徒然読書日記201207
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2012/7/26
「どん底」―部落差別自作自演事件― 高山文彦 小学館
部落のあなたが子どもを指導してくれますと/子どもたちに部落が伝ります。/子どもを体験活動に参加させたいのですが 参加させられません。/社会教育課を辞めて下さい。/役場を辞めて下さい。/(立花町子ども育成会)
福岡県旧立花町(平成22年八女市に合併)で役場の嘱託職員をしていた山岡一郎(仮名46歳)宛てに、突然そんな葉書が届けられたのは、 平成15年12月のことだった。それから5年近くにわたって、合計で44通の差別ハガキが、山岡本人はもとより、立花町長、学校長、 社会教育課長宛てにも、届き続けることになる。
<部落にクソあれ、あんたに不幸あれ>(平成17年3月)
<明けま死んで/おめでとう>(平成19年1月)
まるで愉快犯ででもあるかのように、次第にその表現がエスカレートしていくそのハガキは、山岡が生まれ育った被差別部落のムラの人たち だけでなく、人権同和教育に取り組んできた人たちの心をも挑発するものだった。山岡はハガキが届くたびに八女警察署に被害を訴えると同時に、 地元の筑後地方は言うに及ばず、遠くは和歌山、京都、東京まで足を運び、各種団体がひらく大小の研修会や学習会、集会に出席して、 涙を流しながら部落差別の被害の苦しみを語るようになる。
自らが部落民であることを隠すために、結婚を機に部落外から嫁いできた妻の姓を名乗ることで、家族を部落差別から守る道を選んだはずの山岡が、 今では、自分の顔と名前と、さらには守るべき家族までもをさらけ出すことで、反部落差別運動の中心で、あたかも悲劇のヒーローのごとく、 脚光を浴び始めることになったのである。
「私たちがうけた不安、怒り、悲しみ、悩み、苦しみ、そして、流した涙、なにひとつ解決していない。一生忘れられないつらい出来事・・・ だから、あなたを捜し出し、糺したい」(平成20年2月第二回学習会での発言)
平成21年7月、山岡一郎は逮捕された。
逮捕容疑は「偽計業務妨害罪」、長期間にわたって町行政を著しく混乱させ停滞させたという容疑である。 山岡は同じムラに暮らす部落民の職業を剥奪しようとする内容をしるした差別ハガキを、5年近くにわたって匿名で44通も出していたという。 そう、つまり彼は、読むに堪えないおぞましい言葉の数々を自分自身に向かって吐き続けてきたのだった。
懲役1年6ヶ月、執行猶予4年の判決が下った公判においては、この「差別ハガキ偽造」の行為の背景には「就労の不安」があり、 「差別事件を偽造すれば糾弾がおこなわれ、行政当局が継続雇用の要求を受け入れてくれる」という思惑が存在していたのだとされている。
しかし、どうやらそれは、単なる山岡個人の発想や体質の問題として片付けられるようなものだけでなく、「糾弾で行政に圧力をかけ、屈服させ、 自分たちの要求をのませる」という、同盟組織そのものにかつて蔓延っていた悪しき体質が、極端な形で噴き出してしまったもののようでも あるのだった。
幾度も「自分を支部長にしてくれ」と言ってきたことを考えると、山岡の目的は支部長になることでもあったのだろう。 そこから先はどう考えていたのかはわからないが、いずれにしても金銭がらみではないかと思われる。彼は差別ハガキを書きつづけ、 ムラや同盟をどん底におとしいれる。そして自分は支部長としてムラを守るヒーローを演じつづけ、引く手あまたの講演会や研修会に出ては講演し、 金を稼。それこそが彼の「自己実現」だったのだ。
2012/7/19
「重力とは何か」―アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る― 大栗博司 幻冬舎新書
私は、ときどき寂しい思いをします。たとえば子どもの学校の保護者会に顔を出したときなど、初対面の相手に「どんなお仕事を?」 と聞かれて「重力の研究をしています」と答えると、まず話が続かない。「重力についてはかねがね不思議に思っていました」などと言われれば 話したいことはいくらでもあるのですが、たいていはポカンとされておしまいです。
という、カリフォルニア工科大教授で、東京大学数物連携宇宙研究機構主任研究員でもある著者が、自分とは違う道に進み科学からは遠ざかっている ものの、好奇心は相変わらず旺盛で、筋道立てて説き起こせば必ず理解してくれる、そんな高校の同窓生に30年ぶりに再会して、 自分が大学で勉強し、大学院で研究を始め、今日まで考えてきたことを語るようなつもりで書いた本なので、たとえば、
重心が動かないためには、キャッチボールのときのように、光を放射した花子さんの質量が減り、光をキャッチした太郎さんの質量が増えていれば よいのです。花子さんは光の圧力を受けて動き出したので、その効果を相殺するためには、質量の変化が光の圧力に比例する必要があります。
と、無重力空間での太郎さんと花子さんのキャッチボールの話から始めて、質量のあるボールとは違って、質量を持たない光のキャッチボールでは、 エネルギーをやり取りすることで、質量が変化するのだと、
「質量保存の法則」と「エネルギー保存の法則」に、「作用・反作用の法則」の効果を勘案するだけで、アインシュタインの特殊相対性理論における あの世界一有名な方程式「E=mc^2」をまことにわかりやすく説明してのけてしまう。
このときには、太郎さんが先に電子を受け取るので、電子を受け取った太郎さんがまずマイナスに帯電します。その後で、電子を放った花子さん がプラスに帯電する。これはあたかも、プラスの電荷を持った粒子が、太郎さんから花子さんに移動したのと同じです。
と、今度は太郎さんが花子さんに向けて電子を放つ話から始めて、逆に未来の花子さんから過去の太郎さんに電子を放った場合を考えれば、 マイナスの電荷をもつ電子が過去に向かうということは、つまり、プラスの電荷を持つ粒子が未来に向かうことと同じなのだと、
量子力学と特殊相対論が融合してできた「場の量子論」における、「反粒子」の存在と「対消滅」「対生成」の概念、ファインマンの「経路和」 の理論まで、何となくわかったような気にさせてもくれるのだった。とはいえ、
「エレガントな宇宙」
Bグリーン
「ワープする宇宙」
Lランドール
「心は量子で語れるか」
Rペンローズ
「量子論で宇宙がわかる」
Mチャウン
などなど、「高校時代、物理がいちばん苦手」であったにもかかわらず、「好奇心は相変わらず旺盛」で、わからないなりに読みこなしてきた 身としては、量子力学と一般相対論を融合した「量子重力」の世界を記述する究極の統一理論、10次元(空間9次元+時間1次元)を取り扱う 「超弦理論」の、三次元空間の重力現象を、それがスクリーンに投影された二次元世界の現象としても理解できるとする、 「重力のホログラフィー原理」なんていうのが、その「読み応え」が、堪らなくて癖になりそうなのである。
私は本書の前半で、「重力は幻想である」という話をしました。アインシュタインの「最高のひらめき」から、観測の仕方を変えると重力は 「消す」ことができるとわかったのです。
しかし、このホログラフィー原理によると、幻想は重力だけではありません。私たちが暮らしているこの空間そのものが、ある種の「幻想」だ と言えるのです。
2012/7/18
「囚人のジレンマ」 Rパワーズ みすず書房
二人の男が別々の部屋に入れられる。彼らは無難な策を採ることもできるし、相手の動きに運命を委ねることもできる。 信頼の欠如が信頼の欠如を生む。出し抜かれるのでは、という恐怖が、落下と同じくらい取り返しようもなく花園に忍び込む。 これら最初の二人の選択が、四人に浸透していき、四人が八人に、八人が数十億人に浸透していく。
「最後の一歩はとてつもなく大きいんだ」とミッキーは説明する・・・
一堂に会すれば、つねに相手の先を読み、どちらがうまく相手の裏をかくことができるかを競いあうかのような、他愛もない口論を闘わせずには いられないのだけれど、それが実のところは、ちょっとしたことで壊れてしまいそうなお互いの関係を気遣いあう、まことに無器用な愛を形で 表すことでもある。
ホブソン一家の4人きょうだい(男、女、女、男)たちが、こんないささかやっかいな習い性を身につけることになってしまったのは、 さまざまなクイズやひねくれた警句を駆使して、世界や歴史の中での自分の位置を知ることが大事なのだと、つねに彼らきょうだいに 考えつづけることを強いてきた、愛すべき変わり物の父親の存在のせいだった。
高校の歴史教師だった、そんな父エディは、突然卒倒するという謎の病気を抱えながら、入院を勧める家族の懇願を拒否し、 架空の町「ホブズタウン」という自分だけの物語を、こっそりテープに吹き込む作業を続けていた。
というのが、「1」「2」という単純な章番号をつけられて3人称で語られていく、この物語の一応の主筋なのではあるが、 そこはそれ、あの
『舞踏会へ向かう三人の農夫』
の パワーズのことであれば、物語はそれほど簡単には進まない。
「なぞなぞ」などのフレーズを章題として、父親との過去の想い出を回想するかのように、主筋の間に散りばめられたこれらの物語を、 「僕」という一人称で語っているのは一体誰なのか?(たとえば、「僕」にはどうやら姉と弟がいるらしいのである。)
「1940−41年」など年号を章題として、第二次世界大戦中のアメリカの戦争を忠実になぞったかのように描かれる、もう一本の歴史物語では、 強制収容所に収容された膨大な数の日系アメリカ人(史実)を、ウォルト・ディズニーが救出しようとする。(もちろん創作)。 日系アメリカ人を総動員して製作された戦争映画『きみが戦争だ』に主演した少年エディに、ミッキーマウスはいったい何を語りかけようと していたのか。
この裏切りと協調のゲームに僕らを引き込むことで、父さんは現実の災難から僕らの目をそらしている。僕らのジレンマに父さんを取り組ませる には、僕らが父さんのジレンマに取り組まなきゃならない。父さんは一人ひとりのホブソンを、割りの合わないマトリックスの中にそれぞれ 閉じ込めてしまった。
一人ひとりのホブソンの人生が、まるで未来を回想するかのように、あらかじめテープに吹き込まれてしまっていたのだとしたら、 僕たちが、そのジレンマの檻を打ち破るためには、過去の物語に上書きするかのように、僕たちの物語を吹き込んでいかなくてはならない。
きょうだい4人、みんな一列になって。
つまりこれは、「家族の再生」の物語なのである。
なんていうのでは、おそらくそれは、あまりにも単純な解釈というものであるのに違いない。
ゼロからもう一度はじめよう。小さな世界を作ろう、ミニチュアのミニチュアを、そう、人口半ダースくらいの。それより大きなものは、 僕たちはすべて駄目にしてしまうのだから。何の変哲もない、普通の大きさの家族の日々の営みを模倣して、それでうまく行くかどうか やってみよう。ある六人家族。十五年前の夏、彼らは太平洋の岸辺で、そこそこに幸福な夏休みを過ごした。
2012/7/15
「百年の誤読」―海外文学編― 岡野宏文 豊崎由美 アスペクト
今回は駄作が少なくて哀しかったよ。僕ァ海外文学にもあるはずだと思うんだ。すごく売れたけどどうしようもない奴。 2000年が過ぎてからだと『ダ・ヴィンチ・コード』とかね・・・。やっつけたかったなあ、そういうの。
(『もう百年が過ぎたのか』―あとがき― 岡野宏文)
毎月5冊、2ヶ月で10年間をこなすペースで、100年間分で100冊の名作を読み継いで行く中で、 かつて読んだつもりになっていた作品を再読することが、新鮮な発見に満ちていたり、その逆もまた真だったりと・・・
そうこれは、20世紀の日本のベストセラーをバッサバッサと斬り捨ててみせた、あの抱腹絶倒の快著、
『百年の誤読』
の待望の続編、 「海外文学編」なのである。
さすがに海外文学ともなると傑作の宝庫で、彼らの鋭い舌鋒もいささか和らぎ、取り上げられた作品の、特に最近のものはどれも評価が高いため、 まだ読んでいない多くの本が、それほど面白いのならば、是非読んでみなければなるまいと、読書意欲をそそられることにもなったのだけれど。 どうぞ、ご心配なく。
岡野 「エミール君は大阪商人の息子だと思う(笑)。」
豊崎 「そーそー、いっそ大阪弁でしゃべらせてほしかった。<自分、ヴァイオリン習わせてくれるんちゃうの?>とかさ。」
岡野 「ドイツ文学の重鎮だったわけだけど、高橋健二さんの訳も今となっては古めかしいし、今どきの中学生にわざわざ読ませるほどの作品 じゃないよね。」
(『車輪の下』 ヘルマン・ヘッセ)
豊崎 「どこが叛逆ですの?」
岡野 「まずさ、家から出ないじゃん。一種の引きこもりでしょ。」
豊崎 「でも、楽しそうですよ。彼らにしたら楽園でしょ。」
岡野 「だから、そういう楽園を勝手に作る子供たちが、大人にとっては脅威だったんだよ。」
豊崎 「そっかぁ。でも、17歳や19歳をつかまえて<enfants>はないですよね。」
岡野 「enfants じゃなさにかけては小泉チルドレンの如し(笑)。」
(『恐るべき子供たち』 ジャン・コクトー)
岡野 「またその思い出し方が嫌味なの。指の間から砂を落としながら、<私はそれが時のように流れ過ぎて行くと自分に言い聞かせた。 それは安易な考えだ。安易なことを考えるのは快いと自分に言い聞かせた。夏だもの>。」
豊崎 「お前はチューブか、チューブなのかっ!?タイトルはもともとエリュアールの詩からとってるんでしょ。謝れっ、エリュアールに。」
岡野 「サガンってさ、現代だったらヌード写真集出してたね。」
(『悲しみよ こんにちは』 フランソワーズ・サガン)
今回も存分にやっつけてますってば、岡野さん。
読書とは更新だという言い方をする人がいます。わたしもそのとおりだと思います。小説は、読まれることで更新されていくのです。 たしかに小説のことは実作者にしかわからないのかもしれません。でも、小説はさまざまな人の“読み”によって豊かさを増していくのです。 作者が思ってもいなかったような読みが加えられることによって、自らを更新していくのが小説という“生きもの”なのだと、 わたしは信じています。
(『百年への船出にあたって』―まえがき― 豊崎由美)
2012/7/11
「田中角栄失脚」 塩田潮 文春新書
「まず、田中角栄氏と金の関係の大づかみな全体像を述べておこう。私たちの調査結果から、田中角栄氏には四つの側面があることが うかびあがってきた。政治家田中角栄、実業家田中角栄、資産家田中角栄、虚業家田中角栄の四つである」
(『田中角栄研究―その金脈と人脈』)
たとえば、なんの確証もないまま、軒並み絨毯爆撃のように新宿区の会社や土地の登記簿謄本を集めるといった、まさに砂漠の中から一本の針を 探し出すような作業により、すでに世の中に出ているにもかかわらず、誰も気付かないでいる情報を徹底的に収集し分析するという、 それ以前には誰もがまったく経験したことのない取材方法を取ったのは、
昭和49年7月の参院選の惨敗が引き金となった政変に、気前よく金をバラまくことで勝ちを収めた田中角栄の、その金権選挙の実態を、 すでに『週刊現代』に書いていた立花隆だった。
「角栄と金」の問題を、金配りという「出」の部分だけで終わらせることなく、せっかく集めたデータを、今度は金脈や資産形成など、 「入り」の部分から切ってみるのも面白いと考えたのである。
「東京都千代田区平河町の『砂防会館』は、建物自体これといった特徴はない。だが、一階入口に示された入居者の表示を見ると、 光と影が交錯しあう梁山泊。巷間伝えられる金権政治の、中枢機能がフロアーを占めている」
(『淋しき越山会の女王<もう一つの田中角栄論>』)
相手方の関係者に直接接触し、徹底的に取材して証言を得るという、ある意味で伝統的な取材手法を多用しながらも、事件と時代背景を多角的に 捉える冷徹な目と、真実探求への執念による丹念な調査により、従来の月刊誌の原稿の枠を突き破る新鮮さとパワーを生み出したのは、
昭和45年11月に、『女性自身』の編集長代理として、田中角栄が20年以上の付き合いの神楽坂芸者との間に認知した二人の男の子という事実と その経緯を記事にしようとし、つぶされた経験を持つ児玉隆也だった。
「角栄と女」という4年以上も温めてきたテーマを、今度は越山会の金庫番という女性にターゲットを替えて追及しようとした児玉の再挑戦は、 当然妨害、干渉、介入など有形無形の圧力を受けることになった。
児玉は(企画をつぶされた)1年3カ月後に光文社を退社し、フリーランスのライターとなった。田中内閣発足後の49年10月に発売された 月刊誌『文藝春秋』11月号で、評論家の立花隆とともに、特集「田中角栄研究」の一本である「淋しき越山会の女王<もう一つの田中角栄論>」 を執筆して、田中失脚の導火線の役割を果たすことになる人物である。
この、その性格も、取材のスタイルも、まったく異にする二人のフリーライターは、どうして同じ時期に、時の最高権力者・田中角栄を取材する ことになったのか。
田中の周辺では、いったいどの時点でこの取材の意味するところに気付き、どこからどのような手を施そうとして来たのか。
つまりこの本は、田中角栄という異色の政治家が、総理の椅子を勝ち取るまでの紆余曲折を背景としながら、日本ジャーナリズム史上に燦然と輝く 金字塔ともいうべき「田中角栄研究」という、原稿用紙で172枚、取材費わずか500万円の二本の記事が、ついには、時の最高権力者を 追いつめるに至った経緯を、「今だから話せる」関係者たちの赤裸々な証言を集めて跡付けてみせようとしたものなのである。
「田中も私も、記事が出たとき、こんなことで内閣がつぶれるなんて、全然思わなかった。」と越山会の女王こと、佐藤昭は周囲の人たちに 漏らしていたそうなのだが、本当にそんなことになろうとは、実は書いた当人たちすらも、思ってもいなかったのではないだろうか。
2012/7/5
「『ニート』って言うな!」 本田由紀 内藤朝雄 後藤和智 光文社新書
「ニート」は、若者全般に対する違和感や不安をおどろおどろしく煽り立てるための、格好の言葉として用いられる。 「ニート」はやがて、本来の定義を離れてあらゆる「駄目なもの」を象徴する言葉として社会に蔓延する。
「NEET」 "Not in Education, Employment or Trading"
(就業もしておらず、教育や職業訓練も受けていない)
16〜18歳のごく若い年齢層に向けて使用される、このイギリス生まれの言葉が、2004年に日本に上陸するや、「親の金で悠々自適に過ごし、 自立しようとしない、甘えた人間」といったイメージで語られるような、「今時の困った若者」(なぜか15〜34歳に年齢層も広げて)が抱える 問題点を示す言葉として、瞬くうちに市民権を獲得してしまったのだが、
そのような誤った「ニート」言説がまかり通ってしまったせいで、若年雇用問題に対する冷静で客観的な現状分析と、真に有効な対策の構想が 立ち遅れてしまっている。という強い危機意識を共有する三人の執筆者が書いた、これは憂うべき現状に対する異議申し立てと、 それに変わる新しい社会構想への指針を示した本なのである。
たとえば「ニート」というレッテルを貼り付けることで、若者全般にネガティブな意味づけを与えてしまう、「青少年ネガティブ・キャンペーン」 とも呼ぶべき大衆の憎悪が産出される背景には、どのような社会構造の欠陥があるのかをあぶり出そうとした、内藤担当の第2部。
週刊誌、新聞の投書、月刊誌等、各種マスコミに登場した個別の「ニート」論を取り上げて、我が国においていかに「ニート」が歪んだ意味で 受容されているかを細かく検証した、後藤担当の第3部。
しかしなんといっても、この本の手柄は、
「ニート」についての調査データに基づきながら、「ニート」言説と「ニート」と定義される若者たちの実像との乖離を指摘し、 「ニート」という概念がいかに不適切なものであるかを示してみせた、本田担当の第1部にこそあると言わねばならない。
15〜34歳までの、学生・既婚者を除く「無業者」(仕事に就いていない人)に関する厚労省統計の分析によれば、「ニート」に当たる、 具体的な求職行動をとっていない人たちは、
「非求職型」=働きたいが、今は仕事を探していない
「非希望型」=働きたいという気持ちがない
の二つのタイプに分けられ、今急増して大問題となっているのは、「非求職型」の方だけなのだという。
つまり「働く気がない」という、私たちが思い描きがちな「ニート像」の若者は、実はいつの時代にだって一定の割合で存在していたのであり、 現在の雇用情勢の中では、「働かないのではなく働けない」若者が急増しているという、「フリーター」問題と共通の問題認識の中でこそ、 「ニート」問題は捉えられねばならないのだった。
この本以後、まだ「ニート」という言葉で現状を語りたい者がいるとすれば、本書の掲げた論点にきっちりと反駁した上でそうしない限り、 嘲笑の対象としかならないことを覚悟しなければならない。再び念を押しておこう。「ニート」って言うな!
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