徒然読書日記201212
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2012/12/31
「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」 増田俊也 新潮社
ボクサー、プロレスラー、空手家を次々と破ってこのトーナメント(引用者注:平成5年に米・デンバーで開催された第1回UFC 総合格闘技選手権)を制したのは、グレイシー柔術というマイナー格闘技を身に着けた痩身のブラジル青年ホイス・グレイシーだった。ホイス は相手の打撃技を捌き、組み付いて投げ、寝技で仕留めるという必勝パターンを持っていた。その投技や寝技は柔道に近い技術体系であった。
試合後、グレイシー一族は、マスコミに対しこう発言した。
「マサヒコ・キムラは我々にとって特別な存在です」
――キムラって誰だ?
木村政彦、大正8年(1917)生まれ。身長170センチ、体重は全盛期でも85キロという体格ながら、本来は大型選手が得意とする 大外刈りを駆使して、並みいる巨漢を畳に叩き付け失神させた。後に「キムラロック」と称された腕ガラミなど寝技も多彩で、 立っても寝ても圧倒的に強く、戦前戦中を通して、15年間不敗のまま引退した。
山下泰裕とどちらが強いかって?冗談ではない!
もし二人を戦わせれば『木村相手に何分たっていられるか』のタイムを競うだけの試合になるだろうと、往時の木村を知る誰もが語るくらい、 「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と謳われた、この男こそはまさに完璧な伝説の柔道家なのである。
そしてこのことは、「実戦ではどの格闘技が一番強いのか」という格闘技ファンの、解決されずにいた永遠の命題についに解答を与えた、 第1回UFCの勝者ホイス・グレイシーが証明してくれた。昭和26年(1951)、当時日本の柔道家では誰も歯が立たなかった、 ブラジリアン柔術の国民的英雄エリオ・グレイシー(ホイスの父である)を相手に、ブラジルのマラカナンスタジアムに立錐の余地なく 集まった、4万人の熱狂的な観衆の目の前で、得意の腕ガラミでエリオの腕をへし折って見せた男こそ、木村政彦だったのである。
そんな木村が、講道館の昇段記録では七段どまりで、柔道の歴史の中に埋没するかのように、その名が忘れ去られてしまうことになったのは、 昭和25年に、師・鬼の牛島辰熊が旗揚げした『国際柔道協会』に看板選手として参加したためだった。GHQからの規制をかいくぐり、 『柔道は武道ではなくスポーツである』と生き残りを図った講道館のアマチュア柔道と袂を分かち、木村政彦は<プロ>になったのである。
そして・・・
昭和29年、紆余曲折の末、活動の場をプロレスに移した木村政彦は、当時人気絶頂の力道山と視聴率100%の全国民注視の中相まみえる ことになるのだが、凄惨な流血試合となったこの試合で、引き分けにするはずの約束を破った力道山の騙し討ちによって、不敗の柔道王は無様 にもマットに沈んでしまう。これをきっかけに、力道山はスーパースターへの道を登りつめ、木村は表舞台から消え去ることになるのだが、
「負けたら腹を切る」という、武道家としての覚悟を持っていたはずの木村は、力道山にあれほどの恥をかかされて、 なぜ生き長らえてしまったのか?
本書では、捏造されて定着してしまった“あの試合”の真相究明を軸に、力道山への怒りと、さらにそれ以上の哀しみを抱えながら 後半生を生き抜いた、サムライ木村の生涯を辿りたい。(中略)
はたして木村政彦は力道山を殺して切腹すべきだったのか・・・。その答は、私にも書き終わるまでわからない。
2012/12/30
「海賊とよばれた男」 百田尚樹 講談社
「愚痴をやめよ」
社員たちははっとしたように鐡造の顔を見た。甲賀もまた驚いて鐡造を見た。
「愚痴は泣きごとである。亡国の声である。婦女子の言であり、断じて男子のとらざるところである」
社員たちの体がかすかに揺れた。
「日本には三千年の歴史がある。戦争に負けたからといって、大国民の誇りを失ってはならない。すべてを失おうとも、日本人がいるかぎり、 この国は必ずや再び立ち上がる日が来る」
昭和20年8月17日、敗戦2日後の朝。鐡造が一代で築き上げた石油販売会社・国岡商店の社員たちは、焼け残った銀座の本社大会議室に 集められ、国岡商店の終わりを告げられるのだろうと、一様に不安げな顔で店主を見つめていた。
「ただちに建設にかかれ」・・・「しかし――その道は、死に勝る苦しみと覚悟せよ」
弱冠25歳で裸一貫から身を起こしながら、「士魂商才」(武士の心を持って商いせよ)を座右の銘として、脇目もふらずに商売に邁進し、 多くの大手財閥系石油会社を相手に、ひとり民族系の雄として暴れ回り、石油業界の風雲児として恐れられるまでになっていた、
国岡鐡造はしかし、この時すでに60歳、還暦を迎えていた。
「たしかに国岡商店の事業はすべてなくなった。残っているのは借金ばかりだ。しかしわが社には、何よりも素晴らしい財産が残っている。 一千名にものぼる店員たちだ。彼らこそ、国岡商店の最高の資材であり財産である。」
「店員は家族と同然」なのだからと、就業規則もなければ出勤簿もない。馘首もなければ定年もない。他社からは時に「異常だ」と蔑みの目で 見られることさえあった国岡商店独特の社風、『人間尊重』の精神に支えられて、功なり名を遂げたと言われてもおかしくなかったはずの 鐡造の人生は、実はここからさらなる佳境を迎えることになるのである。
出光興産創業者・出光佐三の生涯は、日本の石油エネルギーを牛耳ろうとする巨大国際石油資本「セブン・シスターズ(七人の魔女)」の 野望への挑戦の歴史だった。日本の大手財閥系石油会社が次々に利権を求めて、恥も外聞もなく石油メジャーの軍門に下っていく愚かしさを 尻目に、『黄金の奴隷たる勿れ』を自らのモットーとした出光の、これは「自主独立」という日本人の誇りを守らんとした男の、 まさに一命を賭した闘いの記録なのである。
1953年春、鐡造の密命を懐に抱いて、極秘裏に一隻の日本のタンカーが神戸港を出港した。
<この物語に登場する男たちは実在した。>
「終戦後、国岡商店は日本の石油産業確立のために猛進した。しかしメジャーと、彼らと手を組んだ石油会社のために、さまざまな圧力と 妨害を受け、ついに重囲の包囲網を敷かれ、身動きが取れなくなった。この絶体絶命の窮地を打ち破るために、与えられたのが日章丸である」
新田(船長)の太い声が続く。乗員たちは身じろぎもせずにそれを聞いた。
「世界の石油業界は『七人の魔女』と呼ばれる欧米の石油会社に長い間支配され続けてきた。イランはそれに立ち向かった勇気ある国である。 しかしイランはそのために厳しい経済封鎖を受け、彼を助ける者は誰もない中、世界から孤立し、困窮に喘いでいる」
2012/12/10
「天才数学者はこう解いた、こう生きた」―方程式四千年の歴史― 木村俊一 講談社選書メチエ
届けられた論文を見て、ガウスは顔をしかめた。「よくもこんなものが書けたものだ、恐ろしいことだ」。 中を開けもせずに引き出しに放り込んで、そのまま忘れてしまった。
1823年、アーベルという無名の大学生から送られてきた論文の題名は「5次の一般方程式の解の不可能性を証明する、代数方程式について の論文」というものだった。その時すでに当代最高の数学者の一人だったガウスの博士論文は、「すべての方程式に必ず解が存在する」ことを 証明するという代数学の基本定理だった。つまり、ガウスは「解が可能である」ことを知っていたのである。
それは、アーベルとガウスという二人の天才が、ちょっとした表現の喰い違いから「歴史的なすれ違い」をしてしまった瞬間だった。
さて、実は暇人は、
<問> 1が正であることを証明せよ
<解> (文字を白くしておきます。)
一般に、実数aが0でなければ、aの二乗は正である。
ここで、1は0ではないので、1の二乗は正になる。
ところが、1の二乗は1である。
よって、1は正である。
(証明終)
なんていうような証明問題を、平気で高校1年の1学期の中間試験に出すような、恐るべき数学教師の授業を受けてきた理科系人間 (但し数学は苦手だった)なので、二次方程式の解の公式の作り方(丸暗記ではなく、両辺を開平できる形に変形するというあのやり方) を教えてもらったとき、まるでもののついでだとでも言うかのように、三次方程式の解法として、タルターリャの公式とカルダノ変換が 突然黒板に展開され始めた。
あの時の、一瞬気が遠くなりそうなくらいに頭の芯がぼぅっとなってしまった記憶が、うだるような暑さの中の蝉時雨とともに蘇ってきて、 はるか昔の「あの日に戻れたなら・・・」という、甘酸っぱい想いまでが胸に込み上げ、思わず遠い目になってしまうような、 これはそんな本だったのである。
ガウスが言うように、一般にn次の代数方程式には、n個の根が<複素数の範囲で>存在することは分かっている。2次方程式までの解は バビロニアから始まる古代数学の時代においてすでに求めることができたのだが、3次と4次の方程式の解法の発見は、ルネサンスのイタリア まで待たねばならなかった。さらに、5次以上の代数方程式では、加減乗除とn乗根をどのように組み合わせてみても、 誰もその解を書き表すことができなかった。そして・・・
<四則演算とベキ根だけでは5次方程式の解の公式を作ることはできない>ことを証明してしまったのが、19世紀初頭に同時に現われた 二人の伝説的天才、アーベルとガロアだった。つまり、アーベルがガウスに送った論文の題名は、「解の不可能性」ではなく 「解の公式の不可能性」とすべきだったのである。
このような言葉や記号と数学との関係が、この本の第二のテーマだ。どんなに素晴らしいインスピレーションがあっても、 それを言葉であらわすことができなければ、インスピレーションは人に伝わらぬまま消えてしまう。真の天才のみが、 新しいインスピレーションをあらわす言葉・記号を発明して、革命を引き起こすのだ。
2012/12/7
「罪悪」 FVシーラッハ 東京創元社
ステージの下は暗くじめじめしていた。娘はそこに横たわっていた。素っ裸で、泥にまみれていた。体液で汚れ、小便をかけられ、 血だらけだった。動くこともままならなかった。あばら骨が二本と左腕と鼻骨が折れ、グラスとビール瓶の破片で背中も腕も傷だらけに なっていた。
夏真っ盛りに開かれたお祭りの会場で、17歳の娘が酒に酔った8人の楽団員たちに、ステージの幕の裏で集団暴行されるという惨劇が 発生した。誰の目から見ても有罪であることは明らかな彼らは、しかし証拠不十分で釈放され、よき夫・よき父親としてのいつもの生活に 戻っていくことになる。加害者のうちの誰かが通報したことがはっきりしており、つまり8人のうちひとりは無罪の可能性があったのだが、 もちろん彼らの誰ひとり黙して語ろうとはせず、祭りの装束と厚化粧とかつらのせいでみな同じに見えたため、被害者の娘には誰ひとり 見覚えがなく、犯人の名前をあげることができなかったのだ。
“弁護は戦いだ。被疑者の権利を守る戦いだ”
肌身離さず持ち歩いていた赤いビニールカバーの小さな本に刻まれた”熱き志”を胸に秘めて、数週間前に弁護士の認可を受けたばかりの シーラッハにとって、このどうにもやりきれない結末を招いた事件こそが、新しい人生の記念すべき「第一歩」だったのである。
勾留審査が終わったあと、学友と私は駅へ向かった、私たちは弁護団が勝利したことや、窓辺に見えるライン川の眺めなど、なにかしら 話をしてもよかったのに、なぜか色褪せた木製の座席にすわって、どちらからも話しかけることはなかった。私たちは、自分たちが罪なき身 ではなくなったことを、そしてそうなったからといってなにも変わらないことを実感した。(中略)
私たちは大人になったのだ。列車を降りたとき、この先、二度と物事を簡単には済ませられないだろうと自覚した。 (『ふるさと祭り』)
といったような雰囲気で語られる、この15本の佳作を集めた短編集は、2012年本屋大賞・翻訳小説部門第1位に輝いた
『犯罪』
に続き、 刑事事件専門の現職の弁護士であるシーラッハが、自らが携わった現実の事件を題材とした、お待ちかねの第2弾なのであるが、 前作が、異様な犯罪を犯してしまった人間たちの「哀しさ」と、それ故の「愛おしさ」を描くことに主眼が置かれていたようなのに比べると、 今回は、残酷な現実に追い詰められて罪悪に手を染めてしまう人間の「愚かさ」と、それ故の「ほろ苦さ」が際立って、 いささか読後感が重いような気がするのは、
誰もが、ほんの身の回りの驚くほど近くに、見方を変えれば『罪悪』と呼ばれてしかるべき物を抱えており、 人はまことに簡単に罪人となってしまうものなのだということを、思い知らされるからに違いない。
中央情報局(CIA)とドイツ連邦情報庁(BND)が追いかけてくるのだと、二週間にわたって毎朝、私の弁護士事務所を訪ねてきて、 「BNDを告訴してくれ」と依頼してきた、「いかれた男」ファビアン・カルクマンが教えてくれたように、これらのどの事件においても、 ひょっとしたら、罪人は「あなた」であったかもしれないのである。
(カルクマンに勧めて精神科の救急医療を訪れた)私たちは小さなデスクの前にある来訪者用の椅子にすわった。 私が事情を説明しようとすると、それよりも早くカルクマンがいった。
「こんにちは。私はフェルディナント・フォン・シーラッハ、弁護士です」
それから私を指さした。
「カルクマン氏を連れてきました。頭に重大な欠陥があるようなのです」(『秘密』)
2012/12/4
「光圀伝」 冲方丁 角川書店
なぜこの世に歴史が必要なのか。
お前もこのわしもここに在る――
命の脈を失った亡骸に向かって、心の中でそっと囁きかけた。
在るということが、歴史なのだ――
隠居先の小石川邸に諸大名を招いて能の興行を催すことにした、このとき齢67の「水戸黄門」光圀は、別室「鏡の間」に密かに呼び寄せた 男を、膝下に捕らえ刺殺する。左の鎖骨の上から、ぷつりと脇差しの刃で肺を縦に貫く。それは光圀がまだ17歳のとき、たまたま遭遇した 老兵法者・宮本武蔵から教わった「慈悲ある殺し方」だった。
殺されたのは、14の歳から俊英の誉れ高き小姓として光圀に仕え、今は47歳にして新水戸藩主・綱條の若き筆頭家老へと破格の出世を 果たしていた忠臣・藤井紋太夫。
この男のために犠牲が払われ、多くのものごとが、語られざるべきこととして蔽われた。
だがそれでも、この男への愛情が薄らぐことはない。遠い昔に世を去った我が妻への愛情が、これからも決して消えることはないのと同じように。
書は、“如在”である。
まさに聖人が述べたように、もういない者たち、存在しないものごとを、あたかもそこにあるかのごとく扱い、綴ることをいうのである。
光圀はなぜ「この男」を自らの手で殺めることになってしまったのか・・・
本屋大賞を受賞し、映画化もされた
『天地明察』
に続いて、切れ味抜群の作家・冲方丁が、次にその俎板に載せ活写して見せたのは、巷間に流布する「黄門様」の姿とは まるで違った、徳川光圀の本当の生き様だった。
「・・・なぜ、私だったのですか」
水戸徳川家初代当主である父・頼房から、およそ想像を絶するような数々の試練を与えられながら、なんとか認められたくて 懸命に乗り越えてきた幼き日。血気盛んな“傾奇者”として、自らの身分を隠し不良分子たちと江戸市中を暴れ回ることで、 本当の自分とは何であるのかを問い続けていた若き日。それは、病弱な兄・頼重を差し置いて自分が世子に選ばれてしまったことに対する、 どうにも片付けることのできないやりきれなさの表出であったのかもしれない。
「明日の上使の沙汰は、我らに家督の儀を仰せ出だされることに存ずる。私儀、弟の身でありながら世継ぎとなったことを、年来、 心に恥じ申しておりました。父上が存命のときに、世を遁れようと考えたものの、それでは父子の仲が悪しく、それゆえ家を去ったと 評判されるばかり。ゆえに、今まであえて世継ぎとして過ごして参った」
結局、父・頼房の死による二代藩主としての家督相続に臨んで、光圀は兄・頼重(讃岐高松藩主)の実子を養子に迎えて自らの世子とし、 自らの実子は兄の世子とすることを宣言する。
「・・・子を、取り替えるというのか」
この、今は亡き最愛の妻・泰姫より授けられた奇想天外の秘策(史実です)により、光圀は家督を本流に戻すという「大義」を果たし、 意気揚々と、宿願とも言うべき『大日本史』編纂という、空前絶後の大事業の完遂を目指すことになるのだが・・・
自らが果たした「大義」こそが、やがて忠臣・紋太夫を刺殺せねばならない羽目に自らを追い込んでしまおうとは、当の光圀には 思いもよらなかったことであったに違いない。
<以下、ネタバレに付き、文字を白くしておきます。>
「水戸家から、将軍を出します」
まして、この紋太夫のもう一つの「大義」が、150年もの時を超えて、まさか実現してしまおうなどとは、知る由もなかったのであった。
「貴様は・・・水戸家から将軍を出し、そして、どうする気だ」
ふいに紋太夫の身が膨らんだ気がした。すさまじいまでの気魄だった。その気魄の奔流とともに、紋太夫は言った。
「水戸家から将軍が出た暁には、将軍自ら、朝廷に政治を還すのです」
2012/12/1
「近代日本の陽明学」 小島毅 講談社選書メチエ
陽明学者は陽明学を師匠から伝授される必要がない。中国でも日本でも(少数だが朝鮮でも)、高名な陽明学者は朱子学の学習に よって陽明学者になる。教祖・王守仁(陽明)にしてからがそうである。彼は熱心に朱子学を学び、その精神を実践しようとし、挫折し、 悩み、そして悟った。
「理を心の外に探し求める朱子学のやり方は根本的に間違っている。理とはわが心のはたらきにほかならないのだ」と。それは、朱子の無謬性 への信仰(山崎闇斎)でも、孔子が説いた道徳教説への敬慕(伊藤仁斎)でも、既成道徳への随順(中井履軒)でもない。
「自分自身の良心」=「良知」への信頼。
おのが良心に照らして納得したものにだけ従うという、何物にも囚われない自由で批判的な精神は、たとえば「大塩平八郎の乱」を生む。 学問とは、トリビアルな知識を衒学的に自慢したり、既成道徳への従順さを誇るためのものではないという、大塩中斎が主宰する「洗心洞」は 行動主義をモットーとする私塾であった。
「日本陽明学」は「純粋動機主義」なのである。
江戸時代の儒教史は、仏教との訣別から始まる。それまで、日本で朱子学を講じてきたのは、五山を中心とする臨済宗寺院の僧侶たち であった。林羅山や山崎闇斎は、五山から分離独立することで朱子学の本格的受容を志した。その際、彼らが共同戦線を張るために近づいた のが、神道である。
「日本古来の伝統(会沢正志斎が『国体』と呼ぶことになるもの)はもともと儒教的であった」と。寺壇制度によって全国民の葬送儀礼が 仏教のいずれかの宗派によるようにと強制されていた江戸時代に、神道を儒教的(朱子学的)に理論化した「神儒一致」の混合形式を 独断専行していたのは、「水戸学」の開祖「水戸黄門」こと水戸光圀だった。
「万世一系の天皇をいただく、王朝交替(=革命)の存在しない国柄」を誇るために、天武を簒奪者に貶め、南朝を正統とした『大日本史』 における黄門様の歴史認識は、幕末の激動の中、藤田東湖や会沢安らによって再興された「後期水戸学」の「国体論」・「攘夷論」に継承され、 たとえば、吉田松陰の「神国論」を生む。
国体の理想は天皇親政であり、武士とは国家の番犬にすぎない。下級武士や豪農層など、身分的に下の階層が、「学文」することによって 目覚め、国体を支える役割を果たすのだという「草莽崛起」の理想を掲げたのが、明治維新の志士を輩出した「松下村塾」であった。
「水戸学」は「大義名分論」なのである。
というわけで、「天皇につきしたがった者のみが正しい」とする、戊辰戦争で確立した「勝てば官軍」という、この独善的な論理は、 動機が正しい「大義」の戦いであったことだけを根拠にすることで、いまだに「聖戦」を称揚し、「なぜ負けたのか」を問おうとしない 思考停止につながっていくことになる、というのだった。
「靖国神社」の起源は「神道」にはなく、実はこの神社は「儒教教義に基づく社」なのだから・・・
まことに<善意が起こす「革命」はタチが悪い!>ということなのだ。
水戸学と陽明学が、政治的・思想的にはそれぞれ立場を異にしながらも、ある種の心性を共有する人たちを指す総称であることは、 読み進むうちに了解していただけることであろう。靖国に参拝する人たちも、靖国を批判する人たちも、同じこの心性を持つことの不幸。 わたしが一番訴えたいのは、そのことなのである。
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