徒然読書日記201203
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2012/3/28
「量子論で宇宙がわかる」 Mチャウン 集英社新書
過去100年間における二つの偉大な業績は「量子論」、つまり、原子とその構造についての理論と、アインシュタインの「一般相対性 理論」、つまり、空間、時間および重力についての理論である。この二つの理論が、世界と私たちについてほとんどすべてを説明した。
「光は微小な粒子の流れである」ことを最初に理解したのは、アインシュタインだった。光が金属に当たると、まるで小さな弾丸が命中したかの ように、一個の電子が蹴り出される。「光電効果」の発見である。
「光が波である」ことを証明したのはトマス・ヤングだった。二本の垂直なスリットを出た光が、お互いの山と谷との重なりで強めあったり 弱めあったりして、「干渉パターン」をつくることを示してみせたのである。
しかし、光がある時は「粒子」であり、ある時は「波」であるということはできないのだから、光のもつこの二つの異なるイメージには、 どうしても同じ結果を生み出してもらわねばならない。
そこで、微小な粒子が障害物にぶつかり、透過したり反射されたりして、まるで池に広がっていく波のように、空間を通して広がっていく、 抽象的な数学的波を想像する。波が高いところでは、粒子が見出される確率はもっとも高く、波が低いところでは、その確率はもっとも低い。 あたかも、粒子に何をすべきかを教えているかのような、この「確率の波」は、光子だけではなく、原子や電子などすべてのミクロの粒子の 振る舞いにもよく当てはまった。
これが、シュレディンガーの「波動関数」である。
ミクロの世界では、同一の事物が同一の環境の中で同じ仕方では振る舞わない。与えらた光子に何が起こるかを確実に知る方法は絶対にない。 『小さなものの世界』を取り扱う「量子論」は、確率を予測するための方法なのである。
「もし光に追いつくことができたなら、光のビームはどんなふうに見えるのだろう?」という思考実験から、静止した光を見ることは不可能 なのだから、どんなに速く移動しても光に追いつくことは決してできないという結論にたどりついた「特殊相対性理論」は、宇宙にいるすべての人 が光の速さについて意見が一致するためには、あらゆる人の物差しと時計が、伸び縮みしなければならないという処方箋となった。
「もしある男が自由に落下すると、その男は自分の体重を感じない。」という思考実験から、重力と加速度が識別不能であることに思い至ったことで、 特殊相対性理論における加速度の縛りを解き放った「一般相対性理論」は、重力とはつまり「空間の歪み」のことなのだという確信を生んだ。 光は歪んだ空間の中を、最短経路を求めて湾曲して進むのである。
これがアインシュタインの「相対性原理」の魔法である。
『大きなものの世界』を取り扱う「一般相対性理論」は、未来を予測するための方法なのである。
さて、ビッグバン理論によれば、宇宙が膨張を始めたその誕生の瞬間には、宇宙は原子よりも小さく、無限大の密度と無限大の厚さを持っていた ことになる。
「神がゼロで割った場所」を取り扱うためには、非常に大きなものの理論である「一般相対論」と、原子の領域を扱う「量子論」とが、 基本的に両立しないという相克を乗り越えて行かねばならないのだった。
20世紀物理学に高く聳えたつ二つの記念碑に重なりはない。しかし、ブラックホールの核心と宇宙の誕生では論争がある。 もし宇宙がどのようにして存在するようになったかを理解したいのなら、アインシュタインの重力理論よりもすぐれた現実的な説明を手に入れる 必要があるだろう。私たちには「量子」重力論が必要なのである。
2012/3/25
「犯罪」 FVシーラッハ 東京創元社
そのとき不思議なことが起こった。フェルトマイヤーは、体内を流れる血が色を変え、鮮やかな赤色になったような気がした。 血液はどくどくと胃から全身にまわり、指先やつま先まで広がった。彼は心の底から晴れ晴れとした。割れたタイル、くぼんだレンガ壁、 ちりやほこり、そういうものがまざまざと浮かびあがり、彼を押し包んだ。大理石の粉塵が宙に浮いたまま止まったように見えた。 棘が見えたのはそのときだった。ひときわ鮮やかに輝いている。フェルトマイヤーは棘が消え失せるまで、あらゆる角度から観察した。 (『棘』)
市立古代博物館の警備員だったフェルトマイヤーは、23年間勤めあげた博物館を定年退職することになったその日、 それまでずっと見つめ続けてきた展示品である『棘を抜く少年』(古代ギリシャの模造品)という大理石像を、突然高々と持ち上げると、 全身の力でほうり投げてしまった。
単調な仕事に変化を付けるため、本来は6週間に1度、いくつかある市立博物館の間で配置転換されるはずが、博物館側の手違いから、 彼はローテーションから外されていた。23年もの長きに渡り、忘れ去られたまま、まるで監禁されてしまったかのように、同じ部屋に居続ける ことを強いられたことが、フェルトマイヤーの精神を壊してしまったのだろうか?
などなど、その多くは精神に何らかの異常をきたした人物が犯した、異様な犯罪の顛末を事実に即して紹介する「調書」のような、 20数ページたらずの短編ばかりが11本。
これは、ベルリンで高名な刑事事件弁護士として活躍する著者が、自らが体験した現実の事件に想を得た、
「私たちが物語ることのできる現実は、現実そのものではない。」(ヴェルナー・K・ハイゼンベルク)
という、磨き上げる前の「原石」のような、珠玉の短編集なのである。
50年近くも連れ添った妻に罵倒され続けた結果、ついに耐えきれず斧で斬殺することになった、 聖人のような老医師フェーナーが、離婚という選択肢を取らなかったのは、結婚式で「一生愛し続ける」と誓ったからだった。
彼は本気で誓いを立てた。それが彼の生涯を縛った。というより、彼を囚われの身にしたといった方がいい。フェーナー氏はそこから逃げだす ことができなかった。そんなことをすれば裏切りになる。突発的な暴力は、ずっと気持ちを押し込めてきた真空容器がひび割れた結果なのだ。 (『フェーナー氏』)
「本当にすみません。どうか許して下さい」と安物のモデルガンの銃口を下に向けて銀行に押し入り、「同情を覚えた」女子行員から札束を 受け取ると、銀行の前の芝生地にへたり込んで捕まってしまった、心優しき銀行強盗のミハルカは、若い時にも銀行強盗をおかし、国外逃亡した 先のエチオピアの寒村で、村を豊かにした英雄と慕われながら国外追放となったため、残してきた妻子の許に帰ろうとしていただけなのだった。
私たちはミハルカのなにを責めることができるだろう?私たちみんながうちに抱えていることを行動に移しただけではないだろうか? 彼の立場にいたら、みんな、同じ行動を取ったのではないか?愛する者の許へ帰りたいという思いは、人間だれしも持つ憧れではないか? (『エチオピアの男』)
というわけで、冒頭のお話に戻ることにすると、
博物館側こそ被告人席に着くべきだという裁判官の心証もあって、結果的には公判は取りやめとなり、民事訴訟も取り下げられることになったのだが、 働きだして7、8年目のある日から、その「少年」が棘を抜いたのかどうかが気になりだし、忘れることができなくなってしまったのだという、 フェルトマイヤーが犯していた犯罪は、実は「器物損壊罪」だけではなかったのである。
(警察官が寝室で)見たものは、壁と天井に貼られた数千枚の写真だった。写真は重なるように貼られ、一ミリの隙間も残っていなかった。 床やナイトテーブルにも写真が置いてあった。写真はすべて同じモチーフだが、それぞれ場所がちがっていた。大人の男女や子どもが階段や椅子や ソファや窓辺のベンチにすわっている。プールや靴屋や芝生地や河原のこともあった。そして全員、足に刺さった黄色い画鋲を抜いていた。 (『棘』)
2012/3/24
「選択の科学」 Sアイエンガー 文藝春秋
まず入居者一人ひとりに鉢植えを配り、鉢植えの世話は看護師がしてくれると伝えた。次に、映画を木曜と金曜に上映するので、 どちらかの日に映画が見られるよう予定を組んで連絡すると言った。またほかの階の入居者を訪ねておしゃべりをしたり、読書、ラジオ、テレビ などを楽しむことが許されていると説明した。
「この施設を、みなさんが誇りに思い、幸せを感じられるような家にするのがわたしたちの務めです。みなさんのお世話をするために、 努力して参ります」
コネチカット州の高齢者介護施設のある階で、有能な世話係から責任を持ってみなさんの健康を管理すると告げられた入居者たちの、 70%以上に身体的な健康状態の悪化が認められたのに対し、
・好きな鉢植えを選んで自分で世話をする
・映画上映会はどちらの日に見てもいい
・おしゃべりなど、好きなように時間を過ごしてよい
「みなさんの人生ですよ。どんな人生にするかは、みなさん次第です」と告げられた別の階では、実に90%以上の入居者の健康状態が 改善するという結果となった。
実際には、どちらの階においても、施設の職員は入居者をまったく同じように扱い、同じだけの世話をしていたのだし、二番目の集団だけに 与えられた選択は、一見ささいなものにすぎず、どちらの集団も鉢植えを一つずつ与えられ、週に一度同じ映画を見たことに変わりはない。
つまり「選択権あり」という大きな自由度を与えられた、いや実は、自由度が大きいような気がするだけの「思い込み」を与えられたことが、 施設の入居者たちの満足度を高め、生き生きとした活力につながったというのである。
コロンビア大学ビジネススクールの、盲目の美人教授シーナ・アイエンガーが、この実験で明らかにして見せたのは、 たとえささいな「選択」であろうとも、それを頻繁に行うことで「自分で環境をコントロールしている」という意識が意外なほど高まり、 人はストレスや不安を感じずに済むようになるということだった。
では、なぜ人は「選択」したがるのだろうか。選択肢は常に多いほうが魅力的なのだろうか。
24種類のジャムを見た試食客はとても戸惑っていた。びんを次々と手にとっては調べ、連れがいる場合は、どの味がいいだろうと相談を 持ちかけた。こんなふうにして長いときには10分も迷った挙げ句、多くの人が手ぶらで去っていったのだ。
大きな品揃え(24種類)の方が、買い物客の注目を集めたのは事実であったが、実際にジャムを購入した客の人数は、小さな品揃え(6種類) の方が、6倍以上も多かった。
「6種類しか見なかった試食客は、自分の好みに合うジャムがはっきりわかっているようだった。」
品揃えが多過ぎると消費者の購入意欲はむしろ下がってしまうという、最近では市場でも盛んに応用されるようになった、 この「ジャムの研究」こそが、もっとも人口に膾炙している、この著者の実験なのである。
というわけで、この本は、ささいなものから人生を変えるようなものまで、選択の自由がある場合もそうでない場合も、わたしたちの人生の物語の、 切っても切り離せない部分としてある、「選択」という問題を様々な異なる視点から眺めながら、「選択」がわたしたちの人生におよぼす影響に まつわる疑問を突き付けてくる。
時には「選べない」ほうが幸せということだってあるのだった。
彼女と二人の子どもたち、息子のヤンと娘のエヴァは、アウシュヴィッツに到着し、列車の中で待っていた。もうすぐ強制労働収容所に行くか、 ガス室送りになるかが決まる。人々を選別していたのは、ナチス親衛隊の軍医だった。恐怖に襲われてせっぱ詰まったソフィーは、自分と子どもたち はユダヤ人ではなく、ポーランド人で、カトリック教徒だとうっかり口走ってしまう。すると軍医は、「おまえはポラ公で、ユダ公でない」のだから、 選択の「特権」を与えてやろうと言った。二人の子どものうち、一人は残していい、もう一人はガス室送りだと言うのだ。
「あたしに選ばせないで」。彼女は自分がささやき声で嘆願するのを聞いた。「あたしには選べません」。(『ソフィーの選択』)
2012/3/17
「小商いのすすめ」―「経済成長」から「縮小均衡」の時代へ― 平川克美 ミシマ社
小商いとは何か。
小商いとは、「いま・ここ」にある自分に関して、責任を持つ生き方だということです。
それはしかし、グローバリストが言うところの「すべては市場の原理によって適切に調整されるべきだ」という<自己責任>論などとは、 思想的にも位相的にも正反対に位置するものであり、本来自分には責任のない「いま・ここ」に対して責任を持つという、合理主義的に考えれば、 不合理極まりない損な役割を演ずることで、「いま・ここ」で生きることに誇りをもち、「いま・ここ」に対して愛情をもつ生き方なのだ。
そして、そのような「責任がないことに、責任を持つ」、つまり「リターンを期待しない贈与」ができるのは、 我慢をすることもなく、さらに成長をのぞもうとさえしている、今の日本国家のメンバーの主流たる、我慢できない<こども>たちなどではなく、
<おとな>だけだというのである。
総人口の減少局面に入った日本が、その大きな曲がり角を曲がり終わるまでは、様々な混乱を乗り越えて行かなければならいだろうということを、 戦後日本の歴史を振り返りながら考察してみせた、
『移行期的混乱』
(筑摩書房)
の著者が、3.11の大津波と原発事故という、この長期的な混乱の過程を一気に凝縮してしまうような出来事に遭遇する中で自らに問い直した、 「わたしたちは、個人的な生活や、会社や、社会や、それらを貫く経済や、哲学について、これまでのやり方の延長でやっていけるのか、それとも これまでとは違うやり方を見出さなければならないのか」という喫緊かつ重要であり、同時に答えることが非常に困難な「問い」に対する、
それが「答え」だというのだった。
それでは、具体的な<小商い>のイメージとは、いったいどのようなものになるのか。それは「存続し続けることが、拡大することに優先する ような商い」のことであり、「自分が売りたい商品を、売りたい人に届けたいという送り手と受け手を直接的につないでいけるビジネスという名の 交通であり、この直接性とは無縁の株主や、巨大な流通システムの影響を最小化できるやり方」なのであれば、
「技術者たちが技術することに深い喜びを感じ、その社会的使命を自覚して思いきり働ける安定した職場をこしらえるのが第一の目的」 という設立趣意に基づいて、「経営規模としてはむしろ小なるを望む」とした、井深大・創業期のソニーの精神などは、 まさに「小商いマニフェスト」とでも呼ぶべきものになるだろうという。
そして、そんなソニーですらが、市場原理主義的な経済競争が渦巻く世界へとその舞台を移す中で、時価総額経営という短期的利益至上主義に 舵を切ったとたん、その企業としての魅力を喪失してしまったことに象徴されるように、「わたしたちの誰もが、商品経済の進展に対しては 加担者であり、その商品経済というシステムが膨張してやがては、地球規模にまで蔓延していること、そのプロセスの中で様々な欲望が人間性を 棄損し、自然を破壊していることに対しても、どこかで私たちは加担者である」のだから、
「小商い」こそが、人間が生きているかぎり生きつづけねばならない<哲学>になるということなのだろう。
時間軸を長めにとってみれば、どんな苦境も、人間が作り出したものであり、それゆえに身の回りの人間的なちいさな問題を、 自らの責任において引き受けることだけが、この苦境を乗り越える第一歩になると、わたしは確信しています。
2012/3/11
「本の本」 斎藤美奈子 筑摩書房
本を読む行為は基本的に孤独です。しかし、そこに一編の書評が加わると世界は何倍にも膨らみます。同じ本を読んだはずなのに、 あまりの受け取り方のちがいに驚いたり、その本の新しい価値を発見したり、ときには書評のおかげではじめて意味がわかったり。(中略)
もしこういってよければ、書評は「読書を立体的にする」のです。
と言われたところで、730ページで5センチを超える厚みという、まさに「本そのものを立体的に」してしまったこの本に、 取り上げられている700冊近い本の中で、暇人が実際に読んだものは、わずかに47冊しかないのだから、
<書評は「予習」より「復習」のために読んだほうがおもしろい。それが私の実感です。>
という醍醐味を、本当の意味で味わう術はなかったわけなのだけれど・・・
「文章読本さん江」
(筑摩書房)
「趣味は読書。」
(平凡社)
「文学的商品学」
(紀伊国屋書店)
「誤読日記」
(朝日新聞社)
などなど、その独自の評論スタイルにおける、辛口ながらもウィットに富んだセンスに魅せられた暇人が、陰ながら師と仰ぐ斎藤美奈子が、 1994年から2007年までに各紙誌で綴った書評のすべてを網羅した、なんとこれが彼女の<処女>書評集と聞けば、 これは読まずにはいられないと思ったわけなのである。
てなわけで、
「三人の内側へ内側へと閉じてゆく思考。スキャンダルに群がる外部への敵愾心。吾良の妻さえ排除した排他的な身内本位主義。正直、げっそり。」
(大江健三郎
『取り替え子』
)
とか、
「その気になれば何でも書けてしまうだろう職人芸を駆使すれば、あなたはサマセット・モーム?それともオー・ヘンリー?というような 短編小説を量産することだって、できちゃうはずだ。いわゆる<大向こうをうならせる>ってやつですね。」
(重松清
『ビタミンF』
)
なんて、「復習」をしてみるのも、確かに楽しいのではあるけれど、
「<いや〜ん、ミミズ!>などと騒ぐ女が(男もだが)私は大嫌いである。ミミズも満足にさわれないで≪女性の権利≫とかいってもだめ。 この本でミミズを好きになろう。」
(中村方子『ミミズに魅せられて半世紀』)
と、教えられなければ自分では決して手に取らなかったであろう本の、意外な面白さに気付かせてもらえることの方が、はるかに貴重なのだった。
唯一の難点と言えば、おそらく書評の方が断然面白いので、本文を読んだら落胆するのではあるまいかと危惧してしまうことなのである。
ときには伝道者の気分でその魅力を喧伝し、ときには著者になりかわってその意義を力説し、ときには読者の立場でちょっとした苦言や要望を 呈する。その結果、「少部数の本に増刷がかかった」などと聞くのは書評家冥利につきることですが、たとえ結果がスベっても、格闘した分、 書評でとりあげた本は忘れがたい一冊となります。
2012/3/10
「傍聞き」 長岡弘樹 双葉文庫
「いい?例えば、何か一つ作り話があるとするじゃない」「うん」
「それを相手から直接伝えられたら、本当かな、って疑っちゃうでしょ」「そりゃね」
「だけど、同じ話を相手が他の誰かに喋っていて、自分はそのやりとりをそばで漏れ聞いたっていう場合だったらどう? ころっと信じちゃったりしない?」「・・・まあね」
「それが漏れ聞き効果なの。どうしても信じさせたい情報は、別の人に喋って、それを聞かせるのがコツ。」
08年日本推理作家協会賞短編部門受賞作。
2012・本の雑誌「おすすめ文庫王国」国内ミステリー部門ダントツの第1位。
「百万部売っても売り足りない!」という本屋の店員の叫びを、「傍聞(かたえぎ)」いてしまったがために、 本当に期待して読んだわけなのだが・・・
「取り調べを受けていますとね――」横崎が再び口を開いた。「分かるんですよ。刑事さんたちの動きから、だいたいね」
いきなり何を言い出すつもりだろうか。戸惑いつつ啓子は「何が?」と訊ねた。
「進捗状況というやつがですよ。捜査のね。事件がどれぐらい解決に近づいているのか、それが分かるんです」
という「空き巣事件」の謎解きが本筋であるかのように見せて、
【なんで空き巣がそんなに好きなの?】
だったメッセージは、昨晩郵便受けに入っていた絵はがきでは、
【コソ泥と娘とどっちが大事なの?】
に変わっていた。帰りの遅いことが、いまだに許せないのだ。
という、刑事である母親と口をきこうとしない小学生の娘の、不可解な行動の意図の解明の方が、実はこのドラマの味噌なので、
つまりこれは、ミステリーというよりは、どちらかといえば重松清の
「ビタミンF」
なのである。
そんなわけで、
≪あんたら、何うろうろしてんの?どこへ行くつもりなの?≫
救急車の現在位置は、GPSで消防本部の通信司令室に把握されている。妙な動きをすれば、確認の連絡が来るに決まっていた。
≪済生会とか、その付近の民家から、苦情が来てるんだよ。サイレンがうるさいってね。どういうことか説明してよ。それから、 駅前で拾った患者さんはどうなったの?≫
救急救命隊長の室伏が、急報を受けて駆け付けた現場に、腹を刺されて倒れていたのは、娘を障害者にした交通事故の加害者を、 不起訴処分にした担当検事、その人だった。ようやく決まった搬送先の病院に、その被害者を下ろすことなく、サイレンを鳴らしたまま救急車を 走らせ続ける室伏は、復讐を果たそうとでもしているのだろうか?
という、同時収録の「迷走」という短編の方が、ミステリーとしての完成度は高いと、私は思う。
「隊長、あまりかっこつけないでください」
「なに?」室伏が片方の眉毛を上げた。
「マニュアル無視の責任を一人で負ってもらえれば、それはありがたいですよ。ですが、ずっと黙っていられるのは、やっぱり困ります」
2012/3/9
「コミュニティデザイン」―人がつながるしくみをつくる― 山崎亮 学芸出版社
100万人以上いるといわれる鬱病患者。年間3万人の自殺者。同じく3万人の孤独死者。地域活動への参加方法が分からない定年退職者 の急増。自宅と職場、自宅と学校以外はネット上にしか知り合いがいない若者。その大半は一度も会ったことのない知り合いだ。 この50年間にこの国の無縁社会化はどんどん進んでいる。
互いに結びつきのない人々が全国から集まってくる、ニュータウンの建設が進められていた50年前の日本において、「コミュニティデザイン」 といえば、それは、「みんなが共同して使う場所があれば、きっと自然に人々のつながりができるだろう」という、まるで根拠のない期待に基づいて、 「コミュニティ広場」や「コミュニティセンター」と名付けられた物理的な空間のデザインをするということだった。
しかし、無計画な住宅地はもちろん、そのように計画的に作られた住宅地においても、さらには、昔ながらの顔馴染みが住む中心市街地や、 肩を寄せ合って生きているような中山間離島地域の集落においてさえも、「良質な人のつながり」が失われつつあるように思われる、 50年後の今日の日本において、「コミュニティ」を「デザイン」するということは、もはや「住宅の配置」を考えたり、「公園の物理的な形」 を刷新すれば、解決できるという問題ではなくなっているのではないか。
大学ではランドスケープデザインを学び、設計事務所に勤めて公園のデザインなどを手掛けるうちに、デザイナーが長い時間と労力をかけて空間の 細部まで検討した「楽しい公園」だったはずが、なぜ10年もしないうちにほとんど人がいない「寂しい場所」になってしまうのか、という疑問を 感じ始めていた著者が、公園に来園者を誘うためのプログラムを立案する「パークマネージメント」に関する仕事を請け負うことで気付かされたのは、
「モノをつくるのをやめると人が見えてくる」ということだった。
様々な活動団体にその活動場所を公園に移し、その活動内容を披露してもらうことで、これまで公園にあまり来なかった人たちを公園へと誘いだす ことに成功した「有馬富士公園(兵庫)」。
大人がこどもに遊び場をつくってあげるのではなく、こどもたち自身が遊び場をつくること、それ自体を遊びにしてしまおうという 「ユニセフパークプロジェクト(兵庫)」。
など、一連の「パークマネージメント」のプロジェクトを契機として、テーマ型のコミュニティを新たに生み出すことの面白さを実感した著者は、 やがて「まちづくり」のプロジェクトに関わり出したことで、「モノをデザインしないデザイナーにも可能性がある」という確信を抱き、 studio-L という事務所を立ち上げて独立することになる。
その島に住む人たちは当たり前だと思っている風景に、島外から来た人たちが自分でお金を出してまで島の魅力を探りだしてあげようという 「探られる島(いえしまプロジェクト・兵庫)」。
「10年後ここに暮らすあなたへ」と島のこどもたちが提案した事業を、大人たちが本気になって実現しようともしないのなら、一致団結して 「島に戻らない!」とこどもたちに宣言させた「笠岡諸島子ども総合振興計画(岡山)」。
東北地方を巨大な地震が襲った今、こんなときだからこそ、コミュニティデザインに関する著作を書き上げるべきだと著者を奮い立たせたのは、 このようなプロジェクトに携わる中で獲得した「非常時には人のつながりが大切になる」というコミュニティの力への信頼だったのである。
阪神・淡路大震災では、避難者数に対して仮設住宅の数が圧倒的に少なかった。だから高齢者や障がい者が優先的に入居した。 人道的な判断だったといえよう。しかし、高齢者や障がい者は周辺に住む家族たちとつながっていたのである。夕食のおすそ分けや縁側での世間話 によって生活が支えられていたのだ。こうしたつながりが断ち切られ、高齢者や障がい者だけが集まった仮設住宅で、震災後3年の間に 200件以上の孤独死が発生してしまった。
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