徒然読書日記201006
サーチ:
すべての商品
和書
洋書
エレクトロニクス
ホーム&キッチン
音楽
DVD
ビデオ
ソフトウェア
TVゲーム
キーワード:
ご紹介した本の詳細を知りたい方は
題名をコピー、ペーストして
を押してください。
2010/6/30
「進化考古学の大冒険」 松木武彦 新潮選書
自然科学の分野で飛躍的に発展した進化科学の成果に導かれて、考古学者がこれまで本業としてきた土器や石器、住居や墓などの解釈を、 もっと科学に近づけてみよう、というのが本書のねらいである。
キリンは何万世代にもわたって親から子へと遺伝子の複製を繰り返す中で、首の長い個体が環境に適応して生き残り、 種全体として首の長い動物へ変化した。考古学が取り扱う土器や石器、住居や墓などの人工物も、何度も壊れては作り直され、 前のものが次のもへと複製される中で、その時々の環境に適応した形へと徐々に変化していく。その仕組みは「キリンの首が伸びる」 のと同じことであるが、それは人間の心の中で起こっているため、人間の心の働き方、認知の仕組みを正しく知ること、 つまり、人間の心の働きから過去の人工物を解釈する「認知考古学」が、「進化考古学」を支える重要な方法論となる。
というのが、この意欲的な「大冒険」に船出しようとした著者の立場なのである。
こうした人工物の形の変化を分析するためには、
物理的な機能を体現する形の原則として、ホモ・サピエンスの道具に共通する不変の要素「フォーム」、
そのフォームの下で社会的な機能を体現し、時代や地域によって様々に異なる「スタイル」、
その特定のスタイルの中で、そのスタイルの形の規則をこわさない範囲での細部の形状やデザインが変化する「モード」、
という三つの形の要素に分けて、「変わるもの」と「変わらないもの」とを考えてゆくべきだという著者の分析は、
・ヒトの身体の基本設計とは何か
・縄文時代、ヒトが土器に美を求めたのはなぜか
・農耕の開始とともに戦争が始まったのはなぜか
・古墳時代、ヒトはなぜ巨大なものを造ろうとしたのか
・文字の使用はヒトの社会をどう変えたのか
などなど、これまでの考古学の解釈を根底から覆すかのような、スリリングな展開を楽しませながら、 私たち読者に対し、つまるところ「人間とは何か」という再考を迫ってくるのである。
歴史科学の祖・マルクスと、進化科学の祖・ダーウィン。二人の偉大な十九世紀人が生み出した巨大な血の流れを、 二一世紀の考古学で合流させることによって、史的唯物論を極め、科学としての歴史学の道を広げていく。 この、私の二十数年来の夢を実現に近づける第一歩が本書である。
2010/6/26
「天地明察」 冲方丁 角川書店
「急げ急げ!」
部屋の外から建部の声が聞こえ、
「灯りがありませぬ、建部様。灯りがなくては、この老いぼれの目では記せませぬ」
伊藤の声が続き、
「おのれしまった」
ばたばたという足音がいったん遠ざかったかと思うと、さらに勢いを増して戻ってきた。
春海は稿本を手に立ち上がって戸を開け、
「いかがなさいましたか――」
部屋の前を猛然と走り行く建部と伊藤の、
「月じゃ!安井算哲!月じゃ!」
「欠けております!欠けております!」
囲碁の名門・安井家に生まれた「安井算哲」は、22歳の若さにしてすでに、真剣勝負ではない御城碁への「飽き」が骨髄にまで染み込み、 安井家二代目という身であるにも関わらず「渋川春海」と名乗って、算術や測地、暦術の世界に「己にしかなせない何か」 を探し求める日々を過ごしていた。
「豊饒の秋(飽き)」には見出すことができなかった自らの居場所を、「春の海辺」に求めたのである。
そんな若者の思いを見抜いた会津藩主・保科正之の命により「北極出地」の観測隊に加えられた春海は、建部昌明、伊藤重孝という二人の 「天文学」の重鎮の元で、これまで日本で800年以上もの長きにわたり使用されてきた「宣明暦」が、今や2日も誤差を生じていることを知る。
「暦がずれている?」
「幕府による改暦事業への着手」という保科正之の意図を知った春海は、中国・元の時代に作られた「授時暦」の採用を朝廷に認めさせるため、 「宣明暦と授時暦を、万人の前で勝負させる」という奇手に打って出る。
互いが予想した「日蝕」と「月蝕」の日時が正しいかどうか、という3年に及ぶ勝負は「授時暦」の圧勝のまま進み、ようやく朝廷においても 改暦の意向が固まったかに見えた、その最後の最後の予想において、
「授時暦が、予想を外した。」
実はここからが、渋川春海の『大和暦』制定に向けての長い道のりの始まりだったのである。
2010年度「本屋大賞」受賞作品。
本因坊道策、関孝和、山崎闇斎、水戸光圀、いずれも実在のまことに魅力あふれる登場人物たちが、 ほとんど「史実」というエピソードの中で、綺羅星のごとく輝いて、見事な棋譜を描き上げる。
これは、算学の問題をみると解いてみずにはおられないという「永遠の理科系少年」にとっては、見逃すことのできない、 血沸き肉躍るような冒険譚の傑作なのだった。
春海は、今なら平明な眼差しで彼らの願いを見通すことが出来る気がした。
暦は約束だった。泰平の世における無言の誓いと言ってよかった。
“明日も生きている”
“明日もこの世はある”
天地において為政者が、人と人とが、暗黙のうちに交わすそうした約束が暦なのだ。
2010/6/10
「つっこみ力」 Pマッツァリーノ ちくま新書
なんかこのごろ、せつせつと、愛がたりないと感じるんですよ。私が三〇代後半で独身だから?そうじゃないといえばウソになりますけど、 そればっかりが理由でもないと思います。私はどう見ても、日本には愛がたりないと思うんです。
と幕を開けたのは、
『反社会学講座』 (ちくま文庫)
で一世を風靡した、あの「自称イタリア生まれ」の戯作者、パオロ・マッツァリーノによる本邦初の講演会である。
つまりこの本は、2006年夏に「家政法経学院大・宝塚記念小講堂」でひそやかに開催されたらしいその講演会の、 ファン待望の講演記録なのだった。
批判も論理もメディアリテラシーも、みんな「正しさ」を軸に回っています。
しかし、すでに存在するものが論理的に正しいことを証明したところで、はいご苦労様で済まされるのが落ちであろうし、 逆に、すでに存在するものを、完膚なきまでにけちょんけちょんに否定してしまえば、結果はゼロになるだけで、何も生みはしないのだから、
むしろ、いまの社会が本当に求めているものは、ボケが有する「創造力」(それは天才・異才・奇才のみに許される)をきっちり受け止めて、 ボケの論理の歪みを指摘しつつも、それを否定。批判するのでなく、逆に盛り上げて、そのおもしろさを世間にアピールすることのできる、
「つっこみ力」だというのである。
メディアリテラシーや論理力がなかなか受け入れられないのは、それを使う人たちの態度が間違っているからなあです。 そこにあるのは容赦のない否定ばかりで、愛がありません。権威に刃向かう勇気がありません。そしてなにより、笑がなく、つまらない。
「愛と勇気とお笑い」こそが「つっこみ力」を構成する三大要素だと喝破する講演者の「漫談」は、
「日本の自殺を減らすための確実な方法のひとつが、住宅ローンの方式を変えることなんです。」
という「とても意外な結論」(とはいえ、基本的に貸す側にリスクを負わせるべき、というデータに基づく胸のすくような正論なのである) に至って、佳境を迎えることになるのだが、
おそらく、当日「家政法経学院大・宝塚記念小講堂」を埋め尽くした聴衆の皆さんは、
「一皮剥ける」ような貴重な体験をすることになったに違いない。
人は正しさだけでは興味を持ってくれません。人はその正しさをおもしろいと感じたときにのみ、反応してくれるのです。 本当に重要なのは正しさではありません。付加価値であるおもしろさのほうなんです。正しいと思ったことを、 いかにおもしろく伝えられるかが重要なのに、識者も学者も教育者も、それをあまりにも軽視しています。大衆に媚びる必要はありませんが、 ウケを狙いにいくことは、大切です。
2010/6/8
「1Q84 Book 3」 村上春樹 新潮社
私はこれまで、自分がこの「1Q84年」にやってきたのは他動的な意思に巻き込まれたせいだと考えていた。 何らかの意図によって線路のポイントが切り替えられ、その結果私の乗った列車は本線から逸れて、 この新しい奇妙な世界に入り込んでしまったのだ。そして気がついたときには私はここにいた。二つの月が空に浮かび、 リトル・ピープルが出没する世界に。そこには入り口はあっても出口はない。
天吾が書き進めている『空気さなぎ』という物語の中に否応なしに巻き込まれてしまったことに気付いた青豆は、 「私はたまたまここに運び込まれたのではない。」という確信に近いイメージを得て、「天吾と巡り合い、結びつくこと。」 という私の物語を綴るために、自らの命を絶つことを思いとどまり、再び動き始めていた。
そんな彼女の下腹の奥には、ジワリと温かい熱を発する「小さなもの」の存在もあったのだ。
「それなりに有能」ながら「極めて異形」な、牛河という格好の「狂言回し」の目と耳と足の力を借りることによって、 『1Q84年』という物語世界に刻み込まれていた深い謎は、次第にその意味を明らかにされていくことにはなるのだが、 それはまた、物語の代作者である当の天吾にとっても、自らに与えられた役割が「何であったのか」を確かめる道行きでもあったのだ。
というわけで、
日本ばかりか、お隣の中国までも一大ブームに巻き込んでしまった、この『1Q84』という物語は、 このままおとなしく幕を閉じてしまうのだろうか。
青豆と天吾に見捨てられることになったこの世界は、果たしてこのまま『1Q85 Book 4』という新たなる年の訪れを 無事に迎えることができるのだろうか。
それとも、物語の主人公を失ってしまったこの世界は、『1Q84 Book 0』として再び元の1月に戻り、果てしのない円環の戯れの中に、 閉じ込められてしまうことになるのだろうか。
あるいは、
元の世界に戻って青豆が産む天吾の「ドウタ」が、リトル・ピープルによって連れ戻され、月が二つある世界での新たな<声を聴く>者 となることで、「1Q84」と「1Q85」の間の、新しいレールにポイントが切り替わることも、考えられないわけではない。
題して、
『1Q84.5(てんご) Episode 1』
なんちゃって。
(私ごときに、まともな書評なんてできませんってばさ。)
心という作用が、時間をどれほど相対的なものに変えてしまえるかを、その光の下で天吾は改めて痛感する。二十年は長い歳月だ。 そのあいだにはいろんなことが起こり得る。たくさんのものが生まれ、同じくらいたくさんのものが消えていく。残ったものごとも形を変え、 変質していく。長い歳月だ。でも定められた心にとっては、それが長すぎるということはない。 たとえ仮に二人が巡り合うのが今から二十年後であったとしても、彼は青豆を前にして、やはり今と同じ気持ちを抱いていただろう。 天吾にはそれがわかる。もし二人が共に五十歳に達していたとしても、彼は青豆を前にして、やはり今と同じように胸を激しくときめかせ、 同じように深く混乱していたに違いない。同じ悦びと同じ確信を心に強く抱いていたに違いない。
2010/6/6
「地名の社会学」 今尾恵介 角川選書
われわれの先祖たちは日本中至る所の土地を舞台に開墾して米や芋を作り、木を伐り、獣を追い、神を祀り、またある時は戦い、 さまざまな活動を繰り広げてきた。しかし、それらの一つひとつの活動は地名という見出しを付けることによって初めて「歴史」と認定され得る のである。その見出しが失われた時、無数に積み重ねられたこれらの活動は、現在と繋がる手がかりを失ってしまう。
関東ローム層の赤い粘土質の土「ハニ」(埴輪の埴)が、武蔵野台地の北東端の高い崖地にきれいな帯となって見えたから、 太古の昔に複数の人間が、その特定の土地を話題にしようとしたときに生まれた「土地の呼び名」としての「赤いハニ」が、 「赤羽」の地名の由来なのではないか。
と聞かされれば、「共同募金発祥の地」などという解釈では、到底及びもつかない、場所の記憶のイメージまでが髣髴と浮かび上がって来る。
地図学の第一人者から、次々と繰り出されてくる「橋」や「バス停」や「駅名」にまつわる蘊蓄話を聞きながら、 「古い地名」には確かに、見過ごすことのできない「喚起力」があるのだと、私たちは思い知らされることになるのだが、
町村合わせて七万を超える村が一万数千に減るということは、全国でおびただしい数の合併が行われ、そこで新村名が決められたのだが、 これは一苦労だった。中心となる大きな町があれば、周辺の村はそこへ統合される形となって比較的まとまりやすいのだが、 同じような規模の村が五つ六つと集まる場合、新村名をどうするかは難航したケースが多い。
「那智勝浦町」のように、那智町と勝浦町両者の名前を単純につないでしまったもの、
「津田沼村」のように、谷津、久々田、鷺沼の有力三村から一字ずつ取ったもの、
「豊科町」にいたっては、鳥羽、吉野、新田、成相の頭文字の音をト・ヨ・シ・ナとつないで、いかにも信州らしい名前を合成したもの、
なのだそうだが、これらの「合成地名」には、まだかろうじて「古い地名」の香りが残されているのに対し、 実際にはその多くが、各自治体の顔を立てねばならないという配慮もあってか、
「六会村」「土村」(11を土とした)のように、単に「合併した村数」に基づくものや、
「栄村」「弥富村」のように、「瑞称」への願いを込めたもの、
「明治村」「大正町」のように、合併した時の「年号」を採用したもの、
になってしまうというのが現状のようなのである。
しかし、そのような配慮の中で、「古い地名」がそこに染み込んだ「場所の記憶」とともに、忘却の彼方へと捨て去られてしまうことになる 運命なのだとすれば、私たちが「失おうとしているもの」は、想像する以上に大きいのではないかというのが、 黙って見過ごすわけにはいかないというこの著者の、衷心からの警告であるように思われた。
明治−昭和−平成という大合併の節目ごとに新しい地名が大量に生み出され、次の合併で弊履のように捨てられ、これに代わって再び 大量の新地名が世にあふれるという構図が明治の町村制施行以来ずっと繰り返されているのである。(中略) そんな繰り返しがあと数回も続くとすると、県庁所在地レベルの有力な市名を除けば自治体名のほとんどが歴史的根拠をもたず、 当たり障りのない流行に影響された地名に変わり、日本地図はそれらの「根無し草地名」で埋まってしまうのではないだろうか。
2010/6/2
「あなたにも解ける東大数学」―発想と思考のトレーニング― 田中保成 PHP新書
「 3 以上 9999 以下の奇数 a で、a2乗−a が 10000 で割り切れるものをすべて求めよ。」
(2005年度東京大学入試問題・数学第2問)
という問題は、東大を目指すような受験生であるならば、一般的には a2乗−a の因数分解から始めて、
a・(a-1) = 10000・b = 2の4乗・5の4乗・b
あたりから、正解に辿り着くものらしいのだが、
冒頭に掲げられたこの例題を見た瞬間に、なぜか暇人の「ふやけた脳」に咄嗟にひらめいたのは、
「a2乗−a が 10000 で割り切れる」ということは、「2乗しても下4桁が変わらない奇数」を求めればいいんだ、というものだった。
そこで、求める4桁の奇数を「100・p + q」( p、qは2桁の整数)とおくと、
(100・p + q) の2乗 = 10000・p2乗 + 200・p・q + q2乗
なので、(100・p + q) の2乗 の下2桁は q2乗 であることが分かり、2乗しても下2桁が変わらない2桁の奇数は、 01 と 25 以外に存在しないので、
q = 1 or 25 となる。
これを元の式に代入すると、
200・p・q + q2乗 = 200・p + 1 あるいは、
200・p・q + q2乗 = 5000・p + 625
の下4桁の上2桁、つまり ( 2・p ) あるいは ( 50・p + 6 ) の下2桁が、p と一致するのは、p = 06 以外に存在しないことが分かる。
よって、求める奇数 a = 625 (解答終了)
で、これがなんと、巻末で示されることになる、
「順を追って地道に計算していけば、正解に辿り着くものなのです。洗練された方法とはいいがたいですが、これも立派な解法の一つです。」
という模範解答に、「やり方」は違っていたとはいえ、1個ずつ試していくような「考え方」はとてもよく似ていたのだった。
う〜む、なるほど。
「できない子」のつまずきを克服してきた指導方法には定評があるという、全人教育「音羽塾」を主宰する著者に言わせれば、 暇人はこれまで、「どんな難問でも、基本の積み重ねで」、問題によっては「小学生の算数レベルの知識で」解いてきたことになるらしいのだが、
これって、喜ぶべき? 悲しむべき?
先頭へ
前ページに戻る