徒然読書日記201201
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2012/1/23
「フランス革命」―歴史における劇薬― 遅塚忠躬 岩波ジュニア新書
フランス革命は、その結果において、ブルジョワだけの利害に適合した社会、つまり、資本主義の発展に適合した社会をもたらしたのです。 そのような意味で、フランス革命の基本的性格はブルジョワ革命なのだ、と言ってよいのです。
ただ、そうは言っても、フランス革命は一直線にブルジョワ革命への道を歩んだわけではなく、そのジグザクな進路において、 ルイ16世を筆頭に多数の人々を断頭台に送り込む「恐怖政治」のような徹底的革命路線をも経験することになるのは、いったいなぜなのか。
「フランス革命は、貴族・ブルジョワ・民衆・農民の担う四つの革命の複合体である」 というのが、いまや世界の学説の定説になっている歴史家ルフェーブルの「複合革命説」であるが、
1787年、王権に対する反抗運動を担った貴族たちは、89年以降は、多数の反革命派の保守的貴族と、 少数ではあるが有力な自由主義貴族に分裂することになる。一方、旧体制の徹底的打破を求める民衆と農民たちは、 同時に、ブルジョワとの格差を生む資本主義の発展には反対するという立場で一致していた。
その中間に位置することになるブルジョワたちは、妥協的な改革で革命を終わらせようと考える自由主義貴族たちと同盟する道を選ぶか、 大衆と同盟して、徹底的革命の道を選ぶかという、まことに難しい選択を迫られることになったのである。
89年の大衆の蜂起に対し深刻な危機感を抱いたブルジョワは、当初は大衆と手を切って、妥協的改革路線を取ったのだが、 オーストリアやプロイセンなどの外国勢力と手を結んだ保守的貴族の反革命運動に、後退を余儀なくされることになる。 そこで、実質的に対抗できる力をもたないブルジョワは、大衆と手を結び、徹底的改革路線へと大転換を図ることになった。
92年8月10日、ブルジョワと手を結んだ大衆の蜂起により、王制は倒れフランスは共和国となる。しかし、資本主義反対運動と 表裏一体となった大衆運動の、反資本主義的な要求に譲歩できなかったブルジョワのこの路線も長続きすることはなかった。
1799年11月9日(ブリュメール18日)。フランス革命はその遺産をナポレオンに引き渡すことになる。
つまり、一旦は「劇薬を飲んだ」ことが、結局、フランス革命に独特の性格を与え、革命の偉大と悲惨の両面をもたらすことになった、 というのである。
フランス革命の最大の課題は、ブルジョワと大衆の対立をなんとかカッコの中にくくって、貴族←→(ブルジョワ←→大衆) というかたちをつくることでした。しかし、資本主義にふさわしい社会をつくろうとするブルジョワと、 その資本主義をおしとどめようとしている大衆との間の、利害の対立をどう調整したらよいのでしょうか。 この、フランス革命の最大の課題をどう解決するか。それをめぐって、革命期に、さまざまな党派が深刻な対立を展開し、 ついには諸党派間の殺し合いにまでいたります。その深刻な対立が、劇薬フランス革命の偉大と悲惨の両面を生んだのです。
2012/1/22
「絶望名人 カフカの人生論」 Fカフカ 頭木弘樹・編訳 飛鳥新社
将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。
将来にむかってつまずくこと、これはできます。
いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。
―フェリーツェへの手紙―
―何事にも成功せず、失敗から何も学ばず、つねに失敗し続けた。
―結婚したいと強く願いながら、生涯、独身だった。
―身体が虚弱で、胃が弱く、不眠症だった。
―家族と仲が悪く、とくに父親のせいで、自分が歪んでしまったと感じていた。
生きている間、作家としては認められることなく、普通のサラリーマンとして、生活のためにイヤイヤ働き続け、 長編小説に取り組めば、すべて途中で行き詰まり、未完のまま、死ぬまでついに満足できる作品を書くことができず、 自分の作品はすべて焼却するようにという遺言を、ただ一人の親友、マックス・ブロートに託して、40歳で結核で死亡した。
「彼は、もはや断じて追い越すことのできないものを書いた。・・・この世紀の数少ない偉大な、完成した作品を彼は書いたのである」 (ノーベル文学賞作家エリアス・カネッティ)
『変身』『城』『審判』などの珠玉の作品を残した、20世紀最大の作家、フランツ・カフカが、 「父が・・・」「仕事が・・・」「胃が・・・」「睡眠が・・・」といった、おそろしくネガティブな日常の愚痴を、 大量の日記やノートとして残していた。
誰よりも落ち込み、誰よりも弱音をはき、誰よりも前に進もうとしない、カフカは「絶望の名人」なのだというのである。
しかし・・・ちょっと待てよ。
冒頭の文面が、実は恋人に宛てて書いたラブレターの一節で、結局、フェリーツェはカフカのプロポーズを受け入れて、 二人は婚約することになったのだと聞けば、これはもう、
「僕には君を幸せにする自信はないけれど、君と結婚すれば、僕が幸せになる自信はある」という、まるで根拠のない「自信」だけで、 ミチコたんのハートを射止めて見せた、ハマちゃん@「釣りバカ日誌」と、双璧の快挙と言わねばならず、
むしろ、あらかじめ自分で自分にわざとハンデを与えておくことで、失敗したときに自尊心が傷つかずにすむ、 というあたりが、私のような自意識過剰人間にはよく理解できる、カフカお奨めの「幸せの処方箋」なのである。
幸福になるための、完璧な方法がひとつだけある。
それは、
自己のなかにある確固たるものを信じ、
しかもそれを磨くための努力をしないことである。
―罪、苦悩、希望、真実の道についての考察―
2012/1/11
「イメージを読む」―美術史入門― 若桑みどり ちくま学芸文庫
目に見えるものとして示されている色や形や大きさやひろがりや組み合わせを研究して、それが表現し、伝えている意味を探り、 人類の文化の歴史のなかに位置づけ、自分たちの文化にとって意味あるものとして価値づけるのです。そのことによって原始の時代から 人類が創造してきた芸術のもつ意味と価値が、人類の歴史や現在、未来のなかでしっかりと位置づけられるわけです。
目に見えない感情や思想やメッセージを、目に見えるかたちのイメージによって表現する、
非言語的な「表現」の行為である「美術」を解釈するためには、しかし、言語記録を解釈するのとは違った特別な方法が必要になる。
では、どうやってそのようなイメージを解釈すればよいのだろうか?
それぞれの民族や文化の長い底深い伝統に支えられて、ある時代に共通することになったヴィジュアルな特徴(スタイル)を分類し、 分類された視覚形式に照らし合わせて個々の作品を位置づける、「様式論」。
なぜある時代にその様式が支配的だったのか。芸術作品が創造された理由や意味を探り、その作品がどういう意味をもって伝承されたかをたどり、 人類の総合的な歴史の中に芸術の歴史を関連づける、「図像解釈学」(イコノロジー)。
たとえば、描かれている男や女の姿を、それぞれマリアや聖人や聖職者などと特定し、その画面が聖書やその他の経典や書物や説教の どの部分を描いたのかを特定する。表現されている個々の図像の主題と意味を解明するのが、「図像学」(イコノグラフィー)。
これら三つの方法論を総合的に使用して、著名な美術作品を解釈してみせることで、美術史の知識のない人に、 「芸術というものがいかに社会的に意味をもつものであるか」、そのおもしろさを理解してもらいたい。
これは美術史を専門とする著者が、北海道大学教養学部の、つまりは美術史を専門としない学生を相手に行った、 五日間のまことに刺激的な集中講義「美術史入門」の記録なのである。
取り上げられた作品は、
≪システィーナ礼拝堂の天井画≫
ミケランジェロが法皇庁の命により礼拝堂に描いたノアの大洪水の構図には、物質的な快楽や豪奢をむさぼる当時の法皇アレクサンドル六世や ローマ教会の堕落に対する神の刑罰としてイタリアは滅亡するだろう、とするサボナローラの危険な予言のイメージが隠されていた。
≪モナ・リザ≫
レオナルド・ダ・ヴィンチは、科学も政治も道徳も、戦争や金儲けさえもが神の名においておこなわれていたこの時代において、 心の底では神をもはや信じていなかったひとりの個人だった。四元素の必然の運命によって地球は動き、そして絶え間なく老いていき、 やがて終末を迎える。あなたがたは何も知らないのだ、とこの女の人は神秘的な笑顔でほくそ笑んでいるのである。
などなど・・・う〜む、なるほど。
ちょっと、そこのアナタ。これでは、『ダ・ヴィンチ・コード』なんか読んで興奮している場合ではありませんぞ。
おしまいに、こういう話に対して必ず出される反論についていっておきます。
それは、「画家はそんなにむずかしいことを考えて描いたのじゃない。かりにそうだったとしても、絵を理解するのには、 ただきれいだ、好きだだけでたくさんだ」といういい方です。これに対しては、私はこう答えなければなりません。 少なくとも、ある時期までは、画家は思想を伝えるためにのみ描いていたのです。宗教的か、道徳的か、哲学的か、 それはものによってことなりますが、
ある時代までは、絵画は、重要な意味のメディアだったのです。
2012/1/6
「象が空を」 沢木耕太郎 文藝春秋
その言葉によって喚起されるイメージは、最初、象がアドバルーンのように空に浮かんでいるというものだった。 ディズニー映画のダンボのように大きな耳を使って飛びまわる、とまではいかないにしても、風船のように体を膨らませた象が 空中をふわふわ漂っている、といった姿が想像されたのだ。
「たとえば、象が空を飛んでいるといっても、ひとは信じてくれないだろう。しかし、四千二百五十七頭の象が空を飛んでいるといえば、 信じてもらえるかもしれない」
それが、<一見幻想的な出来事をきわめて克明に描写して、出来事に独自な現実性を与えるあなたの手法は誰から学んだものなのか> というインタビューアーの問いかけに対する、ガルシア・マルケスの答えである。
<文学にも応用できるジャーナリズム的からくり>というものが、そこにはあるというのだった。
『路上の視野』(1972〜1982)に続く、次の10年の沢木耕太郎の全エッセイを集めたのがこの本なのだが、 旅紀行、スポーツ観戦、インタビュー、映画批評、書評など、様々にその形式は変わったとしても、 決して変わることのないノンフィクションライターとしての沢木の姿勢が、そこには貫かれている。
あるいは、私たちが日常的に行っている「ノンフィクションを書く」という行為も、本来は極めて古臭くフィクショナルなものとして 印象されるストーリーを、いくつかの固有名詞、いくつかの数値で、危うくリアリティーを繋ぎ留めつつ述べていこうとする、 虚実の上の綱渡りのような行為なのかもしれないという気がしてきた。
ノンフィクションを書くという行為は、「滑る際に事実という旗門を必ず通過していかなくてはならない」という点において、 「とりあえず最高のスピードで滑り降りればいい」ダウンヒル(滑降)ではなく、スラローム(回転)競技に似ている、と考える沢木にとって、
『路上の視野』が、どのようなフォームで旗門を通過するかに腐心した10年であったとすれば、
『象が空を』の10年は、旗門からの逸脱という危険性をはらみつつ、さまざまなコースの取り方を試みながら滑り続けてきたのだという。
つまり、この出色のノンフィクションライターは、
『象が空を』飛んでいる姿を、ジャーナリスティックに描くことを目指そうとしているのではなく、
『象が空を』ふと思い出したかのように見上げている、その<象>たらんと、日々格闘を続けているようなのである。
私は、文章の中の生き生きとした「私」の獲得に全力を注いだあげく、やがてその「私」に中毒するようになり、 今度はいかにこの「私」から脱していくかに腐心せざるを得なくなった。
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