています。なぜ?という詮索は別の機会にするとして、 ともかく残っているのです。古文書や古記録(貴族や僧侶の日記)を本質から語れる練達な研究者はこれまた数少ないのですが、 それでもたとえば古文書を少しかじることにより、未熟な研究者でも「実証的」という立場を手に入れることができる。
これに比べて、史料の質量が劣っているヨーロッパでは、足らない史料の空白を埋めるべく、様々に「考える」試みをしなければならなかった。 哲学の成果を借りた「歴史哲学」、社会学の成果を取り入れた「社会史」など、他の学問を援用しフィードバックすることで、結果的に 「歴史学」というジャンルにダイナミズムがもたらされることになった。
だから・・・<史料なんて、なかったら良かったのに>
と、のっけから、まるで同業者に喧嘩を売るかのようなまえがきに始まるこの本は、そんな<怠惰な>研究者の姿勢が、「歴史は暗記モノ」 という認識を生み出し、小・中学生、高校生たちが、日本史をバカにして真摯に取り組もうとしなくなってしまったのだと、 「考える」ことに敬意を払おうとしない<日本史>研究学界の現状を憂える東大史料編纂所教授による、「史料を並べさえすれば、 それなりに何とかなってしまう」ものが、「一歩進んで」「考える」とどう違うものになるか、を見せてさしあげましょうという、 まことに意欲的な取り組みなのである。
共に「武力に基づいた政権を作る」という共通した目的を掲げながら、伝統的な貴族として振る舞いながら、宮廷内で出世を果たし、 朝廷という政治的な枠組みを変えることなく、その内側に新しい政権を立てようとした清盛に対し、文化や伝統など朝廷のもつノウハウは 学び取りながら、あくまでも朝廷とは距離を置き、鎌倉を動くことなく、外側から戦いを挑んだのが頼朝だった。
頼朝は、朝廷そのものに成り上がることで逆に、律令制の軛から脱しようとする在地領主(=武士)たちの、討ち滅ぼすべき怨敵と位置づけ られることになってしまった清盛の、失敗に学んだのだ。
という『平清盛と源頼朝』から始まって、
尾張の一大名から身を興し、あらゆる敵を打ち倒しながらのし上がってきた信長が、逆らう者をことごとく滅ぼしてきた覇王として、 天皇を必要としていなかったのに対し、家康を臣従させることがついにできなかった秀吉が、覇者として日本統一を成し遂げるためには、 自分の権力を補完するものとしての天皇を奉戴し、豊臣家を興して関白の地位を世襲する必要があった。秀吉の後を襲い、天下人としての 安定政権を築き上げることに成功した家康は、徳川家の権威付けのためにはやはり天皇を利用して、征夷大将軍に任官する道を選んだ。
戦国時代に極限まで衰退し、信長には必要とされなかった天皇の存在は、武家王権の存立を補助する存在として、かろうじてその命脈を 保つことになったのだ。
という『豊臣秀吉と徳川家康』に終わるまで。
源平から戦国にいたる中世の「武士の時代」を、対照的に取り上げられた八組の人物たちの「対比」に注目しながら、両者の位相を 「一歩、掘り下げて」読み直す試みが明らかにしてみせたのは、「日本は一つで、中心は京都で、命令するのは天皇で」という、 天皇・朝廷を過大に評価しすぎた歴史認識は、とても便利に歴史を語らせてくれるだけに、きわめて平板で、薄っぺらいものになって しまうのではないかということなのだった。
だから・・・<古代史なんて、なかったら良かったのに>
明治政府が「万世一系の天皇」に日本のアイデンティティを求めたことで、古代と近現代は直結しました。天皇と統一国家を以て古代と 近現代を接合し、中・近世を犠牲にする。そうするくらいなら、むしろ古代史を斬り捨て、
『中世・地方王権の分立→戦国・信長、秀吉による天下統一→近世・徳川政権による国家経営→近代・国民国家の誕生』
の方が、すっきりと頭に入ってきませんか。
2013/2/24
「これが物理学だ!」―マサチューセッツ工科大学「感動」講義― Wルーウィン 文藝春秋
正直な話、この実演を行うときはいつもだが、鉄球がこちらに向かって戻ってくるとき、アドレナリンが体内を駆けめぐる。 物理の力が救ってくれると確信しながらも、顎すれすれまで鉄球が上がってくると、じっと立っているのがいつも不安になる。 本能的に、わたしは歯を食いしばる。じつを言えば、目も閉じてしまう!なぜ、とあなたは尋ねるかも知れない―― なぜ、そこまでしてこの実演をやろうとするのか、と。
それは、この白髪で痩身の老教授が、<エネルギー保存の法則>に絶大な信頼を置いているからだ。
建物解体用鉄球装置を小型にしたような15キロの錘を、教壇の端に立って頭を壁につけた教授は、両手で支えて顎の下に当てたかと思うと、 おもむろに手を離す。鉄球は教壇の反対側の端まで行って向きを変え、教授めがけて勢いよく戻ってくる。
「鉄球は放たれた点より、決して高く上がることはない」――軌道のどこかで余分なエネルギーが加えられない限りは・・・
教室内に響き渡る女子学生たちの悲鳴。
マサチューセッツ工科大学(MIT)の教養課程で、物理学入門の講義を学ぶ学生たちの目に、物理学のあらゆる学識の中で、 もっとも重要な概念の一つを焼き付けようとする、これはまさに、命がけの「熱血講義」のほんの一コマなのである。
たとえば、長さ5.18メートルのロープの先端に重さ15キロの鋼鉄製の球体錘が付いた、この“振り子の親玉”を、 今度は両脚のあいだにはさみ、できるだけ身体を床に水平にして、ロープをつかんで振動を開始する。
「振り子の周期は錘の重さに影響されない」
こういうものに座るのは、とにかく痛くて、あまり楽しいことではないらしいのだが、科学のためなら、そして学生たちを授業に引き込む ためなら、機会は逃さないオッサンなのである。
物理学を専攻するわけではない学生たちを相手に、複雑な数式の集合としての物理学を細かく教えようとしてみても、 どうせわかってもらえないのであれば、可能なかぎり学生自身の世界に題材を結びつけ、楽しさやワクワク感を創出して見せたほうがいい。 そして、手の届く範囲にありながら、これまでは私たちの目からは隠されていたたくさんの領域への窓を開いていくことで、 「世界が違って見えてくる」ことを体感させてあげたい。
電磁気学の講座の終わりに、教授から学生たちに一本ずつ手渡される600本の水仙の花の儀式。
壁面に映し出された、電気と磁気のつながりについての、息を呑むほどに美しく簡明な四つの公式。
それこそが、電磁気というひとつの現象の様々な側面にすぎないことの証明なのであるということ。
これはつまり、この<場の理論>という知の頂きを極めることができた学生たちの人生の記念日に、教授から捧げられる、 ささやかな讃歌なのである。
「それぞれの方程式を深く吸い込んで。そうやって脳にしっかりしみ込ませるんだ。マクスウェルの方程式四つ全部を初めてこんなふうに 目の当たりにし、その完全さ、美しさ、そして互いに語り合うさまを鑑賞する機会は、きみたちの人生でたった一度、これっきりだろう。 けっしてもう訪れないだろう。そして、きみたちはもう以前と同じにはなれないだろう。そう、きみたちは処女もしくは童貞を失ったのだ」
2013/2/16
「かばん屋の相続」 池井戸潤 文春文庫
「いくらなんでもそれはないと思わない?そりゃあ、お義兄さんがずっと会社を手伝ってきたっていうんならわかるわよ。 でもあの人は銀行員で、しかもウチの会社のこと、ずっと馬鹿にしてきたのよ。それなのに、よりによってそんな人に継がせるって、 どういうこと?お義父さんも最後の最後に耄碌したとしか思えないわ」
今から40年ほど前に、それまで奉公していた店から独立して、父が作った会社「松田かばん」は、いい革を使って、熟練の職人が手縫いで 仕上げる、高級だがそれに見合うだけのセンスと丈夫さで評判のかばん屋なのだが、社長である父とそりが合わずに、さっさと大手銀行に 就職してしまった兄にかわり、専務としてずっと店の商売を支えてきたのは弟の方だった。
しかし、そんな父が病に倒れて急死した時、突然銀行を退職して舞い戻ってきた兄の手には、亡くなる1週間前にワープロで打たれた父の 「遺言状」が握られていた。
「会社の株はすべて長男に譲渡する。」
・・・という表題作を、待ってましたとばかりの<大トリ>において、すべての主人公が、大は都市銀行から小は信用金庫まで、 さまざまなタイプの銀行員として展開される、“金融ミステリ”の佳品6編を選りすぐった短編集である。
「これは貸すか貸さないかというより、債権回収に走るべきかということを考えたほうが良さそうな話じゃないか、永島君」
業績悪化により銀行支援の梯子を外されそうな神室電機は、結局、たまたま発生した火災事故により倒産に至る。十年後、なぜか羽振りが よさそうな元社長の神室を街で見掛けた当時の担当銀行員・永島は、不審を感じその真相を探り始めたのだが・・・
(『十年目のクリスマス』)
「業績が回復するっていうウチの計画は見事に無視か、信用されてないってのは悲しいよな」
赤字続きの小島印刷は、融資は得られなかったにもかかわらず、なんとか5千万の支払い決済資金を別口から手当てして危機を乗り切った。 しかし、したたかな小島社長が打った起死回生の秘策が、銀行内に思わぬ波紋を引き起こすことになり・・・
(『セールストーク』)
などなど、あの名作長編
『空飛ぶタイヤ』
を書き上げた池井戸の手によるものなのだから、融資審査や与信管理にあたる「審査部」を説き伏せ、なんとか顧客の側に立とうとする 熱き担当「外交員」とのホンネのやりとりや、銀行側のある意味「理不尽」な対応に、会社と全従業員の命運を背負って立つ社長さんたちの 「死に物狂い」の奮闘に、またもや、中小・零細企業のへたれ親父は胸打たれ、心震わされることになるのである。そして、
「辞めていった連中はみんな高給取りだったから、コスト削減にもなってちょうどいいと思っているぐらいでね。会社もいい加減なら、 職人も含め、社員もいい加減ですよ」
「社員の代わりなんかいくらでもいますよ」と豪語した兄の亮は、痛烈な「しっぺ返し」を受けることで、ようやく「俺が死んでもお前は 相続放棄しろ」と弟の均に会社を継がせようとしなかった父親の、本当の想いを知ることになるのだが・・・
もちろん、2006年に実際に起きた『一澤帆布』の大騒動は、これほど清々しい結末には至らなかった。
事実は小説より奇なのである。
松田かばんの破産後、均は残っていた職人たちを再雇用していたから、これで事実上、松田かばんが復活したことにもなる。
「遠回りだったけど、たぶん親父の望んだ姿に落ち着いたんじゃないかな」
2013/2/13
「abさんご」 黒田夏子 文藝春秋
aというがっこうとbというがっこうのどちらにいくのかと,会うおとなたちのくちぐちにきいた百にちほどがあったが, きかれた小児はちょうどその町を離れていくところだったから,aにもbにもついにむえんだった.
38年前に母が亡くなって、2階に書斎のある3階建の大きな家から、書庫へ行くには「巻き貝のしんからにじりでるように」しなくては ならない、小さな貸し家へ引っ越した。二人暮らしを始めるようになってから10年ほどたったある日、新しい家政婦さんがやってきて、 父と娘が二人だけで向きあってきた食卓は、「こうしてあっさりととうとつに永久に」喪われた。
と書いてくれれば、たとえば向田邦子のドラマのように、ここからはよくありがちな家族の物語が展開されていくのだろう、 と思われたかもしれないが、
早晩通りすぎるはずの者は早晩通りすぎるはずの者としての気がるなともだちあつかいを供されたが,ひとたびともだちという仮構に立てば 年のじゅんからして十七さいが二十九さいより目したになってしまうというあやうさは,楽観からも悲観からも放置され,ふくれつのってきて いた.くらべて世俗の地位と収入のある五十四さいは,対等という仮構に立ってもやはり目うえである.つきあった配役が親にとってと子にとって とどれほどことなるいみをもっているかにうかつな親を,子はすでにたよれなかった.
<家事がかり>が<やといぬし>を好きになったと<やといぬしの子>に告げはじめ、<初老の者>は家うちであからさまになつかれたことを 演技ではなくたのしんでいる。<八ねんごの九さい児>は、翌年に大きな競争しけんをひかえ、家を出るための孤児の予習を始めることになる。
とこの物語は、「秘事をからめこんだ濃密な茂り道」を足の裏で探るようにして、しかも時系列をバラバラにほぐしながら、うねうねと続いて いくことになるのである。
本年度「芥川賞」(史上最年長75歳)受賞作品。
なぜか本文は横書きで、普通は漢字やカタカナで書かれるような言葉が、あえて平仮名で表記される。「へやの中のへやのようなやわらかい檻」 (=蚊帳)や、「天からふるものをしのぐどうぐ」(=傘)などといった、ことさらにまだるっこしい表現が多用される。
とにかく「読みにくく」て「難解だ」と評判の、この小説の「読みにくさ」の依ってきたる所以は、しかしそんなところにあるのではなくて、 むしろ、固有名詞がほとんど出てこないことによる、<主語の不在>にあるのではないかと思う。
<改変者>=<家計管理人>により、追い出されるように家を飛び出してしまった<子>は、<さきに死んだほうの親>より三十八ねんも へだてて、<あとから死んだほうの親>の家に、久しぶりに戻って来る。
<aにもbにもついにむえんだった>者は、<いなくなるはずの者>がいなくなっていれば、ありえたかも知れない未来に遠く思いを馳せるかの ように、幼いころのおぼろげな夢のような映像が、鮮やかにフラッシュバックしてくる、ほの暗く生温い深海の中へと、何本もの「a」や「b」 に枝分かれした<さんご>の腕を、おずおずと伸ばしていくのだった。
その,まよわれることのなかった道の枝を,半せいきしてゆめの中で示されなおした者は,見あげたことのなかったてんじょう,ふんだことの なかったゆか,出あわなかった小児たちのかおのないかおを見さだめようとして,すこしあせり,それからとてもくつろいだ.
2013/2/10
「東京エスカレーターガール」 田村美葉 企画・編集 自費出版
新しいタカハシと古いタカハシがあらわれて、どちらか選べと迫ったので、アタシは迷わず新しいタカハシの手をとって、 さあゆこう世界は始まったばかりだとスキップを開始した。(『新しいタカハシ』田村美葉)
「女の子がエスカレーターをのぼっていくところで終わるオリジナルの小説を募集します」
という、ネット上からの<奇怪な呼びかけ>に応えて集まった42編もの作品の中から、これは、冒頭の編者自身の作も加えて、 厳選された7編の短編が掲載された、わずか100ページの小冊子なのだが、ここに掲載されたどの作品を読んでみても、
なるほど近頃の若者たちは誰だって、「朝井リョウ」や「湊かなえ」程度の物語なら、今すぐにでも書き上げて見せるだけの素質はある。 と、「少なくとも自分では思っているんだろうな。」なんて、いささかひねくれた感想を抱いてしまったのは、
奇を衒って<短歌>で応募した暇人の
<自信作>
が、見事に落選の憂き目を見たことによる、悔やしまぎれというわけだけでもない。
なにしろ、世界に一つだけのエスカレーター専門サイト
「東京エスカレーター」
を主宰し、世界に一人だけの「エスカレーター・ソムリエ」を自称するこの編者は、
「なんやここのエスカレーター、ちょっと暗ないですのん、ホテルなんやしもっとぱーっといっとかんと」「ほうかて地下やさかい、 しゃあないんとちゃいますん」
・・・と言ったかどうかはしらない。(――ホテル日航大阪)
と、バリバリの「東京・ガール」であるにもかかわらず、突如大阪に出没して、無敵の「大阪のおばちゃん」になりおおせることなど ほんの序の口で、
「お客さん、お客さん、どうですご覧くださいよ、うちの店は他とはちょっと違いますよ。なんと言ったって、階段が、勝手に動いて お客様を二階へとご案内するんですよ。おい、ちょっとお前、電源入れろ」・・・
「パパ、パパ。行ってみる?」「やめときなさい」(――マラケシュの土産物店)
と、はるかモロッコの涯まで飛んで行って、怪しげな「土産物屋の親父」になることさえ、厭わないのである。
「このエスカレーターは、どこにつながっているのですか」
「あなたが一番行きたいところに」
「なるほど、だからこんなに長くて、先が見えないのですね」(――東京芸術劇場)
「世界には、これほどに多様な女の子と、多様なエスカレーターが存在する。」
と、編者が本当に世界中を駆け巡って撮影したものから、厳選に厳選を重ねて収録したという48基の、息をのむほどに美しい写真と、 それに捧げられた、「エスカレーターへの愛」に満ち溢れ、練りに練られ趣向を凝らされたキャプションたち。
こちらの方が、数多の投稿作品なんかより断然、群を抜いて光っていると感じてしまったのは、もちろん、この「麗しの東京エスカレーター ガール」が暇人の<愛娘>であるという歴然たる事実とは、まったく無関係である。
アタシは連絡橋につづくエスカレーターに乗りこんでうしろを振り返る。新しいタカハシがまぶしい眼をして見上げる。 世界が上昇を始める。(『新しいタカハシ』田村美葉)
*購入のお問い合わせは
こちら
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2013/2/8
「イスラームから世界を見る」 内藤正典 ちくまプリマー新書
なぜ欧米諸国は、ビン・ラディンやアル・カイダが途方もなく「イスラームから逸脱した愚か者」だと考えずに、「ムスリムが みんなビン・ラディンやアル・カイダとおなじだ」と考えてしまったのでしょう。
<明らかな根拠もなしにイラク戦争を始め、自国の兵士に多くの犠牲者をだした国家元首>、アメリカのジョージ・ブッシュ前大統領は、 まことに敬虔なキリスト教徒である。だから・・・「世界中のキリスト教徒は、みなブッシュのように暴力的で野蛮な連中であるに違いない。」 なんて、日本人や欧米人はもちろん、ムスリムでさえそんな馬鹿なことは言わないだろう。
にもかかわらず、世界に15億人もいるはずのムスリムが「すべてテロリストである」などという馬鹿げた話が、すっと通ってしまうのは、 なぜなのか?それは、事柄がイスラームやムスリムに関係しているとなると、突然「常識的な理解」ができなくなる、欧米固有のイスラーム観 がとても深く作用しているからだ、というのである。
イスラームするというのは、「唯一」の「絶対者」である神(アッラー)に全てを預け、アッラーの定めたとおりに従うことを言います。
「イスラム教」とは、「イスラームというものを信じる宗教」ではなく、「イスラームする宗教」なのである。
そして、<イスラームする人=ムスリム>になるためには、「アッラー以外に神はなし、ムハンマドはアッラーの使徒である」と心の底から 唱えるだけでよい。ただ一点、アッラーが唯一の全能の神であること、そのアッラーに全てをゆだね、その教えに従うと誓うだけでよいのだ。
世俗主義というのは、一言で言えば、この世界を生きていくのに、いちいち神様に頼る必要はない、神の教えをこの世のルールに 持ち込まないでくれという考え方です。
社会や国家を「世俗主義」の下におけば、宗教と政治はお互いに干渉することもなく、そのほうが、個人としての信教の自由も確保される と考える。18世紀ごろからヨーロッパに広まり、いまでは世界を席捲するほどの力を持つようになった、(日本では「政教分離」と呼ばれる) この考え方を、もちろん、<イスラームする人=ムスリム>は根本的に受け入れることはできない。受け入れてしまえば、ムスリムであること はできなくなってしまうのだ。
しかし、西欧近代の合理主義による国家像こそが至上なるものとして、非西欧世界へも押し付けようとする啓蒙思想を信奉する「世俗主義者」 たちの眼には、「人の生死や運命に関することは、神の手にある」と考え、断固として合理主義の発想を斥けようとするイスラーム的発想は、 まことに<時代遅れ>なものに映ることになる。
この<イスラームする人=ムスリム>に対する、世俗主義者からの根源的な嫌悪感に、<遅れてきた一神教=イスラム教>を、同じ神を信奉 するが故になおさらに異端視しようとするキリスト教徒からの差別感も加わって、ひどく攻撃的な<反イスラーム感情>が、世界中に蔓延する ことになったのだ。
今のイスラーム世界で起きていることがらを通じて、ムスリムと非ムスリムの対話のために何が必要なのかを考えようとした著者による、 これはイスラームの「いま」を知り、「これから」を考えるための、格好の処方箋なのであり、イスラーム世界を内側から眺めてきた この著者の診断によれば、今日の<反イスラーム感情>を引き起こした責任は、もちろん<正しくイスラームしなくなってしまった> ムスリムの側にもあるというのだった。
いま、世界のムスリムは、「どっちにするのか?」を問われています。一般の市民も、国王や大統領も、同じ問いに向き合わなくては なりません。どっちにするのか、というのは、西欧世界がつくりあげてきた世俗主義の国家システムとの妥協をするのか、それとも、 本来のイスラームに回帰するのか、ということです。
2013/2/4
「食欲の科学」―食べるだけでは満たされない絶妙で皮肉なしくみ― 櫻井武 講談社ブルーバックス
たとえば体重60sのヒトには60sというセットポイントがあり、多少の変動があってもこの値に戻るようにできている。 多少食べ過ぎた日があったり、満足に食べられない日があったりしても、ふつうは心配することはない。多少の変動はあるが、 体重はじきに元に戻る。
これを「体重の恒常性」と呼ぶ。(いま、「ウソだ!」と思ったアナタ。特に思い当たる理由もなく、アナタの体重が増え続けたり、 減り続けたりするのは、生物学的にどこかに何らかの問題があるそうなので、ご用心!)
つまり、<本来、体重は一定に保たれる>のであり、それを実現するための手段のひとつとして、<脳が食欲を調節している>のだとすれば、 わたしたちの脳には<体重の情報を感知するためのメカニズム>が存在していることになる。
視床下部の外側野には食行動をつかさどる「摂食中枢」があり、腹内側核には満腹をつかさどる「満腹中枢」がある。食欲がこの2つの 相反する機能をもつ中枢によってコントロールされるとする説
これを「デュアル・センター・セオリー(二重中枢説)」と呼ぶ。
つまり、「お腹が減った」、「もう満腹だ」という食欲の調節については、アクセルとブレーキの働きをする、それぞれ別の部位があると いうことになるのだが、それは、わたしたちの脳自身が、エネルギー不足を感じているということではない。(体内で最もエネルギーを 必要とする装置である脳が、まっさきにエネルギー不足を感じるようでは手遅れなのである。)
むしろ、身体全体のエネルギー不足を何らかの方法で感知して、エネルギーを補う行動をとらせるために空腹感を演出している。 それこそが、わたしたちの脳における「食欲」という仕組みのようなのだった。
「食欲」は、摂食行動を選択するという「行動選択」や、行動を選択するという「意志決定」と深い関係にある。そして、行動をしたい ときはなんらかの「報酬」が期待できるときである。
期待していたよりも大きな報酬を得ることを「報酬予測誤差」といい、大脳皮質の前頭前野がそれを認知して、ドーパミンが放出され「快感」 を得る。その結果、脳内のニューロンに機能的、構造的な変化が起こり、その「報酬」を得ることにつながった「行動」が強化されるのだ。 しかし、同じ行動をとれば必ずその報酬が得られることを理解すると、「報酬予測誤差」はゼロとなる。つまり<飽きる>のである。
一般に、ヒトは空腹の時のみに、報酬系において重要な役割をはたしている視床下部側坐核と、ドーパミン作動性ニューロンがある腹側被蓋野 が賦活しており、飢餓感を感じている脳と、満腹感を感じている脳とでは、全体に大きな機能的変化が起こっていることが確認されている。
つまり、ヒトの食行動に限って言えば、「報酬予測誤差」だけではなく、「体内のエネルギーレベルの低下」がモチベーションとなって、 視床下部が直接に報酬系に働きかけていることになる。
<食べることに飽きてしまっては困るのである。>
・全身の栄養状態に関する情報はどのように脳に伝えられるのか?
・それに応じて食欲はどのように脳の中につくり出されるのか?
・それはどのようなプロセスを経て食行動へと結びついていくのか?
睡眠・覚醒機構や摂食行動の制御機構の仕組みを調べ尽くすことで、情動の制御機構の解明を目指す脳生理学の第一人者が、最後に解き明かし てみせようとしたのは、エネルギーの補充のためではなく、「よりおいしいものを」という報酬の側面が強まる中で、いまや制御することが 難しい魔物となってしまった「ヒトの食欲」の謎だった。
メタボリックシンドロームの脅威、増加する一方の神経性食欲不振症(拒食症)をはじめとする摂食障害、食生活の変化に生物学的な変化 が追いつかず、ヒトにはいま、生物の進化史のなかで前代未聞の危機が訪れようとしているといってもよい。それは「食べられる」ことの幸せ をかえりみることが少なくなったヒトへの、痛烈なしっぺ返しなのだろうか。
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