徒然読書日記201204
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2012/4/30
「震える牛」 相場英雄 小学館
全身黒ずくめで目出し帽を被り、「マニー、マニー」と叫んだ中肉中背の男がレジを襲い、売上金58万円を奪取した。 鋭利な刃物で店員の左手を斬りつけた後、犯人はレジ近くの席に居合わせた客の首を次々に刺し、殺害した。
全国チェーンの居酒屋「倉田や」で発生した『中野駅前居酒屋強盗殺人事件』は、不良外国人による強盗殺人という妥当な筋読みで展開された 初動捜査から2年が経過しても、これといった糸口も見出せないまま迷宮入りしようとしていた。
一人目の被害者は獣医師の赤間裕也(31)、もう一人、隣のボックス席で殺害されたのは産廃処理業者の西野守(45)。
再捜査の特命を受けた警視庁捜査一課継続捜査班、『鑑取り』の名手、ベテラン刑事の田川信一は、『ともに怨恨の線は見出せず』と、 早々に切り捨てられた二人の被害者に繋がりがないかを探るうち、事件の背後に隠されていた『巨大な歪み』の存在に気付かされる ことになるのだった・・・なんて言ってみたところで、
この物語のミステリーとしての筋立てについては、「勘」のいい読者なら題名を聞いた瞬間にお見通しだと思うので、 むしろこの本の読ませどころは、最近NHKでもよくある、ドラマ仕立てのドキュメンタリーのような部分にあると言うべきなのだろう。
「脱脂大豆に亜硫酸ソーダ水溶液を混ぜ、亜硫酸ガスを加えると、線維のような形をしたタンパク質が生まれます」
書類を指しながら、小松は淡々と説明を続けた。鶴田は首筋に悪寒を感じながら、黙々とメモを取った。なじみのない化学薬品の名前が続々と 出てきた。言いようのない不気味さを感じた。
「さらに亜硫酸塩、塩化カルシウム、イオン交換樹脂のクスリで濾したあとは、甘味料、化学調味料、牛の香りを演出する合成香料、 それに容量増しに水を加えてできたのが、このハンバーグです」
「なぜ食べないんですか?」
「雑巾だからです」
「雑巾?どういう意味ですか?」
「文字通りの雑巾なんです」
ファミリーレストランでの取材中、勧められたハンバーグに手を出そうとしない小松は、このハンバーグを納品した工場の 「生産管理課長」なのである。
「クズ肉に大量の添加物を入れ、なおかつ水で容量を増すから雑巾なのです。ミートステーションのラインでは、 毎月5トンの肉が最終的に10トンの製品に化けます」
え?どこまでが「事実」かって?
「ミートステーションのように露骨な業者はわずかだとしても、多かれ少なかれ食品加工の現場はこんなものです。牛肉のみで売値500円なんて、 安い輸入牛肉でも不可能です。原価は100円以下、そうでなければ、この店の利益は出ません」
この値段を考えれば、これが全部事実に決まっているなんてことは、あなただってわかっているはずじゃありませんか。
『直面している大きな課題は、市場の道徳観念の欠如と効率性のあいだで、しかるべき落としどころを探ることだ。自由を謳う経済システムは、 しばしばその自由を否定する手段となってしまう。二十世紀の特徴が全体主義体制との闘いであったとすれば、 二十一世紀の特徴は行き過ぎた企業権力をそぐための闘いになるだろう。極限にまで推し進められた自由主義市場は、おそろしく偏狭で、 近視眼的で、破壊的だ。より人間的な思想に、取って代わられる必要がある』
2012/4/27
「寺田寅彦」―漱石、レイリー卿と和魂洋才の物理学― 小山慶太 中公新書
<理研の所長に頼んで一本の赤椿を二号館脇(寺田室窓前)に植えて貰った。此れから花が咲き出すと、内ヶ崎君と二人で毎日花を数え、 其れが散り落ちると、仰向いて落ちたのとうつ向いて落ちたのとの数の%を計算して、落椿の力学の其進化論的意義を論ずるという珍研究を始めます。 いよいよ我輩は猫である事の証明をするような事になる。余り奇を好むようで変ですが、どうか御寛大なる御目こぼしを願い度いと存じます。> (昭和6年 藤岡由夫への手紙)
「ねえ君、不思議だと思いませんか?」
興味を覚える現象を見つけるたび、そう人に語り掛けるのが口癖だったという東京帝国大学物理学教授、文理両道において異才を発揮した寺田寅彦は、 日常身辺に起こる親しみのある自然現象を、日本人の心・感性で受け止めながら、それを研究対象として捌くには、 問題解析を行うために西欧人が確立した物理学という手法を巧みに適用してみせる、「和魂洋才の物理学者」であった。
1878年(明治11年)生まれで、アインシュタインより1歳だけ年長という寅彦にとって、日本の物理学界においても、 すでに時代は相対性理論や量子論が台頭する革命期に突入していたのだが、
『尺八の音響学的研究』(博士論文)から、「線香花火」の燃え方、「藤の実」の種子の飛び散り方、「金平糖」のイガイガのでき方にいたるまで、 西欧人のまねや後追いをするのではなく、日本人ならではの目のつけどころを示す物理学を追及するというスタイルを、 頑固なまでに貫き通したのである。
そんな寅彦の、「洋才」の部分における「師」とも呼ぶべき存在が、「空はなぜ青いのか」といった身近な疑問から、ノーベル物理学賞を受賞した 「新元素アルゴンの発見」まで、まことに幅広い分野にわたって輝かしい業績を残した、イギリス貴族の「道楽科学者」、 レイリー卿(ジョン・W・ストラット)であったとすれば、
「和魂」の部分において「師」と仰ぎ、文科と理科の壁を超え、互いに影響を及ぼし合ったのは、言うまでもなく、 熊本の第五高等学校の英語教師として、俳句や随筆の薫陶を授けられた、夏目漱石だった。
1933年(昭和8年)に発表された、寅彦の生涯最後の論文『空気中を落下する特殊な形の物体――椿の花――の運動について』は、 17年前に亡くなった師を偲び、36年前に詠まれた俳句に捧げられた「オマージュ」だったのである。
『落ちさまに 虻を伏せたる 椿哉』(漱石)
<この空中反転作用は、花冠の特有な形態による空気抵抗のはたらき方、花の重心の位置、花の慣性能率等によって決定されることはもちろんである。 それでもし虻が花の芯の上にしがみついてそのままに落下すると、虫のために全体の重心がいくらか移動し、その結果はいくらかでも上記の 反転作用を減ずるようになるであろうと想像される。すなわち、虻を伏せやすくなるのである。>
こんなことは、右の句の鑑賞にはたいした関係はないことであろうが、自分はこういう瑣末な物理学的の考察をすることによって、 この句の表現する自然現象の現実性が強められ、その印象が濃厚になり、従ってその詩の美しさが高まるような気がするのである。
2012/4/18
「贈与の歴史学」―儀礼と経済のあいだ― 桜井英治 中公新書
とりわけ日本は、先進諸国の中でも例外的に贈答儀礼をよく保存している文化として、世界中の研究者から注目されてきた。 しかもたんに保存しているだけでなく、バレンタインデーやホワイトデー等々のように、新たな贈答儀礼を次々と再生産しているという点でも きわめて特殊なポジションを占めている。
ほぼ年中行事化している中元・歳暮のやりとりや、結婚・出産祝い、香典等々、人生の節目ごとに繰り返される様々な祝儀・不祝儀、 さらには年賀状や、はてはフェイスブックの「いいね」に至るまで、中には明らかに企業戦略に乗せられたものであることがわかっている にもかかわらず、いざ軌道に乗ってしまうと、私たちはもはやそれをやめることはできなくなる。
「なぜそれをやめることができないのか。」
フランスの社会学者マルセル・モースが、1920年代に発表した『贈与論』のなかで示してみせたのが、贈与をめぐる三つの義務だった。
1 贈り物を与える義務(提供の義務)
2 それを受ける義務(受容の義務)
3 お返しの義務(返礼の義務)
贈り物を受け取ることにより受贈者には「借り」ができ、贈与者には「貸し」ができるという「お返しの義務」がもっともわかりやすい ものではあるが、その裏返しとして、「借り」をつくりたくないから「それを受けない」ということが、良好な関係を維持する際の マナー違反となってしまったり、
お世話になった人だけではなく、これからお世話になるであろう人にも、(他の皆がやっているのに)自分だけ「贈り物を与え」なければ、 礼儀を失することになると、もらう側が実際にはそのように考えていなくても、贈る側にそれを恐れる気持ちが萌しさえすれば、 それはいつでも「義務」になる。
つまり「贈与」というものは、贈与者と受贈者の二者だけで完結するものではなく、両者の外部にあって、しかも両者の関係を律していた 別の支配者の存在があると考えることによって、はじめて説明可能になるということなのである。
そして、贈与が日本史上もっとも異様な発達をみせた15世紀の約100年間の「贈与の最盛期」において、広義の「法」とよんでもよい 「贈答儀礼」の支配者となっていたのが、人への贈与を義務化させるメカニズムとしての「例」の力、「先例」の拘束力という観念だった。
たとえば、「釣り合い」ということにひじょうに敏感で、他家との交際においては「相当」(損得勘定が釣り合っていること)を重んじた 中世の人びとにとって、「贈り物」は次第にその「使用価値」ではなく、純粋にその「交換価値」だけが重要な判断材料となっていく。
ここに、交換価値の伝達を唯一の機能とし、それ以外の使用価値をいっさい脱ぎ捨てた物品、「貨幣」による贈与という、日本独自の慣習が 定着する端緒があるのだが、さらには、まず金額を記した「折紙」を先方に贈り、現金は後から届けるという作法さえ生まれていた。
年始から歳暮にいたるまで、一年を通じて際限なく贈答儀礼が繰り返された中世において、不意に襲ってくる祝い事のたびに多額の銭を調達する ということが至難の技であった皇族・貴族たちにとって、この「折紙」システムは、とりあえずその場をしのげる猶予期間を提供してくれる ものだったに違いない。
だいいち、それがもしも賄賂であったのなら、結果が出てから果実を渡せばいいという意味で、「贈り損」も防げるようになったのである。
なるほど、日本の中世における「贈与の歴史」から著者が導きだしてみせてくれたのは、私たち現代人がもっとも苦手とするようになった、 「もっとも遠い他人との限界的な付き合い方」のコツだったのかもしれない。
贈与本来の意義が、人と人、集団と集団が良好な関係を持続してゆくためのコミュニケーション手段であったとすると、中世の贈与(の一部)が そこからかなりかけ離れたところまで行ってしまったことは否めない。中世の人びとは、まるで贈与原理という小舟に乗って、 一体どのくらい遠方まで旅ができるかの実験をしていたかのようである。
2012/4/11
「『反原発』の不都合な真実」 藤沢数希 新潮新書
僕は2011年3月11日以降、アメリカがテロとの戦争をはじめたように、日本も「原発との戦争」をはじめてしまったのではないかと 危惧しています。原発を擬人化し、それを滅ぼす(=無くす)ことが正義になりました。実体のよくわからないテロを滅ぼすことがアメリカで 正義になったように、原発を稼働させるべきだという意見を表明すれば、直ちに原発推進派のレッテルをはられ、ひどいバッシングにあいます。 「正義」に反するからです。
結局、この「テロとの戦争」でアメリカは、テロの直接の被害の150倍の金(250兆円vs2兆円)を費やし、テロの直接の犠牲者の75倍の 命(22万5千人vs3千人)を犠牲にすることになった。
さらには、9.11以降多くのアメリカ人が飛行機を避けて車で移動をはじめたことから、最初の1年間だけで1595人もが米国の路上で余分に 事故死したこともわかった。統計的には飛行機の方が自動車よりも圧倒的に安全なのである。
『リスクにあなたは騙される』
(Dガードナー 早川書房)
というわけでこの本は、理論物理学博士であり、リスク管理の専門家として外資系投資銀行に勤務する著書が、 まるで巨大な外敵が現れて頭を甲羅の中に隠す亀のように、誰もマスコミで発言しなくなってしまった、原子力の専門家たちになりかわり、
<実は、火力や水力に比べて、原子力ははるかに人命の犠牲が少ない発電方法である。>
という事実を皮切りに、放射線のリスクや、「自然エネルギー」に転換することのリスク、地球環境問題や経済的影響など、 まことに多岐にわたって、実際のデータや科学的な考察に基づいた、つまりは「感情論を超えた議論」をするために提示した、 国家の根幹に関わるエネルギー政策の未来に対する提言の書なのである。
たとえば、単位エネルギー当たりの事故や公害による犠牲者の数で、原子力と火力の危険性を比較すれば、 プラント事故や原料の採掘の危険性を考えただけですでに、出力が巨大な原子力は(チェルノブイリのようなあらゆる原発事故を計算に入れても) 火力より3桁程度安全ということなのだが、
なんと驚くべきことに、大気汚染物質による死者数まで考慮に入れれば、これらの事故による犠牲者の数などは、実は無視できるほどに小さな数 なのであり、一番大きな危険は、いまの日本で原発をゼロにしてそれを火力に切り替えたとすれば、大気汚染で死亡する日本人が年間3千人ほど 増える計算になるということなのだ。
さらに、原子力を火力に切り替えれば、火力発電のコストの7〜8割を占める化石燃料費は、年間4兆円程度増加することになるのだが、 燃料費がコストに占める割合が1割にすぎない原発は、たとえ止めたとしても核崩壊は止まらず、ウラン燃料は劣化していくので、 コストセーブには決してつながらない。しかも、原発を停止したところで、水素爆発や放射能漏れ事故の危険性がなくなるわけではないのである。 むしろ、耐用年数に達していない原発の稼働率をなるべく上げる方策を探るべきなのではあるまいか、云々。
う〜む、なるほど。
このまことに冷静な議論の結末は、訳の分からない感情論などよりは、よほど筋の通った結論に至ることになるのである。
この原発との戦争の代償は、年間3000人ほど余分に日本人が死に、年間4兆円もの財政負担が生まれることです。それだけではありません。 化石燃料へより依存を強めていくことからエネルギー安全保障が毀損され、地球温暖化を加速させることにもなります。 そして、日本に蓄積されてきた貴重な原子力に関する知識や技術も失われていくでしょう。
このような愚かな「原発との戦争」を回避したいという思いで、僕はあらゆるバッシングを覚悟してこの本を書きました。
2012/4/7
「生命科学者の伝記を読む」 仲野徹 秀潤社
教養というのは自己を相対化するためのツールであるというのを読んだことがある。教養を身につけるのは難しいが、 伝記をただあるがままに楽しんで読みながら、自己を相対化していく、というのは悪くない、一度きりの人生、いかに楽しむか、 いかに有意義に過ごしていくか、には、そういった相対化が役立つにちがいないと信じて、
「今日も伝記を読んでいる」という、伝記大好き人間を自認する大阪大学医学部の教授が、元々は生命科学専門誌の「細胞工学」に二十回に渡って 連載して、大好評を博したものだそうだから、分子生物学を学ぶ人たちを相手に、そんな彼らなら当然ご存じのはずの、生命科学史上にその名を 刻んだ古今東西の18人の生命科学者の「伝記」が取り上げられ、紹介されている。
え?「そんな本のどこが面白いんだ」ですって?たとえば・・・
紙一重とも言われる「アホ」と「かしこ」には、厳然たる違いがあって、賢さは伝染しないが、「アホはうつる」という法則があり、 この現象を著者は密かに“パー チェーン リアクション(PCR)”と名付けている。
(注:これはもちろん、分子生物学ではお馴染の遺伝子増幅実験法「ポリメラーゼ連鎖反応」polymerase chain reaction のもじりである。)
さらに「アホさは無限であるが、賢さは有限ではないか」という仮説もある。賢さというのはおおよそ創造力の範疇内に収まるものだが、 信じられない、想像もできないようなアホなことをしでかす人は身の回りに少なからずいるものだ。しかし・・・
この仮説を破り、賢さも無限ではないかと思わせてくれるのが、医学、物理学、そして、言語学、といった異なった三つの分野で超弩級の 発見を成し遂げたトーマス・ヤングである。
と、「視覚の三色説」と「光の波動説」と「ヒエログリフの解読」を一人でやってのけた、『全知最後の人(The last man who knew everything)』 トーマス・ヤング(1773〜1829)の伝記の紹介に入っていく。つまり、「アホはうつる」の法則は、本論に入って行く前におかれた、 絶妙の長〜い「まくら」だったのである。
こんな上方落語のような、まことに調子の良い乗りで、
解剖学者・外科医として活躍しながら、いろいろな移植実験や性病の自己接種実験から、博物学者としての「死体」コレクション蒐集まで行った、 「マッド・サイエンティスト」ジョン・ハンター(1728〜1793)
故郷リヨンの刺繍職人仕込みの針技術から血管縫合を編み出して動静脈吻合による輸血を可能にした、「奇跡の天才医学者」アレキシス・カレル (1873〜1944)
ビタミンCの発見、筋肉の収縮、TCAサイクルとノーベル賞クラスの研究を三つも成し遂げながら、第二次世界大戦中にはスパイ活動を行って、 ヒトラーを激怒させた、「人生をもてあます異星人」セント=ジェルジ(1893〜1986)
などなど、数々の天才たちの波乱万丈の人生模様が、縦横無尽に語られていくのだから、これが面白くなかろうはずがないのである。
いまさら言うのも何なのではあるが、他人の人生から記号化されたメッセージを読み取ろうというのは、伝記の楽しみ方として正しくない。 成功バイアスがかかっている個別的な例からメッセージを得ようとすると、どう注意深くしても深読みしすぎてしまう。 心静かに、ほぉ、こんなことがこういったことにつながっていくのか、運命っちゅうのはおもろいもんやなぁ、と素直に感心するのがよかろう、 というのがわたしの結論である。
2012/4/5
「舟を編む」 三浦しをん 光文社
「そうですねえ。『まわりを水に囲まれた陸地』でしょうか。いや、それだけではたりないな。江の島は一部が陸とつながっているけれど、 島だ。となると」
馬締は首をかしげたままつぶやいた。荒木の存在などすでにそっちのけで、言葉の意味を追求するのに夢中になっている様子だ。
「『まわりを水に囲まれ、あるいは水に隔てられた、比較的小さな陸地』と言うのがいいかな。いやいや、それでもたりない。 『ヤクザの縄張り』の意味を含んでいないもんな。『まわりから区別された土地』と言えばどうだろう」
「きみは、『しま』を説明しろと言われたら、どうする」
突然押し掛けてきた見も知らぬ男からそう問い掛けられた、玄武書房の営業マン・馬締光也は、まったく臆することもなく、
「ストライプ、アイランド、地名の志摩、『よこしま』や『さかしま』のしま、揣摩憶測するの揣摩、仏教用語の四魔・・・」
と、「しま」という音から導きだされる単語の候補を次々に列挙してみせた後、あっというまに「島」の語義を紡ぎだしていった。
「まじめ君。きみの力を、『大渡海』に注いでほしい!」
この男の正体は、玄武書房辞書編集部で辞書作り一筋に三十七年の荒木公平。ついに定年を迎えるにあたり、自らの後継となる社員を 探していたのだった。
「辞書は、言葉の海を渡る舟だ。」
魂の根幹を吐露する思いで、荒木は告げた。「ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かびあがる小さな光を集める。もっともふさわしい言葉で、 正確に、思いをだれかに届けるために。もし辞書がなかったら、俺たちは茫漠とした大海原をまえにたたずむほかないだろう。」
「海を渡るにふさわしい舟を編む」
ひどい寝癖頭の上、白いワイシャツに黒い袖カバーをしたままの恰好で、割烹での懇親会に出かけてしまうほど、まるでファッションには 無頓着ながら、言葉に対する鋭い感覚と、持てる知識を総動員して問いかけに答えようとする律義さを持ち合わせている、 まるで辞書作りのために生まれてきたかのような才能の馬締光也。
ざるそばをすする間も、テレビから流れる音声に耳を傾け、聞き慣れない単語や、変わった言葉の用法を、用例採集カードに書きとめるほど、 定年よりもずっとまえに大学の教授職を辞し、ただひたすらに言葉に身を捧げた一生をおくる、ご高齢の松本先生。
幼いころから言葉に興味を持ちながら、学者になれるほどのセンスはないと悟り、辞書の表紙に名を載せることは俺にはできないと、 そんな先生のよき相棒として、半世紀近くにわたり、編集者として先生を支え、励まし、いくつもの辞書を世に送り出してきた荒木公平。
編纂に取り掛かって十三年、遅々として進まぬ『大渡海』辞書編集部へと、ファッション誌の編集という花形部署から異動となってしまったことに 初めは戸惑いながら、言葉と本気で向きあう「辞書づくり」という作業に関わることで、傷つけるためではなく、だれかを守り、だれかに伝え、 だれかとつながりあうためにある「言葉」の持つ力に魅せられ、次第にやりがいを覚えだした岸辺みどり。
辞書編纂という作業に携わった誰もがみな、それぞれの胸に抱いた熱き思いを詰め込んで、見事に完成を見た『大渡海』は言葉という宝をたたえた 大海原へと漕ぎ出すのである。
<辞書の編纂>なるものが、これほどの熱きドラマとなろうとは、今さらながらに、三浦しをん、畏るべし。
『しま』と問われて、「海にぽっかり浮かんでいるもの」としか答えられず、ついには馬締と入れ替わって、広告部へと異動になってしまう、 なにに対してもさして入れ込むことができず、無難に仕事をこなすもはかばかしい評価は得られず、ついつい馬締を嫉妬してしまう、 そんな前任者の西岡正志にしたって、辞書と、辞書を愛さずにはいられない人々に対する、愛着の思いは人一倍熱かったはずなのである。
「実際の流れものが、図書館かなんかで、なんとなく辞書を眺めてるところを想像してみろよ。『さいぎょう【西行】』の項目に、 『(西行が諸国を遍歴したことから)遍歴するひと、流れものの意。』って書いてあるのを発見したら?そいつはきっと、心強く感じるはずだ。 『西行さんも、俺と同じだったんだな。大昔から、旅をせずにはいられないやつはいたんだ』って」
2012/4/4
「江戸図屏風の謎を解く」 黒田日出男 角川選書
この屏風を眺めると最初に見えてくるのは、明暦の大火以前の江戸城内を進んでいく山王祭礼の行列である。常盤橋御門を出ようと している先頭から、城内を行くさまざまな山車や仮装した人々の姿である。それらは、明暦の大火以前の天下祭り=山王祭礼の姿をありありと 想起させてくれる。明暦の大火以前の江戸城内を練り歩く山王祭礼行列は、本屏風のすぐにわかる主題(の一つ)なのである。
それ以後の江戸の町の姿を大きく変貌させてしまった明暦の大火(1657年の振袖火事)。
それ以前の江戸の様子を描いた重要な絵画史料としての「江戸天下祭図屏風」は、本来、京都の日蓮宗寺院である本圀寺に伝来したものだった のだが、戦後の寺内の混乱によって売却され、寺外へと流出し行方不明となっていた、この屏風が個人蔵として古美術市場に再び忽然と姿を現した のは1997年のことだった。
「この江戸城内を描いた絵画作品には、いったい、何がどのように描かれているのか」
絵図や屏風を「絵」として眺めるのではなく、「絵画史料」として読み解き、そこで起こった事件としての歴史を浮かび上がらせてみせよう という著者の豪腕は、ほかの大名屋敷に比べて格段に精細に描かれている紀伊徳川家の上屋敷の、門前に並んで山王祭礼の行列を見物しているのが、 紀伊徳川家初代当主の徳川頼宣と、瑤林院(加藤清正の娘)であることを丹念・綿密に解き明かし、この夫妻こそがこの屏風の第二の主題なのだと 推理する。
では「江戸天下祭図屏風」は、いつ頃、誰が、どのような意図によって制作し、それを享受したのはいったい誰なのか。
屏風右隻に描かれた頼宣夫妻に対峙するかのように、左隻で寛いだ姿で楽しげに祭りを見物している、立派な服装の老人の姿、その幕に描かれた 家紋(剣方波見)から、それが時の大老・酒井忠勝その人であることに気付けば、左隻に描かれている屋敷が、松平伊豆守信綱、松平加賀守綱紀、 そして町奉行石谷将監貞清のものに限られているのは、じつは慎重に選ばれたものであることがわかってくる。
慶安4年(1651)、由比正雪らの浪人が謀反の蜂起を計画しながら、実行に移される直前に密告され、失敗に終わった、ここに描かれた これらの人物はみな、この「由比正雪の乱」の関係者なのであった。
自らの花押が据えられた文書がこの蜂起に用いられたことから、まだ幼い四代将軍家綱に対する謀反の嫌疑を懸けられ、十年間江戸に留め置かれる ことになった頼宣は、家綱に取って代わる可能性を持つという意味で、幕府にとっての危険因子であり、明暦の大火も「紀伊の仕業」ではないか という噂さえ広がっていたのである。
万治2年(1659)、数え年で二十歳を迎えた家綱が、大人の将軍となったことで、もう幕府にとっての危険な存在ではなくなり、 ようやく帰国の暇を与えられる。しかしこの帰国はまた、当年すでに58歳となっていた頼宣にとって、妻・瑤林院(一つ年上)との永遠の別離と なる可能性を孕むものでもあった。
つまりこの屏風は、様々な思い出を詰めたまま、明暦の大火で焼失してしまった紀伊徳川家上屋敷と、そこで山王祭礼行列を見物している自分たちの 姿を、妻の元に残そうとしたものだ。というのが、どのような経緯を経て今日にまで伝来されることになったのかまでを明らかにしようとする、 このスリリングな「歴史推理」の結論なのである。
寛文六年正月、瑤林院は江戸で死去した。瑤林院の葬儀は、池上の本門寺で行われ、遺骨は和歌山の報恩寺に葬られた。
彼女の遺物は報恩寺に納められたものしかわかっていないが、池上の本門寺にも納められたであろう。そして、この「江戸天下祭図屏風」は 瑤林院の遺物として、加藤清正夫妻と瑤林院にとって深い所縁のある京都の本圀寺に納められ、戦後の混乱のなかで寺外に流出するまで同寺に 伝来したのであった。
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