徒然読書日記201109
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2011/9/30
「ふしぎなキリスト教」 橋爪大三郎 大澤真幸 講談社現代新書
日本は、キリスト教ときわめて異なる文化的伝統の中にある。つまり、日本は、キリスト教についてほとんど理解しないままに、 近代化してきた。それでも、近代社会というものが順調に展開していれば、実践的な問題は小さい。しかし、現代、われわれの社会、 われわれの地球は、非常に大きな困難にぶつかっており、その困難を乗り越えるために近代というものを全体として相対化しなければならない 状況にある。それは、結局は西洋というものを相対化しなければならない事態ということである。
そのためには「どうしたって近代社会の元の元にあるキリスト教を理解しておかねばならない。」という趣旨で、 気鋭の社会学者・大澤真幸が挑発的な質問者となって、「ときに冒涜ともとられかねない問い」をあえて発し、 最も信頼できる比較宗教社会学者の橋爪大三郎が、そもそも「キリスト教というものが何であるか」を答えるという、 これは、実に刺激的な対談なのである。
大澤「ユダヤ教とキリスト教はどう違うか。違いのポイントはどこにあるのでしょう?」
橋爪「ほとんど同じ、です。たったひとつだけ違う点があるとすると、イエス・キリストがいるかどうか、そこだけが違う、と考えてください。」
という問答から始まる第1部は、キリスト教の背景にあるユダヤ教との関係から、啓示宗教としての一神教の基本的な考え方に迫る。
キリスト教のきわめて独創的な側面である「イエス・キリスト」とはなんであるかを考える第2部では、
大澤「イエスは、一方では、自分が殺されることに対して、それを悲しみ、避けたいという気持ちも持っている。しかし他方で、 旧約聖書のなかで預言されていることとの関係もあって、自分が処刑されて死なない限りは、事が終わらないこともわかっていたでしょう。 ですから、事を成就させるために、弟子たちに暗示をかけて、裏切りへと導いているのではないか。」
橋爪「ユダの裏切りがプロットのために絶対必要なのは、大澤さんの指摘どおりなんだけど、そうすると、福音書で最も大事な役割を果たし、 神の計画を完成させているのは、ユダなんです。」
だとか、
大澤「人間には少なくともわからない理由によって、神に愛されたり愛されなかったりする。その究極の姿が『ヨブ記』の主題でもある わけですけどね。それでもなおかつ、神をどうやって維持していくかというのが、一神教のひとつの重要な課題になる。」
橋爪「そう、その状況で神のことが信じられないようなら、一神教なんて成り立たないんだ。」
なんて、
きっぱり言い切られてみて初めて、先日読んだばかりの『新約聖書』の「福音書」の意味が、ようやく腑に落ちたりもするのだった。
とはいうものの、この本の最大の読ませどころは「キリスト教がその後の歴史・文明にどのようなインパクトを残してきたか」を考える 第3部にあるのだから、キリスト教に対するいささか刺激的な解説は、あくまでそのための「ダシ」にすぎないのではある。
大澤「自然科学を生み出した科学革命は、実は時期的に宗教改革の時期とだいたい重なっています。そのうえ、科学革命の担い手となった学者は、 決して信仰心が浅いわけではない。いまはしばしば科学者が宗教批判を熱心にやりますが、科学革命の担い手は、むしろ熱心なキリスト教徒、 しかもたいていプロテスタントでした。」
橋爪「自然科学がなぜ、キリスト教、とくにプロテスタントのあいだから出てきたか。それはすでにのべたように、まず、 人間の理性に対する信頼が育まれたから。そして、もうひとつ大事なことは、世界を神が創造したと固く信じたから。 この二つが、自然科学の車の両輪になります。」
2011/9/29
「しぐさの民俗学」―呪術的世界と心性― 常光徹 ミネルヴァ書房
クシャミがでたのは、誰かが自分のことをうわさしている証拠だといって、その回数から内容をあれこれ判断する俗信は 広く伝承されている。
「一ほめられ、二そしられ、三ほれられ、四かぜをひく」などと言われるようになったのは、 アクビやセキバライとは違って、クシャミは自らの意思では制御することが難しいため、自分以外の何者かが働きかけているからだと、 昔の人たちが感じていたからであろう、と推測しているのは、民俗学者の柳田國男だった。
なればこそ、クシャミという現象は、人間を越えた霊的存在から届く兆候と解される傾向が強くなり、それにまつわる俗信も多く存在する ことになった、というのである。
古くは、クシャミをすることをハナヒル(鼻ひる)と言った。ヒルは放つという意味である。クシャミをさすハナヒという古語は、 今でも鹿児島県奄美大島など一部の地域で使われているが、普通にはクシャミという言葉が定着している。クシャミはクサメの変化した語だが、 ハナヒからクサメへの変化については、呪文として唱えられていたクサメという言葉がハナヒに取って代わったためと説かれている (柳田 1970)。クサメの呪術性を示す例としては、『徒然草』の四十七段にこんな話が見えている。
年老いた尼さんが「くさめ、くさめ」と言いながら歩いて行くので、「何でそんなことを言うのか」としつこく尋ねたところ、 「子どもがクシャミをしたので、おまじないをしなければ死んでしまう」と言ったというのである。
つまり「クシャミ」とは、鼻や口から息を激しく吐き出す勢いとともに、魂も押し出してしまうことを恐れたおまじないの呪文「クサメ」 がなまったものなのである。
では「クサメ」とは、どういう意味なのか?
一説には「休息万命(くそくまんみょう)」という呪文に由来すると、麗々しく語られてもいるらしいのだが、 「クサメ」は「糞はめ」であって、「クソクラエ」と同じく、隠れた悪意に対する反発、最大級の悪罵である、というのが柳田の説である。
実際、沖縄の宜野座村には、子どもがクシャミをしたら、魂を抜かれるので、「ハー クスクエー(糞喰え)ヒャー」と言ってわが子の命を救う、 という俗信があるらしい。
「ハークスクエー」?
なるほど、「ハックション」というのは単なる擬音ではなくて、おまじないの呪文だったのか!
というわけで、この本は、
「霊柩車に出会ったら親指を隠す」
「天橋立の股のぞき」
「汚いものに触れたらエンガチョを切る」などなど、
呪術的な意味を帯びた「しぐさ」にまつわる多様な伝承と、その背後に秘められた民俗的な意味を考察してみせた快著なのである。
ところで、皆さんは「ハッピーアイスクリーム」ってご存知でしたか?
「ふたりが同時におんなじことばをいっちゃったとき、ハッピーアイスクリームって先にいったほうが勝ちなの」
「いえなかったほうは」
「アイスクリームおごるのでーす」
2011/9/16
「日本でいちばん大切にしたい会社」 坂本光司 あさ出版
私は常々、「努力をしたくても、がんばりたくても、がんばれない人々が真の弱者で、がんばれるのに、がんばらない人々は偽物の弱者だ」 と考えています。
斜陽産業といわれる寒天メーカーにもかかわらず、「会社は社員のためにある」ことをモットーに48年間、 ゆっくりと着実に増収増益の成長を続けている「伊那食品工業」。
石見銀山の麓という辺鄙な場所にありながら、創業以来の信念に基づき、弱者の視点に立った物づくりを続けることで、 日本中から入社希望者が集まる義肢装具メーカー「中村ブレイス」。
そして、
「あの子たち、明日で就業体験が終わってしまいます。どうか、大山さん、来年の四月一日から、あの子たちを正規の社員として 採用してあげてください。あの二人の少女を、これっきりにするのではなくて、正社員として採用してください。 もし、あの子たちにできないことがあるなら、私たちがみんなでカバーします。だから、どうか採用してあげてください」
という従業員の総意に応えて、50年前に知的障害をもつ2人の少女を採用したのを皮切りに、 今では社員の7割が障害者というダストレスチョーク(粉の飛ばないチョーク)のメーカー「日本理化学工業」の経営理念は、
「本当に人々に必要とされ、社員たちも誇りをもって働くことができる、その結果、みんなが幸福を感じることができる、そんな会社になる」 というものだった。
こんな「日本でいちばん大切にしたい会社」たちの存在を知れば、
「景気や政策が悪い」
「業種・業態が悪い」
「規模が小さい」
「ロケーションが悪い」
「大企業・大型店が悪い」
と業績不振の原因を外部環境に求めて嘆き悲しむ、被害者意識に凝り固まった他力本願タイプの中小企業経営者に典型的な「五つの言い訳」など、 まるっきりの的外れなのであり、
それらの経営者のもう一つの特徴は、何よりも重視し、その実現を追求しなければならない社員やその家族、 下請企業や顧客等の幸福に対する思いが総じて弱い・低い
ということにこそ、つまりは自らの使命感と責任意識の低さにこそ、その原因を求める必要があるというのだった。
さしずめ、この本を読んでも涙を誘われることもなく、逆にその「一杯のかけそば」的なうっとおしさに息苦しさを覚えてしまった、 私のような経営者の会社では、
「メモを取る大学ノートを、あふれる涙で濡らしてしまったことも少なからずありました。」という著者をつらく、 悲しくさせてしまうことになるのだろう。
もっとも、「長期にわたり好業績を持続している企業(社員と顧客の満足度が高い証明といえます)や、業績はともかく、 真に世のため人のためになる経営に懸命に取り組んでいる価値ある企業」 を意識して訪問しているというのだから、そんな著者が間違っても我が社を訪問する心配などないのではあるが・・・
こうしたタイプの経営者にお会いしたあとの帰り道は、現場や事務所で懸命にがんばっている社員やその家族、 さらには下請企業の社員のことなどを思い浮かべ、正直、つらく、悲しくなってしまいます。 少なくとも、それらの経営者が率いる組織を「大切にしたい」などとは決して思いません。
2011/9/12
「生物学的文明論」 本川達雄 新潮新書
今の世は、マネーが跳梁する万事お金の世。この貨幣経済の背景にあるのも、数学・物理学的発想です。つまり数学・物理学的発想が、 この便利で豊かな社会を作り、同時に環境問題などの大問題をも生み出しているのだ、 というのが生物学者として今の世の中を見る私のスタンスです。
動物のサンゴが安心して光合成できる場所を提供し、植物の褐虫藻はアミノ酸などバランスのとれた食事をふんだんに用意する。
世界の海の面積の0.1%しか占めていないにもかかわらず、世界の漁獲高の10%を占めているという、 非常に高い生物多様性を保ってくれている、この「サンゴ礁」の4分の3が、いまや絶滅の危機に瀕しているのは、 地球温暖化により、サンゴと褐虫藻との絶妙な共生関係が維持できなくなり、褐虫藻が逃げ出してサンゴが「白化」するからなのだ。
という「リサイクルと共生」の話から、「生物と水の関係」(生物の体は半分以上が水)、「生物の形と意味」(生物は円柱形である)などなど。
そして、「動物の時間は体重の四分の一乗に比例する」から、30グラムのハツカネズミに対し、3トンのゾウでは時間は18倍 ゆっくりと進んでいるのかもしれない。というのは、20年も前の名著『ゾウの時間 ネズミの時間』から一貫して変わらない主張であるが、
心臓の鼓動のリズムも同じく体重に比例しているので、寿命2〜3年のハツカネズミも、70年近く生きるインドゾウも、一生に心臓が打つ数は、 どちらも同じ約15億回ということになる。 しかし、体重当たりのエネルギー消費量は、逆に体重の四分の一に反比例している(デブはあんまり動かないとか?)ので、 これは一生に使えるエネルギーはほぼ一定であるということを意味している。 つまり、エネルギーを使えば使うほど時間は早く進み、速い時間の動物は短命に終わるわけであるが、同じだけの仕事をして一生を終えるのであれば、 生き急いだように見えるネズミも、細く長く生きたように見えるゾウも、生涯を生き切った感慨は、それほど変わらないだろう、というのだった。
ところが、心臓が「寿命」とされる15億回打っても41歳、まだ人生半ばという私たち人間は、進歩した医療技術や、衛生施設、 そして豊かな食生活や恵まれた生活環境を維持することによって、生物としての正規の部分としての人生前半を終えた後、 技術によって支えられた「人工生命体」としての永い余生を生きることになるのだから、
これが地球環境問題や食料・エネルギーの枯渇につながっていることを、せめて自覚して老後過ごすべきだというのである。
というわけで、著者が専門としている「ナマコの教訓」のお話となるのだが、 だからといって、いくらなんでも、ナマコにはなりたくないよ〜
ナマコは砂の上に棲んで、砂を食べている。つまり、棲んでいるのが食べ物の上なんです。(中略)
食べる心配がないってことは、これは天国の生活でしょう。ナマコはキャッチ結合組織という超省エネの組織を進化させ、省エネに徹して、 この世を天国にしてしまったのです。
頭いいなあ!と思いますね。でもナマコに、脳はありません。
2011/9/10
「数学は最善世界の夢を見るか?」―最小作用の原理から最適化理論へ― Iエクランド みすず書房
光の屈折というのを覚えているだろうか?
空気中から水中へはいる光の経路は、水面で下に折れ曲がる。お風呂の底が浅く見えるというあれである。
なぜ光は屈折するのか。それは空気中と水中では光の速度が違うからである。水中では光は遅く進む。
では改めて、それでなぜ光は屈折するのか。
「光は常に最短の経路を進もうとする。」からである。
空中のA点から水中のB点まで、直線で進むよりも、速度の速い空中を余計に通過した方が(例え距離的には長くなっても)早い。 しかし水中の経路を最短にするために水面に直角に進む経路を選んだのでは迂回が大きすぎて遅くなってしまう。 中を取って丁度いい水面上のC点を選択し、そこで屈折するのである。
では、それは誰が決めるのか?
光が自分で決めるのだとしたら、いつ決めるのか?
何度か試して決めるというわけにはいかないとすれば、光にはあらかじめ最短経路がわかっていることになる。
・・・というのは、
この本ではなく、
『あなたの人生の物語』 (Tチャン ハヤカワ文庫)
を読んだ時に書いた書評からの抜粋なのであるが・・・
この世界が可能な中で最もよいものかどうかという問題は、哲学の中で早くから一つの独立した問題となっていた。なすべきことはまず、 存在にかかる制約をすべて洗い出し、その中の少数から残りをすべて導き出して、それらの論理的整合性を示すことである。 そしてその少数を宇宙の基本法則に据えたとき、それに適う世界の数が非常に少なく、結局はこの現実世界が、 ありえたかもしれない世界の中で最も好ましいということになれば、この問題は肯定的に解決される。
時を空間に翻訳し、運動を図形に、力学の問題を幾何学の問題に翻訳しようとした「ガリレオの夢」は、 発明されたばかりの望遠鏡をさっそく夜空に向けさせることで、 私たちが住むこの世界は唯一可能な世界なのだろうか、もし他の世界も可能だとしたら、それは存在しているのだろうか、 という問いを生むことになったが、
「この世界が選ばれて存在しているのは、すべての可能世界の中でこれが最善の世界だからなのである。」と言明してみせたライプニッツも、
「自然の中に何らかの変化を引き起こすのに必要な作用の量は可能なかぎり小さい」という『最少作用の原理』のアイデアで、 光の屈折を説明できるとしたモーペルテュイも、
誰もがみんな、そこに世界の創造主としての「神の叡智」を見ていたのである。
その後の解析力学の数学的発展により、『最小作用の原理』が実は最小でもなく最大でもなく、『停留作用の原理』であったことが 明らかとなるのだが・・・
それではいったい、この世界は可能な中で最善のものなのか、そうではないのか。
答えを求めんとする著者の探求の旅は、生物学から経済学へとその足を延ばすことになるのだった。
生物学の法則ならこの答に到達できるかもしれない。自然淘汰の法則は、選択というプロセスによって、結果として最もよいものを 生き延びさせているのではないだろうか。また、生物学でうまくいかなくても、経済学ではどうだろう。 人間の生活条件は日に日によくなっているのではないだろうか。このプロセスの一部は意識的なものではないだろうか。 つまり、この世界が自然のままでは可能なかぎり最善のものではないとしても、わたしたちの手で最善にすることは可能なのではないだろうか。
2011/9/7
「新約聖書」 新共同訳 解説・佐藤優 文春新書
キリスト教は、ユダヤ教から生まれた。イエスは、自らをキリスト教徒と考えていなかった。(中略) キリスト教という新しい宗教を開いたのは、生前のイエスとは一度も会ったことがないパウロだからだ。
ヘロデ王の時代(1世紀)に ユダヤはベツレヘムの大工・ヨセフの息子として生まれた、イエスという当時ではごくありきたりな名前の青年は、 どのようにして「イエス・キリスト」(イエスという男が私の救世主である)と、救済を求める人々から呼びなされるようになったのか。
そんなイエスの生涯について記した、「マタイ」「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」の4つの福音書を収録したのが第1巻。
「何の権威で、このようなことをしているのか。」と詰め寄る律法学者たちに対し、逆に回答不能の問いを吹っかけ、案の定回答できないと見るや、 「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」と、結構意地悪なところもあるかと思えば、
空腹を覚えた時にたまたま見つけたイチジクの木に実がなっていなかったので、 「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と呪いをかけて、たちまち枯らせてしまうなど、
案外子供っぽい一面も垣間見せてくれちゃったりするイエスなのである。
サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼び掛ける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、 答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
イエスを信じる奴らを弾圧しようとダマスカスに向かう途中で、突然天からの光に打たれて失明したユダヤ教徒のサウロは、 イエスが遣わしたアナニアが頭に手を置いただけで「目からウロコが落ち」て、視力が回復すると同時に回心し、キリスト教徒パウロとなった。
という「使徒言行録」を始めに、イエスの死(と復活)後の弟子たちによるキリスト教の布教の足跡を印す、 「書簡集」と「ヨハネの黙示録」を収めたのが第2巻。
歪んでしまったユダヤ教を、元の正しい姿に戻そうと悪戦苦闘して、処刑されてしまったイエスに対し、 そのように格闘したイエスこそが救いなのであると、ユダヤ教の枠組みを超えてキリスト教を開いたのがパウロなのであった。
まさに「信じる者は救われる」のである。
救済は、人間の地位、富、努力によって得られるものではない。神からの一方的恩恵によって得られるのだ。その意味で、 キリスト教は他力本願の宗教なのである。浄土真宗の開祖・親鸞は、「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えるのも人間の意志ではなく、 絶対他力の力によって唱えさせられていると考えたが、キリスト教の神も絶対他力である。
2011/9/4
「6人の容疑者」 Vスワループ 武田ランダムハウスジャパン
殺人は面倒なものかもしれない。だが真実はもっと面倒だ。残された仕事を片づけるのは容易なことではない。 まず六人の容疑者の人となりを、綿密に調べ上げなくてはならない。それから動機の有無を確かめる。出てきた証拠をひとつひとつ確認する。 それが終わったとき、初めて真犯人がわかるはずだ。
法令で禁止されている真夜中過ぎの酒の提供を拒絶したという理由だけで、衆人環視の中でバーテンダーの女性を殺害した 「人間のクズの見本のような男」、それまでにも数々のスキャンダルを巻き起こしながら、その都度抜け穴を見つけ出し、 法の手を逃れてきたインドの若き富豪ヴィッキー・ラーイは、今度もまんまと勝ち取った自らの無罪判決を祝うパーティの会場で、 何者かに射殺され人生の終わりを迎えることになった。
このパーティ会場に居合わせて、ボディーチェックを受け、銃を所持していたということから拘留されることになった容疑者は、全部で6人。
なぜかガンジーの霊に取り憑かれて、禁欲主義を提唱するようになった前主席事務次官は、在職中にはその腐敗ぶりと女癖の悪さで、 インド行政職の中では群を抜いて評判の悪い男だった。
インド映画界随一の人気を誇るセクシー女優は、自分そっくりの孤児を貧しい境遇から救い出したばかりに、自らが築き上げてきた地位と 人生のすべてを、乗っ取られそうになっていた。
その女優と結婚できるものと勘違いして、はるばるインドまで迎えにやって来たアメリカの田舎青年は、ひょんなことからアルカイダ一味の 逮捕に貢献し、アメリカ大統領から得た報奨金により、映画プロデューサーに成り上がっていた。
盗み出された<聖なる海の石>を取り戻さんがため島から出向いてきた、インドの少数部族民である真っ黒な肌の若者は、 母親が化学工場事故の有毒ガスを吸い込んだことで盲目となった奇形の少女と、お互いに初めての恋に落ちようとしていた。
大卒ながら無職で、携帯電話泥棒で糊口をしのいでいるという少女の兄は、偶然大金を手にしたことがきっかけとなって出会うことができた 身分違いの恋人(ラーイの妹)との、駆け落ちの約束を果たそうとしていた。
そして6人目の最後の容疑者、州首相の座を虎視眈々と狙いながら、政治の裏舞台で様々な駆け引きを繰り広げている政府高官は、 なんと被害者ラーイの父親その人だったのである。
というわけで、
それぞれの容疑者が、それなりの動機を胸に、拳銃を隠し持って、同じパーティー会場に顔をそろえた時、事件は起こり、 二転三転の種明かしの末に、意外な真犯人が明らかにされることになるのではあるが、
事件発生に至るまでの6人の人生の、まさにインドならではの破天荒で濃密な物語に酔いしれた後では、 真犯人なんて誰でもいいような気がしてくるに違いない。
何たって、この小説は、アカデミー賞8冠に輝いた映画『スラムドッグ&ミリオネア』の原作『ぼくと1ルピーの神様』の著者が放った、 待望の第2弾なのだから。
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