徒然読書日記201112
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2011/12/25
「吉原御免状」 隆慶一郎 新潮文庫
一、前々より制禁のごとく、江戸中端々に至る迄、遊女之類隠置べからず。若違犯之輩あらば、其所之名主五人組地主迄、可為曲事者也
一、医院之外、何者によらず乗物無用たるべし
附 鑓長刀門内え堅停止たるべき者也
<どうして先生は、こんな猥雑な町へ行けと、遺言を残されたのか>
江戸・新吉原の見返り柳の前に、どっしりした石垣を築き、屋根つきで立てられている高札を読みながら、 松永誠一郎は、戸惑いを覚えざるを得なかった。
時は明暦3年(1657年)。
剣豪・宮本武蔵に拾われ、肥後の山中で鍛え上げられた、捨て子の誠一郎には、「26歳になったら江戸に向かい、庄司甚右衛門を尋ねよ。」 という遺言が残されていた。
庄司甚右衛門とは、江戸開府とともに遊郭の吉原を自力で開いた男であったが、訪ね当てた西田屋で誠一郎を出迎えたのは、 2代目主人の庄司甚之丞だった。すべての事情を知るはずの庄司甚右衛門は、すでに死んでいたのである。
「吉原以外の場所に遊女を隠し置いた場合は、罰を加える」という「特権」の保護を与え、 「医者以外は、たとえ大名であろうとも、大門の内へは槍も駕籠も許されない」という平等な「自由街」の存在を許した、 徳川家康の「神君御免状」は、なぜ甚右衛門だけに許されたのか。
その甚右衛門に会うことを勧められた誠一郎は、自らも知らないどんな秘密を抱えているのか。
裏柳生の総力を挙げてまで、御免状を取り戻そうとする幕府の狙いは何なのか。
町奉行の手も届かない完全な自治組織、人工の街・吉原の入り組んだ街区の中で、ちゃっかり花魁たちとの華麗な逢瀬を重ねながらも、 なぞの老人・幻斎の水先案内により、誠一郎がやがて知ることになったのは、 「無縁」や「公界(くがい)」の世界を舞台に繰り広げられる、「傀儡子(くぐつ)一族」や「道々の輩(ともがら)」の、 つまりは、虐げられた者たちが跳梁跋扈する、痛切なる歴史の記憶だったのである。
「主さんに・・・惚れんした」
勝山の声が甦ってくる。『みせすががき』の音が、荒寥たる辛さと悲しさを帯びてきこえた。
(俺は、今日まで、何をして来たのか)
誠一郎の頬が濡れている。丁度四月前、初めてこの坂に立ち、初めてこの音を聞いて、自分が今と同じように泣いたことを、 誠一郎ははっきりと思い出していた。
2011/12/23
「世界史の誕生」―モンゴルの発展と伝統― 岡田英弘 ちくま文庫
歴史は、強力な武器である。歴史が強力な武器だからこそ、歴史のある文明に対抗する歴史のない文明は、 なんとか自分なりの歴史を発明して、この強力な武器を獲得しようとするのである。そういう理由で、歴史という文化は、 その発祥の地の地中海文明と中国文明から、ほかの元来歴史のなかった文明にコピーされて、次から次へと「伝染」していったのである。
ほとんど全世界を支配する強大なペルシアに対して、統一国家ですらない弱小のギリシア人たちは、いかにして奇跡の勝利を収めることができたのか という物語、ペルシア戦争の由来を描いたヘーロドトスの『ヒストリアイ』に端を発する、アジアとヨーロッパの対立という歴史の主題に、 『ヨハネの黙示録』に代表される、世界は善の原理と悪の原理の戦場であるというまことに無邪気な「二元論」を振り回すキリスト教の歴史観が、 絶妙に重ねあわされた、「対決」の歴史文化を持つのは「地中海文明」である。
実際には秦の始皇帝から始まったはずの、全「天下」を統治する皇帝という地位は、歴史の最初から別の名前ではあるが存在していた ということを主張せんがために、人間界の歴史の冒頭に、神話の世界に属する「五帝本紀」を置く、司馬遷の『史記』によってその礎を築かれた、 皇帝権力の起源を「天命」で保証する、「正史」というスタイルを営々と継承し続ける、「正統」の歴史文化を持つのは「中国文明」である。
そして、「歴史」という文化を他からの影響によらずに独自に生み出した文明は、驚くべきことに、この2つ以外にはないというのだった。
ところが、ここで大きな問題は、地中海文明の歴史文化と中国文明の歴史文化とが、全く性質が違って、混ぜても混ざらない、 水と油のようなものであることである。そのために、地中海型の歴史(西洋史)と、中国型の歴史(東洋史)とを取り合わせて見ても、 単一の世界史を作ることは不可能になる。
中国文化に養われて成長してきた日本人にとって、歴史とはどの政権が「正統」であるかを問題とする中国型の「万国史」なのであり、 東西それぞれ縦の脈絡がついていたものを、「時代区分」で輪切りにし、一つおきに積み重ねたのでは、 いくら「東西交渉史」など工夫してみたところで、まるきり話の筋が通らない。しかも、東洋史と西洋史を合体した「世界史」には、 なぜか「国史」に由来する日本史が含まれないため、まるで日本の歴史は世界史に何の影響も与えないものであるかのごとくではないか。
というのが、私たちが学校で学んだ「世界史」という教科の哀しい現実だというのは、誰もが経験していることだろう。
「必要なのは、筋道の通った世界史を新たに創り出すことである。」
そのためにはまず、歴史が最初から普遍的な性質のものではなく、東洋史を産み出した中国世界と、西洋史を産み出した地中海世界において、 それぞれの地域に特有な文化であることを、はっきり認識しなければならない。この認識さえ受け入れれば、中央ユーラシアの草原から東と西へ 押し出して来る力が、中国世界と地中海世界をともに創り出し、変形した結果、現在の世界が我々の見るような形を取るに至ったのであると考えて、 この考えの筋道に沿って、単一の世界史を記述することも可能になる。
それが、13世紀に建国されたモンゴル帝国である。
モンゴル帝国は、東と西を結ぶ「草原の道」を支配することによって、ユーラシア大陸に住むすべての人々を一つに結びつけると同時に、 ユーラシア大陸の大部分を統一したことによって、それまでに存在したあらゆる政権が一度ご破算になり、あらためて新しい国々が分かれた。
中国も、ロシアも、インドも、トルコも・・・、
実は、現代のアジアと東ヨーロッパの諸国は、み〜んなモンゴルから生まれてきたのである。
1206年の春、ケンティ山脈のなかの、オノン河の源に近い草原に、多数の遊牧部落・氏族の代表者が集まって大会議を開き、 テムジンを自分たちの共通の最高指導者に選挙し、「チンギス・ハーン」の称号を奉ったのである。これがモンゴル帝国の建国であり、 また、世界史の誕生の瞬間でもあった。
2011/12/10
「グレート・ギャツビー」 Sフィッツジェラルド 中央公論新社
僕がまだ年若く、心に傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えてくれた。その言葉について僕は、 ことあるごとに考えをめぐらせてきた。
「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。 「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」
60歳になったら翻訳を始めようと心に決め、それまではしっかりと神棚に載っけて、ときどきちらちらと視線を送りつつ、人生を過ごしてきた、 それほどまでに、自分にとってはきわめて重要な意味を持つ作品だと考えていた村上春樹が、「僕ももうそろそろギャツビーを手がけられる くらいの段階に来たんじゃないかな」という手応えのようなものに支えられて、満を持して挑んだという、
これは1925年に刊行されたフィッツジェラルドの哀しくも美しい名品の新訳なのである。
声をかけてみようかと思った。ミス・ベイカーが夕食の席で彼の話を持ち出していたし、それが自己紹介のきっかけになるだろう。 でも結局声はかけなかった。というのは、彼がそのときにとった突然の動作によって、この人物は一人でいることに満ち足りているのだ と察せられたからだ。
高級住宅地イースト・エッグの対岸、ウェスト・エッグの岸辺に立って、イースト・エッグの桟橋の先端につけられた緑の灯火に向けて両手を 差し出し、身体を震わせていたのは、5年前に身分の違いから仲を引き裂かれたデイジーを「愛する資格」を得るために、 涙ぐましい努力を重ねて成り上がってみせたギャツビーだった。
すでに人妻となっていたデイジーの邸宅の対岸に豪邸を構え、毎夜大盤振る舞いのパーティーを繰り広げることで、ようやく二人は再会を果たす ことになるのだが、
ギャツビーが愛していたのは、デイジーそのものではなく、その「社会的地位」という記号にすぎず、つまり、自分はそんな彼女を愛するために 努力を重ねることに、生きることの意味を見出しているにすぎないのではないか、という疑念が芽生えるようになった時、
物語が哀しい結末を迎えざるをえないことは、ギャツビーにもわかっていたに違いない。
これは、そんなギャツビーが両手を空に向けて差し延べている束の間に見た、ひと夏の淡い夢のような物語なのである。
そこに座って、知られざる旧き世界について思いを馳せながら、デイジーの桟橋の先端に緑色の灯火を見つけたときのギャツビーの驚きを、 僕は想像した。彼は長い道のりをたどって、この青々とした芝生にようやくたどり着いたのだ。夢はすぐ手の届くところまで近づいているように 見えたし、それをつかみ損ねるかもしれないなんて、思いも寄らなかったはずだ。その夢がもう彼の背後に、あの都市の枠外に広がる茫漠たる 人知れぬ場所に――共和国の平野が夜の帷の下でどこまでも黒々と連なり行くあたりへと――移ろい去ってしまったことが、 ギャツビーにはわからなかったのだ。
「でもまだ大丈夫。オールド・スポート」
明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。・・・そうすればある晴れた朝に――
2011/12/8
「仕事のなかの曖昧な不安」─揺れる若年の現在─ 玄田有史 中公文庫
「日本では貧富の格差が拡大しつつある」、「中流階級が崩壊し、富める人々とそうでない人々の二極化が進んでいる」といわれる。 マスコミや雑誌も、格差について、多くの特集を組んでいる。・・・
このような格差拡大のイメージにもかかわらず、研究者のあいだでは、格差の拡大は生じていないと指摘する声が多い。たしかに統計データを よくみると、所得格差が広がりつつあるという証拠は必ずしもみられない。しかしその一方で、格差拡大に対して社会全体の意識としての 「曖昧な不安」はたしかに広がりつつある。
「自分の働く機会である雇用の将来についても漠然とした不安を感じている人は多い。」
そんな複雑な社会経済の問題を、「わかりやすい」主張で一刀両断に解説するのではなく、 雇用や教育といった生活に密接な問題は、自分の個人的な経験だけで何となく語れてしまうところに、怖さがあるのだから、 むしろ、データにもとづく客観的な事実のみから、「曖昧な不安」の本質に迫ることを目指そうとした、というこの本は、 2002年度の「サントリー学芸賞」、「日経・経済図書文化賞」をW受賞した、いまや伝説の名著なのである。
犯罪増加などの社会不安をもたらすとして、欧米では重大な問題と捉えられている「若年の失業者」の問題が、日本ではさほど深刻に 考えられてこなかったのは、
1.少子高齢社会の進展によって、若年は慢性的に労働力不足の状態にある。
2.若年の失業は主として働くのがイヤで辞めた自発的な失業であり、働きたくても働けない中高年の非自発的失業とは性格を異にする。
からだというのだが、本当にそうなのだろうか。
多くの企業は「リストラ」という言葉を背後にちらつかせながら雇用調整を進めている。だが実際には、企業内部の人員整理の難しさを反映し、 ほとんどの場合、調整は新規採用の抑制を中心に行われている。
「いつまでたっても後輩の社員が入社してこない」
「業務の末端としての仕事がどんどん増え続ける」
「何時になっても仕事が終わらない」
「より高い技能や知識の獲得によるステップアップが期待できない」
仔細にデータを見れば見るほど、むしろ中高年が既に得ている雇用機会を死守しようとする代償として、 若年の就業機会が奪われている事実が見えてくる。
つまり若者たちは、「やりがいを感じられる仕事」、「誇りや満足を感じることができる仕事」に出会えるチャンスを奪われ、 「ある日、会社を辞める」ことを決意するのである。
仕事に貴賎はない。しかし、仕事にはあきらかに異なる二種類のものがある。一つは、仕事をする過程で学習や訓練の機会が豊富であり、 働くことで人々が能力や所得を向上させていくことができる仕事である。もう一つは、仕事のなかでみずから多くを学ぶ機会が乏しいため、 その職務自体からは能力向上や働く意味を見出せない仕事である。
若者たちの「働く意欲」が低下したのではなく、こだわりがもてる、自分の未来や成長を感じられる、自分に誇りをもてる仕事に出会える機会が、 一握りの人々に限定される傾向が強まっている。
決して「所得格差」が広まっているのではない。「仕事格差」が広まっていることこそが、 日本人が抱える「仕事のなかの曖昧な不安」の正体なのだというのだった。
働くなかでの、所得格差に対する不安や、いいようのないストレス。自発か、非自発か、曖昧ななかでの雇用不安。リストラ、フリーター、 パラサイト・シングル。仕事をとりまく不安をぼんやり感じながら、議論はそれをすりぬけ、本質的ではない問題ばかりがならべられる。
「いかに働くべきか?」。「仕事ができる人とは?」といったたぐいの本が続々と登場している。その主張は明快であるものの、 よく読むとその意味も不正確なまま、成果主義やコンピテンシーという言葉がならんでいる。不明確な言葉や表現が、 かえって不安をかきたててはいないだろうか。
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