徒然読書日記201209
サーチ:
すべての商品
和書
洋書
エレクトロニクス
ホーム&キッチン
音楽
DVD
ビデオ
ソフトウェア
TVゲーム
キーワード:
ご紹介した本の詳細を知りたい方は
題名をコピー、ペーストして
を押してください。
2012/9/28
「東京は郊外から消えていく!」―首都圏高齢化・未婚化・空き家地図― 三浦展 光文社新書
マイホームに資産価値がなくなる、いわば「クズ」になる時代が来ているのだ。(狭山市の)770戸のマンションのうち、 約30%の230戸が空き家になるかもしれない。1974年に35歳でマンションを買った人は、今、73歳である。 15年たったら半数近くが亡くなるだろうから、30%が夫婦とも亡くなって空き家になってしまうかもしれない。実際すでに、 UR都市機構の古い大規模団地で30%以上が空き家になっていることは珍しくない。65歳以上の高齢者率50%というところも珍しくなく、 15年したらゴーストタウンになるだろう。
<郊外の物件が値下がりする理由>
「女性の社会進出」(郊外は男女役割分担時代の遺物)
「人口減少」(少子化と地方からの流入減)
「高齢化」(単身世帯の増加と多死化)
「結婚しない団塊ジュニア」(パラサイトシングルの増加)
というわけで、首都圏の団塊ジュニア以降の世代の居住地選択の傾向など、様々な調査データを駆使して、 これから「発展する街」・「衰退する街」はどこかを、ご親切にも予測して見せてくれた本なのではあるが・・・
東京圏に住む人々が、今後東京のどの地域が発展する、あるいは衰退すると思っているのかなどを見ていく。その際、一般人だけでなく、 「ビジネスコンサルタント、シンクタンク関連」である人(以下「コンサルタント系」)と「企画、マーケティング、宣伝、MD、バイヤー」 である人(以下「マーケティング系」)の回答も集計することにした。なぜなら、これらの職種についている人々が、より専門的な視点で 東京圏の将来を予測できると考えられる。
その結果、彼らが今後発展すると考えるのは、
コンサルタント系 「都心3区」「城南4区」など
マーケティング系 「中央線近郊」「下町3区」など
つまり、ブランド志向のコンサルタント系が、従来型の価値観から「住みたい街」で人気の上位に上がるような地域が今後も発展する と思っているのに対し、「住みたい街」=「住めない街」と捉えているマーケティング系は、実際に住んでみたら意外に楽しい 「住んでよかった街」を選んでいる節がある。
う〜む、なるほど。
この本は皮肉にも、著者ご本人も含めて、今後生き残るであろう「街づくり」蘊蓄家はどっちだという未来をこそ、予測する本だったのである。
なぜならば、
若い世代がブランド品を欲しがらなくなっていることと並行して、街にもブランド性を求めなくなっており、それよりも個人の自由な 活動が促進されること、楽しさ、、便利さ、刺激を求めている。あるいは、クリエイティブな風土を求め始めている。
(中略)だから、それぞれに適した住宅、住宅地、商業地、あるいは働く場所というものが必要なのであり、若い世代は自分たちの それぞれのニーズに適した地域に移り住んでいくのである。そして、中途半端な地域は地域間のサバイバル競争に負けるのだ。
2012/9/24
「武器としての社会類型論」―世界を五つのタイプで見る― 加藤隆 講談社現代新書
「類型」とは「タイプ(type)」のことである。さまざまなタイプの社会がある。それを「五つのタイプがある」と整理したのが、 「五つの社会類型からなる社会類型論」である。その上で、近代以降に西洋的社会が世界規模で支配的になったことを考慮して、 西洋的な社会構造の成立と展開を、古代末期にキリスト教が西洋世界によって採用され、近代に入ってから「世俗化」が進行したことに 留意しながら検討し、諸文明の対応のあり方について考察する。
上層の<自由な個人>(主人)が、下層の<労働のみの存在>(奴隷)を支配する、古代ギリシアの<ポリス社会>のような、 「上個人下共同体」(古代西洋社会がモデル)
下層の<自由な個人>(民)の中から、上層の<共同体の拘束を受ける者>(臣)が採用され、民を支配することになる儒教的な <士大夫社会>のような、「上共同体下個人」(中国の伝統的社会がモデル)
これら二つの社会類型が、人を上下二つに分けて上層の者が下層の者を支配する「二重構造」になっているのに対し、
<その「場」にいる者>はすべて、それだけで自動的にその社会集団の成員になってしまう、という中根千枝の<タテ社会>のような、 「全体共同体」(日本の伝統的社会がモデル)
生まれながらに<同じ「資格」を持った者>が、それだけでその社会集団の成員であることを強制されてしまう、<カースト社会>のような、 「資格共同体」(インドの伝統的社会がモデル)
<与えられた「掟」を受け入れる者>でさえあれば、誰でもその社会集団の成員になることができるという<律法社会>のような、 「掟共同体」(古代ユダヤ教社会がモデル)
後の三つの社会類型にはそもそも<個人>というものが存在せず、その社会のメンバーの全員が「共同体主義」的に位置づけられ、 「人による人の支配」を拒否する形を取っている。
有効な理解を進めるために、こうして世界をタイプに分けて考えてみれば、いろいろな社会の姿が見えてくるようになる、という。 たとえば・・・
「中国では下層の者のほうが自由がある」
「コンピュータ分野に優秀なインド人が多いわけ」
「科学技術が中世西洋社会で生まれた理由」などなど。
そしてこの類型論の試みはまた、科学技術の進展により「富」が飛躍的に増大したことで、西洋的な二重構造が消滅する(みんな上層になる) かもしれないという見通しの下で、「西洋」と「非西洋」との関係の将来の行く末を探るヒントにもつながるということなのである。
西洋的なこの「自由な個人」には、特に「支配」の項目がある。だから彼らは「自分たちは優越している」という態度をとることになる。 しかし、この立場からしか考えないのでは、「支配」「価値」「富」「自由」を享受できる「自由な個人」があり得ないようなタイプの文明が 存在すること、それらの文明のタイプがどのような構造になっているか、が見えてこない。つまり、「西洋的でない文明のあり方については、 分かっていない」という状態になってしまう。したがって彼らは、西洋的でない現実については、「自分たちは優越している」という態度を とるしかなくなる、ということになる。
2012/9/19
「AKB48白熱論争」 小林よしのり 中森明夫 宇野常寛 濱野智史 幻冬舎新書
濱野 (前の握手会で)そのとき僕は完全にぱるる推しだったので、ぱるるのタオルを首にかけてたんですよ。 そうしたら永尾まりやに「ぱるるのタオルか」と言われちゃって、「あ、ごめん、まりやぎ」みたいな。でもすげぇ可愛かったので、 次はちゃんとタオルを買って行ったわけです。
小林 それ、たまたま永尾まりやだっただけの話だろ。なんで、れなっちじゃなかったんだよ。
中森 小林さん、今いいこと言いましたよ。「たまたま」なんだよね。
たとえ、客観的に見たら、アイドルとしては完全にれなっちのほうが上であろうとも、「握手すると変わるんですよ。向こうも真剣だから、 心を打たれるんです。」それは、客観を超える瞬間を待つ「たまたま」の神話だ、というのである。
濱野 (次の握手会には)「永尾まりや」とデカデカと書いてある推しマフラータオルというファングッズがありまして、それを首に かけて行ったんですよ。そうしたら本人が「私のタオルだ!!ありがとう!」とか言いながら、ギュッギュッて引っ張ってきて(笑)。 もうこっちとしては一瞬何が起こったのかわからなくて。それがめっちゃくちゃヤバいくらい可愛いんですよ・・・
自分が推しているメンバーの「重力」を感じるという、普通ではあり得ない体験が、その瞬間の「10票買い足そう」という投票行動に つながった。こういう「なんてことのない」(え、どこが?)エピソードの一つ一つが、「宿命」にさえ感じられてくるところが、 <AKB48>の凄さなのだ。
と、「いい年こいたオッサン」連中が、「あえて」ではなく「マジで」嵌った、自らの熱き思いを誇らしげに披露しあう、 まあ、それだけにとどめておければよかったものを、
宇野 要するにこれは自分とは何の利害関係もない人を、それどころか関わりすらない人を応援するってことなんです。 だから責任も伴わないし、お金で買えるものです。けれど、そういう想像力がないと社会は成り立たない。 今までの社会をまとめてきた物語の力はどんどん弱くなっているわけでしょう?
この「推す」という今までの近代社会ではあまり注目されてこなかった人間の心理に根差した「公共性」のようなものがなければ、 「今の社会は成り立たなくなってしまったのではないか?」・・・なんて、
6月に開催された「第4回総選挙」という、たかが仲間内の人気投票(え、ちがうの?)にすぎないはずのものの生放送が、 ついには平均視聴率18%を記録してしまうなど、今や「社会現象」にまでなりつつあるらしい<AKB48>を、
「アイドルは巫女、恋愛禁止は仕方がない」
「制服による統制が個性を生む」
「AKBはプロレスの進化系!奇跡を生み出すシナリオとガチンコのバランス」
「誰でもアイドルになれるカルチャーフォーマット」
「多神教的資本主義は日本を越えてどこまで広がるか」などなど、
自らの得意のフィールドに、こんないたいけな少女らを無理やりに引き摺りこんで、嫌われることも承知の上で、思う存分しゃぶり尽くして しまわねば気が済まなかったというあたりが、これら日本を代表する4人の論客の、「哀しい性」とでもいうべきものなのだろう。
ちなみに白状しておくと、かくいう暇人は、前田敦子と大島優子でさえ、その区別がつかないオッサンなので、 実はちょっと「悔しい」のである。
濱野 狭い現場で起きている謎のカルト現象という意味では、AKBは(語弊を恐れずに言えば)オウムっぽくもあるし、 制服アイドルなのだからコギャルっぽいところもある。ファンにお金で投票させて夢を叶えるというのは、ある種の「マイルドな援助交際」 と言えなくもない。戦後日本社会が「虚構の時代の果て」(大澤真幸)に生み出したオウムとコギャルというモンスターを、 むしろ資本主義の力も借りてマックスの国民的現象にしてしまったのがAKBかもしれない。
宇野 地下鉄サリン事件のとき僕は高校2年でした、そのときから日本の思想シーンはずっと「サリンを撒かないオウム」をいかにつくるか、 という議論をひたすら続けてきたと言ってもいいと思うんです。
2012/9/14
「レッドマーケット」―人体部品産業の真実― Sカーニー 講談社
アメリカ人である私の身体は割高で売れるだろう。もし中国に生まれていたら、値段はずっと安くなるはずだ。 だがどこの国であろうと、私の身体の切れ端をマーケットで右から左に動かす医者やブローカーは、そのサービスの対価として 相当の金額を手に入れる。それは売り手の私が得るよりはるかに大きな額だ。世界にまたがる臓器マーケットでの需要と供給の法則は、 靴や電子器具のマーケットにおける法則と同じくらい、しっかり確立されているのだ。
腎臓 6万2千ドル
肝臓 9万8千ドル〜13万ドル
肺臓 15万ドル〜17万ドル
心臓 13万ドル〜16万ドル
といった程度の、アメリカで死体から採取される臓器相場のわずか5分の1という値段で、しかも最短の場合わずか2週間も待っていれば、 アメリカ人ならつい最近まで、中国政府が支援している外国人向けの「中国国際臓器移植ネットワーク支援センター」から、 新鮮な臓器をたやすく入手することができた。
顧客から腎臓の注文があると、中国人の医師がタイプ別にカタログ化された臓器の中から、いちばん適合性の高い臓器を選び出して、 すぐに摘出してくれるからだ。
え?ドナーにはどのようなお礼をすればいいのか?どうぞご心配なく。
実はドナーは刑務所の囚人なので、彼らにとっての移植の代償は「死」だった。刑務所の医師の注文に合わせて処刑の日程が 決められていたのである。
人間の臓器をもっと安い値段で手に入れたい人や、臓器売買が認められていない自国での長いウェイティングリストなど待ってはいられない という人は、たとえば、津波に襲われたインドのツナミ・ナガールの難民キャンプ「腎臓村」を訪れてみるとよい。
誰もが二つずつ持っている腎臓であれば、ブローカーを通して、ここに暮らすほとんどの女性から、譲ってもらうことが期待できる。 1日1ドル以下で暮らす彼女らにとって、800ドルという相場(もちろん手術代は別にかかる)は、ほとんど考えも及ばないような 大金なのである。
「レッドマーケット」。
それは「人の身体をめぐる社会的なタブー」と、「より長く幸せな人生を送りたいという個人の欲求」との衝突という、矛盾の産物である。
腎臓や血液や卵子は、たとえその対価が明確に確立されていようとも、「売られる」のではなく、あくまで「寄付される」ものという、 <利他的>な表現が用いられる。その臓器が、たとえおぞましい手段で調達されていようとも、最終的な売買では「人命を救う」という 倫理的な側面が表に立って、<他人のため>という理想のベールが犯罪を覆い隠してしまう。
「進んで我が身の一部を売る人間はその取引から恩恵をこうむっている」ように見える場合でも、現実には「我が身を売る人たち」の生活が、 売ったことで向上したケースはほとんどないという。
それでも、貧困国の人口が増大し続けているという現状の中で、臓器売買の世界には<無限>といえるほどの供給があるのである。
レッドマーケットには、人体が必ず社会の下の階層から上の階層へ動いていくという、不愉快な社会的側面がある。 社会の上の階層から下がっていくことは、まずないのだ。たとえ犯罪の要素がからまなくても、規制のない自由なマーケットは 吸血鬼のようなもので、貧しいドナー(臓器や身体の組織の提供者)が住む地域から健康と活力を吸い取っては、 ドナーの身体の一部分を富める者へと送り出す。
2012/9/14
「学力と階層」 苅谷剛彦 朝日文庫
問題は、教育のどのような面で格差が拡大するかである。それというのも、21世紀型の経済社会においては、知識技術の陳腐化が スピードアップし、それに対応できる能力の形成が問われるようになるからである。「自ら学び、自ら考える力」――教育改革でいわれる 「生きる力」は、変化の激しい時代にあって、詰め込まれた知識以上に重要である。いやそうした知識を使いこなし、 さらに足りない知識や情報が何かを判断し、見つけ出し、獲得する能力として、「学習能力」が問われるようになる。
もしも、あなたのお子さんが、
「家の人はテレビでニュース番組を見る」
「家の人が手作りのお菓子を作ってくれる」
「小さいとき、家の人に絵本を読んでもらった」
「家の人に博物館や美術館に連れていってもらったことがある」
といった質問項目に、すべて「はい」と答えることができるような小・中学生であったなら、
それはつまり、あなた自身が、「寝っ転がって下らないバラエティばかり見ている父親」や、「面倒くさがってコンビニのスナックを 買い与えることしかしない母親」などには、決してならないように「努力する」親になる必要があるということでもあるのだが、
あなたのお子さんは、きっと、
「嫌いな科目の勉強でも頑張ってやる」
「家の人に言われなくても自分から進んで勉強する」
ような、これからの時代を生き抜いて行くのにふさわしい「学習能力」=「生きる力」をしっかりと身に付けた、 立派な大人になるに違いない。という、「身も蓋もない」ような調査結果を突きつけてくるこの本は、 「出身階層」という社会的条件の違いが、子どもたちの「(受験)学力」にもたらす決定的な格差を示してみせた。 つまり、『努力できる子』と『努力できない子』との間には、大きな格差が生まれてくるということなのであるが、
出身階層が下位の家庭では、「努力」と「結果」の間に明確な関係を認めることはできないという事実を、親が身を以て体験しているために、 「努力するだけ無駄だ」と「寝っ転がって下らないバラエティばかり」見ている、そんな人の背中を見て育つことになる子どもたちが、 「努力することへの動機づけ」を欠いた大人に育ってしまうのは当然というものではないか、ということなのだろうか。
いずれにしても、このまま放っておくならば、「学校時代に身に付けるべきこと」を身に付けないまま社会に出て、今度はフリーターなど 「職業に就いてからも十分な職業訓練の機会」を与えられることもない若者が、「大量に学校で作りだされ、社会に放り出されている」 というのが、現在の日本の教育の現状と「学力格差」をめぐる最大の課題になるだろうというのだった。
過去に修得した知識や技術よりも、学習能力が人的資本形成の中核になる。端的にいえば、学習能力が「資本」となる社会の登場であり、 「自ら学ぶ力」=「学習資本」と呼べるものの形成・蓄積・転換が、社会のあり方と人間形成に広く、深くかかわるようになる。・・・ つまり、「学習資本主義」とでも呼べる社会が出現し、学習能力とその成果である人的資本形成とが社会編成の要になる。
2012/9/3
「冥土めぐり」 鹿島田真希 文藝春秋
それは思えば奇妙な、奇跡のような出来事だった。三代にわたって築き上げられた、傲慢と浪費の茨の蔦が、奈津子に絡まり、 奈津子の魂を奪おうとしていた。それが、ある平凡な男の発作により、一掃された。
「お前はどんな男と一緒になっても幸せになれない。これでわかったか」と言われてでもいるかのような日々の暮らしに、 すっかり慣らされてしまっていたはずの奈津子が、
「二月、平日限り、区の保養所の宿泊割引一泊五千円」
という町内の掲示板のポスターに引きつけられて、八年前に脳の病に倒れ、四肢が不自由となってしまっていた夫の太一を、 そこへ連れて行こうと、児童館で子供と遊ぶパートをこなすことで、ようやく貯めた十万円を下ろす決心をしたのは、 そこが、奈津子が幼い時に両親と弟と四人で出かけた、<あの>高級リゾートホテルだったからだった。
私が幼い頃には、羽振りの良かった祖父が家族を連れてスイートに泊まり、祖母と15階にあるサロンでダンスを踊ったのだ、 という、まるで夢みるかのような母の思い出話を、うんざりするほど聞かされ続けた、<あの>海辺のホテル・・・
「そんな傲慢だったホテルにあんな安い値段で泊まれるのは、きっとなにか理由があるに違いない。」
太一は、果して哀れな男なのであろうか。彼は、発作を起こさなければ、奈津子の家族に身ぐるみはがされる運命にあった。 この男は、それを誰も思いつかない形で回避した。そして発作は寸分の間違いもない、絶妙なタイミングで起こったのだ。 まるで、初めから、そのタイミングを窺っていたかのように。
「自分たちはなにもしなくても与えられる側の人間だ」と、何の根拠もなくそう思う、元スチュワーデスとしての価値観を 娘にも押し付けようとしてくる母親と、
「家に金さえあれば、俺はいつだってすごい人間になれる」のにと、存在したはずの自分に憧れるばかりで、アルコール漬けの生活に 溺れてしまっている弟と。
「本当に辛いのは、死んだのに、成仏できない幽霊たちと過ごすことだ。もうとっくに、希望も未来もないのに、そのことに気づかない 人たちと長い時間過ごすということなのだ。」
と考えている奈津子にとって、この一泊二日の小旅行は、<借金苦で一家心中した家族が、死ぬ前の日にディズニーランドに行く> ようなものだった。
「そんなもの楽しいのだろうか?」
母と弟にまとわりつかれ、毟り取られる、<あんな生活>を通り過ぎてきた奈津子はもう知っていた。そんなものでも楽しめるのだ、 ということを。
本年度「芥川賞」受賞作品。
突然見舞われた脳の病や、自分の家族から受けた仕打ちについて、この一連の理不尽と矛盾について、夫はどうして何も語ろうとしない のだろうか。この「冥土のような記憶をめぐる旅」の終わりに、砂浜で腹を出して大の字になって眠っている太一を眺めているうちに、 奈津子は突然気付く。自分が<あんな生活>について、理不尽とか、矛盾とかいう言葉を使っていたことを、「そんな言い方したって、 わからないや」と言われそうだ、ということに。
「この人は特別な人なんだ。」
奈津子は、自分が家族から逃げ出すための、アイディアをなにも持ち合わせていなかった。太一はといえば、すべて受け入れるだけの お人よしな男で、たとえ、奈津子の家族に違和感を覚えて、搾取されていると知っても、なけなしのもの全てをあげてしまうだろう。 そんな二人に、脳性の発作が起きたのだ。これは、二人の人生そのものの発作でもあったのだ。
先頭へ
前ページに戻る