徒然読書日記201108
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2011/8/2
「江戸の思想史」 田尻祐一郎 中公新書
学問の法、予岐って二とす。曰く血脈、曰く意味。血脈とは、聖賢道統の旨を謂う。孟子の所謂仁義の説の若き、是なり。 意味とは、すなわち聖賢書中の意味、是なり。蓋し意味は本血脈の中より来る。故に学者当に先ず血脈を理会すべし。 (『語孟字義』伊藤仁斎)
書物の特定の箇所での前後の文脈に即した「意味」を正しく理解するためには、本文全体を何度も精読する中で、 体験的・直観的に掴まえることしかできない、思想の内容的な骨格としての「血脈」の把握こそが先決であるとして、 『論語』や『孟子』を、朱子学のお定まりの解釈の枠組みから離れ、その本文に即して理解しなおすべきと主張したのが伊藤仁斎だった。
「東アジアの思想世界」(科挙社会であれば、それは秩序そのもの)を支えていた、本家本元の朱子の解釈に、 中国や朝鮮の思想家に先んじて、京都の上層町人社会の商家の跡取りが、真っ向から異議を唱えたのである。
宇はなお宙のごときなり。宙はなお宇のごときなり。故に今言を以て古言を視、古言を以て今言を視れば、これを均しくするに侏璃鴃舌なるかな。 (中略)世は言を載せて以て遷り、言は道を載せて以て遷る。道の明らかならざるは、職として(もっぱら)これにこれ由る。(中略) 千歳逝きぬ。俗移り物亡ぶ。(『学則』荻生徂徠)
「宇」(空間)の隔たりと「宙」(時間)の隔たりとは、並行だと考える荻生徂徠は、 『管子』『晏子春秋』『老子』『列子』など、先秦時代(統一帝国以前の古い中国)の文章を可能な限り収集し、その文辞に習熟すること以外に、 『論語』において孔子が伝えようとした「道」に近づく方策はないと断言し、古代中国文の素読(訓読ではない)に邁進した。
それはまた、「古言」と「今言」とでは、時代とともに、まったく異なった言語となってしまっている中国語であれば、 空間として中国から遠く隔てられていることは、決してハンデとはならないという主張でもあったのだろうか。
其説に古の道をしらんとならば、まず古の歌を学びて、古風の歌をよみ、次に、古の文を学びて、古ぶりの文をつくりて、古言をよく知て、 古事記・日本紀をよくよむべし。古言をしらでは古意はしられず、古意をしらでは、古の道は知がたかるべし。(『初山踏』本居宣長)
「古」の言語世界に身を浸すことでしか、「古」の「心」には接近できないと考え、理知の力ですべてを割り切っていこうとする発想、 『漢意』(からごころ)を脱ぎ捨てて、おおらかな古来の日本人の姿、「やまと魂」により『国学』を大成させた本居宣長も、
千住小塚原での腑分け立ち会いという衝撃から、『ターヘル・アナトミア』の翻訳にいたった杉田玄白にしても、
相手にする「材料」が違っていただけだったという意味で、これは江戸時代の思想家たちが立ち向かった、 実にラディカルな格闘の記録なのである。
かく物に不審の念をさしはさまば(中略)ひとつとして合点ゆきたる事はあるまじく候。それを世の人いかがすますとなれば、 筈というものをこしらえて、これにかけてしまう也。(『玄語』三浦梅園)
春になって花が咲かないことを不思議に思うのでなく、春になれば花が咲くことを不思議に思うことから始める。
惰性や常識を疑い、物を物として見ることで、世界はこれほどまでに刺激的な相貌を現してくることを、 私たち現代人は、いつの間に、どこかに置き忘れてしまったのではないだろうか。
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