徒然読書日記201208
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2012/8/28
「アメリカの鱒釣り」 Rブローティガン 新潮文庫
『アメリカの鱒釣り』の表紙は、ある日の午後おそくに写された、サン・フランシスコのワシントン広場に立つ ベンジャミン・フランクリンの像の写真である。
(『アメリカの鱒釣り』の表紙)
と冒頭にあれば、誰だって、なるほど表紙があるくらいなんだから『アメリカの鱒釣り』というのは「本」(つまりこの「本」) のことなのだろうと思うわけだが、
家をでて、例の街角までやってきた。野原も、滝になって山から流れ落ちるクリークも、なんと美しかったことか。
ところが、近づいてみると、何かおかしい。クリークの様子がおかしい。すごくおかしい。動きが奇妙なのだ。やがてもっと近くまで行って、 その理由がわかった。
(木を叩いて その2)
「滝は木立の中の家に通じる白い階段だった。」という<わたし>の回想に、
「そういえば、わたしにもいちど同じようなことがあった。ヴァーモントでお婆さんを鱒のいる小川と見まちがえ、謝罪するはめになったのだ。」 と返事をよこす<アメリカの鱒釣り>とは、いったい何者なのだろうか。
「いやあ、失敬」とわたしはいった。「あなたを鱒の川と思ってしまって」
「人違いだよ」と、そのお婆さんはいったさ。
なんて、随分「お洒落な」会話だなと、うっとりできるような感性さえあれば、実は<そんなこと>などどうでもいいことのようなのである。
<アメリカの鱒釣り>が裕福な美食家で、<アメリカの鱒釣り>のガールフレンドがマリア・カラスで、この二人がきれいな蝋燭を立てた 大理石の食卓で食事をするなら、こんな料理こそふさわしい。
(胡桃ケチャップのいっぷう変わったつくりかた)
そして、<アメリカの鱒釣り>はいう。「月が出ましたよ」
すると、マリア・カラスが答えて、「そうね。」
なんて、なんだかゾクゾクしてくるような、素敵なムードではないか。
1967年、刊行と同時に世界中で200万部のベストセラーとなった本書により、一躍カウンターカルチャーの寵児となったブローティガン (84年にピストル自殺)は、この、時間的にも空間的にもつながりのない、独立したわずか47編の短い断片的物語によって、 あの村上春樹や、高橋源一郎の作家としての出発に、多大なる影響を与えることになったという作家なのだった。
2012/8/22
「その未来はどうなの?」 橋本治 集英社新書
「自分が明確だから、世の中のことなんかどうでもいい」と言える人は、自分を明確にするその前の段階で、 「世の中がどうなっているのか」という十分な学習をしてしまっているのです。そこで「分かった」と思うから、 「世の中のことなんか関係なく自分は自分」ということにもなるのですが、・・・
それは、充電式の電化製品と同じで、ちゃんと充電してあれば機能するけれど、機能すればその分電力が消費されて、いずれまた充電する必要が 生じてくる。
だから、「分かんない状況だらけだから、分かるしかないな。充電するしかないな」ということばかりの現在における最大の困難は、 その充電のための「電源」がどこにあるのかがよく分からないというところにあるのだ、
と免疫系の病気で入院生活を強いられた橋本さんは、やたら疲れて眠くなるなか、気力を振り絞って知力を機能させ、考えたらしいのである。
たとえば・・・テレビの未来はどうなのか?
なんてことは「分からない」けれど、テレビが地デジ化した結果、「テレビを必要としない人達」が出現してしまった、 ということだけは知っている。
「わざわざこちらから見に行く」、「たいしたもの」であるようなそれ以前の娯楽とはまるで違って、 テレビとは「勝手に向こうからやって来る」、「チャチで下らないもの」なのであり、 「だったら見なくていいや」という程度の、“暇潰し”や“いたずら”のようなものが“娯楽”として成り立ってしまう、 必然的に「いい加減」なものであるからだ。
「最近のテレビはおもしろくないねェ」なんていう人が増えようが、それでテレビがおもしろい方向に変わるなんてことは絶対にないのである。
なんてことを、いつものようにウダウダと考えることになったらしいのである。
ドラマ、出版、シャッター商店街、男と女、歴史、TPP以後、経済、そして民主主義の未来はどうなの?と。
「分からないことだらけ」は分かっていて、でも「なにがどう分からないのか」はっきりしていません。
でも、そんな場合には、「一つの大問題が様々のヴァリエーションを生んで、様々に分からなくなっている」ことが多いので、 「大きな全体を一つのものとして考える」と同時に、「大きな全体をいくつかに小分けにして考える」という、 方向の違う二つのことを交互にやらねばならないのであり、
「ある日突然分からないことが大挙して押し寄せてきた」というわけではなく、色々な要素が積み重なって「分からない」という事態が 出来上がってしまうわけだから、「どうしてこういうことになってしまったんだろう?」という過去への探り方も必要なのだという。
つまり、それさえ分かれば、もう「テレビの未来」など分からなくってもいいやと思えてしまうのが、この本の手柄なのである。
とりあえず私は、「○○の未来はどうなの?」と自問して、「分からない、知らない」と答えます。そしてその後に「でも――」という、 「分からないわけではない。知らないわけでもない、その“余り”みたいなものを付け加えます。そこを糸口にして、ダラダラと、 「なにがどう分からないんだろう?なんでこういう視界不良状態になっちゃったんだろう」と考えてみるのがこの本です。
2012/8/22
「ハーバード白熱日本史教室」 北川智子 新潮新書
クラスではここで、一般的に守護大名とその本妻は「ペア・ルーラー(夫婦統治者)」として考えられていたために、 女性も政治に介入できるというより介入せざるを得なかったのだ、という私のオリジナルの見解を紹介します。 これまではサムライが絶対でしたから、サムライとその妻を「ペア」として考えることはありませんでした。 しかし、史料に残されている夫婦関係は、詳しく読んでいくと、当時の認識では夫婦どちらもが尊敬の対象になる存在だったのです。
武士道を批判するのではなく、まずは武士道の陰に隠れてきた武士階級の女性の生き方にスポットライトを当てるところから始めて、女性を サムライ文化の一部として捉えることで、ついには、サムライで完結した日本史を超える日本史概論という「大きな物語」を描き出してみたい。
なんて、まともな日本史の学者であれば、ほとんど尻込みしてしまいそうな決意表明を、まことにあっけらかんと公言してしまえるのは、
福岡の高校からカナダの大学に留学し、そこで数学と生命科学を専攻していたはずが、日本語ができるという理由だけで日本史の教授の手伝いを したことが機縁となって、大学院では日本史を専攻することになり、あれよあれよといううちに、なぜか、あのサンデル教授と同じハーバード大学の 白熱教室の教壇に立つことになってしまったという、ほとんど冗談のような彼女の経歴によるところが大きいというべきなのだろうが、
この「Lady Samurai」と名付けられた講義が、ハーバードの秀才学生たちに熱狂的に受け入れられ、「ティーチング・アワード」を受賞し、 「思い出に残る教授」にも選出され、16人の受講生から始めて3年目の今年2012年の春学期には、ついに251人もの履修生を抱える 人気講義になっているなどと聞かされれば、
これはまことに驚くべき話・・・かといえば、全然そんな感じはしない。
自分とさほど年齢の変わらない(彼女は1980年生まれなのである)、うら若き日本の美人教師が、時には着物まで身にまとって、 まことにエキゾチックなオリエンタリズムの香りを振りまきながら、「レディ・サムライ」(それって何?)について講釈を語るというのだから、 私がハーバードの学生だったって、是非とも聴講してみたいと思ったに違いないのである。 (所詮、必修でも専門でもない、教養選択科目なんだから・・・)
もちろん、だからといって彼女が、自らをいわば「見世物」にすることで、世界有数の一流大学の名物講師になりおおせた、なんてことが あろうはずはない。
ティーチング・アワード受賞のインタビューで、「高得点を取る秘密は?」という問いに、「準備がすべて」と答えた彼女の、 もう一つの人気講義は「KYOTO」。
座っているだけの聴講スタイルを超える体験型の授業をする教授法「アクティブ・ラーニング」のスタイルをふんだんに取り入れたその講義は、 まずは自分なりの「京都の地図」を描き、16世紀にヨーロッパ人が見たであろう京都についてグループでプレゼンし・・・、 最後は、当時の京都に自分がタイムトラベルした体験を映画にしてしまおうという、その名も4D「KYOTO」。
先生が一方的に教えるのではなく、とりあつかう問題をはっきりさせ、それに対する最善の答えを学生に考えさせ、結論を引き出す。
う〜む、なるほど。
あのサンデル先生も真っ青のこのやり方で、彼女が教えようとしているのは、「日本史」なんかではなくて、実は「学び方」だったのである。
2012/8/21
「商店街はなぜ滅びるのか」―社会・政治・経済史から探る再生の道― 新雅史 光文社新書
二〇世紀前半に生じた最大の社会変動は、農民層の減少と都市人口の急増だった。都市流入者の多くは、雇用層ではなく、 「生業」と称される零細自営業に移り変わった。そのなかで多かったのが、資本をそれほど必要としない小売業であった。
物価の乱高下や粗悪品の流通の原因が、小売業者(その多くは、貧相な店舗や屋台あるいは、無店舗の行商だった)の秩序なき増加にある、 と考えていた都市住民たちは、自衛策として「協同組合」を結成し、「公設市場」を設置することになった。 さらに、「百貨店」という新しい小売業種も登場し、その存在感を示し始めてもいた。
零細規模の商売を営む人々の立場を弱め、貧困化させることは社会秩序の混乱につながることを恐れた、当時の日本の行政は、 零細小売商が抱えるこうした課題を克服するためには、
@百貨店における近代的な消費空間と娯楽性
A協同組合における協同主義
B公設市場における小売の公共性
という3つの要素を取り入れねばならないという、理念を掲げることになる。
つまり「商店街」とは、平安京の町割に由来するといわれる錦小路(京都)や、社寺の門前町としての浅草寺仲見世(東京)のように、 近代以前に遡ることのできる伝統的な存在なのではなくて、20世紀初頭の都市化と流動化に対して、「よき地域」を作り上げるための方策として、 「発明された」ものなのだというのだった。
零細小売店が個々バラバラではなく統一体となって、それぞれが専門店として質の良い商品を消費者に提供することで、その場所に行けば何でも 揃う空間を作ること。百貨店に対抗する「横のデパート」としての商店街は、その後、小売商業調整特別措置法、商店街振興組合法、 大規模小売店舗法など、様々な保護を受けることで、安定的に成長を続けることになった。
では、昭和前期に「発明」され、高度成長期に花開いた商店街が、今日のような終焉を迎えることになってしまったのは、いったいなぜなのか。
バブル崩壊以後の景気対策による地方の郊外化と郊外型ショッピングモールの乱立?
大規模小売店舗法緩和などの規制緩和が呼び水となったコンビニの跋扈?・・・いや、いや。
社会学では、近代以降の家族を「近代家族」と呼んで、それ以前の家族と分別している。この近代家族によって担われたことが、 商店街の凋落を決定づけた真の要因であるとわたしは考えている。
経営体としての疑似血縁組織「イエ」によって家業として営まれていた近世(江戸期)の商家は、自分たちの店を後世に残すという目的意識が きわめて強く、もし経営体の存続が危機になれば、「非親族的家成員」である奉公人が経営を引き継ぐことも決して珍しいことではなかったのに対し、 「家族の集団性の強化」、「社交の衰退」、「非親族の排除」という3つの特徴を有する「近代家族」によって担われている近代の小売商は、 子どもが跡を継がなければそのまま店をたたむ以外にない、近世の商家に比べてはるかに柔軟性のない組織となってしまったというのである。
それでもなお「商店街」の存続を願い、事業継続性の困難を克服するための施策を、膨大な資料の検討に基づき解き明かす。
これは、地域コミュニティの要となる「商店街」の再生に立ち向かおうとする人にとって必読の処方箋なのである。
つまり、日本の商店街は、地域のシンボルなどと喧伝される割には、家族という閉じたなかで事業がおこなわれ、 その結果、わずか一、二世代しか存続できないような代物だったのである。シニカルに見れば、実体としての近代家族が衰退しているなかで、 商店街だけが生き残るわけがない。
2012/8/16
「太陽は動かない」 吉田修一 幻冬舎
「私が今重要と考えているのは、日本を中心にアジアの情報を自分たちの手で集め、それをアメリカやヨーロッパに向けて発信する。 そのためのアジアネットワークを作ることです。地球は自転しているから、アジアの情報はNHKが、ヨーロッパのニュースはヨーロッパの放送局、 アメリカのニュースはアメリカの放送局が集め、毎日それぞれ8時間ずつ分担する。そうすれば24時間のワールドニュースが完成する。」
1990年12月、当時NHKの会長だった島桂次が打ち上げた壮大な『GNN構想』は、衛星放送打ち上げ失敗時に、ホテルである女性と一緒に いたという「内部情報」のリークによって、島自身が辞任に追い込まれることで白紙に戻った。
それから十年以上の歳月は流れて・・・
リゾート情報からファッション情報まで、アジアというキーワードさえあれば、どんなことでも記事にしてネット配信する日本の小さな通信社 「AN(アジアネット)通信」の記者・鷹野一彦の裏の素顔は、実際には、アジア各国の国家をも揺るがしかねない極秘情報を入手し、 いちばん高値を付ける相手先に流すことを業務とする、情報員だった。
『METは5日、中国国家化工集団との間で、次世代太陽光発電(宇宙太陽光発電)分野での業務提携で基本合意したと発表した。 元々宇宙太陽光発電計画は中国の総合エネルギー企業CNOXによって進められていたが、先月CNOX側からの収賄容疑で上海太和グループの 幹部たちが解任、党籍剥奪処分を受けたことにより、業務計画がそのままこの中国国家化工集団に引き継がれていた。 今回の提携でMETは京都大学で開発されたマイクロ波送信技術および、新型高性能太陽光パネルを提供し、4年後の実用化をめざす』
このわずか数行の新聞記事が、この物語のすべてであると言われれば、それはまったくその通りなのではあるが、それをこれほどの厚みを持った、 読み応え十分の物語に仕立て上げてみせたのは、
なるほど、あの
『悪人』
の 吉田修一の腕であるというよりは、
「AN通信」の背景に込められた、さらに大きな物語のなせる技であるように思うのである。
「・・・私がAN通信の存在を知った時・・・、AN通信がなにをやろうとしているか知った時、正直、怒りを感じました。 よくニュースや新聞でも親に虐待された子供たちのことを目にするでしょう?育児放棄で餓死した少年、体中に痣を残して死んだ少女、 もう珍しくもないニュースになっている。彼らの死を伝えるニュースを見て、一分でも、いや一秒だっていい、彼らの無念に寄り添って黙祷 してやる人が、この国にいますか?ニュースは垂れ流されるだけだ。番組が終われば、みんな彼らのことを忘れてしまう」
2012/8/9
「日露戦争 勝利のあとの誤算」 黒岩比佐子 文春新書
日比谷公園に来てみると、門はすべて封鎖され、数百人の警官隊がそれを守るという異様な光景が目の前にある。公園内に入れずに 閉め出された人々は警官隊とにらみ合い、次第に険悪な雰囲気になってきていた。開会の時刻が迫るにつれて、日比谷公園へと向かう市街電車は みな満員となり、電車から降りてくる人たちが次々に加わって、門の前はおびただしい数の人で埋めつくされた。この日、国民大会に集まった 群衆の数は、およそ三万人とされている。
「吾人は挙国一致必ず屈辱条約を破棄せんことを期す。吾人は我が出征軍が驀然奮進以て敵軍を粉砕せんことを熱望す」
「今日の事復た言ふに忍びざるなり。吾人は枢密顧問官諸氏が最後の一断を以て日露和約批准の拒絶を奏上し、 一大危急より救ひ出さんことを熱望す」
1905年9月5日。
一年前には、日露戦争の戦勝祝賀会場として大群衆で賑わった日比谷公園に、続々と詰めかけた人々は、 賠償金ゼロ、領土の割譲もなし、という不甲斐ない結果に終わったポーツマス講和会議の結果に憤りの声を上げた。
やがて、大暴動へと化した民衆の怒りは、都下いたるところで警官隊との衝突を繰り返し、都内交番の8割と市街電車15台の焼き打ち、 「御用新聞」への襲撃など、死者12名、負傷者500名以上という大事件へと発展する。
この検挙者約2000名にも及んだ、世に言う「日比谷焼打ち事件」の、その大半を占めたのは都市雑業層と呼ばれる下層階級の人々だったので、 文字もろくに知らず新聞などは読まない、日頃から警察などへの不満を抱いている人々が、交番や電車が燃えることに快感を覚えて暴れまわった のだろうと考えれば、一見わかりやすそうなのではあるが、
当事者の日記や著述、当時の新聞報道などを丹念に当たって、警察側と民衆側とではかなり食い違っている証言や目撃談なども丁寧に掘り下げて みせた著者の筆は、この騒擾事件の複雑な構図の裏に隠された、いまだに未解明の謎の存在へと迫っていくのである。
ニコポンとは、ニコニコして相手の肩をポンと叩き、親しげにふるまって懐柔するという意味で、一国の宰相のあだ名としては、 颯爽としたイメージからはほど遠い。そればかりか、桂は風貌の面でもさえない。背が低いわりに頭が大きく、 腹がふくれた様子が七福神の大黒天に似ていて、「大黒様」とか「巨頭公」と呼ばれていた。
「講和談判始末には、預而想像仕居候如く、随分騒敷、壮士政客等の挙動に付ては、左迄心配仕候事も無之候」
「此度の都下騒動は、実に意想の外にて、畢竟前知の不完全の致す処と、深く恐縮仕居候」
後継選びに窮した元老会議が、窮余の一策として指名した「ニコポン宰相」桂太郎は、皮肉なことに日露戦争という難局を切り抜けたことで、 伊藤博文でも、吉田茂でも、佐藤栄作でもない、現在までで首相だった期間がもっとも長い(2886日)、誰もが予想もしなかった長期政権を 維持することになるのだが、そんな桂が、元老トップの山形有朋に宛てて出した手紙を見れば、講和反対の騒動が起こることなどは とっくに織り込み済みで、むしろ、壮士政客と話を付けて、交番数か所に火を付けさせれば、ひと暴れした人々の溜飲も下がるだろうと、 自らが用意したシナリオをはるかに超えて、騒擾が拡大してしまったことが「意想の外」だったのではないかというのだった。
いずれにしても、桂のシナリオはこの後「戒厳令」から「新聞発行停止令」へと進み、言論統制の道をひた走ることになるのである。
2012/8/1
「論語入門」 井波律子 岩波新書
子曰く、位無きを患えず、立つ所以を患う。己を知る莫きを患えず、知らる可きを為すを求むる也。(里仁第四)
「地位のないことを気に病まず、地位にふさわしい実力がないことを気に病む。人が自分を認めてくれないことを気に病まず、 認められるようなことを成し遂げるよう心がける」。
魯の始祖でもあった周公旦を手本として、仁愛と礼法を中心とした節度ある社会の到来を目指そうとした孔子には、 そんな自らの理想を実践に移すことができるような、政治参加の機会はなかなか与えられなかった。
しかし、いかなる不遇のどん底にあろうとも、生来のユーモア感覚を失うことなく、まったく偉ぶることもなく、あるがままに弟子たちと 向き合おうとする孔子と、そんな偉大な師を深く敬愛しながら、けっして崇めたてまつることなく、率直に質問をふっかけていく、 顔回、子貢、子路らユニークで優秀な弟子たちとの、まことに希有な、他に類を見ないほど魅力的な対話の記録として、 この『論語』という書物があるのであれば、
それを、生きるよすがや指針を求めんがための、単なる教訓書として読むというのでは、あまりにももったいないのではないだろうか。
顔淵・季路侍す。子曰く、蓋ぞ各おの爾の志を言わざる。子路曰く、願わくは車馬衣裘、朋友と共にし、之れを敝りて憾み無からん。 顔淵曰く、願わくは善を伐ること無からん。労を施すこと無からん。子路曰く、願わくは子の志を聞かん。子曰く、老者は之れに安んじ、 朋友は之れを信じ、少者は之れを懐く。(公治長第五)
「どうだ、めいめい自分の理想を言ってごらん」という先生の問いかけに、
「馬車や上等の衣服や毛皮を友だちと共有し、それが傷んでも気に病まないようでありたい」と、貴重なものを共有できるような友人関係の 理想を熱っぽく語る子路と、
「善い事をしても自慢せず、嫌なことを他人に押し付けないようにしたい」と、こちらは優等生の解答を生真面目に答える顔淵に対し、
「老人からは安心して頼られ、友だちには信頼され、若い者から慕われというふうでありたい」というみずからの理想を率直に述べるのみで、 弟子を諭そうともしない孔子の言葉には、優秀な二人の弟子のそれぞれの個性的な生き方を、暖かく見守りながら、大きく育てていこうとする 愛が満ち溢れているように思われる。
子曰く、之れを如何、之れを如何と曰わざる者は、吾れは之れを如何ともする末きのみ。(衛霊公第十五)
「『どうしよう、どうしよう』と悩まない者を、私はどうしてやることもできない」とする孔子の教育方針は、弟子自身の問題意識や知への欲求を 最重視するものだったのだから、
子曰く、人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患うる也。(学而第一)
「自分が人から認められないことは気に病まず、自分が人を認めないことを気に病む」ように、受動的ではなく主体的な発想を持って 学び続けてさえいれば、
子曰く、徳は孤ならず。必ず鄰り有り。(里仁第四)
「徳を体得した者は孤独ではなく、必ず隣人がいる」ように、まっとうに誠実に生きてさえいれば、必ず認められ、友人や理解者も現われる に違いないという、これはもはや弟子への教えなどではなく、孔子自身が不遇なる自らに贈った「鼓舞」とでもいうべきものなのである。
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