徒然読書日記201110
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2011/10/31
「合気道とラグビーを貫くもの」 内田樹 平尾剛 朝日新書
よく時代劇であるじゃないですか。目と目が合ったところで、「参りました」というのが。 あれは身体能力の強度を測っているんじゃなくて、どちらがたくさんフライングしているか、その時間差を測っているんだと僕は思うんです。
「1秒でも時間が遅れているひとは絶対勝てないですよ。」
という、「ことばを操る武道家(@平尾)」内田樹が、30年にも及ぶ合気道修行の中で会得したらしい「極意」が、
ラグビー選手だったらおそらくだれもが経験していると思いますけれど、「あいつが来たら止められへんな」って感じる相手が必ずいる。 一瞬、目の前から消えてしまうんです。苦手意識があるからだと説明しているけれど、それは違うんですね。
「あれって要するに、時間を割っているからなんだ。」
なんて、「ことばを持ったラガーマン(@内田)」平尾剛の耳に入れば、いともたやすく体験的に了解されてしまう。
6歳で心臓疾患をわずらったせいで、小学校中学校と「身体能力の低い子ども」というぱっとしない立ち位置をキープしながら、 それでもなけなしの身体能力をどうやって開発したらいいのかという、わりと切ない個人的な課題を引き受けててきた人間(=内田)にとって、
抜群の身体能力をフルに発揮する幸福な少年期を送り、ジャパンのキャップ11のトップアスリートにまで登りつめたほどの人間(=平尾)が、 身体の可能性を開花させる方法について、「そうだよね」とうなずき合ってくれるというのは、まことにうれしいことのようなのだった。
「すべての人間はそれぞれに固有の、個性豊かな身体能力・身体特性を賦与されており、それが開花する喜びはすべての人間に均しく 保証されている。」
身体能力を「数値」で示し、その能力の「優劣」を競うという考え方が、 プロスポーツばかりか、学校体育のあり方までをもスポイルしてしまっていることを深く憂えた『甲南麻雀連盟』同志による、
これはまことに「気持ちのいい」、身体コミュニケーション論の四方山話の宝箱なのである。
内田 武道の才能って、煎じ詰めれば、1つしかないんです。それは「気持ちが悪い」ということがわかる、ということなんです。・・・ スポーツの根性主義はだから危険なんです。「気持ちが悪い」「厭だ」という生物の本性に根ざしている感覚を、身体的な苦痛に対して 鈍感になることによって乗り切ろうとする。
・・・
平尾 言い方を変えれば、「ごちゃごちゃ言う力」っていうのが、人間の身体能力のなかでいちばんおいしいところのような気がしますね。 「何か変やなあ」って感じることに、何でやろと考えて「ごちゃごちゃ言う」。「ごちゃごちゃ言う前にやらんかい!」と怒鳴るのは 指導者の怠慢ではないのかと、僕はずっと疑問に感じていました。
2011/10/27
「日本は悪くない―悪いのはアメリカだ」 下村治 文春文庫
日本人の多くが感じているように、GNPが高い割に生活水準が思ったほど上がらない理由はここにある。どんなに生産性が高く、 巨額の外貨をかせいでくる産業があっても、また、その結果として日本にどれほど外貨がたまっても、一方で、 どうにもならないくらい生産性の低い産業を、国民の就業機会を確保するために温存している状態では、たとえば、 世界一高いコメを食べることになり、生活水準がそれほど上がるはずがない。
「そんなバカなことをなぜやるのか」とアメリカが大声を出して恫喝してくると、 「アメリカがあれだけ大声を出すのだから、何か不都合なことがあったのかもしれない」 と思って、右往左往してしまうというのが、日本の哀しい現状なのである。
しかし、よく考えてみてほしい。
この一億二千万人は日本列島で生活するという運命から逃れることはできない。そういう前提で生きている。中には外国に脱出する者があっても、 それは例外的である。全員がこの四つの島で生涯を過ごす運命にある。
「その一億二千万人が、どうやって雇用を確保し、所得水準を上げ、生活の安定を享受するか」
これこそが「国民経済」の根本であるという考え方からすれば、「多くの人に就業の機会を与える」と同時に、 「なるべく人手を減らして生産性を高める」必要があるため、
「生産高の割りには人手を多く必要とする生産性の低い部門」と、「徹底的に合理化して相対的に人手をあまり必要としない生産性の高い部門」 という、両極端の産業を保護育成し、その絶妙なバランスの上に立って、今日の日本人の生活を支えなければならなかったというのは、 ことの必然なのである。
つまり、先のようなアメリカの身勝手な恫喝に対しては、「日本人がバカだから仕方がない」と答えねばならない。 外国人に「そういうことはやめよ」と言われる筋合いはない。「好きで選んだ道なのだ」と答えるべきだというのだった。
「財政支出の異常な増加によって、水ぶくれの経済成長がもたらされ、輸入が急増している」ことこそが、 米国の貿易収支が赤字になる原因なのであり、
「米国の経営者が血まみれになって産業を起こそうとか、維持しようという意気込みが弱い」ことで、米国の輸出が伸びないのだから、
『日本は悪くない―悪いのはアメリカだ』
というこの本は、驚くべきことに、昭和62年当時、米国の貿易収支が大幅な赤字を出しているのは、日本の行き過ぎた貿易黒字のせいだという 「ジャパン・バッシング」に応えて書かれたものなのである。
30年以上の時を過ぎて、TPP交渉参加を巡って沸騰する議論の中で、日本はまた選択の道を誤るのだろうか?
2011/10/26
「批評理論入門」―「フランケンシュタイン」解剖講義― 廣野由美子 中公新書
昨今では、批評理論についての書物は数多くあるが、具体的な読み方の実例をとおして、小説とは何かという神髄を、 偏りなく示したものは、あまり見られない。そこで本書では、小説技法と批評理論のどちらか一方ではなく、両方が重要である という基本的考え方のもとに、小説の読み方に両面から迫った。
「ストーリーとプロット」、「焦点化」、「性格描写」、「間テキスト性」など、小説に用いられる15のテクニックについて詳述されるのが、 第一部の「小説技法篇」。
「伝統的批評」、「ジャンル批評」、「フェミニズム批評」、「文化批評」など、有力な作品分析の13の方法論について、 具体的な作品を俎上に乗せた上で平易に解説して見せるのが、第二部の「批評理論篇」。
そして、栄えある解剖の題材として選ばれたのは、
『フランケンシュタイン―あるいは現代のプロメテウス』(メアリ・シェリー 1818)
だれもが「それ」についてのイメージを持っていながら、おそらくあまり読まれていないだろうという作品だった。
(たとえば、「フランケンシュタイン」というのは、あの「怪物」を作った男の名前であって、「怪物」自体の名前ではない・・・とか。)
テクストが互いに矛盾した読み方を許すものであること、言い換えるなら、テクストとは論理的に統一されたものではなく、 不一致や矛盾を含んだものだということを明らかにするための批評である。
という、フランスの言語哲学者ジャック・デリダの哲学から生まれた「脱構築批評」なるものは、現代の批評理論のなかでも最も難解なものだ という定評があるらしいが、
「いかなる父親も、私ほど完璧に、自分の子供から感謝を要求する資格はないだろう。」と、死体から生きた人間を生み出したことを 偉業と誇ったフランケンシュタインが、結局はその醜さゆえに忌み嫌い、怪物を捨てて逃げ去ったのに対し、
「創造主であるおまえが、被造物のおれを嫌って踏みつけにするのか?おれとおまえは、どちらかが滅びぬかぎり断ち切ることのできない絆 によって結ばれているのに。」と逆に怪物から皮肉と蔑みを受け、やがては復讐を受けることになるという意味で、
『フランケンシュタイン』という小説は、「親と子」、「創造主と被造物」といった二項対立的な西洋的イデオロギーを「脱構築」した作品 とも読めるのだ。
なんて言われたりすると、何となくわかったような気にならないわけでもないのだった。
これもまだ、言語以前の段階だが、この時期に、幼児は鏡に映った自分の姿が見分けられるようになり、 それによって自我の統一的イメージを持ち、これと同一化して自己形成しようとする一方で、イメージと自分自身との間のギャップを感じ、 疎外感を経験する。また、母親と自分、さらにその他の人々が、別々の存在であることを認識するようになる。
という、フランスの精神分析学者ジャック・ラカンの「鏡像段階」に基づく「精神分析批評」にしたところが、
母が死んだ直後、その喪失感を解決できないまま大学に進学したフランケンシュタインは、母と一体化する方法を学問研究の中に求め、 出産の実験に取り組むのである。
と分析されているのを読めば、あのラカンだって「お茶の子さいさい」てなものなのである。
これはまさに、読み応えたっぷりの『新・小説神髄』の試みともいうべき本だった。
2011/10/20
「ザ・リンク」―ヒトとサルをつなぐ最古の生物の発見― Cタッジ 早川書房
イーダは嫌な匂いのするこのガスに気づく。ほかの生き物もだ。生き物たちはみな、ただちに反応したが、 イーダはまだ腕の力が足りないため、体を起こして水際から離れるのが遅れてしまう。イーダはすっぽりとガスに包まれた。 体を二つに曲げ、胎児のような姿勢になる。やがて意識を失うと、あたりにいたほかの生き物たちとともに湖の中に落ちていった。
1982年、フランクフルトの南東35キロに位置するかつての石炭採掘場、メッセル・ピットで発掘されたその化石は、 「これまでに見たこともないようなサルが1ドル銀貨ほどの厚さに押し潰されている」そんな感じの化石だった。
胎児のような姿勢のまま固まって、湖の底で永遠の眠りについていたイーダの、それは実に4700万年ぶりの目覚めだったのである。
しかし、それがその年代の古さにもかかわらず、化石資料には珍しく、体の95%が化石化した、過去に例のないほど保存状態のいい資料 だったからといって、なぜ「ロゼッタ・ストーンのようなもの」とまでなぞらえられるほどの、生物学上の大発見と賞されることになったのか。
もしある種の生き物(たとえばクマ)が漸進的な変化の連続で全く別のもの(たとえばクジラ)に変わりうるなら、化石記録には、 途中の段階の生き物が残っているはずだ。ところがそんなものはない。中間が欠けている。
「ヒトの先祖はサルである」というダーウィンが唱えた進化論に対し、アダムとイブが人類の祖であるとする人類誕生神話を信じ、 拒絶反応を示した人々の典型的な反論は、
「それならなぜ、ヒトでもサルでもないというその中間の化石が存在しないのか」というものであった。
ところが、どうやらイーダと命名されたこの霊長類の化石は、その生物学的特徴や、存在年代から考えて、ヒトとサルの共通の祖先であるらしい。
要するに、イーダは今では正しいことが認められているダーウィンの「進化論」を裏づける、 遅ればせの「失われた環」の発見だったということのようなのである。
筆者が、ホモ・サピエンスもまた類人猿の一種であるかのように、類人猿と私たち人間を併せて「私たち」と呼んでいることに、 多少の違和感を覚える読者がいるかもしれない。真猿類とさえ言いづらいような、4700万年前の生き物であるイーダを祖先として扱い、 少なくとも大おばの一人として家族のアルバムの収まる資格があると見なすのは、まったくもって奇妙な話ではないか。 どう考えても、私たちはそうした生き物より上のはずだ。そうでないかのように振る舞うのは、冒涜にほかならないではないか、と。
「私たちはいったい何様のつもりなのか?」
2011/10/19
「蜘蛛女のキス」 Mプイグ 集英社文庫
「彼女は脚を組んでるの。靴は黒よ。ヒールの高くて太い。靴の先のところが開いていて、黒いペディキュアを塗った爪がのぞいてたわ。 光沢のあるシルクのストッキングが肌にぴったりくっついてるものだから、 肌がピンクなのかストッキングの方がピンクなのか区別できないのよね」
「すまないが、頼んだことを忘れないでくれ。刺激的な話はやめてほしいんだ。ここでやられたんじゃかなわない」
不眠に悩み寝物語を頼んでおきながら、その濃密な内容にいささか閉口しているようなのはバレンティン、彼は26歳のテロリストだった。
超B級映画『黒豹女』の筋書きを、思い入れたっぷりに語って聞かせているのはモリーナ、彼女は実は37歳のホモセクシャル、 つまり中年男なのである。
この物語が、全編ほぼこの2人による会話のみで進められていくことになるのは、マルクス主義革命を標榜する政治犯バレンティンと、 未成年の子供への猥褻罪で懲役刑を受けたモリーナとが、同じ房に収監されることになったから。
そんなわけで、このお話はブエノスアイレスの刑務所が舞台となっているのであれば、 ごくノーマルな異性愛者であるバレンティンが、「ここでやられたんじゃかなわない」と悲鳴を上げるのも、無理のない話なのではあった。
男にキスをされると黒豹に変身してしまう自らの血筋にまつわる伝説におびえる『黒豹女』。
パリの有名な歌姫がナチスの青年将校を愛したがために命を落とす『大いなる愛』。
顔に恐ろしい傷を負ってしまった美貌の青年ととても醜い顔をしたメイドとの結婚を描いた『愛の奇跡』。
許婚者が抱える秘密も知らずカリブ海の島に嫁いだ娘を襲う恐怖の体験『甦るゾンビ女』。
それぞれの映画に自分なりの思い入れを込めて、ヒロインになりきって語り続けるモリーナに対し、 政治的な立場からどうしても合理的に解釈してしまい、余計な茶々を入れて興趣を削いでしまうバレンティン。
初めのうちはすれ違うことの多かった2人の会話も、密室での共通の時間を過ごすうちに、いつしかお互いへの理解も深まっていき・・・
「知りたいことがあるんだけど・・・あたしにキスするの、すごくいやなことだったの?」
「う〜ん・・・。きっと、あんたが黒豹にならないかと心配だったからだ、最初に話してくれた映画に出てくるみたいな」
「あたしは黒豹女じゃないわ」
「確かに、あんんたは黒豹女じゃない」
「黒豹女だったらすごく哀れね、誰にもキスしてもらえないんだもの。全然」
「あんたは蜘蛛女さ、男を糸で絡め取る」
結局、保釈を餌にバレンティンから情報を聞き出すことを託されたモリーナは、その約束を果たすことなく当局の期待を裏切り、 囮として釈放されたことも知らず、バレンティンからの伝言を伝えようとして、逆に秘密の漏洩を恐れた仲間たちに殺害されて しまうことになるのだが、
それは恐らく、愛する男のために命を捧げるという、モリーナが最も望んでいた最期だったというべきなのだろう。
<聞きたくないわ、あなたの仲間の名前だけは>、マルタ、ああ、どんなに君を愛していることか!これだけが君に言えなかったんだ、 おれはそれを君に訊かれないかと心配だった、そうしたら君を永久に失うんじゃないかと、<だいじょうぶよ、バレンティン、 そんなことにはならないわ、だって、この夢は短いけれど、ハッピーエンドの夢なんですもの>
2011/10/18
「在日一世の記憶」 小熊英二・姜尚中編 集英社新書
戦後、肉類は高価で買うことができんでした。陣の原の屠場でハムの加工のために剥いだ豚の皮を買いに行きました。 皮は日本人は食べんので、家畜の餌か肥料などにしていたもんです。家に持ち帰って、子どもらにも手伝わせてカミソリで毛を剃るのですが、 刃もすぐにだめになり、下処理も大仕事でした。大鍋に湯を沸かし皮を茹でて、一晩置いておくとゼラチンが固まって煮こごりのようになります。 その固まりを刻んで、キムチと一緒に食べると栄養たっぷりのごちそうになりました。
強制連行という虐げられた植民地の「恨」を、歴史の語り部として「アリラン」に託し歌い継ぐ親子がいる。
民族教育運動に奔走する夫と家族を支えるため、四十余年間もの間、苛酷であるが故に見入りのいい「海女」として働き続けた母もいる。
「大阪で鉄道の仕事がある」と騙されて、北海道の炭鉱に強制連行されて以来64年、90歳になってようやく帰郷した祖国で、 妻子は行方不明だったという男もいる。
朝鮮半島に生を享けながらも、日本の植民地政策に起因して渡日し、そのまま残留せざるを得なくなった人々、およびその子孫。
かれら「在日一世」の生々しい記憶を聞き取り、記録に残しておこうという、これは今を逃してはもはや手遅れとなるに違いない試みの、 貴重な成果なのである。
しかし、ここに取り上げられた52人の「在日一世」の人生のどれもが、差別と苦難の連続に打ちのめされて終わったというわけでは、 もちろんない。
戦後の混乱の中、屑鉄拾いから身を起こし、パチンコ店の経営や焼肉店のオーナーとして、大成功を収めた立志伝の持ち主もあれば、 牧師、歴史学者、詩人、画家、教育者として、歴史の中にそれなりの名を刻んだ人もいるし、
革新的だった父の影響から共産党員となって出会った朝鮮人男性と結婚し、国籍を朝鮮に変更してしまった(しかもその後離婚した) 日本人女性の数奇な人生さえ、そこには含まれているのである。
在日一世と聞いて、多くの日本の人々はどんなイメージを持つのだろうか。そもそも、そんな言い方で表される「異邦人」がいること すら知らない人々が多いのではないか。
という編者、姜尚中の懸念に対し、
「戦前に飛行場建設工事のため連れてこられた朝鮮人の飯場が戦後もそのまま放置されててね。一軒がずっと続いて建ってて、 水道もなかったし風呂もない。」いわゆる<朝鮮部落>や、
「生活のためにリヤカーで豚の餌にする残飯集めや屑鉄集めをやってました。」のが当たり前の<極貧の生活>、
「よういじめられましたよ。『朝鮮ブタ一貫目一五銭』いうて、石投げてきたりね。」お定まりの<烈しい差別>など、
戦前生まれの親の世代から語り聞かされた「在日」のイメージしか持ち合わせていなかった者にしてみれば、 もちろん、それらは隠しようのない事実であったのだとしても、
むしろ、彼らの逞しい生き様の方が、より強く脳裏に刻みつけられることになるのだった。
わたしは反日という言葉が嫌いなんだよ。だから憂日という言葉はどうですか。国家という言葉は嫌いだから、 自分たちが住んでる川崎市も含んだ地をあえて愛する。しかし愛すればこそ、憂いを持って警告を発することができる。 在日が一つのマイノリティ集団として果たす役割がここにあるのじゃないかしら。
2011/10/5
「名画の言い分」 木村泰司 ちくま文庫
現代の日本では、やたら「感性で美術を見る」―好きか嫌いか、感動するかしないか、といった尺度で見る―などといいますが、 感性で近代以前の西洋美術を見ることなど不可能です。なぜならば西洋美術は当然、西洋文明の中で生まれてきたもので、この西洋文明自身が 「人間の感性などあてにならない。理性的でなければ」というところから始まっているからです。
「美術は見るものではなく、読むものです」
というのが、カリフォルニア大学バークレー校で西洋美術史を修め、ロンドン・サザビーズ美術教養講座ではその鑑賞眼を磨いた、 この本の著者の持論なのである。
その時代の歴史、政治、宗教観、思想、社会背景など、膨大な量の知識を習得していなければ、 その作品内在するメッセージや意図を読み解くことなど、とてもできるものではないというのだった。
とはいうものの、美術のプロを目指すわけでもない者にしてみれば、今さらそんなこと言われたって無理だと思うことになるのだが、
どうぞご心配なく。
「古代ギリシア彫刻の男性が全裸なのは・・・」
(古代ギリシアは、美の原点を男性の美しさに求める、完全に男尊女卑の社会だったから。)
「初期キリスト教美術の絵がとても下手に見えるのは・・・」
(立派な3次元彫刻のギリシアやローマの神々と見分けをつけ、偶像崇拝を避けるため、あえて平面的でのっぺりしたものに描いたから。)
「キューピッドは弓矢を持った天使ではない!」
(古代ギリシア時代のエロスの神であるキューピッドは、愛と美の女神ヴィーナスの息子。つまり男の子の神様で、 もちろん一神教であるキリスト教の宗教画には登場しない。
天使は一神教の神の意志を人間に伝える使者で、男女の性別はなく、たいてい着衣で描かれる。たとえ裸の男の子っぽく描かれたとしても、 キューピッドのように神話の場面に登場することはない。)などなど。
その時代になぜその絵が描かれたのか、という「その時代のエッセンス」を、おおまかにつかむことさえできれば、あら不思議。
その作品にどんなメッセージが託されているのかを読み解くことができるようになり、 西洋美術のもつ楽しさと面白さを十分に味わうこともできる。
つまり「名画の言い分」をきちんと聞いてあげることこそが、西洋美術鑑賞の醍醐味であり、早道だというのだった。
そもそも画家が自由に自分の好きな絵を描くようになったのは18世紀以降のこと。それ以前の作品は、古代ギリシアに遡るまで、 ある一定のメッセージを伝えるものでした。そこには明確な意図が内在しているのです。 西洋美術史とは、それらのメッセージや意図を正確に読み解いたうえで、その作品のもつ世界を十分に味わうことにほかなりません。
2011/10/4
「雷電本紀」 飯嶋和一 小学館文庫
まるで異なる領域で、一人相撲を取っているとしか映らなかった。しかも魔物のようにしなやかに動く。 肩、腕、背中、太股、ふくらはぎに至るまで、巨大な筋肉の塊が、激しい光のように躍動する。 三階の桟敷までびっしりとつまった見物客たちは打ちのめされたように声もない。もはや相撲見物などという悠長なものではなかった。
生涯254勝10敗2引き分け14預かり5無勝負。
寛政2年(1790)から文化7年までの21年という年月に渡り、江戸大相撲における「西の関」として、前代未聞の戦績を残した、 雲州「雷電」為右衛門。
この困ったような八の字眉と下がり目で、顎がしゃくれた馬ヅラの、化け物じみた大男の取る相撲は、それまで見物客たちが目にしていた どの相撲人とも似てはいなかった。
当時の相撲人といえばほとんどが大名のお抱えであり、藩の名目をかけた諸大名の家来たちが多数桟敷のよい所に陣取って見守る中、 それがゆえの「拵え相撲」(いわゆる八百長)も決して珍しくはなかったのだが、
明石藩に召し抱えられ幕内二段目に位置する押しも押されもせぬ相撲人が、藁束のように宙を舞う様を見せつけられた。 それまでの約束ごとなどどこにもなく、大相撲が持っているどこか安全な芝居じみたものが吹き飛ばされ、 はじめて実の一部を突きつけられた思いが、客席を打ちのめしていた。
表面は平静を保ちながら、一皮めくれば、貧富の差は広がるばかりの、失政続きの江戸の町で、裏店の暮らし向きは悪くなる一方の庶民たちにとって、 何の妥協もなく、一心に全力を振り絞り、強大なものにたった一人で立ち向かっていく若者の姿に、快哉を叫ぶことは、 抑圧され俯くばかりの日々の暮らしの鬱憤を晴らし、顔を上げて生きることにつながるような、一筋の希望の光だったに違いない。
しかしそれはまた、いつの間にやら飼い馴らされて、かつては持っていた思いや怒りを自ら失い、あきらめてしまった大勢の者たちにとっては、 波風をたてまいとして、いつの間にか平然と日を暮らす己れのブザマに、つきつけられた冷たい刃でもあったのだ。
物語は浅間山の噴火から、困窮した農民たちがやむにやまれず蜂起した、一揆へと至る信州を舞台に始まる。
「山焼け」を鎮めるために、祭礼相撲における伝説の大関「日盛」を破ることを期待された「太郎吉」こそは、雷電の幼き日の姿だった。
実は、ここまでだけで十二分に読みごたえのある、一大歴史ロマンの傑作なのではあるが、 百姓の大事な一人息子であるにもかかわらず、卓越した身体と、そして知力をもつことが、逆に身を滅ぼすと考えた父親の許しを得て、 江戸に出ることになった雷電と、そんな雷電の生き様に魅せられて、友誼を結ぶことになった鉄物問屋・鍵屋助五郎。
二人のおよそ平坦とは言いづらい人生が綯い交ぜになりながら過ぎていき、やがて「その日」を迎えることになる。
この六つの鐘を前にして、まだ大関戦の余熱を受け、口々に柏戸を誉めたたえている人々は何も知らない。 かの『西の関』が再び江戸大相撲の土俵に立つことがないことを。最後の最後まで、鬼神のごとく、たった一人素手で、 相手のはるかむこうに控えた目に見えない強大なものに立ち向かいつづけた雷電為右衛門の、それが最後の江戸大相撲だった。 橋にさしかかると川風がひどく、助五郎は心底冷えた。
そして、驚くなかれ、本当の物語はむしろここから始まるのである。
2011/10/3
「動物の値段」 白輪剛史 角川文庫
動物園のどんな動物にも値段がある。動物の値段は生息数、入手難易度、輸送難易度、大きさ、飼育難易度によって決まる。 希少性が値段に跳ね返り、違法取引が横行する原因との指摘もあるが、動物に値段を付けることをタブー視せずオープンにすることで 動物たちが直面する問題点、取引の問題点、動物園の苦労、裏方の仕事などが見えてくると思う。
キリン 1300万円
ゾウ 3000万円
ゴリラ 8000万円
パンダ 3億円(ただしレンタル料)
あたりまでは「ああ、それぐらいはするよね。」と、何となく予測できる範囲であるとしても、
ライオン 45万円(赤ちゃん)
と聞けば「え?そんなに安いの!」と、上野樹里でなくったって、 ベランダの用心棒代わりに買ってしまおうかと思うのは、私だけではないだろう。
ライオンのようなネコ科の動物は、交尾と同時に排卵する刺激排卵で、めったやたらと妊娠するため殖えすぎて困っているのだという。 しかし、赤ちゃん時代は「単なる大きなネコ」でも、ほんの数カ月で体重300sの百獣の王としての片鱗を示し始めるのであれば、 「財力!」「体力!」「気力!」の3点セットが十二分に確保できる人でなければ、ライオンを自宅で飼い馴らすのはとても無理な相談なのだ。
というわけで、この本は、
輸出禁止のコアラでも、密売で350万円程度で入手することは可能ではあるが、ユーカリ以外一切食べないワガママな動物なので、 大量に必要となる新鮮なユーカリ(鹿児島県産)の空輸などの経費だけで、年間約1200万円の飼育費がかかる・・・だとか、
世界中で取引される60%以上が日本に輸入されるという、モテ系爬虫類のカメが激減し絶滅の危機となっているのは、 「ガンに効くらしい」という科学的根拠のない噂によって、自国のカメを喰い尽した中国人が、 東南アジアのカメを食い散らかしているからだ・・・なんて、
トカゲ好きが高じて動物商(動物園やペットショップなどに動物を卸す輸入卸業者)となった著者が、 それぞれの動物の入手から輸送までのやり方、そして飼育にまつわる苦労まで、 彼ら「人気者」たちのお値段が決まる意外なポイントについての、動物商の裏話を明かしてしまった興味津津の1冊なのだった。
白輪 (「ハリー・ポッター」人気で)最近でも、フクロウを飼うつもりで見に来る人はいるんですが、「エサ何を食べるんですか?」 と質問した後で引いちゃう。
テリー伊藤 俺がそうだった。「30万円かあ。でもかわいいから買おうかな」と思って「エサは?」って聞いたら・・・
実は、そこを乗り越えられるかどうかが、フクロウを買うためのターニングポイントなのだそうだが、いくらなんでも、
「冷凍庫の中にネズミを入れるのは無理!」だってば。
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