徒然読書日記201101
サーチ:
すべての商品
和書
洋書
エレクトロニクス
ホーム&キッチン
音楽
DVD
ビデオ
ソフトウェア
TVゲーム
キーワード:
ご紹介した本の詳細を知りたい方は
題名をコピー、ペーストして
を押してください。
2011/1/29
『偉大な記憶力の物語』―ある記憶術者の精神生活― ARルリヤ 岩波現代文庫
シィーは書かれたものを注意深く見つめ、眼を閉じる。わずかの間、再び眼を開き、眼をそらす。そして合図があると、書かれた系列を、 隣の表の空欄に書きこむか、もしくはその数字の名をつぎつぎに言うかして、再生した。
「自分の記憶力を調べてほしい」と実験室を訪ねて来た男(シィー)は、ある新聞社の記者だった。 デスクから与えられる十分に長い指令のリストを、一言も紙に書きつけることなくこなしてしまうことを不思議がられ、 それが「本当に、特別のことなのか?」、「本当に、他の人々は、自分のようにやっていないのか?」確かめてもらいたいというのである。
当時、まだ若い心理学徒にすぎなかった著者(ルリヤ)は、ありふれた好奇心から早速この男の検査に取りかかり、思いがけない結果を得て 当惑することになる。
シィーの記憶力は、たんに記憶できる量だけでなく、記憶の痕跡を把持する力も、はっきりした限界というものをもっていない ということであった。いろいろな実験で、数週間前、数ヶ月前、一年前、あるいは何年も前に提示したどんなに長い系列の語でも、 彼はうまく――しかも特に目立った困難さもなく、再生できることが示されたのである。
「そうです。そうです。それは貴方のアパートでのことでした。貴方は机の前に坐り、私は揺り椅子に坐っていました。 貴方は灰色の洋服を着ていて、そしてそのように私を見つめて・・・はい・・・貴方が私に話したことがわかります・・・」
何ら予告することもなしに、ある系列を読み聞かせられたにもかかわらず、15,6年もの月日が経っても誤りなく再生することができた 異常な記憶力、それは、シィーの高度に発達した「共感覚」に基づくものだった。
「私にとっては、2,4,6,5という数字は、たんに数字ではありません。それらは、形をもっています。1−これは、その字形に関連なく、 するどい数で、それは何かまとまった、硬いものです。・・・」
音を聴くと色や形が見え、語や数字によって非常に鮮明な直観像が頭の中に結ばれるシィーにとって、記憶する際に「暗記」することは必要でなく、 子ども時代から鮮明に記憶されている彼が生まれた都市の通りや家の中庭に、頭の中に浮かんだ直観像を系列に添って、 ただ「刻印」していけばよかったのである。そして、たとえ何年経とうとも、街路のはじめの方から、あるいは終わりの方から散歩をしながら、 「刻印」された像を拾い集めてくるだけでよかったということなのだった。
20世紀のソビエトを代表する神経心理学者のルリヤ教授が、思わぬ出会いから30年もの長きに渡って、飽くことを知らぬかのように 続けられることとなった『偉大な記憶力の物語』。
それはむしろ、非常に強力な記憶力をもっている人の「忘却」は、どのようにして説明することができるのであろうか? という問題に興味が移るあたりから、ますます佳境に入るのだった。
われわれの多くは、よく記憶するためにどうしたらよいのか、その方法を見つけ出すことを考えるのが普通である。そして、誰も、どうしたら、 よく忘れることができるかという問題は考えない。しかし、シィーの場合は、問題が反対である。 どのようにしたら、忘れることができるようになるのか?シィーをしばしば悩ませる問題は、ここにあるのである。
2011/1/21
「孔子伝」 白川静 中公文庫
聖人孔子を語る人は多い。また『論語』の深遠な哲理を説く人も少なくはない。しかしもし、それがキリストを語り、 聖書を説くように説かれるとすれば、それは孔子の志ではないように思う。孔子自身は、神秘主義者たることを欲しなかった人である。 みずから光背を負うことを欲しなかった人である。つねに弟子たちとともに行動し、弟子たちの目の前に自己の全てをさらけ出しながら、 「これ丘なり」[論語・述而]というをはばからぬ人であった。
「述べて作らず、信じて古を好む」[述而]人であった孔子は、ソクラテス同様に何の著作も残さなかったゆえに、その思想は、 その言動を伝える弟子たちの文章と、その行動によって知るほかはない、という意味で「哲人」と呼ぶのがふさわしいであろうというのである。
遅く世に出てからというもの、ほとんどを挫折と漂泊のうちにすごしたのは、たしかに孔子が「理想主義者」であったからではあるが、 それでも、いやそれゆえにこそ、弟子たちは決してそのもとを去ることはなかった。
この「世俗的な成功を期待しがたい師」のもとに生まれた教団は、師の死後も発展を続け、 弟子たちの手によって次第に書き改められた「孔子像」は、やがて「聖人」の名にふさわしい粉飾が加えられて、 その後二千年にわたって、この国の封建的な官僚制国家の守り神となったというのだった。
そんな史実と後世の恣意的粉飾を峻別するために、膨大なる原典を渉猟し咀嚼し尽くしたうえで、
孔子は孤児であった。父母の名も知られず、母はおそらく巫女であろう。
など、「従来の通説の権威、<絶対>をみごとに打ち砕いてみせた」(加地伸行)
これは「われわれ自身にとって、孔子とは何か」という問題を突き詰めることによって、 現在にもなお生き続けることのできる「孔子の偉大さ」の謎に肉薄して見せた、画期的『孔子伝』の試みなのであり、
「女、なんぞいはざる。その人となりや、憤を發しては食を忘れ、樂しんで以て憂を忘れ、老いのまさに至らんとするを知らざるのみと。」[述而]
なんて文章(これはなかでも易しい部類なんです)を、現代語訳はおろか、ルビさえ付けずに放りだし、 これを<『論語』の文章は、簡潔で美しい>と感じられる人以外は、当面相手にしておりません、 という「見識の高さ」も、いっそすがすがしい一冊なのである。
(もちろん、暇人も何度も相手にされていないことを痛感しながら読みました。)
しかしそれは、論者の史観に合うような、任意の孔子像を求めてよいということではない。孔子が今でも生きつづけ、 なお今後も生きつづけてゆくとすれば、その可能性は孔子自身のうちにあるはずである。孔子を歴史的な人格としてとらえ、 その歴史性を明らかにすること、それが孔子の生命のいぶきをよみがえらせる、唯一の道である。孔子の伝記的生命は、今もつづいている。 それゆえに私は、この一篇を孔子伝となづけるのである。
2011/1/8
「獅子頭(シーズトオ)」 楊逸 朝日新聞
「中国では学問に限らず英才教育なので、芸術やスポーツを専攻した者は他の勉強ができなくなる。主人公は雑技に進んだため 教養や一般常識に欠ける。なまじ才能があったら、その後の人生で苦労するのは一種の矛盾で、そういう人の将来はどうなるのか、 関心があったんです」(楊逸「連載開始にあたって」@朝日新聞)
1967年、中国北部の貧村で生まれた二順(アーシュン)は、父親が食堂の賄いを務める大連郊外の雑技学校に進むことになるのだが、 スターへの階段をのぼりはじめたかと思った矢先、演技中のけがで舞台に立つことを断念せざるを得なくなる。
その時、二順の頭に思い浮かんだのは、上海公演の際に口にした「獅子頭」の味だった。
黄金色のソースをたっぷりとかけられ、獅子の長い毛並みに見立てた細い千切りの生姜は、まんべんなく丸っこい肉団子を覆っている。 箸で突っつくと、肉汁がジワッと中から滲み出て、思わず涎も垂れてしまいそうになる。
一転、料理人を目指すこととなった二順は、下働きをすることになった料理店の美しい娘と力を合わせ、 自ら工夫した「獅子頭」を完成させて、大きなお店の看板料理人となる。 やがて二人は結ばれ、子どもも出来、二順は幸せの絶頂を迎えようとするのだが・・・
「獅子頭」が評判を呼んだ二順は、日本の料理店から招聘され、単身で日本へ渡ることになり、ここから物語は坂道を転げ落ちるような 展開となっていくのだった。
知り合いもおらず、言葉も通じない日本に突然紛れ込んでしまった二順の、まるで頭に「もや」のかかったかのような状況の中で、 物事があれよあれよという間に展開していって、自分一人が置き去りにされているかのような感覚が、
料理をつくるという場面のみ、視界がクリアになったかのように、仔細に描写されることで、より切実に骨身に身にしみるように 伝わってくるのだろう。
幸子との「でき婚」の結果として強いられることとなった「安食堂」の亭主という境遇が、幸子の思いとは裏腹に、 「一流料理人」としての二順を完膚なきまでに打ちのめしてしまうことになる過程の哀しさが、ある意味、心に堪える物語ではあった。
「人の価値観がいつ、できあがるのかということを前から考えていた。私も日本に来て22年たつが、完璧(かんぺき)な日本人の 価値観にはならない。結婚や子育てなどに対しては両親から与えられた考えを頑固に持ち続けている。育った環境にもたらされた価値観のまま、 全く違う世界に入った人間は、どういうふうに壊れてゆき、変わってゆくのでしょうか」
2011/1/7
「ルリボシカミキリの青」 福岡伸一 文藝春秋
私はたまたま虫好きが嵩じて生物学者になったけれど、今、君が好きなことがそのまま職業に通じる必要は全くないんだ。 大切なのは、何かひとつ好きなことがあること、そしてその好きなことがずっと好きであり続けられることの旅程が、驚くほど豊かで、 君を一瞬たりともあきさせることがないということ。そしてそれは静かに君を励ましつづける。最後の最後まで励ましつづける。
「教えること、そして学ぶことはいったいどういうことなのだろうか。そのことを軸にしていろんなことを考えてみようと思った。」
カッコよくいえば「教育論」がもうひとつ別の「隠しテーマ」というこの本は、理科系で文章を書かせたら、今最も私をゾクゾクさせてくれる 書き手の一人、分子生物学者の福岡ハカセが、その忙しい研究生活の合間を縫って、
「そのときどきの事件やハヤリごと、あるいは身辺のよしなしごとを毎週毎週、締め切りに追われながら、一生懸命書き綴ってきた。」
週刊誌の連載コラムを再構成・再編集し、手を加えてまとめたものなのではあるが、そこはそれ、
「新学期が始まることは学生以上に教授の方が憂鬱なのである。」
なぜなら、学生にとっては新しい講義のスタートであっても、教授にとっては基本的に昨年と同じことを教え授けることの繰り返しだから、 などとおっしゃる福岡ハカセの本なのであれば、
「ウイルスとDNA」といった専門分野の研究最前線のお話から、
「江東区バラバラ殺人事件」の謎に迫るなんて三面記事的話題の分析や、
『1Q84』のゲノムを解読する生物学者的書評の試みまで、
多方面に目配りの利いた多彩なエピソードが、各回およそ1ページ半という短さにもかかわらず、まさに遺伝子のように、 折りたたまれて詰め込まれている。つまりこれは、学生たちに「語りかけるべきこと」は、
「私自身が、知ってうれしかったこと、学んで面白かったことに他ならない。それ以外の何に、教えるだけの価値があるというのだろう。」
と考える、福岡ハカセから私たちへの贈り物のような本なのである。
ルリボシカミキリの青。その青に震えた感触が、私自身のセンス・オブ・ワンダーだった。そして、その青に息をのんだ瞬間が、 まぎれもなく私の原点である。私は虫を集めて何がしたかったのだろう。それは今になるとよくわかる。フェルメールでさえ作り得ない青の由来を、 つまりこの世界のありようをただ記述したかったのだ。
2011/1/2
「三人の二代目」 堺屋太一 北国新聞
「第一は、古く永禄年間、家康様に逆ろうた三河一向一揆を徹底的に鎮圧されたこと。第二は、織田信長様の配下で鍛えられたこと。 第三は、三河一国から遠江、駿河、甲斐、信濃と領国を拡げられる中で、命令に従う者は育て、従わぬ者は潰されたことです」
「徳川家康は何故それほどに強いのか」という自らの問いに、淀みなく答えて見せる直江兼続を前に、景勝はむっつりと頷きながら、 内心で呻くほかはなかった。
「俺は二代目。先代様の認めた領主や功臣が多すぎるわ。」
というわけで、
養子の身ながら二代目の地位を奪い取った「上杉景勝」、
二人の叔父に支えられながら、祖父の地位と権威を引き継いだ「毛利輝元」、
老齢の父の死により、いまだ少年の身でその地位と家臣団を継承せねばならなかった「宇喜多秀家」、
このお話に登場する「三人の二代目」は、それぞれにそれぞれの宿命を背負いながら、戦国の世を生き抜いていく。
そんな三人の生き様が、見事にクロスすることになったのは「関ヶ原の合戦」で、 三人が三人共に「負け組」になってしまったのは、彼らが「二代目」故に、そうならざるを得なかったというのだが、
ここから佳境かと思いきや、北国新聞の連載が唐突に終了。
新年からは、五木寛之の『親鸞』が満を持して登場という事情もあったのかもしれない。
もっとも、このあたりのストーリーは、NHK大河ドラマ「天地人」でもお馴染みのところで、 (「挿絵」なんか、恥も外聞もなく、もろに丸写しなのである。)
むしろ、堺屋太一の面白さは、魅力的な脇役たちに与えられる活躍の場と、 そのサイドストーリーの膨らみにこそあると言うべきなのである。
岡本与三郎、のちの淀屋常安。信長、秀吉、家康の三代の世に活躍、淀川の水路を整え、大阪中之島の地を埋め立て、天下の台所を築いた。 その子三郎右衛門个庵は、米市場を開いて世界最初の商品先物取引をはじめた。「文化の異才」日海(のちの本因坊算砂)に続く 「経済の巨豪」淀屋の登場である。
2011/1/1
「予想どおりに不合理」―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」― Dアリエリー 早川書房
わたしは上から順に見ていった。ひとつめの、ウェブ版の年間購読が59ドルというのは、まずまず手ごろだ。 ふたつめの、印刷版の年間購読が125ドルというのも、少し高めではあるものの、まあこんなところだろう。
ところが、三つめは、印刷版とウェブ版の年間購読が125ドルと書いてある。わたしはいま一度読み返してから、 上のふたつの選択肢に目をもどした。
「印刷版だけを購読するのと、印刷版とウェブ版の両方を購読するのが同じ値段なら、だれが印刷版だけにしておこうと思うだろう?」
そこで、マサチューセッツ工科大学(MIT)の院生で実験してみると、
ウェブ版だけ(59ドル) 16人
印刷版だけ(125ドル) 0人
セット購読(125ドル) 84人
という結果になり、確かに印刷版だけを選ぶものは誰もいないことがわかった。ところが・・・
ためしに、「印刷版だけ」という選択肢を外して、再度実験してみたところ、
ウェブ版だけ(59ドル) 68人
セット購読(125ドル) 32人
「印刷版だけ」という選択肢を入れるだけで、必要のない「印刷版」にお金を払ってもいいという人が倍増することがわかったのである。
つまり、「ウェブ版」と「セット購読」のどちらを選ぶかということになんら「合理的」な判断基準はないが、 「おとり」を使って、相対的な判断基準を導入してやれば、私たちは極めて「不合理」な決断をしてしまいがちだということを、 ≪エコノミスト≫のマーケティング担当者は見事に「予想」していたということなのだ。
「なぜ楽しみでやっていたことが、報酬をもらったとたん楽しくなくなるのか」
「無料!はいかにわたしたちの利己心に歯止めをかけるか」
「なぜ自分の持っているものを過大評価するのか」
「なぜ心は予測したとおりのものを手に入れるのか」
これはイスラエル出身の、行動経済学研究の第一人者ダン・アリエリーが、
「人がどのように不合理な行動をとるのかを系統的に予想することは可能だ」
と、ミクロな実験の結果を丁寧に紹介しながら、高らかに宣言してみせた画期的な本なのである。
この本で紹介した研究からひとつ重要な教訓を引きだすとしたら、わたしたちはみんな、自分がなんの力で動かされているか ほとんどわかっていないゲームの駒である、ということだろう。わたしたちはたいてい、自分が舵を握っていて、自分がくだす決断も 自分が進む人生の進路も、最終的に自分でコントロールしていると考える。しかし、悲しいかな、こう感じるのは現実というより 願望―自分をどんな人間だと思いたいか―によるところが大きい。
先頭へ
前ページに戻る