徒然読書日記201206
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2012/6/28
「コンニャク屋漂流記」 星野博美 文藝春秋
だいたい石持の煮つけには細かい骨が多すぎるのだ。私や姉は何度も小骨を呑み込んでは喉に突き刺し、泣きわめく羽目になった。 幼い私たちは、いつも体のどこかに何かを突き刺していた。喉には魚の小骨が突き刺さり、父が工場から知らず知らずのうちに運んでくる 金属の破片が手足の指に突き刺さる。喉には骨、指にはトゲ。わが家の食卓には、不測の事態に備え、懐中電灯とトゲ抜きが常備されていた。
五反田近くの戸越銀座で、「ネジキリ」(バルブコック製造業)の町工場を営む著者の生家では、毎日食卓の中央に 「石持の煮つけ」が鎮座していた。それが、「格好よし、きっぷよし、面倒見よし」で、孫の目から見ても若い頃は さぞもてたことだろうと思わせた、家父長・星野量太郎の大好物だったからである。
大正5年(1916)10月19日、13歳で芝白金三光町のバルブ加工場に丁稚奉公に入った時、量太郎はその前日に地元でおじいさんと 一緒に釣った石持24匹を手土産にした。それはおそらく、たとえ煮つけにするしかないような雑魚であろうとも、その大切さをわかり、 喜んでくれる人たちが、肩寄せ合って生きている、そんな場所を頼って上京したからだった。
ところは千葉は房総、御宿の岩和田という漁師町。漁師の血を受け継ぐわが家の屋号を「コンニャク屋」という。これを読んでいる人はまず、 なぜ漁師の屋号が「コンニャク屋」なのか、不思議に思うだろう。その疑問は正しい。しかしおかしなことに、私は最近までこの点にまったく 疑問を持たなかった。おそらく、一族の誰もが、だ。「理由はわからないが、コンニャク屋と呼ばれる漁師だったのだ。それでいいのだ」。 そんな感覚があった。
昭和49年(1974)、71歳でその生涯をとじた祖父は、亡くなる直前に自伝ともいうべき手記を残していた。 「コンニャク屋」一族の多くが鬼籍に入り、残された者の多くも70歳以上となってしまったいま、もう一刻の猶予もゆるされないと決意した、 つまりこの本は、そんな著者が自分のルーツを知るために始めた、長い旅の記録なのである。
「目つぶって拝んでんの。頭コンクリに当てねえで助かって、ね。これもみんなおめえら<先祖の者>が守ってくれっからだお。 守る人ば守らねばおいねえ<いけない>から、その分、人ば生きねばおいねえ。毎日。文句いえねえよ」
毎朝、量太郎を含む9人の親族を拝むのを日課にしている、岩和田に残る「コンニャク屋」の長老「かんちゃん」は、御年90歳の一人暮らしだ。 「笑い」を重視する「コンニャク屋」の伝統を代表するかのように、サービス精神が旺盛で、泣いたり笑ったりの感情が忙しい彼女が、 何らかの理由で漁で食えなくなり、商売を替えて「おでん」をやってコンニャクを売っていたからだという、 屋号の由来めいたものと同時に語り出したのは、
「どっちが兄貴でどっちが弟かもわかんねえんだけども、その兄弟が紀州から出て来て、ここで分かれてうち建てたんだって。 で、海行って魚獲るの覚えて、舟の仕事始めたんだって」
400年以上も前に、『コンニャク屋』と『きゅうじどん』という二人の兄弟が、紀州から東国の外房へ渡ってきたという、神話的ドラマのような お話だった。関西漁民の房総への移動は、移住ではなくて出稼ぎであった。干鰯や〆粕といった肥料に加工するための鰯を追いかけたのである。
「鰯とるまで帰って来んな!」と紀州の浜から送り出され、涙を拭いながら櫓をこぐ水手の中に、まだ幼さの残る二人の兄弟がいた。 二人は新天地の岩和田で毎日鰯を獲り、粗末な仮小屋で暮らしていたが、ある日父親のように慕っていた船長が死に、紀州へ帰る術を失ってしまう。 岩和田に残ることを決意した二人は、いつしか村の娘と暮らすようになり、向い合せに家を建て・・・
もちろん、これは著者の妄想の産物なのではあるが、房総と紀州の両半島に足を運び、普通に暮らす人々から丹念に訊きこんだ話を聞かされた 身としては、それはもはや私家版風土記ともいうべき伝承にも思われてくるのだった。
「どうしてこんな端っこにあるんだい?」
「だってきらいなんだもん。こんなの、あっちいっちゃえ」
ある日、他の皿や茶碗でバリケードを築き、石持が見えないようにしてしまった著者を見て、祖父は何とも言えない表情をした。 それからほどなくして、石持はいつの間にかわが家の食卓から姿を消したのだそうだ。
なぜ死期の迫った祖父が手記を残そうとしたのか。いとおしい思い出のたくさんつまった、漁師たちのつつましい生活を、 なぜ書き残さねばならないと思ったのか。誰に向かって書き残そうとしたのか。
石持を食べられなくなったばちあたりな私に向けて、祖父は書いたのではないだろうか?
この手記を祖父に書かせた張本人は、おそらくこの私なのである。
2012/6/28
「ヨーロッパ思想入門」 岩田靖夫 岩波ジュニア新書
ヨーロッパ思想は二つの礎石の上に立っている。ギリシアの思想とヘブライの信仰である。この二つの礎石があらゆるヨーロッパ思想の 源泉であり、2000年にわたって華麗な展開を遂げるヨーロッパの哲学は、これら二つの源泉の、あるいは深化発展であり、 あるいはそれらに対する反逆であり、あるいはさまざまな形態におけるそれらの化合変容である。
「人間は本来みな自由な存在者であり、そのかぎりにおいて平等である」という自覚に立って「デモクラシー」の理想を創造した「ギリシア思想」は また、「変転する多彩な現象世界の底に、それらを統括している恒常的な法則や秩序を見透そう」とする「理性主義」の姿勢によって、哲学、科学、 数学を生み出したという意味でも、世界を法則と理念の支配する秩序の世界として把握するヨーロッパ思想の源泉というべきものだった。
「あらゆる人間の営みは善を追及する」(『ニコマコス倫理学』)
ソクラテスからプラトンへと受け継がれた思索の流れを、「倫理徳の実現」という「幸福観」にまとめ上げたアリストテレスにおいて、 そんなギリシア哲学はその創造力の頂点に達することになるのだが、それ以降は、禁欲主義(ストア学派)、快楽主義(エピクロス学派)、 神秘主義(新プラトン主義)など、思わぬ袋小路にさまよいこんで、迷走を始めてしまった。
一方、「唯一の超越的な神が天地万物の創造主である」とした「ヘブライの信仰」は、アニミズムを否定し魔神的な力を放逐することで、 自然科学を成立させる精神的背景を準備することになったのだが、この、神が「己の似姿」として人間を創造したという考え方は、 「愛をうける者」としての人間の「かけがえのなさ」を保証するものでもあった。
「もはや生きているのは私ではなく、私のうちでキリストが生きている」(『ガラテア』)
代表的なパリサイ人としてキリスト教徒迫害者であったはずのパウロは、イエスの「贖いの死」に出会ったことで、ユダヤ人の伝統と律法主義の檻を 破り、愛と赦しの世界へと新生を果たした。これによって、貧しい大工の息子にすぎなかったイエスの、キリストとしての教えは、 世界宗教への第一歩を踏み出すことになったのである。
アリストテレスの没後300年を経てようやく、勃興したキリスト教の信仰という新しい息吹と遭遇することで、ギリシア哲学はヨーロッパ思想の 本道へと、回帰する活力を得たことになるが、
「われわれはわれわれ自身のうちに神の似像を発見する」(『神の国』)
認識する者と認識されるものとが分離していない「自己認識」という構造の中に、自分が存在することが絶対的真であることを確立して見せた、 古代ローマ帝国における思索の巨人・アウグスティヌスが、以後のキリスト教神学の基礎を据えるには、 さらに400年の月日を要したことになる。そして・・・
「精神としての自我の存在」という絶対にゆるぎえない真理を確立した、近世哲学の父・デカルトの「理性主義」。理論理性による形而上学を否定し、 実践理性による形而上学を再建することで、理性主義と経験主義を合流させて、近代哲学の原型を成立させた神の子・カント。
「人間が存在(Sein)の現れる場所(Da)である」という意味で、人間に「現存在(Dasein)」という奇妙な術語を与えた、 実存主義の巨星・ハイデガーは、ギリシアに哲学が誕生して以来、ヨーロッパ哲学の背骨を形成してきた最も根源的な問い、 そんな「存在への問い」に生涯をかけて取り組み、世界は人間とは無関係に客観的にそこにあるものではなく、 人間の了解が己の周囲にはりめぐらせた意味連関の全体性こそが世界なのだという「答え」を出してみせた。のだが・・・
これらはみんな、ギリシアの思想とヘブライの信仰という二つの基調音をめぐって展開された、2000年に及ぶヨーロッパ哲学の、 絢爛たるシンフォニーから取り出された、変奏曲の数々の「ささやかな数節」にすぎないというのであった。
しかし、どうしてこれが「ジュニア」向けの入門書なのか、というのが、この読み応え十分の本の読後最大の疑問となった。
2012/6/19
「漢文の素養」―誰が日本文化をつくったのか?― 加藤徹 光文社新書
漢字文化圏のなかで、いまも漢字を大々的に使っているのは、中国圏と日本だけである。
朝鮮語やベトナム語は、いまも漢語に由来する語彙を大量に使っているが、ハングルやラテン文字で書き、漢字はほとんど使わない。 朝鮮半島やベトナムの人々が漢字を中国の文字として認識していることが、漢字離れの一要因となっている。
「なぜ日本人は、漢字や漢語を、外国のものと認識しないのか。」
景初2年(238)、「邪馬壹国」からはるばる中国にわたり魏の皇帝に朝貢した使節団を、派遣した倭の女王の名前は「卑弥呼」だった。
これを三世紀の中国漢字音で読めば「ピエ・ミエ・フォ」、仮に万葉仮名の読みをあてはめても「ぴみを(pimiwo)」。 いずれにしても、彼女の呼び名が現代日本語の漢字音「ヒミコ(himiko)」でなかったことは確実なのだという。 そもそも、自らの呼称に「卑」「邪」「倭」などという、悪いイメージを持つ「卑字」を用いることは避けるであろうということから、 これらは中国人があてた「他称」であると思われ、「卑弥呼は漢字の読み書きができなかった」ことを示しているというのだった。
つまり、遅くとも二千年前までには、すでに日本列島に漢字を書いたモノは流布してはいたのだが、古代ヤマト民族は、漢字を文字ではなく、 それを所有している権力者の威信を高めるようなものとして、認識していたらしいのである。こうした状況がガラリと一変し、 漢字や漢文が日本人の精神世界に大きな影響を及ぼすようになったのは、6世紀に「仏教」が伝来してからだった。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」
大業3年(607)、小野妹子を遣隋使として派遣し、自分と対等であるかのような口をきいて、随の第二代皇帝・煬帝を激怒させたのは 「聖徳太子」である。
日本人が漢文を読む方法には、音読と訓読の二つがあるが、もちろん聖徳太子が公布した「十七条憲法」などは、訓点の書き込みなどない 堂々たる純正漢文で書かれている。では、「聖徳太子は漢文をお経のように音読していた」のだろうか?「有らず」と「非ず」の混同など、 若干の「和臭」が散見されるところを見ると、どうやら聖徳太子は、音読と訓読の両方を行っていた可能性が高いらしい。いずれにせよ、 日本は聖徳太子のころから、語り部が口頭で伝えてきていた歴史を文字で書くという、本格的な有史時代に入ったわけなのである。
もちろん、純正漢文の読み書きができたのは、上流知識階級である公家や寺家、学者のみであり、下層階級は無筆のままだった。 中世にはいって、公家・寺家と並び立つ権門としてのし上がってきた、中流実務階級としての武家でさえも、日本語風に崩した変体漢文 「候文」を常用していたにすぎない。実は本家・中国においても事情は同じで、純正漢文のリテラシー能力を独占した上流知識階級たる 「士大夫階級」(科挙試験合格者)が、早々と階級闘争の覇者となり、そのまま近代を迎えることになる。
さて、林羅山などの儒学者を重用し、儒学の一派である「朱子学」を幕府の官学とする道を開いたのは「徳川家康」である。
大義名分を重んずる朱子学を学ばせることで、下剋上が習い性の武士たちを、主君に絶対忠誠を尽くす「日本版士大夫階級」に思想改造すること。 家康の政権のみが264年間も存続できたのは、彼がそんな「漢文の力」を実感し、見事に利用したことにその秘訣があったことになるが、 むしろ、中流実務階級としての武家が、江戸時代に「漢文の素養」を身につけたことこそが、 東アジアの中で日本だけがいちはやく近代化に成功した主因である。
というのが、「漢文」を切り口とした壮大な歴史ドラマを語って見せた、この著者の主張なのだった。
過去の文明国は、どれも全国民必読の「数冊の本」を持っていた。(中略)
幕末の日本では『論語』や『日本外史』などの漢籍がそうであった。杉田定一の回顧にもあるとおり、農民でさえ「数冊の本」を学びたがった。 その時代の「教養」とは、「数冊の本が読めること」であった。読書は趣味ではなく、社会を作るという大事業に参加するための力であった。
ふりかえると、いまのわれわれは、そのような「数冊の本」をもっていない。
2012/6/15
「独立国家のつくりかた」 坂口恭平 講談社現代新書
それを僕は「一つ屋根の下の都市」と名付けた。家だけが居住空間なのではなく、彼が毎日を過ごす都市空間のすべてが、 彼の頭の中でだけは大きな家なのだと。同じモノを見ていても、視点の角度を変えるだけでまったく別の意味を持つようになる。 彼の家、生活の仕方、都市の捉え方には無数のレイヤー(層)が存在していたのだ。
晴れの日には隣の隅田公園で本を読む、そこはトイレも水道も使い放題だし、食事は近くのスーパーで掃除をしたついでに肉や野菜を もらえるのだから、「家は寝室ぐらいの大きさで十分だ」と答えた鈴木さんが暮らす、畳一枚より40センチ長いだけの空間を ブルーシートで覆った隅田川の家は、屋根に小型のソーラーパネルを載せたオール電化住宅だった。
人の家に家賃無料で転がり込みながら、拾ってきた電化製品を動かす電気はバッテリー、水は公園から汲んでくる生活を謳歌することで、 「おもしろいことはお金がかからない」という哲学を実践している佐々木さんは、ゴミ袋から金やプラチナを探し出して、 毎月50万円相当もを獲得している、浅草界隈では有名な貴金属拾いだった。
我々にとっては「ただのゴミ」にすぎない、都市に捨てられた余剰物に、「都市の幸(さち)」という価値を再発見する 「都市型狩猟採集生活」の発見。
早大建築学科の石山修武研究室に学び、2004年に『0円ハウス』という写真集(卒業論文)を出版して脚光を浴びた著者が、 彼ら「路上生活者」たちの、ある意味でとても充足した生活を俯瞰する中から学んだのは、 「佐々木さんみたいな生活はありえない」と思いこみ、なんで「生活にお金がかかる」と思っているのかを考えようともせず、 暮らしにこれだけお金がかかるからという理由だけで、「やりたくもない仕事」をし続けている、 そんな我々の方が、頭がいかれてしまっているのではないかということだった。
「ちゃんと共同体として集まって協力しあえば、生活費が0円で済む生活なんて簡単にできてしまうのではないか?」
そんなわけで、2011年5月10日に「新政府」を設立し、「初代内閣総理大臣」に就任。 首相官邸は、熊本市内にある築80年の1戸建て(敷地面積200u、家賃3万円)「ゼロセンター」で、東日本全域から死の灰を逃れてくる 人たちを、宿泊費0円で受け入れる「避難所」を兼ねるという、その「国家」の活動は、まさに「ゼロ」から開始されたわけなのだが・・・
首都は銀座4丁目で見つけた所有者不明の土地。国会議事堂は趣旨に賛同してくれた東京ミッドタウン内。領土面積は全国各地から余っているので 使ってほしいと提供された1426u。人口は、誰もが何らかの使命を背負うことを承諾し、新政府の大臣として参画している12000人。 (第1号は文部大臣に就任した中沢新一)
つまりこの本は、国家が危機に瀕していることを知っていながら、今の政府が何もしようとしないのであれば、そんな「無政府状態」は 打破しなければなるまいと、「自殺者をゼロにするために全力を尽くす」ことを国是に掲げ、たった一人で独立国家を作ってしまった男の、 その考え方の道筋を辿ったマニフェストのようなものなのである。
人々は自らの才能を社会に対して贈与するために、労働から少しずつ離れようと試みる。0円特区はそのための一つの装置となる。 家の在り方を考えることが、すなわち経済であると実感できるようになる。そして、自らの新しい経済をつくるという行為を始める。
それは貨幣との交換ではない、それぞれの才能の交易によって形作られる新しい共同体だ。
2012/6/14
「ショージとタカオ」 井手洋子 文藝春秋
二人は、見かけはおじさんだが、気持ちは私より年下の世間知らずの青年のように、まっすぐ率直だった。それもまた29年間もの世間との 隔たりゆえだろうが、肉体と精神がアンバランスなのに、二人ともどこかでうまくバランスをとる、たくましさがあるみたいだった。
彼らと初めて会った時(1996年)、1946年8月に茨城県北相馬郡利根町に生まれ、一人っ子として可愛がられながら、中学二年のときの 友だちの影響で不良になったという、大きな体で窮屈そうに座る「タカオちゃん」は、やせて頬がこけ、目がギョロついていて、見るからに怖かった。 1947年1月に栃木県の母の実家で生まれ、利根町で育ち、母親を苦労させた遊び人の父に反発してグレたという、一方の「ショージ君」は小柄で、 見るからに気さくそうな雰囲気だった。しかし、このある意味どこにでもいそうな、当時50歳の、同級生の凸凹コンビは、 決して普通のおじさんたちなどではなかった。
北相馬郡利根町布川××××、大工T・Sさん(62)が殺された事件は17日夜から18日朝にかけて取手署に別件の盗みと暴力行為の疑いで つかまった同町中田切×××、無職桜井昌司(20)同町大房×××の×、杉山卓男(21)の二人が犯行を全面的に自供、事件は51日ぶりに 急転解決した。二人は中学時代からの友だちで取り調べに涙を流しながら「競輪の金に困ってやった。申しわけないことをした」とすっかり観念した 様子で犯行手口や逃走後の足どりを自供した。(讀賣新聞茨城版1967年10月19日)
別件で逮捕され、嘘の自白を強要され、事件当夜のアリバイの主張を取り上げられることもなく、世に言う「布川事件」で無期懲役の判決を受け、 あれよあれよといううちに、結局29年間を塀の中で過ごすことになった。「ショージ君」と「タカオちゃん」の二人が、仮釈放されてから、 ついに無罪判決を勝ち取るまでの「めげない闘い」を、手持ちのビデオカメラで追い続けた映像ディレクターの、これは、たどたどしくもたくましい 15年間の「等身大」のドキュメンタリー記録なのである。 (なお、自主製作映画の方は、すでに文化庁映画賞文化記録映画大賞など、数々の映画賞を受賞している。)
「あんなにスカートが短くて大丈夫か?」
限定付きだがテレビも見ることができるから、当時流行っていたルーズソックスも知ってはいたが、街で実際に女子高生を見て衝撃を受け、 すれ違いざまにポツリと漏らしてしまった「タカオちゃん」。
「こんなに持ったことないでしょ。貯金しなきゃと思って」
出所の際、刑務作業の労働報酬で得たという百万円の札束を、裸のままスーツの内ポケットから取り出して見せてくれた「ショージ君」は、 まるで紙でも持っているかのように、お金というものへの実感が乏しいようだった。
二人が失ってしまった29年間を、取り戻すために費やしたこの15年という月日は、果たして長かったのか、それともむしろ短かったのか。 その答えが出るのは、おそらくこれからなのだろう。
2011年5月24日
布川事件再審裁判の判決が出た
ショージとタカオは無罪
しかし警察 検察 裁判所は
二人に謝罪していない
自画自賛だが、いいラストになった。一般的な映像の作法だと、シーンの終わりとか映画全体の終わりは、フェードアウトといって、 映像を次第に暗くして消していく。その方が気持ちがいいのだが、私はショージ君の歩く後ろ姿の映像を、フェードアウトせずにカットアウト つまりいきなり黒い画面にした。歯切れのいい二人だから歯切れよく終わりたかった。しかも再審開始を待っているときであり、二人の人生は、 終わりではなくまだこれからだ。
2012/6/13
「『葉隠』の叡智」 小池喜明 講談社現代新書
恋の至極は忍ぶ恋と見立て申し候。逢ふてからは、恋のたけがひくし、一生忍びて思ひ死するこそ、恋の本意なれ。歌に、
恋死なん後の煙にそれとしれ
つひにもらさぬ中のおもひを
是れこそ長け高き恋なれ。
『武士道と云は、死ぬ事と見付けたり。』
<主君のために死ぬことこそが武士の本義である>と武骨に語っていた(いや、いたはずの)作者、山本常朝がその同じ『葉隠』の中で、 <「忍ぶ恋」(永遠の片思い)こそが至高の恋である>と真剣に説いていたなんてことを初めて耳にすれば、「武士道」と「恋心」の間に 一体何の関係があるのだろうと、誰もがいぶかしく感じるにちがいない。もっとも、ここでいう「恋」とは「衆道」(男色)のことが中心なので、 どちらも「道」の話ではあるのだが・・・
時代の風といふ者は、替られぬ事也。・・・今の世を百年も以前の能き風に成したしとしても成らざる事也。然れば、其の時代々々にて 能き様にするが肝要也。昔風をしたひし人に誤りあるは、此の所合点これなきゆゑ也。
常朝が佐賀藩二代藩主・鍋島光茂の「御側」(個人的雑用係)を勤めていたのは、花の「元禄時代」(おおむね1650〜1700ころ)。 それは「如睦」泰平の治世となってはや百年、「甲冑」の戦国期もすでに遠くすぎ去り、「武士道」というものが最も形骸化しようとしていた時代 だった。(あの「忠臣蔵」の時代背景である。)
「武篇」の誉れを重んじる初代藩主・祖父勝茂からの叱責と、昔からの譜代家臣団の批判を浴びながらも、「江戸御育立」で、文人趣味、歌道好き の若い藩主・光茂が、あえて「文治政策」へと舵を切ろうとしたのは、槍一筋で天下に名を揚げることのできた「御先祖様方」の「乱世」を 望むべくもない、天下泰平の「御治世」を生きねばならぬ我が身としては、せめて歌道で「古今伝授」を得て日本一の名を揚げようという、 藩主としての「意地」からだった。そんな時代の潮流に乗ろうとした光茂による、佐賀藩政の文治化は、やがて幕府はおろか全国に先駆けて 「追腹禁止令」を発布させることになる。
武士道は死狂ひ也。一人の殺害を数十人して仕かぬるもの也。直茂(藩祖)公も仰せられ候。本気にては大業はならず。気違いに成りて死狂ひ するまで也。又武道に於ゐて分別出来れば、早おくるる也。忠も孝も入らず、士道におゐては死狂ひ也。
主君よりも組織よりも、まずみずからの名と恥のために「死狂ひ」するという、「分別」無用の「武士道」を、合戦での戦死の機会もなく、 追い腹も禁じられている泰平の治世において、成立させるための方策。
それこそが、主君への「思ひ死」を説いた、常朝の「忍ぶ恋」のススメだったのである。
日本文化史上における山本常朝、あるいは『葉隠』の特色は、この点にこそある。すなわち、「死狂ひ」のパトスは温存しつつ、 「忠も孝も入らず」という戦国以来の「無分別」の「武士道」を「忠孝のために身命をなげう」つ「分別」の「奉公人」道へと鋳直し、 武士階級における倫理的空白状態を解消せんとした、という点にである。
2012/6/6
「食の終焉」 Pロバーツ ダイヤモンド社
人間は食料生産を増やす方法を見つけることにかけては驚くほど賢く、食料が不足すればするほど賢くなっていったが、 マルサスはこの世から飢えがなくなることはないと考えた。なぜならば、食料供給が増えるとその分人口が増え、増えた人口は常に食料供給量を 上回るため、人類を飢餓と争いに陥れ、貧困が再び次の生産性増加を誘発し、それがまた人口急増を引き起こすからだった。
ゆえに「人類は破滅する運命にある」。という、悲観的な予想を打ち立てたのが、キリスト教会牧師から経済学者に転身したトーマス・マルサスの 『人口論』(1798)だった。
しかしマルサスが示したその限界を乗り越えて、わたしたち人類に「有り余る豊かさの時代」を謳歌することを可能にさせてくれたのは、 ヨーロッパという飢えの中心地と、遠く離れたオーストラリア、アルゼンチン、アメリカのような、土地が有り余っていて人口が少なく、 食料生産システムの転換途上にあった供給者とをつなぎ始めた、国際的な食糧流通システムという「食のグローバリズム」の進展であった。
穀物も、肉も、果物も、野菜も、食品の生産量は増える一方で、逆に価格はどんどん安くなり、その種類の豊富さや安全性、品質の高さや、 入手することの手軽さなどなど、それは、現代の「食システム」が描き出してみせた、人類最大の成功物語ともいうべきものだったのである。 二十世紀の後半までは・・・
2004年のベストセラー『石油の終焉』で、すでに人類にとって石油の時代が終わっていることを示してみせた気鋭のジャーナリストが、 今度は「食」の視点から、破綻に向かって邁進するグローバリゼーションの本質に鋭く切りこんで見せてくれた、「終焉」シリーズの第二弾。
いまや、何百万トンもの食品を、何億人もの消費者に届ける巨大な生産・流通・小売網を張り巡らせるようになった「食システム」の実態とは?
コスト削減と生産量増大にこだわるビジネスモデルが、必然的に陥ることになった価格下落という悪循環の罠。
供給量が要求量を20%も上回っているにもかかわらず、栄養過多の人とほぼ同数の栄養失調者がいるという、農産物を買う余裕のない国では うまく機能しない流通システムの欠陥の露呈。
安価なエネルギー、有り余るほどの水、そして安定した気候という、農業にとっての基本的な三つの前提条件がもはや成立しないことによる 生産能力の限界の脅威。
そもそも大量生産には適していない「食べ物」を、品種改良や添加物などで「工業製品」のように扱おうとしたことにより、もはや自分たちが 食べているのが「何」であるのか確信が持てないという経済原理からのしっぺ返し。
結局、私たちは、マルサスの予想が「当たっていた」と言わねばならないのかもしれない。
私たちはあらゆる面で、将来“食の黄金時代”と呼ばれることになりそうな一つの時代の終焉に直面している。それは食べ物が、より豊かで 安全で栄養価の高いものに変わっていくように思えた。ほんのつかの間の奇跡のような時代だ。そんな奇跡のような時代を生きてしまったせいか、 私たちは今、どうして食の安全性を確保するのがこんなに難しくなったのかを理解できない。だが、安全性の問題は数多くの懸案の一つにすぎない。 私たちはもっと、自分たちの食べ物がこれからどうなるのか、どうしてあれほどうまくいっていた食のシステムがここまで行き詰まったのか、あと どれくらいで破綻を迎えるのか、食システムのバランスを取り戻すために何ができるのか、といった問題について、議論していく必要がある。
2012/6/4
「『みんな』のバカ!」―無責任になる構造― 仲正昌樹 光文社新書
ある会社の職場で、上から下まで「みんな」が○○新聞を読んでいるシーンが映し出される。一人だけ読んでいない課長に対して部下が、 「あれ課長、読んでないんですか。みんな読んでいますよ」と言い、それで課長も「みんな」と同じ様に「読む」ことになるという筋である。 最後の決め台詞が印象的である。購読申し込みの電話番号<0120−367−464>をもじって、「みんな読むよ、○○新聞!」と言うのである。
「これを最初に見た時、本気でやっているのか、それともパロディーなのか本気で考えてしまった。」
という著者は、広島出身で東京で長いこと学生生活をしたのち、六年ほど前から金沢大学の法学部に勤めるようになったので、五大紙のどれか であれば、(実際には「みんな」が読んでいるのだとしても)自分こそが知の最先端をいくメディアとして、知的に洗練されたエリートたちに 読まれているという立ち位置を取るはずだ、という東京に住んでいる時の感覚からして、
いくら「加賀百万石」を売り物にしている地方都市を本拠地とする新聞でも、今どき「みんなが読んでいる」ものを一緒に読むのが「正しい」 などということを本気で言えるはずがない、と思ったそうなのである。
しかし、(その論調に心から賛同しているかどうかは別にして)地元の人のほとんどがそこに書かれている記事を、知っていて当然の「情報」 として共有している以上、「みんな読んでいる」仲間に入っておく方が便利であるという事情から、北國新聞を「新聞」としてではなく、 「ふるさとメディア」として読まされている、「加賀百万石」の地元民である「わたし」のような者からすれば、
多分、こういう本を読んでいるのは、そうやって「みんな」に属すことができなくなっている人だろう。「みんな」と「わたし」の関係を 第三者的に見て、「みんなはわたしのことをどう思っているのか」と考えていること自体が、匿名になり切って「甘えの構造=無(限)責任の体系」 の中にしっかり組み込まれている“みんな”とは相容れないのである。
と宣っている「あなた」のような、「自分はエリートである」と自認して、朝日新聞の書評欄を読んでいる人にしたところで、「みんな」に合わせて いると認めるのはイヤだから、「最前線をフォローしている」という、まさにそのポーズそのものこそが、知的会話を共有したい別の「みんな」に 「みんな」がついていこうとするがゆえに形成される「最前線」なのであれば、
「みんなのメディア」北國新聞は、自分自身がそんな「みんなの力学」に従っていることを自覚しているという意味で、「あなた」は「潔い」と 評しているけれど、むしろ案外「したたかな」新聞であるというべきなのかもしれない、
と、「ふるさと不足」に悩まされる「わたし」は思ったりもするのである。
スローターダイクは、「大衆」は無自覚のまま、自分自身の鏡像である「代表」を侮蔑することを通して、間接的に自分自身を侮蔑し、 「みんな」でどんどん「下」に落ちていくというペシミスティックなビジョンを示している。落ちれば落ちるほど、下にいる「みんな」同士で より密に凝集し合うようになるというのである。
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