徒然読書日記201106
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2011/6/24
「日本語の古典」 山口仲美 岩波新書
自分で、初心にかえって作品そのものに向き合った時に感じたことを大切にし、それを研究で培ってきた分析力を使って説得性を持たせる。 そういう本が、最も自分の個性が出る本になる。
と考えた著者が、「日本語の歴史」の研究という自らの専門を生かし、 主に言葉や表現や文章の特色にこだわって、その面白さを解き明かそうと取り上げた日本の古典が三十編。
山田麻呂は、上奏文を読み終わろうとするのに子麻呂らが来ないので不安になり、「流汗身に沃ひて、声乱れ手動く(=全身汗みどろになり、 声は乱れ手が震えている)」。山田麻呂のおびえる気持ちが読者によく伝わります。入鹿は不審に思って聞く、 「何の故にか掉ひ戦く(=なぜ震えているのだ?)」。山田麻呂は答える、「天皇に近くはべることを恐み、不覚にも汗流づる (=天皇のおそば近いことが恐れ多く、不覚にも汗が流れたのです)」。うまく言い逃れた。
というのは、645年「大化の改新」における蘇我入鹿虐殺の顛末を描いた『日本書紀』(養老4年、720)のリアルな叙述であるが、
「だが、待てよ。これらの記述は、暗殺の現場に居合わせない限り知りえないことばかりではないか?」
という分析に始まって、
『源氏物語』 紫式部はいかに言葉を操る天才であったか。
『蜻蛉日記』 作者の夫への気持ちはどのように推移して行ったのか。
『徒然草』 兼好法師は女嫌いなのか。
『平家物語』 なぜかくもインパクトのある場面描写をすることができたのか。
『東海道中膝栗毛』 庶民の心を捉えたのは、どんな理由があったのか。
などなど、
読みたくても読めなかったにもかかわらず、なんだか読まなくてもわかったようなつもりになっていた名だたる古典たちの、 その「古典」たる魅力が、練達の水先案内人の後に付いて行くだけで「再認識」できるという、斬新な入門書となっているのだった。
たとえば、
「ふたりの寵愛、てうちてうち、かぶりのあたまも定まり、四つの年の霜月は髪置、はかま着の春も過ぎて、疱瘡の神いのれば跡なく六の年へて、 明くれば七歳の夏の夜の寝覚めの枕をのけ、かけがねの響き、あくびの音のみ」。
とわずか一文で、誕生してから七歳まで成長してしまう、『好色一代男』(天和2年、1682)の世之介は、 この夜、女中に戯れかかり、性への目覚めを告げたのを皮切りに、54年間で男女合わせて実に4467人と関係するという、 慌ただしい性の遍歴を歩むことになるのだから、
一つの事を言い切らないうちに、次の事柄を重ねてのべる、「横滑り」の文章こそがふさわしいと、作者・井原西鶴は意図したのではないか、 というのである。
刹那的に明るくおかしく女と遊ぶ。それが、近世的なプレイボーイの姿。そうした姿を書き表すのに、一箇所に滞らずに速度をつけて横滑り していく文章は最適だったんですね。
2011/6/20
「ウェブ進化論」―本当の大変化はこれから始まる― 梅田望夫 ちくま新書
子供の頃に「一億人の人から一円ずつもらえたら一億円になるなぁ」なんて夢を思い描いたことのある人は多いのではないだろうか。 「一円くれませんか」と人々を訪ね歩けば、かなりの確率で一円なら貰えるとしても、一円貰うための労力・コストが大きいから、 リアル世界では非現実的な夢想に過ぎなかった。でも誰かから一円貰うコストが一円よりもずっと小さいとすれば、 「不特定多数無限大の人々から一円貰って一億円稼ぐ」ネットビジネスは現実味を帯びてくる。
「恐竜の首」(ごく少数のベストセラー)で収益を稼ぎ、「長い尻尾」(その他大勢の売れない本)の損失を補うという出版業界の 標準的な事業モデルに対し、
巨大リアル書店が在庫から切り捨ててしまった、売上ランキング13万位以降の本が、全売り上げの半分以上を占めている、 というのが、ネット書店「アマゾン・コム」の有名な「ロングテール」作戦だった。
それは、一度表舞台から姿を消した、いわば「負け犬」の商品に再びスポットを当てて、復活のチャンスを与えようというものだったが、
そんな「負け犬」にではなく、いまだ未知の可能性を秘めた犬たちに、並びたければ誰でもどうぞと「長い尻尾」を差し出して見せたのが、 「グーグル」の「アドセンス」作戦である。
これまで広告など出したことがなかった「広告主」のロングテール部分(スモールビジネスやNPOや個人)と、 今まで広告など掲載したことのないメディアのロングテール部分(無数のウェブサイトという極小メディア)とをマッチングさせること、
つまり、広告ということに過去に一度も関与したことのない人々という未知の可能性に満ちた新市場を追及しようとしているのだ。
「ITとネットワークの価格性能比が臨界点を超えたことで、私たちが想像も出来なかった応用が現実のモノとなる時代が到来する」
という、ネット社会の「本当の大変化」を、著者が大胆に予測して見せたのは、2006年のことだった。
そんな5年も前のベストセラーを、今頃になって読んで、どうするんだぁッ!
とはおっしゃいますが・・・
「インターネット」「チープ革命」「オープンソース」の3つの概念が、「次の10年への三大潮流」と定義する著者の主張が、 「ソーシャル・ブックマーク」や「フェイス・ブック」など、さらなる進化形として今まさに現実のものとなろうとしている時代にあっても、 一地方都市の零細企業の親父が、身をもってそれを理解するには、5年遅れぐらいの方がちょうどよかったというべきなのかもしれない。
なるほど「ブログ」とは、「お金に変換できない情報やアイデア」は、「溜め込むよりも無料放出する」ことが 「(無形の)大きな利益につながる」ツールだったのか。
情報は囲い込むべきものという発想に凝り固まった人には受容しにくい考え方であろう。しかし、長くブログを書き続けるという経験を 持つ人たちにとっては、実感を伴って共感できる内容に違いない。ブログという舞台の上で知的成長の過程を公開することで、 その人を取り巻く個と個の信頼関係が築かれていくのである。
2011/6/15
「戦艦大和ノ最期」 吉田満 講談社文芸文庫
本作戦ノ大綱次ノ如シ――先ズ全艦突進、身ヲモッテ米海空勢力ヲ吸収シ特攻奏功ノ途ヲ開ク 更ニ命脈アラバ、タダ挺身、 敵ノ真唯中ニノシ上ゲ、全員火トナリ風トナリ、全弾打尽クスベシ モシナオ余力アラバ、モトヨリ一躍シテ陸兵トナリ、干戈ヲ交エン カクテ分隊毎ニ機銃小銃ヲ支給サル
世界海戦史上、空前絶後の特攻作戦ナラン
昭和20年4月6日。
第二水雷戦隊所属の百戦錬磨の精鋭、巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「冬月」以下九隻を従えて、 日本人が世界に誇る世界最大の戦艦「大和」は、沖縄の米上陸地点を目指し、満を持して出陣したが、
それはまた、航空部隊の援護もなく、燃料も片道のみ搭載という、海軍首脳も必敗覚悟の無謀な作戦でもあった。
航空総攻撃を企図する「菊水作戦」において、荷重な炸薬を装備して徒に鈍重となった特攻機が、米戦闘機の格好の餌食となることを阻止せんがため、 長時間拮抗できる対空防備力を有する「大和」は、いわば最適の囮として差し出されたのである。
「進歩のない者は決して勝たない 負けて目ざめることが最上の道だ
日本は進歩ということを軽んじ過ぎた 私的な潔癖や徳義にこだわって 本当の進歩を忘れていた 敗れて目覚める それ以外にどうして日本が救われるか 今目覚めずしていつ救われるか 俺たちはその先導になるのだ 日本の新生にさきがけて散る まさに本望じゃないか」
哨戒長白淵大尉が、沸騰した死生論議に終止符を打ったこの結論に、敢えて反駁を加える者がなかったように、
駆逐艦三十杯分もの燃料を食う大戦艦であるがゆえに、機動艦隊同士の海空戦が主流となる中、無用の長物となってしまった巨艦「大和」とともに、 彼ら乗組員もまた、ある意味納得ずくで、「最期の戦い」に自らの「花道」を求めようとしたのだろうか?
「死生の体験の重みと余情とが、日常語に乗り難いこと」、「戦争を、その唯中に入って描こうとする場合、“戦い”というものの持つリズムが、 この文体の格調を要求すること」からか、
第一行を書き下ろした時、意図することもなくおのずから文語体であった、というカタカナ表記の硬質な耳触りが、 私たちの神経をゾワゾワと逆なでる。
戦艦ノ先鋒ハヨウヤク水道ノ半バニ達セントス
コレヨリ敵地ニ入ル 右ニ九州、左ニ四国、シカモ制海、制空権ヲ占メラル
各艦位置ハ、「大和」ヲ中心ニ「矢矧」ヲ後尾トシ、開距離二千五百米ニ散開セル夜間対潜警戒航行隊形ナリ
潜水艦ニ対シ電波哨戒ヲ始ム 徹宵哨戒ナルベシ
タダ全力ヲモッテ戦ワンノミ
それは『戦艦大和ノ最期』の戦いの始まりであり、3300人の乗組員それぞれの「人生の終幕」の開幕でもあった。
徳之島ノ北西二百浬ノ洋上、「大和」轟沈シテ巨体四裂ス 水深四百二十米
今ナオ埋没スル三千ノ骸
彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何
2011/6/9
「『みんなの意見』は案外正しい」 Jスロウィツキー 角川書店
ページAからページBへのリンクをページAによるページBへの支持投票と見做し、グーグルはこの投票数によりそのページの重要性を 判断します。しかしグーグルは単に票数、つまりリンク数を見るだけではなく、票を投じたページについても分析します。 「重要度」の高いページによって投じられた票はより高く評価されて、それを受け取ったページを「重要なもの」にしていくのです。
というのが、インターネット上にある何十億というウェブページの中から、わずか0.1秒でいちばん役に立ちそうな情報が潜んでいそうな ページを発見してくれる、皆さん御存じ、グーグルの「ページランク」という仕組みの肝となる技術なのである。
それは単純な平均値ではなく、加重平均値を利用しているという意味で完璧な民主制ではなく、共和制と呼ばねばならない代物なのかもしれないが、 あるサイトが集団の最終判断に大きな影響を与えるほどの力を得ることになったのは、「みんな」がそのサイトに数多く投票したから・・・
つまり「みんなの意見」は案外正しいのである。
競馬で大穴を当てて儲けることが難しいのも、
アマチュアがプロよりも正確な選挙結果を予測できるのも、
株式市場や先物取引が機能するのも、
午前二時にコンビニに行っても牛乳が買えるのも、
一見するとバラバラだけれど、実は根本的に似通っている現象、
「集団の知恵」(=The Wisdom of Crowds)の働きがなせる技だったというのである。
ただし「みんな」の集団が烏合の衆になることなく、それなりに正しい判断を下せる「賢い集団」であるためには、四つの要件があり、
「多様性」(各人が独自の私的情報を多少なりとも持っている)
「独立性」(他者の考えに左右されない)
「分散性」(身近な情報に特化し、それを利用できる)
「集約性」(個々人の意見を集計して集団として一つの判断に集約するメカニズムの存在)
この四つの要件を満たした集団は、正確な判断が下しやすい。なぜか。多様で、自立した個人から構成される、ある程度の規模の集団に 予測や推測をしてもらう。その集団の回答を均すと一人ひとりの個人が回答を出す過程で犯した間違いが相殺される。言ってみれば、 個人の回答には情報と間違いという二つの要素がある。算数のようなもので、間違いを引き算したら情報が残るというわけだ。
もちろん、100人が100mを走った平均記録が、いちばん速い人の記録よりも速い、などということは絶対にあり得ないが、 100人が質問に答えたり、問題を解決したりするときには、
「平均的な回答がいちばん頭がいい人の回答より優れていることが多い。」
つまり「みんなの意見」は案外正しいのである。
と、今日はこのことを何度でも言っておきます。
2011/6/3
「風水講義」 三浦國雄 文春新書
「玄武蔵頭」 玄武は頭を隠し、
「蒼龍無足」 蒼龍には足がなく、
「白虎銜戸」 白虎は屍をくわえ、
「朱雀悲哭」 朱雀は悲しげに泣いている。
北に船岡山(玄武)
東に鴨川(青龍)
西に山陽道(白虎)
南に巨椋池(朱雀)
を抱える平安京は、「四神相応」の地として、「風水説」にもとづいて選地、設計された都である。
というのが、
「お部屋の東南の角には緑を置くのがラッキーアイテムです」なんていう、いわゆる「風水占い」なるものがブームになる前の、 真っ当な「風水」なるものに対する、一般的なイメージであった。
これは「陰陽論」や「五行説」に基づいた「気」の理論なのであり、 古くは博学異能の天才・郭璞(かくはく、276−324)の古典『葬経』に典拠をもつ、れっきとした学問なのだ。
では、生気のエネルギーの流れとしての「龍脈」を地形の中に読み解き、 その精気が発露する「龍穴」を発見するための技術とは、一体どのようなものなのか。
明の時代に編まれた『地理人子須知』(徐善継、徐善述)に詳述される、 実に怪しげな図解(龍穴は女陰に見立てられることが多いのである)に基づいて、 まさに微に入り細を穿って、飽きることなく続けられる著者の解説は、実に懇切丁寧なものなのではあるが、
「本書を熱心に読んでも幸せにはなれません」(著者)
この本は、その題名が示すとおり、「人の子たるもの、本書を読んで親の葬地を慎重に選ぶべし」という、
「正しい墓地選び」のためのメッセージだったのだ。
この墓地の背後にあって墓の要となるべき山は低すぎて鎮めの役も果たせておらず(玄武蔵頭)、左右から墓を抱擁すべき低い丘陵は、 一方は長さが足りず(蒼龍無足)、一方には勢いがなく(白虎銜戸)、そして前方の池沢には水が涸れている(朱雀悲哭)。
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