徒然読書日記201202
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2012/2/28
「20世紀の幽霊たち」 Jヒル 小学館文庫
いっしょにいるときは、たいてい話をしていたから――彼の体の状態からして、荒っぽい遊びは問題外だった――死というテーマと、 死後どうなるのかが一度ならず話題になった。アーサーは、自分が生きてハイスクールを卒業できればラッキーだと知っていたんだろう。 おれと出会った時点ですでに十二回、つまり彼の人生の一年につき一回の割で、もうちょっとで死ぬような目に遭っていた。 あの世の存在は――あるいは、あの世が存在しないかもしれないという可能性は――つねに彼の頭の中にあった。(『ポップ・アート』)
この短編小説集がデビュー作であるにもかかわらず、並みいる評論家たちの激賞を浴び、ブラム・ストーカー賞、英国文学大賞、 国際ホラー作家協会賞を総なめしてしまった、「驚異の新人」ジョー・ヒルが、たとえ本人は極力伏せようとしてみたところで、 あの現代ホラーの第一人者スティーヴン・キングの次男坊であることは、まぎれもない事実なのであるから、
たとえば、
ホラー傑作選の選者であるエディは、大学の文芸誌に収められた「ボタンボーイ」という作品に衝撃を受け、ようやく探しだした謎の作者 キルルーの自宅を訪ねるのだが、そこにはどこか不穏な雰囲気を漂わせる奇妙な兄弟が待ち受けていた。(『年間ホラー傑作選』)
ある朝突然、巨大な昆虫に変身してしまったフランシスは、自分を殺そうとした父親を誤って殺害してしまうが、その臓物をバリバリと たいらげたいという本能を、もはや抑えることができない自分に気付くのだった。(『蝗の歌をきくがよい』)
変質者に誘拐されてしまった少年フィニィが、閉じこめられた地下室の壁には、線が切られた黒い旧式の電話がかけられていた。みんなと 同じように自分も死ぬのだと、希望を失いかけていたある日、つながるはずのない電話機に、誰かから電話がかかってきて・・・(『黒電話』)
死体のように痩せこけ、身長は二メートルを軽く越えているうえ、こめかみは影ができるほど窪んでいる、アリンジャーがガイドをつとめるのは、 亡くなった著名人の「末期の吐息」を展示する「静寂の博物館」だった。興味を示す息子を残し、母親は早く帰りたいと飛び出して・・・ (『末期の吐息』)
精神に疾患を抱える弟のモリスは、大量の段ボールの箱を使って、地下室に精密な要塞を築き上げる。ある日、兄ノーランの親友エディが、 制止を振り切ってその中に迷い込む。それは兄から悪友を「離れさせる」ためのモリスの企みだった。(『自発的入院』)
などなど、
文庫本700ページに収められた17編の短編のどれもが、身も凍りつくほどのホラーや、思わずにやりとさせられるようなブラック・ユーモアに 満ち溢れた、極上の作品群であることは間違いないのではあるが・・・
もはや取り戻すことのできない青春時代の、はかない友情を描いた『ポップ・アート』に流れている、 この心優しい哀切さに、溢れる涙を押しとどめることができなくなってしまったのはどうしたわけだろう。
なにしろ、意思を伝え合い、議論を交わし、たがいを貶し合ったり褒め合ったりした、おれの一番の親友アーサー・ロスは、 話すことができず、メモ帳を吊した紐を首にかけ、ポケットにクレヨンを入れて、発言したいときは紙に書くという、 「空気で膨らませる人形だった」のだから。
もうたくさんだよ。まじめな話――もう限界だ。一日に十五、六回も空気が抜ける。ほとんど一時間に一回の割合でだれかに空気を 入れてもらわなきゃいけない。しじゅう気分が悪くてうんざりする。こんなの、生きてるうちに入らない。
「やめろよ」視界がぼやけた。涙があふれ、目からこぼれ落ちた。「そのうちよくなるよ」
いや。そうは思わない。死ぬかどうかの問題じゃない。どこで死ぬかが問題なんだ。とうとう決めたよ。どこまで高く昇れるかためしてみる。 ほんとかどうかたしかめたいんだ。空のてっぺんが開くかどうか。
2012/2/24
「あんぽん」―孫正義伝― 佐野眞一 小学館
孫正義は成り上がり者だから、いかがわしさを感じるのか。ノーである。
孫正義は元在日朝鮮人だから、いかがわしさを感じるのか。ノーである。
では、孫に対して感じるいかがわしさやうさんくささは、どこから来るのだろうか。
昭和32(1957)年、佐賀県鳥栖駅に隣接し、地番もないという理由で無番地とつけられた朝鮮部落に生まれ、 豚の糞尿と、豚の餌の残飯、そして豚小屋の奥でこっそりつくられる密造酒の強烈な匂いの中で、この男は育った。 「経済白書」が「もはや戦後ではない」と高らかに謳った「高度経済成長」の上り坂を、誰もが一目散に駆け上がろうとしていた時に、 在日三世という重荷を背負った彼は、敗戦直後の生活以下のどん底の極貧生活からスタートしなければならなかったことになる。
旧姓である日本名「安本」を「あんぽん」と呼ばれることをひどく嫌ったのは、その韓国風の発音が、出自を隠して生きねばならない 自らの自尊心を傷つけたからなのだという。
そんな彼が、16歳でアメリカの高校に留学して、韓国姓を名乗るようになるや、たちまち水を得た魚のように「IT企業家」としての頭角を現す。 その後、日本へと凱旋帰国した彼は、「孫」という韓国姓にこだわり、様々な難題を乗り越えてまで、 韓国姓のまま日本に帰化する道を選んだのだった。
東京・汐留の高層ビルのオフィスフロア最上階にあるソフトバンク本社に象徴されるように、この孫正義という男が、 いまや日本の将来を左右しかねないトップリーダーとして、目もくらむような高みにいることは、誰も否定することのできない事実である。 しかも、東日本大震という未曽有の危機に際しては、手も足も出ない、リーダー不在の日本の政治家たちを尻目に、 被災者に百億円の義捐金をポンと出した上で、十億円のポケットマネーで反原発の旗まで振ろうとしている。
この本は、そんないまだかって例をみないほどの孫正義の「エネルギー」が、一体どのあたりに由来しているのかを探るべく、孫家の血脈を 三代前まで遡って調べ上げ、必要とあれば韓国にまでルーツを追って、現存する父方・母方の親族全員に取材した渾身のルポなのである。
生活力のない祖父に変わり、残飯を集め豚を飼って一家を支えていた祖母は、仔豚に自分の乳を飲ませるほど情が深かった。
おまえは天才だと言い続け、我が子ではなく“社会の子”として育てた父は、密造酒とパチンコとサラ金で稼いだ金をたっぷり息子に注いで 立派な教育をつけさせた。
お互い耳をふさぎたくなる卑語、猥語の限りを尽くして罵り合い、争いの絶えない親戚たちは、陶器の皿で頭をかち割り、 血だるまになって警察の厄介になるほど、仲が悪いのだった。
孫正義はまるで、こんな“身体性”100%の「血と骨」の世界で成長したことで、逆に“身体性”0%の「唯脳的」世界へと、 飛翔を遂げることができたかのようなのである。
私たちはなぜ孫から眼を離せないのか。孫の軌跡に日本人ではまず成し得ない物語を見ているからである。私たち日本人はいまだ未練がましく、 高度経済成長の再来という“地上の夢”を夢想している。だが、孫はそんな地上の夢をはるか離れて成層圏を突破しようとしている。
2012/2/21
「道化師の蝶」 円城塔 文藝春秋
「旅の間は本を読めないものですしね」
エイブラムス氏は、わたしの拙い英語をきちんと聞き取れたのかどうなのか、どうも判断しかねたらしく眉を寄せ、気ままに振り続けていた 捕虫網の動きを止めた。わたしの顔をしばし見つめて、丸太のような腕を大儀そうに持ち上げてみせ、銀糸の網をそっとわたしの頭に置いた。
「話をきかせてもらいましょうか」
東京―シアトル間の飛行機の中で隣席に座ったその男は、アフガニスタンの職人に特別誂えさせたという、銀線細工で微細な呪文が 無数に織り込まれた小さな捕虫網を持ち歩いていた。
「わたしの仕事というのはですな、こうして着想を捕まえて歩くことなのです。」
エイブラムス氏がこの時捕まえたのは、<旅の間にしか読めない本があるとよい>という着想で、それが『飛行機の中で読むに限る』に始まる 一連の『〜で読むに限る』シリーズの大ヒットにつながり、やがて彼は巨万の富を築くことになった。
本年度、芥川賞受賞作品。
「これは小説になっていないという意見もあれば、読んだ人たちの多くが二度と芥川賞作品を手に取らなくなるだろうとまで言う委員もいた。」 (宮本輝)という選評に代表されるように、極めて難解で前衛的という噂のわりには、なぁんだ以外に簡単じゃないのと思ったら大間違いで、
冒頭に少しだけご紹介したこの小説の第T章は、実は希代の多言語作家<友幸友幸>の小説『猫の下で読むに限る』からのほぼ全訳で、 無活用ラテン語というほぼ使用者が存在しない人工言語で書かれたこの本を翻訳した<わたし>は、エイブラムス氏の私設記念館のエージェント として、生年不明、生地不明、生死不明の<友幸友幸>の痕跡を探し求めることで生計を立てているのだった、
というあたりから、話の筋を追いかけていくことがいささか怪しくなってくるのではあるが・・・
本来それは、三本の編み棒を同時に使えた場合に可能となる模様について考察する人物の独白よりなり、一時期わたしはそんなことに凝っていた。 クイズの答えは簡単で、呼吸の合った相手があれば、二人で一つの編み物をするのは可能で、腕は一本余りさえする。
という『腕が三本ある人への打ち明け話』が、もしも日の目を見たところで、この世には腕が三本ある人はいないのだから、誰にも理解は叶うまい。 なんて、モロッコのフェズで現地のお婆さんからフェズ刺繍を習っている≪わたし≫の一人語りがお気に召すような方なら、 大丈夫とこの暇人が保証しよう。
なにしろ、『腕が三本ある人への打ち明け話』は、東京―シアトル間を飛ぶ間の暇潰しとして、それをキオスクで購入した、 あちらの<わたし>の膝の上に載っていたわけなのだから、こちらの≪わたし≫こそが<友幸友幸>であるに違いなく、そればかりか、 あの捕虫網を編んだのも≪わたし≫なのなら、どうやら≪わたし≫も、あの飛行機に乗りあわせていたらしいのである。
一人の男が難しい顔でペーパーバックの頁をめくり、膝へと投げ出し目を瞑る。その男には見覚えがある。どこで見かけたのかを思い出そうと、 わたしは男の頭へ滑り込み、中に詰まった言葉を押しのけ外へと散らす。何かを思い出したり考えたりするのはわたしではない。 そんな機能はこの体に備わらない。そうした機能を得ようとするなら、何かの頭を借りねばならない。
わたしは男の頭の中に、卵を一つ産みつける。
言葉を食べて、卵から孵る彼女は育つ。
こうしてわたしは思考を続ける。
2012/2/20
「共喰い」 田中慎弥 文藝春秋
「痛いんか?」
「した時ほどやないけどね。」
「俺、根本的に下手なんかのう。」
「それ、間違うちょると思う。経験と努力の問題やない?」
お互いにとって初めてのセックスは誕生日まで取っておこうという約束を、一か月もしないうちに当然破って以来、今日が何度目だかも、 もう分からなくなっていた。一つ年上で別の高校に通う会田千種とセックスすることしか考えていないような、17歳の篠垣遠馬が 思わず黙り込んでしまったのは、「経験」というのが、千種を殴ることのような気がして、気勢を削がれてしまったからだったのだろう。
遠馬が小さい頃からよく分からない商売をしていた遠馬の父は、セックスの時、どうしても女を殴り付けずにはおられない男で、 それが理由で父のもとを去った10歳も年上の母・仁子さんは、空襲で失われた右腕の先にステンレスの爪のような義手を嵌めて、 今も変わらず近くで魚屋を営んでいる。
「なんかいねさっきから。恐ろしげな目ェしてから。」
「なんが。」
「おんなじ目、しちょる言うそよ。もうちょいと、」と自分の顔を指差して、 「こっちに似せて産んじょきゃあよかったけど、もう手遅れじゃわ。」
ほとんど憎悪に近い感情で父との関係を乗り越えようとしながらも、望みもしない父の「血」を受け継いでしまったことに怯えている不肖の息子、 という神話的原型の物語。
本年度、芥川賞受賞作品。
「もらっておいてやる」という受賞会見の方が話題騒然となったことはご承知の通りだが、
「のお遠馬、お前こないだ、アパートで、雨宿りやったんじゃろうが、ああ?わしは、言うちょくけえの、ちょっとも怒っちょりゃせんけえの。 全然、怒っちょらん。ええぞええぞ、どんどんやったらええ。どうじゃった、ああ?お前も、ばっしばっしやりながらじゃろうが。 よかったんじゃろうが、ああ?一回やってしもうたら、やめよう思うても無理ぞ。わしは、やめようとは思わんかった。こねえにええもんか、 思うただけじゃった。」
という、ときに聞くに堪えないほどの存在感あふれる博多弁の洪水に圧倒されている間に、まるでその隙間を縫うかのようにして、
時々見かける大きな猫が、虎毛の背を波打たせて声も足音も立てずに店の中に入ってき、仁子さんのいる座敷へ上がり、裏口へ歩いてゆく。 あまりにも大きなうしろ姿だったので、魚屋の方が猫の体の中を通り抜けていった感じがした。 家一軒が通るなら、川底のごみや川辺に滞っている時間も、猫の体を楽に通り抜けてゆきそうだった。
なんて、登場人物のうちのいったい誰が、これほどに落ち着いた視線をもちあわせているのかと疑わせるかのように、 時間について哲学的に省察する地の文が嵌め込まれていて、
う〜む、なるほど。
確かにこの作家は、相当に作為的に複雑な作風の持ち主のようなのではある。
川と違ってどこにでも流れていて、もしいやなら遠回りしたり追い越したり、場合によっては止めたり殺したりも出来そうな、 時間というものを、なんの工夫もなく一方的に受け止め、その時間と一緒に一歩ずつ進んできた結果、川辺はいつの間にか後退し、 住人は、時間の流れと川の流れを完全に混同してしまっているのだった。
2012/2/17
「日本史の誕生」―千三百年前の外圧が日本を作った― 岡田英弘 ちくま文庫
その国はもと、また男子をもって王となした。住すること七、八十年、倭国は乱れ、あい攻伐して年を経た。 すなわち共に一女子を立てて王となした。名は卑弥呼という。
と『三国志』の「魏志倭人伝」に描かれる「その国」の、博多の倭人たちの中の一酋長にすぎなかった師升が、 後漢の光武帝より「漢倭奴国王(かんのわのなのこくおう)」と認められて、あの有名な金印を賜ることになったのは、 倭人の諸都市連合との、交易のための安定した窓口を求めていた、あくまで後漢側の都合によるものだった。
そんな倭王の師升が、13歳の安帝を擁立したばかりだった後漢のケ太后に朝貢の使者を送ったのは、西暦107年のことであるが、 これもまた、極めて不安定だった政権基盤をてこ入れするために、友好国の君主の中では序列の高い倭王の支持表明を得るための、 後漢側からの工作によるものだった。
つまり、「倭国」にしても、「倭国王」にしても、実際にそういう名前の王国が、2世紀初めの日本列島に存在したわけではなかった ということなのである。
それから80年、「邪馬台国」の卑弥呼が、諸国の合意のもとに新しい倭王に選挙された時には、霊帝の治世下にあった後漢朝は、 その屋台骨を揺るがす大事件に見舞われていた。
それが西暦184年の「黄巾の乱」であり、後漢の勢力が衰退した結果、それまで中国皇帝の権威に依存して成り立っていた博多の倭王の権威も 同様に失墜し、倭人諸国の連合が破綻して戦乱が起こったのだ。
ようやく西暦238年にいたって、卑弥呼の使者が洛陽の朝廷を訪問し、後漢の後を襲った魏の皇帝から「親魏倭王」の王号を賜る。 この時初めて、卑弥呼は自らの王権に対する正式の承認を、中国皇帝から取り付けることができたことになる。
要するに、邪馬台国・卑弥呼の王権も、中国皇帝の後援と倭人諸国の合意のもとに、きわどくその秩序を維持していたもので、 決して強大な権力と言えるようなものではなかったのである。
倭は辛卯の年(391年)をもって来たりて海を渡り、百残(百済)・□羅(新羅)を破り、もって臣民となす。
と高句麗の『広開土王碑』に刻まれた、難波の河内王朝にしたところが、<讃・珍・済・興・武>の倭の五王によって運営されていたという この王朝の、<仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧>の七代に渡るという天皇の系譜とその事蹟は、あくまで702年に完成した 『日本書紀』における後付けの伝聞なのであって、その支配権は、東隣の伊勢と西隣の播磨を制した後も、いまだ紀伊国や吉備国などと 覇を競わねばならないのが実情であった。
天智天皇は、ただちに日本列島防衛のための統一事業に着手した。都を近江の大津に移し、成分法典『近江律令』を制定した。その中で、 倭王は今後、外国に対しては「明神御宇日本天皇(あきつみかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこと)」と自称することを規定した。
西暦663年、『白村江の海戦』で新羅と連合した唐軍の艦隊に敗れ、全滅した斉明天皇の倭軍は、百済を失い韓半島から締め出されることになる。 迫りくる唐の脅威に危機感をもった日本列島内の諸国はそれぞれ自発的に解体して旧倭国と合同し、倭国の皇太子だった天智天皇は668年に 大津の京で即位を宣言する。
これが「日本」という国号と「天皇」という王号の起源なのであり、「日本の誕生」であった。
そして、新しいアイデンティティの基礎となる歴史を必要とした新生日本国で、天智の弟の天武天皇によって編纂されたのが『日本書紀』なのである。 だから・・・
まあ、とにかく一度、読んでみてください。目から鱗が落ちっぱなしですから。
その内容は、日本の建国の年代を天智天皇の668年ではなく、それより1327年前におき、日本列島は、紀元前660年の神武天皇の即位 以来、常に統一され、万世一系の皇室によって統治されてきたこと、日本の建国には中国からの影響も、韓半島からの影響もなかった ことを主張するものである。
2012/2/12
「帝国以後」―アメリカ・システムの崩壊― Eトッド 藤原書店
「グローバリゼーション」をめぐる論争は、部分的に現実と遮断されたところがある。というのも、グローバリゼーションとは、 いかなる国も特異な地位を占めることのない、同質的で対称化された通商的・金融的交換であるという公認教義的なイメージが、 あまりにもしばしば受け入れられているからである。労働、利潤、資本流通の自由といった抽象概念が、一つの基本的要素を覆い隠している。 すなわち世界経済の新たな編成の中における最重要国の特殊な役割という要素である。
1950年から1990年までの世界の非共産化部分に対するアメリカの覇権は、まさに「帝国」の名に値するものだったはずである。
しかし、「グローバリゼーション」というあくまで自らにとって都合のいいシステムの中で、自由貿易を賞揚するアメリカが担うことになった役割は 「生産」ではなく「消費」であったため、対立勢力としての共産主義が崩壊した1990年から、2000年までのわずか10年で、 アメリカの貿易赤字は1000億ドルから4500億ドルへと、飛躍的に膨張することになった。
つまりアメリカは、世界経済全体から金を取りたてる能力を大量に増加させることに成功したわけだが、それはまた、客観的には「略奪」を こととする存在となったということでもあった。アメリカは、今後は自分の生活水準にとって不可欠となった世界への覇権を維持する、 ただそのためだけに、政治的、軍事的に闘わねばならなくなったのである。
人間が、より正確に言うなら、女性が読み書きを身につけると、受胎調節が始まる。現在の世界は人口学的移行の最終段階にあり、 2030年に識字化の全般化が想定されている。
住民1000人あたりの出生数が、1927年には年間42.7だったのが、1975年には18.1に減少している・・・
というたった一つの事実から、人口学者であったに過ぎないトッドが、まことに鮮やかに「ソ連共産主義の崩壊」を予見して見せたのは、 「識字化による受胎調節の普及」こそが「国家の近代化」の始まりの指標であり、民主主義の浸透を可能にするものだという確信からだった。 ロシアにも正常な人間が出現していることは確実で、こうした正常な人間には、共産主義を打倒する能力があるに違いないというわけである。
そして、いまや多くのイスラムの国々が、「読み書きを知らない世界」の平穏な心性的慣習生活から抜け出して、 全世界的な識字化によって定義される「もう一つの安定した世界」の方へと大規模な移行を敢行しつつある兆しが見える。
にもかかわらず、アメリカは・・・
地球規模で「唯一の超大国」としての威厳を保たんがための際限のない軍事行動を正当化しようと、問題を決して最終的に解決したがらず、しかも、 経済力、軍事力、イデオロギー力では衰退の一途を辿っていることを押し隠さんがだけのために、イラク、イラン、北朝鮮、キューバ等の小国に 目標を定め、いわば二流の行為者と「対決」することで、アメリカの国力を誇示しようとしているかのようだが、仮想敵国のリストとその国力が、 逆にアメリカの国力の程度を客観的に規定する結果となっている。
と、まことに小気味のいい切れ味の論評を、心ゆくまで堪能したのだった。
すなわち、世界が民主主義を発見し、政治的にはアメリカなしでやって行くすべを学びつつあるまさにその時、アメリカの方は、 その民主主義的性格を失おうとしており、己が経済的に世界なしではやって行けないことを発見しつつある、ということである。
2012/2/10
「イスラーム生誕」 井筒俊彦 中公文庫
渺たるアラビア砂漠の一点にこの人物が現れて妙な言葉を口ばしると、忽ちそれに応じて全世界が動揺し、惑乱し、 果ては東洋の歴史ばかりか西洋の歴史まで大きく旋回してその流れの方向を変えてしまう。(中略)
彼の正体は一体何だろう。使徒か、預言者か、英雄か、あるいはまた昔のキリスト教徒が考えたように悪魔の化身か。 欺瞞者、一世の大山師か。
<この人物>が現れる前の、後に「無道時代」(ジャーヒリーヤ)と呼ばれることになる古アラビア時代。 荒寥たるアラビア砂漠に生きる人々(ベドウィン)にとって、人間生活の単位は「個人」ではなくて「部族」だった。
不羈奔放な彼らは他から干渉されることを嫌い、常に粗衣粗食で見た目は極めて貧相でありながら、内には野生の気魄を秘めた「騎士道精神」に 満ち溢れていたが、部族的な血の共同性を基礎とし、「血のつながり」を絶対神聖視していたため、その圧倒的な人情味が発揮されるのは、 自分の部族のなかにいる時だけに限らていた。
ひとたび部族の圏内を踏み出して、異部族に向うやいなや、彼らは恐るべき悪鬼に変貌する。限りない勇気をもって、いかなる獰猛な行為でも 平然としてやりおおせる、粗暴な意思を持つもののみが尊ばれたからである。
そんな「アラビア騎士道」の聖なる「慣行」(スンナ)を、<この人物>は狂愚迷妄と断言し、「無道時代」の人々が立っていた存在の根基 そのものに恐るべき一撃をくらわせることになる。
「我々は我々の祖先が、汝の説き勧めるごときことを為した例をかつて知らぬ」と、 その大胆無謀極まりない宗教改革の運動に、驚愕し、狼狽し、激怒した人々に対し、<この人物>は答える。
「汝らは、祖先の歩んで来た途が明らかに蒙昧頑愚の途であることを知りながら、しかもなお過去に執着することをやめないのか」と。
<考えてみれば、どれもこれも全てムハンマドというたった一人の人物が出現したためだ。>
というのが、新宗教イスラームの預言者ムハンマドの軌跡を辿った、第一部「ムハンマド伝」。
元来「イスラーム」はアラビア語では前イスラーム的に長い歴史をもつ言葉であって、預言者ムハンマドが使いはじめた言葉ではない。 この語は、特に「アスラマ」という動詞の形で、ジャーヒリーヤ時代の文献に盛んに使われている。
「一般的に人が自分の大事な所有物、手放すのがつらいような貴重な所有物を他人の手に渡してその自由処理に任せるということである。」 という、「無道時代」には純粋に人間と人間との間の社会的行為として、宗教的な関連は全然考慮のうちになかった言葉を、
「断乎として自我の意欲を切り棄て、すべて神の心のままにうち任せ、神のはからいがどうあろうとも、その結果の好悪については敢えて問うまい」 という「神への絶対無条件的な依存の態度」つまり「宗教的次元」に移して使った(あるいは、そのように神の啓示を受けた)のが、 ムハンマドだった。
自分をすっかり神に任せ(イスラーム)てしまった人「ムスリム」と、不羈奔放な騎士道精神(ジャーヒリーヤ)を重んじる人「ジャーヒル」。
<この対立は人間の歴史を二分する時代区分的概念ではなくて、一人の個人の一生を二つの時期にわける宗教実存的概念だったのである。>
というのが、意味分節理論を用いた分析によりイスラーム教の思想を叙述する、第二部「イスラームとは何か」。
「モーセも預言者ならキリストも預言者、そして今や自分もまたセム的一神教の預言者系列の最後を飾るべく 同じ唯一の神の命を受けてあらわれた預言者だ。」と、瞬く間に宗教的軍事的一大勢力となってキリスト教を席捲した新宗教の歴史的発端の謎に迫り、 「イスラーム」と呼ばれる宗教の精神を解明して見せた、
これは知的興奮請け合いの名著なのである。
2012/2/5
「西鶴の感情」 富岡多恵子 講談社文芸文庫
『好色一代男』を出版した時、西鶴は四十一歳だが、このひとは大阪難波の「俳諧師」としてすでに知られていたと、 たいていのものの本にはある。ただし「俳諧師」というのは、どんな暮しをし、どんな日常を送っていたのかは、教えてくれない。 『俳諧師西鶴』の著者(乾裕幸)は、俳諧師には「鉱山師(やまし)・香具師(やし)・道化師・軽業師・賭博師」とひびき合うニュアンスがあり、 そこにひそむ「いかがわしさ」が「俳人西鶴」ではなく「俳諧師西鶴」に通じるとしているが、一昼夜で二万三千五百句をつくるため、 三十三間堂通し矢のヒソミに倣ってのものものしい舞台装置に配役で、「矢数俳諧」なるものを神社で「興行」するというのは、 たしかに「いかがわしい」。
24時間で2万3500句を吐き続けるといえば、食事等を考えに入れず単純計算しても、1分間に16句強の速さである。 そんなことが人間の業として可能なのかと疑われるかもしれないが、この興行が実際にあったことは事実なのであり、 西鶴本人もまるでそれを誇るかのように、その後「二萬翁」と自称さえしているのだった。
「人情をいふとても今日のさかしきくまぐま迄探り求め、西鶴が浅ましく下れる姿あり。」(『去来抄』) と、そんな暴挙に対する同時代の俳人・芭蕉の冷たい蔑みを浴びながら、
「或問(あるひととふ)何んとて世の風俗(ならはし)を放れたる俳諧を好るるや答曰(こたへていわく)世こそつて濁れり我ひとり清り 何としてかその汁を啜り其糟をなめんや」どうして、こっちが濁った汁を啜らねばならぬのかと、居直って見せた当時26歳の西鶴は、
「五七五」も「七七」も自立せず、前後の「関係」のなかでしか有効ではないという、複数の同好者による連句の世界(言うまでもなく芭蕉は そこでの巨匠である)に対し、その「関係」のくり返しを単独で可能にすることで、「関係」全体の独裁権を手にしようとする、 「独吟」というスタイルを打ち立てようとしていた。
それは、西鶴という若者の「作家的自我」の芽生えだったのではないかというのが、『中勘助の恋』という名品の発表以来、 「評伝」というジャンルに新境地を開いた、「作家・富岡多恵子」の読みなのである。
西鶴は大阪という町なかで、じっさいどういうことをし、どういうもの腰で他人とつき合い、日常のさまざまなことにどういう感情で 対していたのか。作品以外にほとんどその人物像を知るすべのない「浮世草子作者・井原西鶴」という肩書つきの、 実際には大阪在住の俳諧師である一人の男が、どんな感じで生きて、『一代男』のような読み物を書くハメに陥ってしまったのかということを、 あくまで「書かれたもの」(作品)から、想像してみようという試み。
それはまた、
「去ほどに扨もそののちに 残る櫻が花しにほはば」(浄瑠璃の出だしのきまり文句ではないが、自分の書いた浄瑠璃本が残れば、それが辞世だ) という、こちらも西鶴の同時代人、浄瑠璃作家・近松門左衛門が遺した辞世には、名門の武門に生まれた近松の、甲冑者としては「まがひもの」 という自己認識と同時に、浄瑠璃作者としては「まがひもの」ではないという自負が込められており、 「近松なるひと」はまぎれもなき知識階級出身のひとだということがわかるというあたりで、冴えに冴えわたっているのだが、 「西鶴なるひと」の『感情』は、そのような評論の思惑を軽くすり抜けてしまうようなのではある。
井原西鶴、享年52歳。
人生50年、それさえ自分には長いくらいなのに、さらに加えて2年も生きてしまったというのだった。
辞世 人間五十年の究り、それさへ
我にはあまりたるに、ましてや
浮世の月見過ごしにけり末二年
2012/2/1
「灘校・伝説の国語授業」―本物の思考力が身につくスローリーディング― 橋本武 宝島社
薄い文庫本を3年かけて読み解く。
こんな授業をやろうと思った背景には、「自分が中学生だったとき国語の授業で何を教わったのだろうか?」という自問がありました。
私は、この自問に対して何も答えられないことに、愕然としたのです。
3年かけて読み込む教材として選ばれたのは、中勘助の『銀の匙』。
「これはやはりたいへんなものだとおもったのだ。なんというのか、大人でなければ書けない文章なのだが、あきらかに子供がその日々の中で 感じている言葉だけをつかっている。」(『千夜千冊』とあの松岡正剛も激賞する、明治期の日本の姿を緻密に描き出した、 知る人ぞ知る自伝的小説の名著だった。
昭和20年、当時はまだ公立高の滑り止め的存在にすぎなかった灘中が高校を新設して中高一貫教育となり、 教科担当者は6年間持ち上がりで、その授業内容をすべて一任されることになった。 そしてそれが、灘高をついには東大合格日本一に押し上げることとなった、橋本先生の『伝説の国語授業』の始まりだったのである。
生半可なことでは、生徒の心に何も残すことができない。何かひとつでもいいから、子どもたちの心に生涯残るような授業をしたい――。 この想いの末にたどり着いたのが、この方法でした。
橋本先生がこの授業で大切にしていたのは、「寄り道する」、「追体験する」、「徹底的に調べる」、「自分で考える」という4つの姿勢だった。
「ぺんぺん草」という言葉一つから、「春の七草」→「七草粥」という平安王朝の風習→「秋の七草」→「短歌」と「旋頭歌」の違いへと、 次々に寄り道を重ねたり、文章の中に聞いたことのない「駄菓子」が出てくれば、実際に授業中に配って食べてみたり、 寿司屋の話題をきっかけに、「魚偏」の漢字を徹底的に調べ上げ、集めてくるよう勧めてみたり、 学び方を学ぶためのこの授業のやり方は、確かに生徒たちの自ら学ぼうとする意欲を育てるものであっただろうし、
新聞連載だった『銀の匙』の各章に、自分なりの題名をつけ、その要旨をピッタリ200字でまとめるという訓練が、 英語や社会はもちろん、物理や数学といった理系科目でも、その理解度を深めるのに役立ったことは間違いないだろう。
とはいうものの、灘校には、当然他の教科にも優秀な教師は存在したはずだし、 だいいち、6年間持ち上がりなのだから、他の5学年の国語は別の教師が受け持っていたわけで、 橋本先生の『奇跡の教室』だけが、灘校を東大合格日本一に押し上げたわけではあるまい、
と思ったら・・・どうやらこれが、あながち言い過ぎというわけでもなさそうなのだった。
この授業を受けた最初の生徒たちが、6年後の春には東大に15名合格(1956年)、6年後には東大に39名・京大に52名合格(1962年)、 更に6年後には132名が東大に合格し、東京都立日比谷高等学校を抜いて東大合格者数全国一位となる(1968年)。 その後も、6年後に120名(1974年)、また6年後に131名(1980年)が東大に合格――という快挙を成し遂げる。(ウィキペディアより引用)
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