徒然読書日記201103
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2011/3/21
「ワーキングプア」―日本を蝕む病― NHKスペシャル取材班・編 ポプラ社
取材させていただいた人々は、どの人も「まじめに働いている」「一生懸命仕事を探している」。しかし、人々は、仕事を奪われたり、 または苛酷な状況の中での仕事が続いている。
単に、生活の糧のための仕事を失うということにとどまらなかった。
それは、仕事への「誇り」、人間としての「誇り」が奪われていくことでもあった。
就職したレストランが店舗縮小のためリストラに遭った二十代の男性は、時給800円の食肉加工場だけでは生活費が足りず、 ファミリーレストランでの夜のバイトという苛酷なダブルワークを強いられていた。
正社員として働いていたスーパーで、突然パートに降格された二十代の女性は、時給800円で月収が10万円を割り込み、 ハローワーク通いの日々を送っている。
「若いんだから、やろうと思えばどんな仕事でもできるはずだ。仕事を選ぼうなんて贅沢だ」
フリーターやニートと呼ばれる若者たちの、モラトリアムな生き方に対する世間の冷ややかな見方は、大いなる勘違いなのである。
衰退する地方都市では、若者たちの多くは「働かない」のではなく、「働きたくても、働く場がない」のであり、 「朝から晩まで、必死に働いている」にもかかわらず、「このままでは結婚もできない」ほどに、 疲弊してしまった地域経済社会の中で、将来に大きな不安を抱えながら、ギリギリまで追いつめられているのが現実なのだった。
朝の七時、二人は自転車に乗って自宅を出た。缶を効率よく集めるため、それぞれ別々の場所を探して廻る。これまで何度も拾い集めてきたため、 缶が出される場所は二人の頭の中に入っていた。
朝七時から三時間、休みなく拾い続けて、集まったアルミ缶は六百余り。これを売って得られる金額は2千円に満たないが、 京都市内に住む元・大工で、年金を全く受け取れない夫(80歳)と、妻(75歳)にとっては、ビールの空き缶を売って得られる 月に5万円ほどが、極限まで切り詰めた食費2万円に、光熱費・税金・医療費という今の生活を、何とか支えてくれる収入のすべてなのである。
死ぬまで働かざるを得ない老人たち。
マンガ喫茶を住処にホームレス化する若者。
睡眠時間4時間生活に夢を奪われたシングルマザー。
貧困と虐待という荒廃を背負わされた子どもたち。
怠けているから貧しいのではなく、ただ愛する家族のために、懸命に、ひたすらに、誰にも文句を言わず、働き続ける人たち。 それでも生活保護水準以下の生活しかできない現実。
「日本はかつて、こうした真面目な人たちが報われる社会だったのではなかったのか。」
2011/3/19
「苦役列車」 西村賢太 文芸春秋
そのうち、神田駅より合流してきた中年男は、何度となくこのバスの中で見た覚えもある肥満体だったが、これが貫多の隣の席に座ると、 すぐさま紙袋から惣菜パンみたいなのを取り出しムシャムシャやり始める。コロッケか何かを挟んでいるらしく、ソースの何んとも云えぬ香ばしい、 よい匂いがイヤでも彼の忘れかけていた空腹感を刺激してくる。チラリと視線を向けてみると、 次にその中年男はサンドイッチの袋をも開いたようで、砕いた茹で卵の匂いが横合いより一気に立ちのぼってくるのである。 おまけにその男は、コールスローのようなパック詰めのサラダまで買ってきたらしく、それを匙を使ってシャクシャク小気味よい音を立てながら 悠然と食っている様子に、根が堪え性に乏しくできてる我儘物の貫多は、何かこの男をいきなり怒鳴りつけてやりたい衝動に駆られたが・・・
父親が性犯罪者であったことから、人並みな人生コースを外れてしまったと、すっかりヤケな心境になってしまった貫多は、 中卒で母親のもとを飛び出し、働き場所を求めて転々とするうち、自暴自棄で自堕落な日々を送るようになり、 19歳にして荷役会社の日雇いで、一、二日おきに日銭を稼ぐという、「悪循環な陥穽」にすっぽり嵌まり込む格好となってしまっていた。
本年度芥川賞受賞作品。
ヌメヌメ、ギラギラとした「食欲」と「性欲」がすべてという最底辺の生活の、むせ返るような汗臭さに満ち溢れてはいるのだが、 「怒鳴りつけてやりたい衝動」も、結局は吐け口を得ることは出来ずに収まってしまうということの繰り返しの中にこそ、 むしろ、「苦役」の日々のリアルがあるのだろうと言わねばなるまい。
またチラリと眉根を寄せた眼を投げると、ちょうどその男はサラダの容器に分厚い唇をつけ、底に溜まっていた白い汁みたいなのをチュッと 啜り込んでいるところだったので、これに彼はゲッと吐きたいような不快を感じ、慌てて窓外へと視線を転じた。 が、そのおかげで途端に空腹感の方は薄れ去るかたちとなってくれる。
2011/3/16
「きことわ」 朝吹真理子 文芸春秋
自分の人生が流れてゆくのをその目でみる。ほとんどそのときそのものであるように、幼年時代の過去がいまとなって流れている。 とりたてて記憶されるべきことはひとつとして起こらなかったはずの、とりとめのない一日の記憶がゆすりうごかされていた。 夢に足が引き留められている。永遠子は、隣で眠る貴子のしめった吐息が首筋にかかるのも、自分が乗っている車体をとりまくひかりも、 なにもかも夢とわかってみていた。
その夏、母と叔父の三人で毎年東京から葉山の別荘に遊びに来ていた貴子(きこ)は8歳、
その別荘の管理人として働く母親に連れられて、貴子の遊び相手を務めてきた永遠子(とわこ)は15歳だった。
本年度芥川賞受賞作品。
取り壊されることになった別荘で、25年後に再会することとなった「きこ・とわ」にとって、 「いま・ここ」で再現されることになった25年前の「ひと夏の思い出」とは、「こうであったかもしれない過去」であるのだから、 一つ一つのエピソードは透明感あふれるタッチによって鮮明に描かれていたとしても、 物語としての印象は、とたんに曖昧模糊とした、セピア色のフィルムの映像となってしまうのだろう。
それは、過去から現在、そして未来へと続く一篇の夢の物語なのである。
貴子の頭頂部は浴槽の縁にかろうじてささえられてはいたが、顔のほとんどは沈みこみ、入浴剤を溶かしこんだ湯をのんでむせた。 蛇口から直接口をゆすぐ。家はなくなるが人は残るのか。貴子はうまれてはじめて夢をみた。どうせならもっとあえかなものをみたいと思ったが、 自分の都合でみられないのが夢であるのかもしれなかった。
2011/3/13
「ウィトゲンシュタイン家の人びと」 Aウォー 中央公論新社
「僕らはみな固くて縁の鋭い角材のようなものだから、一緒に心地よく収まることができないのです。・・・ 誰か友人が混じって緩和してくれないかぎり、僕らが仲良くつきあっていくのは難しい」。
19世紀末のウィーン。
オーストラリア鉄鋼業界の大富豪、カール・ウィトゲンシュタインの5男4女、9人の子供の末子として生を享けたルートウィヒは、 のちに『論理哲学論考』という超難解な著作によって、天才哲学者としての名声を得ることになるのだが、
この物語の主人公は、実は彼ではない。
長女・ミニング 生涯未婚。
次女・ドーラ 夭逝。
長男・ハンス 異国で失踪。
次男・クルト 戦地で自殺。
三女・ヘレーネ 神経過敏。
三男・ルディ 同性愛を苦に自殺。
ウィトゲンシュタイン家の一員であることを誇りとし、家族を叱咤激励する役目を担った四女・グレートルは、 自らの結婚生活では破綻を余儀なくされた。
厳格な父親の意思に逆らって、演奏家への道を志した四男のパウルは、戦地で右腕を失いながら、片腕のピアニストとして復活を果たす。
「狂気と紙一重」と呼びなされた五男のルートウィヒも含め、およそ「尋常」とは言い難い人生をおくる羽目となったこの大家族の物語は、
二つの世界大戦を含む激動の時代の中で、それぞれの相容れることのない、とんがった個性のぶつかり合いをどうにか乗り越えて、 心ならずもユダヤ系と刻印されてしまった事実に抵抗し、台頭するナチスドイツの脅威に共闘しようとした、
「闘う家族」の姿をみごとに活写して見せたのだった。
あなたほど頭のいい人がなぜ小学校の教員などになろうとするのかわからない、と姉に言われ、ルートウィヒはこう答えた。
「閉じた窓から外を見ているから、通行人がどうして奇妙な動きをしているのか説明できないようなものだよ。 外で嵐が吹き荒れているのに気づいていないから、通行人が必死にがんばって倒れないようにしているだけなのがわからないのさ」
2011/3/1
「法華経・久遠の救い」 渡辺宝陽 NHK出版
仏所成就。 仏の成就したまえるところは、
第一希有。 第一希有、
難解之法。 難解(なんげ)の法なり。
唯仏与仏。 ただ仏と仏とのみ、
乃能究尽。 いまし能く究尽(くじん)したまえり。
諸法実相。 諸法の実相を。
紀元前五世紀ごろ、インドのマガダ王国の「霊鷲山」(りょうじゅせん)に集い、 釈尊の説法が始まるのを今か今かと、固唾をのんで見守っていた人びとは、
「あらゆる仏陀の智慧は、甚だ深く、しかもはかりしれないのである。したがって、仏陀の智慧に入る門は理解することがむずかしく、 入りにくいのである。実際、すべての声聞や縁覚が知ることができないところである」
という釈尊の、いきなりの率直な表明に打ちのめされることになった。
『法華経』という経典は、
『般若経』のように、ありがたい「教え」を論理として、わかりやすく解きほぐしてくれるものでもなければ、
『華厳経』のように、釈尊の「お覚り」の素晴らしさを、優れたお弟子の菩薩たちが讃えてみせるものでもない。
様々な菩薩が「覚りの境地」へと至る実践の記録を取り上げながら、暗示的な比喩と因縁とをことさらに重視して説き語られていく『法華経』は、
論理として飲み込もうとすれば、かえって隔絶してしまう「覚り」への道は、 結局、仏陀釈尊への無前提の信頼によって歩む以外にないことを、教えているようなのである。
そこに、地上最強を誇った日蓮上人の「法力」の秘密があったのだろうか。
毎自作是念。 つねに自らこの念を作す。
以何令衆生。 「何を以てか衆生をして、
得入無上道。 無上道に入り、
速成就仏身。 速やかに仏身を成就することを得せしめん」と。
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