徒然読書日記201009
サーチ:
すべての商品
和書
洋書
エレクトロニクス
ホーム&キッチン
音楽
DVD
ビデオ
ソフトウェア
TVゲーム
キーワード:
ご紹介した本の詳細を知りたい方は
題名をコピー、ペーストして
を押してください。
2010/9/29
「岩佐又兵衛」―浮世絵をつくった男の謎― 辻惟雄 文春新書
「雲竜図」は手法こそ室町水墨画風だが、鼻毛を思い切り伸ばし口元をゆがめ、横目を白く浮き出させた表情が人間臭い。 威張っているようで、なにかおどおどした目つきに、かれの心理が投影されている。
「雲竜図」(旧金谷屏風)部分 東京国立博物館
描いたのは江戸時代初期の絵師「岩佐又兵衛」。
戦国時代、織田信長の重臣・荒木村重というれっきとした戦国大名の子として生を享けながら、 叛旗を翻した父村重への見せしめとして、絶世の美女と評判だった母親の「だし」(当時21歳)を、六条河原で処刑され、 わずか2歳の自らは、乳母の手で城から救い出されて本願寺教団にかくまわれたという、数奇な生い立ちの画家である。
美術史家としてのデビュー以来、「岩佐又兵衛」を追い続けてきた日本美術界の重鎮によるこの本は、 京に学び、福井に流れ、ついには徳川家光の招きで江戸にのぼった、この天才絵師の足跡を追いながら、 「浮世又兵衛」と呼びならわされるにいたった妖しい魅力の謎に迫る、新書というには余りに濃密な一冊なのである。
宿の老夫婦が駆けつけ、常盤の裸身に小袖を掛けて介抱する。遺言を終え合掌し息絶える常盤の顔は可憐である。
「山中常盤物語絵巻」部分 MOA美術館
幼くして生き別れとなった母「常盤御前」を盗賊に惨殺された牛若丸の、「仇討ち」を描いた絵巻のクライマックスであるが、 ここに「サディズム」や「エロティシズム」だけでなく、常盤の受難に対する画家の感情移入の切実さを見る著者の鑑識眼には確かなものがある。 生んで間もない乳飲み子のことを案じながら刑場に臨んだ「だし」への追想が見えるというのである。
このスケールの大きな在野の画家は、古典の雅のなかに、当世風の俗と心理の翳りを映す<かたちの歪み>とをさりげなく忍ばせた画風を 表向きのものとしながら、一方で、それ以上の情熱をアンダーグラウンドの工房であるスタジオ・マタベエの主宰・経営に注いだ。 そこでひそかにつくられた大量の無署名の作品が、世間の注目を浴びた「山中常盤」「上瑠璃」のような特異な絵巻群であり、 <浮世又兵衛>の名の由来となった「舟木屏風」のような画期的な風俗画であった。このスケールの大きな個性的画家はまた、終始京にあって 活躍した同時代の巨匠、俵屋宗達の「陽」に過不足なく対応できる「陰」の世界の表現者として、正当に評価されるべきだろう。
浮世絵の元祖として誰もが認める菱川師宣の「見返り美人図」の後をふりかえる女性のポーズにしたところで、 又兵衛の「湯女図」の画中から抜け出たとたんに野生の肉体を失い、浮世絵美人画の枠の中に収まってしまう。
という意味で、岩佐又兵衛は、第二期の浮世絵に先立つ、第一期浮世絵の元祖なのである。
2010/9/20
「奇想の江戸挿絵」 辻惟雄 集英社新書
読本のテキストの波瀾万丈、摩訶不思議な内容を、読者にイメージとしてより強く訴えるため、画家は白黒木版画の小画面という 厳しい制約を逆手に取って、さまざまな表現手法を編み出し、斬新で強烈な画面をつくり出す。
それだけを読んだのでは、入り組んだ筋書きと荒唐無稽な場面の連続が読者を当惑させ、ついてくるのが大変である。 「読本」(よみほん)の物語作者は、そこに「挿絵」を採用することで、その懸念を払拭した。 「挿絵」は作者が自ら描いた「稿本」(草稿)により、その絵柄だけでなく枠の意匠までが指定されたが、 実際に仕上げられた「刊本」(刊行されたもの)と比較して見れば、そこに「絵師」たちの創意工夫の跡が加えられていることは明らかだった。
たとえば、読本の黄金時代ともいうべき江戸時代文化年間(1804〜1818)における読本作者の二大スター、 「山東京伝」は「歌川豊国」と、「曲亭馬琴」は「葛飾北斎」と、それぞれコンビを組み、 博学の「物語作家」と異能の「浮世絵師」との、腕比べともいうべきこのコラボレーションによって、
幽霊や妖怪、異界のものたちが跋扈し、生首が飛び、血がしたたる、残虐とグロテスクに満ちた「奇想」のエネルギーが横溢しており、 斬新な技法、表現、意匠の実験が絶えず繰り返されている。
めくるめくような「江戸版本」の挿絵ワールドが花開いたというのだった。
全く注目されることのなかった「伊藤若冲」を発掘した美術史家の手によって、 「北斎以外の絵師による、ほとんど知られていない挿絵の傑作をどこまで掘り出せるかというところから始まった」 というこの本は、新書であるにもかかわらず、見開きの迫力ある図版に溢れ、 パラパラ眺めているだけで、日常茶飯に紛れて枯渇してしまった私たち現代人の想像力を、いたく刺激してくれるのである。
絵巻のお株を奪った二頁続き、三頁続きの長い画面が物語のクライマックスで現れ、頁を繰る読者の好奇心をいやが上にもかきたてた上で、 最後の頁に驚きのイメージが出現するという仕掛けである。
2010/9/14
「荒地の恋」 ねじめ正一 文春文庫
唐突に、自分も泣いていることに気がついた。顔を覆って泣く明子の横で、北村もまた涙を流していた。 こんなふうに泣くのは何年ぶりだろうと思った。全身を不思議な幸福感が満たした。
「明子さん」
北村は言った。
「どうやら僕は、恋に落ちたようだ」
25年もの間、黙々と新聞社の校閲部に勤務しながら、合間に細々と詩を書くという、平凡とはいえそれなりに幸せな家庭生活を送ってきた 寡作の詩人・北村は、いよいよ定年も間近となった53歳のある日、自ら想像だにしなかった、「突然の恋」に落ちる。
相手は、同人詩誌『荒地』をともに創刊した仲間で、中学時代からの親友・田村の、四度目の妻・明子だった。
殺し文句である。田村の詩も、田村という人間も、もしかしたら田村の人生も、殺し文句で出来上がっている。そしてまた、 殺し文句の詩人は女を殺すだけで愛さないのだった。言葉で女を殺して、うまいこと利用して、面倒臭くなったら逃げ出すのだ。 殺し文句の詩人が大切にしているのは言葉だけである。言葉に較べたら、自分すらどうでもいいのである。
死のわずか8か月前に「おじいちゃんにも、セックスを」のコピーと共に、74歳の「鬼気迫る色気」(@西川美和)を新聞広告で振りまいて見せた、 戦後詩を代表する「酒仙詩人」と謳われた田村隆一は、「女を愛さない男」だったのではなく、それが田村流の女の愛し方だったのだ。
そして、二人の関係を認め、時には煽ることまでしながら、ネチネチと絡みつくかのような田村との、地獄のような三角関係の縺れの中で、 田村の「愛」と北村の「恋」との間に挟まって、懸命にもがき続けた明子が、ついに壊れてしまったのは、 半ば必然だったというべきなのかもしれない。
昭和56年、処女詩集「ふ」でH氏賞を受賞した詩人・ねじめ正一が、自らの体験に基づきながら、 どうしようもなく「詩人」であるということの哀しさを通して、見事に描き出して見せた男と女の気圧配置図。
明子と出会った北村は、愛すべき家族を捨て、安定した職場を失ったことで、逆に猛然と詩作に励むようになった自分を発見する。 それまでの平凡な暮らしの中で、いつしか喪ってしまっていた「言葉」を取り戻したのである。
――たった、これだけかあ。
心の中で囁く声があった。お前が二十五年かけて手に入れたのは、たったこれだけかあ――。
「いいじゃないか、これで」
北村もまた、どうしようもなく「詩人」であった。
2010/9/13
「誰が本当の発明者か」―発明をめぐる栄光と挫折の物語― 志村幸雄 講談社ブルーバックス
私たちは、たとえば白熱電球はエジソン、飛行機はライト兄弟、無線電信はマルコーニが発明者だと学んだ。しかし時代や国によっては、 白熱電球にはスワンが、飛行機はラングリーが、無線電信はポポフが発明者だとされたこともある。 このように発明者が必ずしも特定できるとはかぎらないのはなぜなのだろうか。
先人の発明の改良にしか貢献できなかったにもかかわらず、後世に「蒸気機関の父」と呼ばれることになったジェームズ・ワット。
その時代の多くの人々の様々なアイディアが組み合わさって、『急にひとりでに生まれ出た』かのように見える自動車の、 そのすべてのアイディアを一つにまとめた男と位置付けられたカール・ベンツ。
マルクスから『他人の発明の最大の盗人』と酷評された水力紡績機は、確かに「盗作品のオンパレード」と呼ばれるべき代物ではあったが、 リチャード・アークライトはそれで巨万の富を成し遂げることに成功した、
アークライトは「紡績機の発明者」ではなく、「紡績産業の発明者」だったのである。
もちろん「その靴で特許庁の階段が擦り減った」という伝説まである、発明王トーマス・エジソンが、いろんな発明の項で何度も顔を出し、 その強引ともいうべき「特許戦略」で、自分の発明の優位性を執拗に訴え続けるのもご愛敬である。
発明をめぐってこのような問題が生じるのは、本当の発明者の特定がむずかしいという、発明ならではの特性に原因があるように思われる。 (中略)要は発明者としての名誉や権利問題に加えて、企業の利害、国家間の思惑などが複雑に絡み合っていて、 一筋縄でに決着する話ではないのだ。
「映画」「電話」「白熱電球」「飛行機」から、「IC」「トランジスタ」「発光ダイオード」まで、 古今東西の主要な20の発明を俎上に載せて、誰が本当の発明者なのか、という謎解きに取り組んだこの本は、 それぞれの発明が出現した社会的背景や技術状況を踏まえながら、 そこに関わることになった多くの発明者候補の、それぞれの発明に至った動機や、開発過程、考え方の違いなどを掘り起こしていくのだが、 そこで明らかになっていくことの一つは、
「われわれでなくても必ず誰かが同じようなものを発明していただろう」
と、トランジスタを発明した天才ショックレーも語ったように、あらゆる発明には「時代の産物」という側面もあるということなのだった。
2010/9/9
「葬られた王朝」―古代出雲の謎を解く― 梅原猛、新潮社
イザナギ、イザナミはその子孫によって二つの系統の神々に分かれた。一つはイザナギ、アマテラス、ニニギのヤマト王朝の系統である。 そしてもう一つは、イザナミ、スサノオ、オオクニヌシの出雲王朝の系統である。前者はまさに日本を支配する光の神であり、 後者は一旦は成功をおさめるが、最後には悪神となり、根の国へと行かざるをえない神である。
記紀神話が説くところによれば、ヤマタノオロチを退治し、出雲平野に豊かな王国を築き上げたスサノオの、6代目の子孫オオクニヌシの時代には、 「因幡」(あの白兎の逸話、鳥取県東部)や「越」(越前、越中、越後、北陸地方)ばかりか、近畿地方までをも視野に入れる大国となっていたが、 南九州から東征してきた天孫族のヤマト王朝に迫られた「国譲り」の要求に屈して、オオクニヌシは出雲大社に隠遁する・・・
ことになっている「出雲王朝」の存在を、梅原さんが40年も前に書いた『神々の流竄』(集英社)において、 「出雲神話なるものは、大和に伝わった神話を出雲に仮託したものである」と否定したのは、 「出雲大社」以外に、その神話を裏づけるような考古学的遺跡が、その当時には存在していなかったからだった。
ところが、昭和59年に荒神谷遺跡から、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土し、平成8年には加茂岩倉遺跡から39個の銅鐸が 発見されるに及んで、出雲はいまや、日本最大の青銅器文化の宝庫として、世間の耳目を集めるようになってきた。
出雲には壮大な神話にふさわしい考古学的遺跡はないという通説が、木端微塵に粉砕された今、自分の旧説も含めて、 「出雲神話は全くの架空の物語である」という説を根本的に検討しなおすため、出雲の史跡を訪れ、『古事記』『日本書紀』の記述を 跡づけ直して見ようというのが、真実の追求に飽くことを知らないこの著者の熱き思いなのであった。
法隆寺を聖徳太子一家の怨霊鎮魂の寺とする『隠された十字架』、柿本人麻呂を流罪刑死の人とする『水底の歌』に続き(といっても、 40年近く間が空いてしまったた、今や懐かしの名著である)、
通説を根本的に覆すことで、学界からは無視されることになる、著者独自の見解を展開する「古代史」3部作の完結編。
聖徳太子を怨霊として法隆寺に祀り、柿本人麻呂を石見に流して水底に屠った張本人・藤原不比等は、 『古事記』『日本書紀』の編纂にあたり、ヤマト王朝の「天つ神神話」を藤原氏寄りに大幅に改竄することで、藤原一族の千年の繁栄を 図る策謀を巡らすと同時に、ヤマト王朝に敗れた出雲王朝の神々の「国つ神神話」には手をつけることなく、そのまま出雲の地に封じ込めるために、 「出雲大社」を建立したのではないか、
というのが、今回の「謎解き」の肝なのだった。
不比等はここで、『古事記』神道というべき神道を創造することによって、日本国家の宗教を司る権利を藤原氏に独占させようとする 強い意志をもっていた。日本には古来から「政」すなわち政治は、「祭り事」すなわち祭事であるという言葉があるが、 この祭事の中心は何よりも前代の王朝の鎮魂であった。ヤマト王朝においてその前代の王朝鎮魂という神事の主役をこなしていたのは ずっと物部氏であり忌部氏であった。この物部及び忌部氏を祭事の主役から追い払い、その主役を中臣・藤原氏に独占させることが 『古事記』神話創造の目的であり、その象徴的建物が、驚くべき巨大な建物、出雲大社であったのである。
2010/9/9
「造花の蜜」 連城三紀彦 角川春樹事務所
「いいえ。お母さんと一緒なんでしょう?だってさっきお母さんが車で迎えに来て連れて行かれたじゃないですか。 お祖母ちゃんが蜂に刺されて危篤状態だからって」
一人息子の圭太が「スズメバチに刺された」という連絡を受けた香奈子は、急ぎ病院に向かう車の中で、ふと不審に思い幼稚園に問い合わせるのだが、 返ってきた答えは、まるっきり正反対の事実で、しかも担任の先生は「迎えに来たのは、確かにあなただった」と言い張るのだった。
「そちらがお金を払いたいと言うなら別だよ。いや、払いたいんじゃなくて・・・こう、言い直そう。そちらがお金をくれると言うなら別だ」
と、なかなか素直に「お金」を要求しようとしない誘拐犯が、ようやく指定した「身代金」の受け渡し方法は、 「昼の十二時半に、渋谷のスクランブル交差点のど真ん中で」という突拍子もないものになったのだが、 散々、犯人に翻弄された末に、それでも無事に戻ってきた圭太の口から、香奈子は衝撃の事実を聞くことになる。
(ここからはネタばれになるので、しばらく文字を白くしておきます。)
「あるよ、ミノシロキンなら」
そう言って、圭太はベッドから跳び下り、窓辺の椅子に駆け寄ると、リュックサックを二つの小さな手でつかみとった。
次の瞬間、信じられないことが起こった。
「おかあさん、この人がユーカイハン?」
とおそるおそる担当の警部に差し出した圭太は「誘拐されたのはお母さんの方だ」と犯人から聞かされていたのだった。
『変調二人羽織』や『戻り川心中』で、世のミステリーファンをうならせた連城三紀彦が、久々に真骨頂を見せてくれたともいうべきこの作品は、 ここまででようやく物語の3分の1にすぎず、実は、ここからようやく始まるのだといってもいいくらいなのである。
「女王蜂」たる誘拐犯のために、「働き蜂」としての役回りを演じさせられることになった男の、 「表の誘拐劇」の「謎とき」ともいうべき回想と、その後の逃避行が描かれていく後半部分は、 やがて想像もしなかった結末に向かって、大団円を遂げることになるのである。
「さっき『重要な役』と言ったが、君は彼女が君にどんな役を与えたか、わかっているね」
彼の肩をもみ続けながら、警部は優しい声で訊いてきた。ただの優しい声ではない。裏に何かを隠した優しすぎる声だった。
彼は何も答えず、肩にのしかかってくる警部の手を冷たく払いのけた。
警部は彼の横側に回り、立ったまま上半身を大きく曲げ、彼の顔を覗きこんできた。
「今やっとわかったのかな・・・それとも夕方、高崎駅のホームにたった時にわかったのかな」
惜しむらくは、「ここで終わってほしかった。」というのが、暇人の率直な感想である。
2010/9/4
「好かれる方法」―戦略的PRの発想― 矢島尚 新潮新書
要するにPRの本質とは「自分はこういう者です」ということを、まず相手に正確に理解していただくことです。 その結果向こうが気に入れば好きになってもらえるし、そういう人を私は好きじゃないと言われればそれは仕方がないことです。
「広告代理店」が、新聞の下の方の広告に関わるマージン・ビジネスであるのに対し、 「PR会社」は、新聞の上の部分の記事に関わるフィー・ビジネスという全くの別物なのだという。
「私たちの商品はこんなに素晴らしいのです」というメッセージを、こちらから発信するのではなく、 自分たちの言いたいメッセージを、第三者が思ったように評価してもらうこと、 そのためには、どのような媒体に、どのようなタイミングで、どのような内容の記者発表をすればよいのかを考えること。
つまり、広告というのが「buy me」(私を買ってください)なのだとすれば、 PRは「love me」(私を愛してください)なのだというのだった。
小泉自民党の選挙アドバイザーとして、「郵政選挙」を圧勝に導いたという、 PR会社「プラップジャパン」の代表が語る「戦略的PRの発想法」とは、 キシリトール、シーガイア、タマちゃんなど、様々なブームの立ち上げに携わった成功事例を見ても明らかなように、
「PR=public relations」という言葉の字義通り、 「大衆や公衆、ひいては社会との関係を向上させて、良好なものにする行為」という極めて真っ当なやり方が、 回り道であるかのように見えて、結局は一番近道の「好かれる方法」なのだというものだった。
私たちは魔法の杖を振り回してカボチャを馬車にすることは出来ません。また一般の人に催眠術をかけて「このカボチャは馬車だ」 と信じ込ませることも出来ません。
その代わりに、顔中が灰で汚れている女性の顔を拭いて、本来の美貌を見出すことは出来るかもしれません。さらに彼女をお城まで連れて行って、 「この人は王子の妃に向いています」とお勧めすることのお手伝いも出来るかもしれません。
つまり私たちが出来ること、やっていることはあくまでも、対象が本来持っている魅力を最大限にアピールするためのお手伝いなのです。
先頭へ
前ページに戻る