徒然読書日記201007
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2010/7/30
「若者よ、マルクスを読もう」―20歳代の模索と情熱― 内田樹 石川康宏 かもがわ出版
私が何かを研究しようとする場面での私とマルクスのつきあいは、現代の経済であったり、政治であったり、 女性の地位や家族や少子化問題であったり、そういう今日的な問題を考えるためのひとつの作業として(石川)
「何かおもしろい視角がないかなあ」と、研究のヒントを探しに行くような関係だという、 マルクス等についての専門研究書の読者ではあるが、専門的なマルクス学者ではない経済理論学者・石川康宏と、
ぼくがマルクスを愛する最大の理由は、マルクスが世の中の仕組みをさくさくと解明してくれたことでも、 どうやって階級のない社会を構築するか、その筋道を指示してくれたことでもなく(内田)
「マルクスを読むと自分の頭がよくなったような気になるからなんです」と、その経済理論や政治理論は、もう現実政治では「賞味期限切れ」の マルクスに、自分自身の知性を不自由にしている「檻」(思考の枠組み)の構造に気づかせてくれるという意味での「賞味」を認める内田樹とが、
大の大人たちが汗だくになって初心者に説明しようと躍起になっているさまを見た若い人たちが「そこまでしても『わかってほしい』くらいに マルクスはこのおじさんたちにとって魅力的であり、そこまでしても『わからせられない』くらいに深遠な思想家なのか」 と思ってくれれば(内田)
という企みのもとに開始した「往復書簡」は1年3カ月かけてわずかに8通、
そこでとりあげることができたのは、エンゲルスと出会い『共産党宣言』を発表するまでの若き情熱にあふれているとはいえ、 若干20代のあまりにも若いマルクスの姿であり、
疎外論の出発点が「自分の悲惨」ではなく、「他人の悲惨」に触れた経験だったということ。マルクスは 「私たちを疎外された労働から解放せよ」と主張したわけではありません。「彼らを疎外された労働から解放するのは私たちの仕事だ」 と主張したのです。この倫理性の高さゆえにマルクス主義は歴史の風雪に耐えて生き延びることができたのだとぼくは思っています。(内田)
いわば「マルクス主義者」となるために、模索を続けるマルクスの紆余曲折する姿なので、 『資本論』や『剰余価値』については、これから発信されるに違いない第2巻を待たねばならないわけなのだが、
それはいったい、いつのことになるのだろうか?
それまでに、ぜひもう一度この本をながめ返し、マルクスの若々しい時々の思想と、社会の改革に燃える情熱、何者をも恐れぬ挑戦の精神、 そして自分が築いた到達点にひとときも安住(固執)することなく前に進んでいくその活力――そういったところを、 再び「するめ」をしがむように、味わっていただけたらと思います。(石川)
2010/7/26
「水死」 大江健三郎 講談社
――それはその通り、これは長江さんとしての本格小説ではある。文体にしても構造にしてもさ。しかし、この十年、十五年、 長江さんのすべての長編がこの調子じゃないの、ウナイコ?基本的には語り手=副主人公が・・・時には主人公である人物すらが・・・ みな作家自身に重ねてある。それはやはりやりすぎじゃないの?小説らしい小説を読みたい読者を取り込めない。どうしてこのように、 世界を狭く限られるんですか?
終戦の年、大水の川へ短艇で乗りだし帰らぬ人となった超国家主義者の父。
かつて、そんな父の「水死」の顛末を、全くの想像で『みずから我が涙をぬぐいたまう日』という小説に描いた長江古義人のもとに、 その時には受け渡しを拒絶した母の、死後十年目の約束として、父の書簡類が入っている「赤革のトランク」を渡してもよい、 という妹アサからの報せが届き、
古義人はこれまで宙吊りにしてきた「水死小説」を再開すべく、四国の「森の家」へと赴くことになったのだが・・・
――それは、ぼくも認めますよ。もう放棄したけれど、この間までずっと準備してた小説は、六十年以上前に五十歳で死んだ父親を 書こうとしていた。そしてこれは書き上げることができないと観念して、いまきみのいったと同じことを考えた。 自分はどうしてこういう隘路に入り込んだか、と・・・そしてすぐにね、このような書き方でなければ、書くこと自体を持続できなかった、 つまり狭く自分を限るほかなかったんだ、と思い当ってね。
結局「水死小説」を書き上げることが出来ぬまま東京に戻った古義人が、亡き友の遺品の楽譜にボールペンで書き込みをした息子・アカリに、 思わず「きみは、バカだ」と怒鳴ってしまう第一部。
観客参加型の『死んだ犬を投げる』演劇活動を続ける女優・ウナイコを応援する妹・アサの要請で再び「森の家」で暮らすことになった古義人に、 手術のため入院することになった妻・千樫は、アカリを伴わせることで二人の関係の修復を祈ろうとする第二部。
古義人のシナリオによる演劇『メイスケ母出陣と受難』を再演しようとするウナイコの狙いが、自身の「強姦」体験にあることを知ったウナイコの 伯父による妨害が、突然の「射殺」と「自死」によって大団円を迎えることになる第三部。
それは、父に付いていた「物の怪」の、その跡を継ぐべきであった古義人に変わり、父の一番弟子の大黄が「よりまし」となって引き取っていった、 「立ったままの水死」だったのである。
というわけで、この「赤革のトランク」を模した、美しい装丁の本に詰め込まれている物語というのは、 これまでにも、何度か目にしたことがあるようなシーン、何度か耳にしたことがあるような会話ではあるのだが、
大江作品にあふれる独特の「既視感」に包まれながら安心してページを繰っていくうちに、時に軽快なステップを踏み外すかのような 「違和感」を覚えて立ち止まり、思わず足元をジッと眺めてしまうような、そんな作品であったように思う。
何度も通いなれたはずの道なのに、初めてそこにそんなものがあったことに気づくかのような体験。
これはおそらく、「晩年の仕事」(レイト・ワーク)に向かって疾走するこの老作家の、飽くことのない「再読」(リ・リード)の成果 であるのに違いない。
"These fragments I have shored against my ruins."
(こんな切れっぱしでわたしはわたしの崩壊を支えてきた)
ぼくのこれまでの読みとりは、(中略)いまや自分は陸の上にある。こんな切れっぱしに過ぎないものによって、なんとか崩壊から まぬがれることができた・・・やっと、という安堵感を共有するふうに、この一行を受け止めていた。
それがそうではないと理解したわけ。自分はいまも現に崩壊に瀕しているんだ、それをなんとか持ちこたえようとしてるんだ、と。 そしてこれらの切れっぱしがいまも頼りなんだ、と。そうなれば、エリオットの原詩と、あいまいなところのある深瀬訳とが、 この上なくしっくり合体する・・・
その上でぼくが納得したのはね、自分がこのような老年になって日々の崩壊にさらされてるから、つまりはこれが実感されることになっている、 ということです。
2010/7/23
「松岡正剛の書棚」―松丸本舗の挑戦― 松岡正剛 中央公論新社
ひとまずは、最も小さな「意味のモデル」をつくろうと思った。それには何が単位となるべきなのか。僕も丸善も、 それは「棚」しかないと確信した。しかしその「棚」は無個性であってはならない。食器棚や洋服箪笥やブティックやスーパーに個性があるように、 格別の個性や意匠が必要だった。
こうして、丸善・丸の内本店4階の、わずか65坪のスペースに出現した「松丸本舗」は、 一冊ずつにすでに多様な意味が充填されている「本」の、それらの複合知であり集合知であるべき「本棚」が、 アプローチ・多様性・深さ・奥行き・記号力・謎・アクセサリー・意外性などの多角的な視点から、 しかも決して孤立することなく、たえず可変的な文脈を持つように、縦横無尽に組み合わされて、 まるで生きもののように立ち上がってくる「記憶の殿堂」であり、「意味の市場」なのであるらしい。
そこに足を踏み入れてみさえすれば、
「遠くから届く声」があなたの鼓膜を揺らし、
(心のどこかに疼く懐かしさの記憶。古今東西の文芸・詩歌・少女漫画へと思いを馳せる)
「猫と量子が見ている」チリチリするような視線があなたの背中をくすぐるのだろう。
(自然・科学・宇宙・数学・物理の“発端と先端”に出会う入り口。理科の授業とシステム科学)
松岡正剛のあの『千夜千冊』が、そのまま本屋となってしまったという、このような空間が存在できてしまう「東京」という都会に、 私は激しく「憧れる」と同時に、「嫉妬」してしまうのではあるが、 このような底知れぬ「魔境」を身近に持たぬことが、田舎住まいの「有難さ」であることにもまた、思い至るのであった。
書物は寡黙であり、饒舌である。
死の淵にいるようで、
過激な生命を主張する。
百花繚乱の文芸作品、科学書、
思想書、芸術書のどの本に光をあて、
どの本に影をつけるのか。
どの本を生かし、どの本を殺すのか。
畏れ多くも神の真似事をしてみよう。
2010/7/21
「何が出来る?何が出来ない?」―みんなの党― 渋谷陽一・編集 「SIGHT」44号
高橋 国民は自民党と離婚して、民主党と結婚したわけじゃない?つまりさ、そのときはまだ、結婚っていう制度を信じてたわけ。
内田 (笑)なるほど!
高橋 だから、この次に来るのは、「そもそも結婚っていう制度が信じられない」ってことじゃないか。
内田 ああ、前は個人に対する、属人的な反感だったのが、この議会制民主主義という制度そのものに対する不信感に――。
ようやく待望の「政権交代」にこぎつけたというのに何も変わんないじゃないか、という、
<「再婚直後の離婚の危機」。がまんしなくていいってことを知っちゃったからですね。>(高橋源一郎)
今回の選挙において、私たち国民が学んだことは、もう外野席から勝手なことを言う自由が奪われてしまったということなのであり、
<「左翼的知性の復権」。政党に信任するっていうスタイルは、もう無理なんだよ。>(内田樹)
自民党にも民主党にも投票できないという有権者たちが、明確な、具体的なイシューを挙げて、それに関して我々はこういうふうにします、 という各党の提言に対し、個別に判断を下さねばならなくなったことに関しては、 ある意味、民主党の功績大であり、鳩山元首相の自己犠牲の手柄であるというのだった。
「民主党が評判悪くなったから、新党でも作るか」というのではだめなんですよ。民主党の絶頂期においても、 そこに巻き込まれなかったというイメージが、みんなの党の場合はすごく大きいんです。そういう意味で、 有権者からの信頼感が非常に強いんじゃないですかね。だから当然、もうちょっと時間をかけていい人材を集めていけば、 第一党にだってなれますよ。(田中秀征)
官僚改革という「指導理念」が、有権者や時代の要請と合致しているだけでなく、これまでの足取りが、そういう旗を掲げるに相応しい行動を してきた人たちが「指導者」になっているという意味で、それが両方とも欠けている、自民党も民主党もだめになってしまう中、 「みんなの党」が躍進を果たしたのは、ことの必然というべきなのだろうが、
その党名から考えても、政権を獲ろうなどとは考えてもいない、過渡的な「時限政党」としての性格が、 今回の選挙においては、格好の受け皿となったと考えるべきなのかもしれない。
高橋 みんなの党っておもしろいのはさ、専門店なんだよね。つまり、民主党とかって、政策が80個とか100個とかあるじゃない? みんなの党ってある意味、特化しててさ。「官僚問題はこうしろ」っていうプロがいる、それだけ、みたいな。
内田 そういう意味では、さっき言った、単独イシュー提案型だね。今、求められてるのは、そういうスタイルかもしんないね。
高橋 百貨店じゃなくて、ユニクロなんだよ(笑)。
2010/7/19
「科学書をめぐる100の冒険」 田端到 佐倉統 本の雑誌社
(「本を読む人=文系」という)この図式、いうまでもないが、かなり貧困である。理系の研究者だって本は読むし、今の世の中、 文系の学生だって本は読まない。科学書は難しいとよく言われるが、じゃあ、哲学や経済の本は簡単なのかといえば、そんなこともない。
しかしその一方で、「最近の生物学のことがよく分かる本はないですか?」とか、「進化と遺伝の関係の本、知りませんか?」などとよく聞かれる。 いろいろと知りたがっている人は多い。ニーズはあるのだ。しかし、一般向けの科学書がないかというと、そんなことはない。 ちょっと大きな本屋に行けば、遺伝子組み換え食品から脳の話から、わかりやすく面白い本がたくさん見つかる。
それならば、これらの本と読者のニーズとをうまく結びつける「回路」を作ってあげましょうとばかりに、
チンパンジーの社会生態学から非生物体の進化論へと『生命をめぐる冒険』を続けている進化生物学者(佐倉氏)が、
もともとは、競馬やテレビ番組などのエンターテイメント系を専門であるにもかかわらず、「だって今、科学が一番面白そうだもん」 というライター(田端氏)を相手に、
これはと思われる「科学書」100冊を取り上げて、お互いの感想を語りあう。
取り上げられることになったのは、「進化論」「遺伝子」「男と女」「病気」「夢と眠り」「生態系」「宇宙」から「ノーベル賞」の話題まで、
「素人」の田端さんが推薦する本の中から、「専門家」の佐倉さんが、これなら話ができそうだというものに絞って、「素人」のレベルに合わせて、 「入門者向き」に語られているということなので、「理科は苦手」という方でも安心して読み進むことができるけれど、
田端さんが読んでいて「感動」してしまっというた中味が、佐倉さんの目から見ると「あまり感心しない」眉唾物であると論破されてみたり、
「科学者のくせに、こんなことも知らないのか」というような、意外に苦手な分野が佐倉さんにもあることが露呈してみたりと、
“専門家と素人の科学漫才”
を目指したというこの冒険、「一冊で100冊読んだつもりになれるアンチョコ本」では済まされず、 ついつい「紹介された本」に手が伸びてしまいそうなのが、今のところの「悩みの種」なのである。
たとえば、これなんか、いかが?
佐倉 これは良い本ですね。どうしてもこういう分野は、どんな男や女がモテるのかといった話が目を引きやすいので、 研究もそっちの方面から先にパパっと進む傾向があるんです。ヒップとウエストの比率が0.7だとモテるとかね。
でも、長谷川さん夫妻が主張しているのは、進化心理学というのは性の問題だけじゃなくて、もっと広い分野の人間の行動や心理を扱える。 利他行動とか、社会正義とか、どうやって相手が信頼できるかどうかを判断するのかといった話も、全部、進化論的な考え方で語ることが 可能なんだってところですよね。人間を理解するには、社会学や哲学だけでなく、そういう生物学的な観点からも見ていかないと、 人間ってなんだろうということがわからない。
田端 私はヒップやウエストの比率とモテ度の関係を真剣に研究している学者がいることのほうが驚きでした(笑)。
(『進化と人間行動』長谷川寿一 長谷川眞理子 東京大学出版会)
2010/7/14
「心脳コントロール社会」 小森陽一 ちくま新書
キューは現在時における刺激です。この現在時における特定の刺激がきっかけとなって、エングラムとして脳細胞に貯蔵されていた 特定の記憶、過去の出来事をめぐる情報が、現在時において想い起こされます。その出来事は、これまでも何度か想い起こされたことがある かもしれません。けれども一年前に想い起こしたときの自分と、現在想い起こしている自分との間で、ゴール、すなわち未来に想定している 目的や目標が異なれば、過去の出来事の意味付けも変わります。そのとき、記憶は改変され、再構成、再構築されることになるわけです。
「キュー」(ある特定の記憶を想い起こさせるための合図となる刺激)と、
「エングラム」(脳細胞上に電気化学的に刻み込まれた物理的な現象)と、
「ゴール」(消費者がいだく購買行動の目的や目標)。
この三つがセットになった関係を言語化すると「物語」になる、その人間の物語能力のことこそを「記憶」と呼ぶわけなのだが、
「心脳マーケティング」の手法においては、この「記憶」を社会的な出来事と位置付け、個人の内側の記憶と、個人の外側としての 社会的集合記憶を結合させて、「操作する」ことが最も重要視されることになる。
一つのキュー(刺激)が、ある特定のエングラム(記憶)を活性化させ、そのエングラムが次には別のキューの役割を担い、 別なエングラムを刺激する、という玉突き現象のような操作を行えば、ある特定の一つの方向に、かなり的確に人々を誘導していくことなど いとも簡単なことなのではあるが、
ある一定の広がりの社会的共同性を持つ人々が有する「特有の集団的無意識」のような「大きな物語」でさえもが、当の本人たちは変えられたことに 気付かないままに、存在しなかった過去が再創造されるばかりか、存在した過去までもが消去されてしまうということになれば、
「War on Terror」を振りかざしたブッシュにしても、
「改革を止めるな」と叫んだ小泉にしても、
いまやこの手法を用いて、問題を「快」か「不快」かの二者択一に単純化することで、私たちを思考停止に追い込み、 世論を動かすことにまんまと成功したのではあるが、
その人が何が好きで何が嫌いか、何が良くて、何が「イヤ」なのか、という、個人の尊厳の最も要となる人格を形成する価値観自体を、 本人にそうとは意識させずに組み替えてしまおうとしているのですから、言葉を操る生きものとしての人間それ自体を崩し、 動物化させる犯罪なのです。
あなたの「脳」をそこまで「操作」できるものとして、政治的プロパガンダの道具として、活用され始めているという、 「心脳コントロール社会」の現実を認識し、いかに騙されずにこの社会を生き抜いていくべきかというのが、 この気鋭の文芸評論家の、使命感にあふれた主張のようなのである。
「心脳」コントロールの時代においては、「思う」こと自体が、あらかじめ「心脳マーケティング」の手法によって、 特定の方向付けをされているわけです。そうした、国家や資本、あるいは富や権力を専有する者たちが、私たちに気づかれないように マインド・マネジメントを行っている時代において重要なのは、与えられた情報について、「本当にそうなのか」 「この二者択一しか存在しないのか」「偽りの選択肢の中にはめられているのではないか」と、まず疑ってみることです。
2010/7/10
「かたちだけの愛」 平野啓一郎 讀賣新聞
一人の男性として、私は女性に心惹かれるが、じゃあ、女性の何が分かっているのかと言われれば、いくらか知っているつもりのことを、 大なり小なりの誤解で継ぎ接ぎしているというのが本当だろう、しかし、たとえ完全には分からなくとも、人を愛することには不自由しない。 (連載を終えて)
ある「事故」によって片脚を失うことになった女と、偶然その事故現場に居合わせた男との間に、育まれていく愛の物語。
「魔性の女」と呼ばれていた女は、「片脚」を失うことによって、「女優」としての名声とこれまで築き上げてきた人間関係を失うことになるが、 インダストリアル・デザイナーである男が作る「義足」によって、モデルとしてのより大きな「魅力」を開花させることになる。
讀賣新聞の連載が終了。
一応、建築学科出身なので、男がデザインしたという「耳型ヘッドホン」や、新たに手掛けようとしている「家具」や「照明器具」の話など、 意外に発想が斬新で、興味惹かれる部分が多かったのだが、(ひょっとして、どこかで既に商品化されているものなのだろうか)
なるほど、
「形だけ」にこだわり続けることが、この男にとっての「本質」そのものなのであれば、「かたちだけの愛」の行く末も、 おのずと明らかだったというべきなのだろう。
つまり、
平野啓一郎という作家は、「形から」入るタイプの小説家だということなのである。
「形にこだわり、形こそが本質という考えと、内実がなければ『形だけ』と軽視されることと、日本の文化には正反対の二つの方向がある」。 そのことへの興味から、題名を発想した。(連載開始にあたって)
2010/7/3
「夢と魅惑の全体主義」 井上章一 文春新書
建築などで政治氏が語れるものかと、そう疑問をいだく読者も、すくなくはあるまい。しかし、われわれは、しばしば古い時代の政治史を、 建築や都市で論じてきた。(中略)
中世末期になると、領主の城が山から平地へおりてくる。そして、中近世の研究者は、これも領域経営が変容する重大な徴候だとみなしてきた。 そう、古い時代の建築や都市は、政治史的にも注目されてきたのである。
ならば、現代のファシズム体制分析にだって、それが意味をもたないわけでもないだろう。共産主義政権を論じるさいに、 黙殺されてしかるべきテーマであるとも思えない。
古代ローマ帝国の遺構「コロッセオ」と、自らが政務を執りそのバルコニーにも立った「ベネチア宮殿」とを視覚的に結び付けることで、 ファシズム体制と古代ローマの栄光とを重ね合わせようとしたムソリーニ。
プロイセン=ドイツ帝国が整備した帝都の、目抜き通りとして東西に走る「ウンター・デン・リンデン」を、それを凌駕する規模で南北に貫く 大道路を建設しようとしたヒトラーは、旧ドイツ帝国どころか、パリのシャンゼリゼを打倒目標として、第三帝国の首都にふさわしい 世界一の目抜き通りとすることを構想していた。
自身が芸術家を目指していたヒトラーとは異なり、建築芸術への敬意があったとは思われないスターリンが求めたのは、 古めかしくて立派に見える威圧的な建物であり、スターリン・デコと呼ばれた超高層建築が、みなその頂部に尖塔を備えていたのは、 独裁者の影におびえた建築家たちが、「尖塔はないのか」というその何気ない一言に迎合したものだった。
「日本ファシズム」が派生させたのは、木造のバラック群である。あるいは、未完成のままほうりだされた鉄筋コンクリートの建造物であった。 どちらも、人々に未来への幻想を提供することはない。つらくきびしい生活への覚悟をもとめる、戦時リアリズムの建築であった。
独裁者の夢想ではなく、「お役所からまず範を」というビューロクラシーが、都市景観をまことに貧相なものに変貌させていく、 その官僚主義的な色合いが、むしろ「日本ファシズム」の特徴なのであるが、そんな「禁欲精神」の貫徹する社会を無邪気に目指そうとした という意味で、こちらもじゅうぶんユートピア的な「ファッショ」の資格を有していたというのである。
そして、戦時リアリズムを何よりも優先し、和風であれ、洋風であれ、造形意欲にみちたものは、すべて押しつぶしていった「日本ファシズム」 によって、そのキュービックなモダンデザインの表現などはもちろん逼塞させられたとはいえ、
建築設計の合理性を教条に掲げ、無駄な装飾を捨て去るという、モダンデザインの作法は、戦時下においても案外そこそこ適応しえたのではないか。 だからこそ、擬古典様式や、和風様式がすっかり影をひそめてしまった戦後において、モダンな建築のみが隆盛期を迎えることができたのではないか。 つまり「日本ファシズム」は、モダンデザインを育てる温床になっていたのではないか、というのが、
この異端の日本建築史家が脳裏に描いている、建築家たちにとってはまことに皮肉な「見取り図」なのだった。
そのとき、建築家がはたして思うだろうか。自分は封建主義がきらいだから、これはつかえない、と。王制は気に入らないので、 こちらには目をつむろう、と。そんなふうに気持ちをはたらかす建築家は、まずいないだろう。
事態は、ファシズムや共産主義に関してもかわるまい。建築家は、どんなものからも、啓発されうる。形や空間に興味がわけば、 いやおうなくそちらへ目はむくのである。
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