徒然読書日記201301
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2013/1/28
「壜の中の手記」 Gカーシュ 晶文社
オショショコの壜に用いられている釉薬の深味のある赤は、珪酸塩化合物であるその釉薬のなかに、ウランが存在することを示して いるが、そうした事実はさのみ重要ではない。同じ色はたとえばボヘミアン・ガラスやヴェネツィアン・ガラスでも見ることができる。 そう、色ではない。大英博物館の考古学者たちが困惑したのは形なのである。考古学者たちは壜の用途や目的について意見の一致を見る ことはなかった。
優美な曲線を持った細い首が三本あって、一番長い真ん中の首の根本のすぐ下には、指穴を思わせる穴があるので、 ある博士はオカリナとパンパイプを掛け合わせたような楽器なのだと断言し、さる教授は口と鼻孔との両方を使って煙草の煙を吸い込む パイプの一種だろうと考えている。
1948年にメキシコ中南部のクエルナバカで、混血の行商人から私が購入した、同じ形の壜の中には<薄茶色の細い円筒状のもの>が 入っていた。大英博物館の専門家にそれを持ちこんだ私は、これは古文書などではなく、せいぜい50年程前の手帳から破かれたものだろう という鑑定結果とともに、驚くべき事実を告げられる。
「これは――内容を信じるなら、アメリカの作家アンブローズ・ビアスの最後の文章です。」
・・・という(どうです?続きを読みたくなったでしょ?)、辛口批評家ビアスの突然の失踪の謎に迫った表題作『壜の中の手記』 をはじめとして、ミステリー、SF、怪奇小説、ファンタジーなどなど、幅広いジャンルにまたがる、いずれも一旦読み出したら、 読み終わるまでページを閉じることが難しくなること必定の、選りすぐりの短編が12本。たとえば・・・
「豚の島」として知られる無人島で発見された白骨。それは「恐怖の巨人ガルガンチュア」と「双子の小人チックとタック」、 それに「手もなく足もなく生まれたラルエット」が、そこに記したある愛の物語の記憶だった。
これは私が今まで筆を執って記した話のなかでもっとも恐ろしく、またもっとも悲劇的な話であるように思われる。 (『豚の島の女王』)
左耳のおよそ3インチ上のところで頭蓋骨を貫通し、脳に刺さっていたのは、針穴を金で縁どったクルーエル刺繍針だった。 8歳の姪と二人きりで暮らすリリー叔母さんの密室殺人事件は、死因不明のまま幕を閉じようとしていたのだが・・・
30年前の私に、この30年で蓄えた知恵があったら、今ごろは引退して警部の年金をもらっていただろう。結論から言うと、 私には黙っているという分別がなかっただけなんだよ。私は若くて愚かで、だからこそ仕事に熱心すぎた。(『刺繍針』)
そして・・・たとえ彼が遺した手記によって、あの壜は中に入れた薬液を喘息患者の鼻の孔に吹き込むための、治療器具であったことが 判明したとしても、自分の喘息を治そうとしてくれている、彼らの本当の意図に気付いてしまったビアスが言いたかったことは、 もちろんそんなことではなかった。
当時のアメリカで最も偉大な作家のひとりが、正確にはいかなる死を遂げたか、それについては私たちは何も知らない。 もしかしたら――そうでないことを望むのだが――彼は追いつかれ、トントと一緒に連れ戻されたのかもしれない。 もしかしたら彼はジャングルで死んだのかもしれない。もしかしたらオショショコの村まで辿りつき、そこで――一 般に信じられているように――パンチョ・ビリャに撃たれたのかもしれない。
2013/1/25
「源氏物語の結婚」―平安朝の婚姻制度と恋愛譚― 工藤重矩 中公新書
平安時代の結婚は和歌の遣り取りで始まり、折々ごとに風雅な和歌を詠み交わし、結婚後は、男の薄情をあるいは恨み、 あるいは嘆き・・・と想像しているとしたら、それは誤りである。
勅撰和歌集でも私家集でも、恋の贈答歌は正式な夫婦関係にはない男女の間の遣り取りなのであり、少なくとも「妻」(正妻)は夫に向かって、 恋しいだの恨めしいだのといった和歌は詠まないというのである。
あなただって、結婚してしまった奥さんに「恋文」メールを送るなんてことは、何かやましいことでもなければしないだろうから、 もし「恋文」メールの交換があるとすれば、それは不倫相手と相場は決まっているのである。(ちなみに、奥さんのメール履歴チェックを 恐れている方は、着信履歴だけではなく、送信履歴も消去することを忘れてはいけないと、ある経験者は語っていた。)
同居している「妻」との婚姻関係と、それ以外の非同居の女性との男女関係の持ち方を区別せず「通い婚」などと呼ぶ。 「一夫多妻制」であったと見なされることが多い、平安時代の貴族一般における婚姻制度は、実は法的に見れば「一夫一妻制」だった。 したがって、正式に結婚した妻とそれ以外の女性たちとの間には、妻としての立場、社会的待遇等において大きな差があったことになる。
12歳で親同士が正式に認めた、4つ年上の「葵の上」を正妻として娶った光源氏は、一夫一妻制のもとではこれ以後、どのような女性と どのように関係しようとも、その女性を「妻」とすることはできない。しかし、いわば思春期前に妻帯させられてしまった者にとって (もっともこの時期の貴族たちにとって、それはごく普通のことではあったのだが)、本当の「恋」というものを知るのはその後なのだから、 そのような制約のもとで、運命の人「若紫」と出会ってしまった源氏は、いったいどのようにすれば、彼女を「北の方」(正妻)に等しい 世間的な幸せへと導いていくことができるのだろうか。
正妻葵の上の喪があけて、源氏は左大臣邸から二条院にもどった。しばらく見ないうちに若紫(紫の上)はすっかり大人びていた。 幾日か過ぎたある日、男君は早く起き、女君は起きて来ない朝があった。
若紫が源氏の最愛のパートナーとして登場するためには、葵の上はどうしても排除されなければならない障碍だった。いや逆に言えば、 初めから排除される者として(嫡男・夕霧を生すためだけに)、葵の上は源氏と結ばれた。
『葵巻』に描かれた<新枕>の場面。こうしてようやく始まった、源氏と若紫の男と女の関係ではあったが、正式な結婚であれば重要な 儀式となるはずの<三日夜の餅>を、源氏は側近の惟光に密かに命じて用意させる。おそらく、あなたが平安時代の読者であれば、 この場面から若紫が置かれた危うい立場を読み取って、その行く末の容易ならざる予感に胸を痛めていたに違いない・・・
そう、これは、物語の中の女がどのような立場の者(正妻、妾、愛人、召人、他人の妻・恋人、行きずり、等々)であると設定されているか に留意して読めば、そこに描かれる男女関係のさまざまも、人々の喜怒哀楽も、なんの説明がなくとも、現在の我々にもすらすらと理解できる のだと考える著者が、一夫一妻制という婚姻制度を前提に『源氏物語』を読み解くことで、紫の上をはじめとする女性たちの哀しみや苦しみの 隈々までも、紫式部の構想に即して深く読むことができるという、まことにスリリングな主張が、惜しげもなく展開される快著なのである。
『源氏物語』がこれほどまでに面白い読み物であることを、古文の教科書でしか読んだことのない暇人は、 迂闊にも今ごろになって思い知らされることとなった。
恋愛物語としての『源氏物語』は、正妻葵の上の死後、再婚候補者は幾人か出現するけれども、誰とも正式な再婚をしようとしない 源氏の愛に守られて、親の庇護もなく、正妻でもなく、子も生まなかった紫の上が、ついには正妻に等しい社会的待遇と幸福とをつかむに 至る物語(藤裏葉巻まで)として構想された。
2013/1/19
「イエスの言葉 ケセン語訳」 山浦玄嗣 文春新書
「そなだァさギッチどこのおれァかだっておぐ。このまるっきりとんにもたんねァものァどのひとりだっても、 おれにとってァきょうでァだ。それさしてけだゴどァ、おれァもッつァしてけだのどおなじゴッた。」
(其方等さギッチどこの俺ァ語っておぐ。このまるっきり取んにも足んねァ者等の一人だっても、俺にとってァ兄弟だ。それさしてけだ事ァ、 俺ァ許つァしてけだのど同じ事だ ケセン語訳 マタイ25・31〜40)
<人の子>イエスが天使の大軍を従えて天下り、すべての人間を裁くという<世界の仕上げ>。
「わたしが飢え、渇き、旅をし、裸でい、病気であり、あるいは牢にいたとき世話してくれたから、おまえさんたちは永遠の命に入れ。」 と、一度も会ったこともない<お助けさま>から突然告げられて、そんなことは身に覚えがないことだと驚く人々に対し、イエスは言う。
「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(新共同訳)
いやいや、こんな気取った語り口ではなく・・・ガリラヤというイスラエル北部の片田舎に住む百姓大工であったイエスなのだから、 彼が郷里の山里ナザレで仲間たちに語りかけた言葉は、きっとひどく訛っていたに違いないのだ。
とはいえ、東北の田舎町に暮らす山浦医師が、岩手県の気仙地方の方言で訳して見せた<福音の言葉>のひとつひとつが、 これほど私たちの心に染み亘ってくるのは、なにもそれだけが理由であるわけではない。
「たよりなぐ、のぞみなぐ、こゴろぼそいひとァしあわせだ。かみさまのふとゴろにだがさんのァそのひたぢだ。」
(頼りなぐ、望みなぐ、心細い人ァ幸せだ。神さまの懐に抱がさんのァその人達だ。 ケセン語訳 マタイ5・3)
人生は全て因果応報の結果なのであれば、幸せは神の掟を守り通したご褒美で、不幸せは罪を犯したことへの天罰である、と信じる ユダヤ教の伝統では、この世のあらゆる不幸な人々は罪人として断罪され、弱い者は人権を剥奪されて残酷な鞭のもとに苦しみ、 力ある者だけが栄えることになる。
だからこそ、差別され、軽蔑され、のけ者にされた貧者や、病人など、痛みというものをいやというほど味わい、やさしさに飢えている人ほど、 人の情けを敏感に感じ、幸せの涙を流すことができると、イエスは語るのだ。
「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」(新共同訳)
なんて、<心が貧しい>ことが<もっけの幸い>となるような考え方が、「山上の垂訓」の一番目の福音であろうはずがないではないか。
「かみさまさしッかどこゴろォゆだねで、なんとがしてかみさまのおやグにたぢでァもんだども、なぞにしたらいいもんでごァせって、 かみさまのおゴえにみみィすませ。そうしてねがうねげァごどだら、なんだってかならずかなう。」
(神さまさ確実ど心ォ委ねで、何とがして神さまのお役に立ぢでァもんだども、如何にしたらいいもんでごァせって、神さまのお声に 耳ィ澄ませ。そうして願う願ァ事だら、何だって必ず叶う。 ケセン語訳 マタイ21・22)
<祈る>とは、自分の力ではどうしようもない時に、神仏の力にすがって、よいことが起こるように<願う>ことなのではない。 そのように、神仏を自分の都合で動かそうとするのではなく、神さまに全幅の信頼をおきつつ、神さまのお役に立つためにわたしは 何をすればよいのかを乞い求めることが、イエスの<祈り>なのだ。
「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(新共同訳)
なんて、敬虔なる<神への祈り>は、決してお賽銭と引き換えの<商売繁盛>や<家内安全>のお守りではないのである。
どうか皆さん、この<ケセン語訳>の『イエスの言葉』を声に出して読んでみてほしい。きっと、明日への希望と勇気が湧いてくるに違いない。 ちなみに、西島秀俊になったつもりで読むのが、今のところの暇人のお気に入りである。
「このおれにァ、ひとォたぢあがらせるちからァある。いぎいぎどひとォいがすちからァある。このおれァかだっこどォほんきでうげどめ、 そのみもこゴろもゆだねるものァ、たとえしんでもいぎるんだ。」
(この俺にァ、人ォ立ぢ上がらせる力ァある。活ぎ活ぎど人ォ生がす力ァある。この俺ァ語っ事ォ本気で受げ止め、その身も心も委ねる者ァ、 仮令死んでも生ぎるんだ。 ケセン語訳 ヨハネ11・25)
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(新共同訳)
2013/1/12
「人間仮免中」 卯月妙子 イースト・プレス
「あ!今日、可燃ゴミの日だ!」「卯月さん、階段気をつけろよ!」
―朝が巡ってくる幸せ、日常の些細なことを繰り返す幸せ
「行ってくるね」「行ってらっしゃーい」
―生きてるって最高だ!!!
20歳で結婚した夫の会社が間無しに倒産し、借金返済のため、排泄物や嘔吐物、ミミズを食べるなどの過激なスカトロ企画のAVに出演して カルト的人気を博す。ストリップ嬢として踊っていた新宿の劇場の舞台の上では、観客たちの目の前で衝動的に喉を掻き切り自殺を図って 話題となる。結局、そこまでやってあげたにも拘わらず、自殺未遂の末死亡してしまった、精神障害の夫への供養のためと、 背中に戒名入りの般若心経の刺青を背負う。
幼い頃から統合失調症に悩まされ、自傷行為や殺人欲求等の妄想に囚われて入退院を繰り返してきた、舞台女優で漫画家の卯月妙子は、 飲み屋で顔馴染みとなった、職歴不明で25歳も年上のボビー(還暦を過ぎた典型的な日本の親父です)と、とてもセンスが合うことに気付き、 自分から交際を申し込む。
「ああっ」「どうした卯月さん」「またうんこ漏らした。ナプキンしといてよかった!」「お漏らしぐらい気にすんな!」
「いいか?1に、この世にあること!2に、快くこの世にあること!生き様なんて5番目だ!!」
苛烈な症状と薬の副作用との闘いの中で、演劇の稽古を止められて<希死念慮>に取り憑かれた彼女を救ったのが、ボビーのこの<深すぎる愛> のお陰であったのだとすれば、そんな卯月が嫉妬心から刃傷沙汰に及び、挙げ句の果てに<歩道橋バンジー>を挙行することになったのもまた、 ボビーとの愛が濃すぎたせいであったのかもしれない。
口から落ちた衝撃で、顔面を粉砕骨折。鼻の奥の骨が砕けて顔面は平面となり、右目は骨ごと上に大きくずれて、視神経が切れ失明した。
「水木しげる大先生は片腕で漫画描いてた。おいら片目でもこれ全部漫画にしたい・・・!つーかこんな顔世の中にあんまりいない! もうブスとかそういう範疇を超えて奇天烈だ!」(さらさらと自分の似顔をスケッチ)「貰ったあああああ!!」
―おいらこのとき地獄に落ちてもいいと思いました。
そう、このなんとも形容のしがたいまでに凄まじい物語は、<統合失調症>という、実は薄いカーテン一枚隔てたにすぎない向こう側の 世界から、こちらの世界を覗き見ている卯月が、あちらの世界の真実をまことにあっけらかんと、赤裸々に描き出してみせた、 妄想も含めておそらくすべて実体験に基づく、他に類のない漫画なのである。
そして、卯月にとって十数年ぶりというこの漫画が、当時話題を呼んだらしい自伝的漫画「実録企画モノ」に比べて、随分<ぬるい>代物と なってしまったのが、彼女も認める通り、ボビーを始めとする卯月の周りを取り囲むまことに心優しい人たちの、あふれんばかりの愛のせい なのだとすれば、なるほど!
―生きてるって最高だ!!!
「え?え!お布団行くの?おいらこんな顔なのに?」
―ボビー勃ってる・・・この顔なのに・・・
「愛しい」
―ボビー・・・あんたって人は・・・あんたって人は・・・ボビーがセックスしてくれたおかげで、おいらは自分の顔に絶望せずに済みました。 おいらこの経験だけで今後何があっても生きていけると思いました。
2013/1/9
「100のモノが語る世界の歴史」 Nマクレガー 筑摩選書
これは小さくて地味な灰色っぽい、握りこぶし程度の石なのだ。だが、近づいてみると、それが座っているカップルで、しっかりと 抱き合い、腕と脚をたがいに絡ませ合っていることがわかる。目鼻はないが、この二人が目と目を見つめ合っているのはわかる。
大英博物館の展示室で、たいていの人はこのケースの前を素通りする。遠目には、大したことのない物に見えるからである。
「アインサクリの恋人たちの小像」
とびきり思いやりに満ちた愛の表現であり、ブランクーシやロダンの有名な接吻する恋人たちの像にも匹敵するに違いないこの作品は、 なんと紀元前9千年のもので、ベツレヘム近郊のユダヤ砂漠、ワーディ・カレイトゥーンで出土した石の彫像なのである。
・歴史の黎明期から現代までの時代にわたること。
・世界全体をできる限り平等に網羅すること。
に注意深く配慮しながら、大英博物館の職員がその所蔵品から100点を選ぶ。
つまりこれは、日々使われてきた質素な道具から、偉大な芸術作品まで、人類が作りだしてきたモノを可能な限り多方面から取り上げて、 人類全体が経験してきたコトを語らせようという試みなのであるが、そこにはひとつ、ユニークな仕掛けが施されていた。
私たちは紹介される品々を目で見るのではなく、頭の中で想像しなくてはならない。
これは「何か物を思い浮かべることは、それを非常に特殊な方法で独り占めすることなのだ。」と考えるBBCのスタッフが自信たっぷりに 送りだした、テレビではなくラジオ番組の記録なのだった。
第1巻『文明の歴史』
タンザニア・初期人類の石斧(紀元前200万年)から、中国・春秋戦国時代中国の銅鈴(紀元前500年)まで。
第2巻『帝国の興亡』
トルコ・アレクサンドロス大王の銀貨(紀元前305年)から、ドミニカ・タノイ族の儀式用木製椅子(1200年)まで。
第3巻『近代への道』
フランス・大聖堂の七宝製聖遺物箱(1350年)から、アラブ首長国連邦発行のクレジットカード(2009年)まで。
彼は背景に立ち、ドアの陰から愛の営みの場面をのぞいている。顔は半分しか見えない。奴隷であることは明らかだが、彼が単につかの間の ぞき見に耽っているのか、「ルームサービス」に呼ばれておずおずと応じているのか知るすべはない。いずれにせよ、彼の存在は、 ここで彼やわれわれが目にしていることが、密室でこっそりと営まれていた行為であることを思い起こさせる。
(「ウォレン・カップ」西暦5年、エルサレム近郊で出土した銀器)
たとえば、性愛の歴史一つをとってみても、そこには私たちの創造力をかきたててやまない、モノたちに固有の来歴が刻み込まれていることを 知るのである。
え?どうしてもこの目で見てみなくては気が済まない?
どうぞご心配なく。大英博物館までわざわざ足を運ばなくても、この本にはちゃんと美しい写真が掲載されているのだ。
20代と思われる二人の若い男が、毛布をなかばかけてベッドに並んで横になっている。一人の若者は頭の後ろで両手を組み、 まどろむように目を閉じているが、もう一方は彼に熱い視線を注ぐ。二人の男たちの関係が新しいものなのか、長い付き合いなのかは まったくわからないが、一見すると、事後の穏やかで、満ち足りた朝に見える。
(ホックニーの「退屈な村で」1966年、イギリスの銅版画)
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