徒然読書日記201005
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2010/5/28
「ありがとう小沢一郎」―僕たちは卒業します― 渋谷陽一・編集 「SIGHT」43号
内田 「メディアの作ってるイメージはあまりに陳腐だよね。」
高橋 「そうだね。『権力と金を持ってる悪い人』って単純なイメージ。」
内田 「もっと面白い人だと思うよ。」
小沢一郎という人は「本当は何がしたいのか?」がよく見えてこないのは、いざコトがなろうとすると、自分で自分の足元を崩しておいて、 「また今度もダメだった・・・」という、「自己処罰」のパターンを繰り返すからである。
強権と戦って、とにかく体制を倒すという、ある種の純粋な批評性を持ちながら、「倒してどうすんの?」と聞かれても、 たぶんその後のことはなにも考えていないと言う意味で、
「小沢一郎って、敗者のポジションを進んで選んでいるんじゃないの?」(内田樹)
というのである。
金丸信や田中角栄とは違って「たぶん、錦鯉は飼ってない」と思われるにもかかわらず、メディアからは「ゼネコンから金をかき集めて 私腹を肥やす悪徳政治家」という古典的なイメージで、同列に捉えられてしまうことに対し、それはマスコミと検察が作ろうとしている物語だからと、 いくら攻撃されても反駁しようとしないのは、
そんな「都市の言葉」なんかではびくともしない、「東北のもの言わぬ農民の魂」に立っていると信じているからなのであり、そういう意味で、
「小沢一郎って、自民党に紛れ込んだナロードニキじゃないかと思う。」(高橋源一郎)
というのだった。
「一見、論理に飛躍がありすぎる、ちょっと突拍子もない解析に思えるかもしれないが、しかし言われて見ると確かにそうとしか思えない、 鋭く重要な視点がここにはある。」(渋谷陽一)
当のご本人たちですら、まさかと驚いたという今回の論戦の結論とは、
「ありがとう小沢一郎」
それは「もう辞めろ」と言われることをエネルギーにして復活し続けてきた、悪役・小沢にとって、もっとも耳にしたくない、 不快な「殺し文句」だったのだ。
渋谷 「いわゆる政治的なビジョンとか、社会的な理想像とかは、小沢一郎の中にはないんだろうね。だから、政策レベルでは、 局面ごとにブレまくるわけだよ。でも、根本的なルサンチマンの部分においては、絶対ブレない。ブレないからこそ負け続けるっていう。 それって、面白いけど迷惑だよね(笑)。」
2010/5/22
「心は量子で語れるか」 Rペンローズ 講談社
私が物理法則の記述を二つに、すなわち宇宙(the Large)と量子(the Small)の二つの章に分けることにした理由はいくつかあるが、 その一つは、大スケールの振る舞いを支配する法則と、小スケールの振る舞いを支配する法則が、非常に異なるように見えることである。
大スケールの振る舞いを記述するのは「古典物理」で、これにはニュートンの運動法則、マクスウェルの電磁場法則、 そしてアインシュタインの相対性理論が含まれるが、これら三つの法則は、大スケールに対してきわめて正確にあてはまる。 つまり「古典物理」は、「計算可能性」を有する「決定論」的な性質を有する法則である。
一方、小スケールの振る舞いを記述するのが「量子力学」で、こちらでは<粒子>と<波>の性質が同時に現れる「量子状態」を扱うために、 私たちのような素人には、なんだか曖昧な世界だという印象があるが、ここで用いられるシュレディンガー方程式は、それが量子レベルにとどまる限り、 やはり「計算可能」で「決定論」的である、とペンローズは言うのである。
ところが、「量子力学」と「一般相対論」を結び付けようとすると、途端に「計算不能性」が出現し、「決定論」は破れてしまうことになる。
もし「量子」レベルが、猫のような「生物」のレベルにまで当てはまると考えるなら、「シュレディンガーの猫」が「生きているのか、死んでいるのか」 という有名な問いに対する答えは、猫は生と死の確率的な「重ね合わせ」の状態で存在している、としか言えなくなってしまうのだった。
“The Large, the Small and the Human Mind”
が原題のこの本は、「宇宙」(The Large)と「量子」(the Small)を支配する二つの別の法則を、結び付けようとする時に出現する、 この「量子状態の収縮」と呼ばれる事情が、私たち「人の心」(the Human Mind)にも適用できるという驚くべき解釈を主張している。
人の脳内ニューロンには、二つの異なる構造で0と1を表現できる「微小管」(チューブリン)が非常に多く存在しており、 それ自身がコンピューターのように振る舞うことができ、さらにその形が「管」であるがゆえに、周囲のランダムな動きから隔離された 微小管の内部で、「量子的干渉性振動」が発生する可能性を生みだしているというのである。
そして、この「量子的振動」が、微小管のすぐ外側にある「秩序化された水」の存在によって、「客観的収縮」(OR)を起こすことで、 「計算不能」であるにもかかわらず「決定論」的であるという、私たちの「意識」の特性が創発されるというのだった。
え?難しすぎてよく分からない?
どうぞ、ご心配なく。世界に名だたる天才にだって、こんな「お話」はよく分からないらしいのである。
個人的に私は、人々、特に理論物理学者が意識について語ると、不安になる。意識は、外側から測定できる特質ではない。 宇宙人が明日にでも玄関先に現われたとしても、彼は意識があって自己認識しているのか、あるいは単なるロボットなのか、 それを見分ける方法を私たちは知らない。むしろ私は、外側から測定できる特質である知性について語りたいのである。 (『恥知らずな反論』Sホーキング)
2010/5/18
「葬式は、要らない」 島田裕巳 幻冬舎新書
結婚式がたいがい十分な時間をかけて準備をするのに対して、葬式は準備のための時間が極めて限られる。しかも、結婚式なら、 結婚するたびにやれるが、葬式はただ一度の機会しかない。失敗は許されない。
などと言われても、なぜかまだ学生の自分に、母方の祖母の葬式の司会をやらされて以来、父方の祖父母、父の姉と弟(どちらも跡継ぎがいなかった)、 自分の父母、妻(一人娘なのである)の父と、いずれも喪主か、そうでなくても喪主に近い立場で、8つもの葬式を仕切らされた経験を持ちながら、 そんな私にとって、おそらく「ただ一度の機会」しかなく、つまり「失敗は許されない」はずの、自分の結婚式の一切の段取りは、 新妻と両親にすべて任せっぱなしにして、式の前日の夜行列車で慌ただしく帰省して出席した身の上としては、すべての点で 「なるほど、そうですか」とは、素直にうなずき難いものもあるのだが、
アメリカの葬儀費用は44万4000円、イギリスは12万3000円、ドイツは19万8000円、韓国は37万3000円だった。
のに対し、「葬儀費用の全国平均は231万円」と、葬式に世界一お金をかけている日本人にとって、
「葬式はどんな意味をもつのか。」
「それは今、どう変化しているのか。」
「何が変わり、何が変わっていないのか。」
「そもそも、本当に葬式は必要なものなのか。」
を、あらかじめ考察しておく必要があると訴える著者の意図は理解できないわけではないし、「葬式が厄介なのは、それが突然に訪れるからである。」 というのはおっしゃる通りなのであるが、結婚式と葬式の最も大きな違いは、「自分の葬式には出られない。」というところにこそあるのである。
「亡くなった在家の信者をいったん出家したことにし、出家者の証である戒名を授けるという葬式の方法が確立される。」
という仏教式の葬式の起源が鎌倉時代の禅宗・曹洞宗にあるというのは勉強になったが、そこから「戒名は高いから自分でつける」という この著者の考え方は、いったいどのようにすれば生まれてくるのか。
「仏教式なら戒名は必要」だが、「戒名にランクがあること」がおかしいのであるし、少なくとも「院号は不要」ということになるはずではなかろうか。
まあ、いずれにしても、
別に自分から指図をするつもりはなく、すべては家族に任せたいと思うが、その頃には、葬式無用の流れはいっそうはっきりとしたもの になっているに違いない。
という著者のあとがきを読んでもわかるとおり、
『葬式は(要らないわけではなく、贅沢な葬式は)要らない』
というのが、悪党書店・幻冬舎の思惑を除いた、この著者の本来の主張のようにも思われるのだった。
2010/5/13
「冠婚葬祭のひみつ」 斎藤美奈子 岩波新書
まれにしかないビッグイベントだからだろう、冠婚葬祭に遭遇すると、人はみな、そわそわと浮き足立つ。日頃は気にもしない「しきたり」 「作法」「マナー」「常識」「礼儀」などが急にパワーを発揮するのも冠婚葬祭。日頃は信じてもいない宗教が急に必要になるのも冠婚葬祭。 日頃は忘れている「家」の存在を強烈に意識するのも冠婚葬祭だ。
「冠婚葬祭、それはきわめて不思議な、そしておもしろい文化である。」
と目を付けた斎藤が、子ども向けの学習まんが「学研まんが『ひみつシリーズ』」の乗りで、何も知らない私たち読者にものを伝えようと、 そうした冠婚葬祭をめぐる情報の森に分け入って、冠婚葬祭の過去と現在を俯瞰するうちに気付いたのは、 「しきたり」だ「作法」だとみんなうるさいことをいうけれど、うるさい人に限って、その出どころには無頓着だったりする、ということだった。
今や「チャペル結婚式」と「家族葬」に、これまで君臨してきた「主流の座」を明け渡そうとしているらしい、由緒正しき「神前結婚」と「告別式」に したところで、その根源をたどってみれば、たかだか数十年の歴史を持つにすぎないのである。
そうした事実を踏まえてみれば、「世間並みの結婚」にかかる費用は500万円で、「世間並みの葬儀」に必要な額は300万円と言われたところで、 「世間並み」って、お前ら冠婚葬祭業者が勝手に煽って決めたんじゃないのかっ、と息巻いてみたくもなるのだが、 結局「世間並み」に従っておくというのが、一番リーズナブルな結果に落ち着くというのも、この業界の常識のようなのである。
「結婚式」にしても「葬式」にしても、今や「自分らしさ」を追求することが、逆にそんな業者の企みに見事に嵌められた、もっとも月並みな 「世間並み」のスタイルなのであれば、
ウェルカムスピーチでは、<私たちなりのおもてなしを用意させていただきましたので、どうぞごゆっくりお楽しみください>と挨拶するのが「定番」 となっているらしい、いまどきの新郎に対し、
結婚式で本人以上に「盛り上がって」いる人はいないということは一応知っておきたい「常識」である、大切な彼や彼女のお祝いだと思うからこそ、 参列者は万障繰り合わせて「出てあげて」いるのである。
とか、はたまた、
自分は無宗教だから、立派なお葬式なんかしなくてもいいからねと、残される家族への心遣いを示しているようでいながら、 <私が死んだら沖縄の海に散骨にしてね>なんて、軽い気持ちで「勘違い」してしまう輩に対しては、
あなたの死は、あなたの死であって、じつはあなただけの死ではない。死んだ後で「家族がそんな思いをするんだったら、頼むんじゃなかった」 と思っても、もう遅いのだ。
くらいのことは言ってあげようというのが、「辛口」が真骨頂の文芸評論家・斎藤が考える、嫌われることも承知の上の「大人のスタイル」 というものなのである。
冠婚葬祭は一面では「結婚」や「死」という人生の重大な局面に隣接した事態だが、一面ではビジネスであり、ファッションだ。(中略) マニュアルに頼る時代から、自分で自分の行動規範を決める時代へと、このジャンルも確実に変化しているのだ。
2010/5/9
「神の棄てた裸体」―イスラームの夜を歩く― 石井光太 新潮社
街角のスラムにいる少女の売春婦は、何を思って体を売っているのだろうか。性同一性障害の人たちは、どうやって暮らしているのだろうか。 一夫多妻が受け入れられる理由は何なのか。道端にあふれる乞食は、どこで交わっているのだろうか――。
「イスラームの国で、男と女はどのように体を絡ませ合っているのだろう。」
という疑問を胸に無謀な旅に飛び出した石井は、“禁圧された性”に縛られた世界として語られることの多いイスラームの夜の町で、 「清い性という建前から逸脱せざるをえなかった人々」と、文字通り寝食を共にする日々を過ごす中で、その「胸に秘めた思い」を意図した以上に 赤裸々に抉り出すことになった。
「お客さんって、甘えに来てるんだよ。みんな大人なのに、子供のわたしに頼ってくるのよ」と嬉しそうに話すエバは、 自ら望んでブローカーに買われてきた13歳の街娼だった。(インドネシア・ジャカルタ)
「兄ちゃんが一人で何でもやっていた。だから、少しでも手助けしてあげたかったんだ」と泣きじゃくる12歳の弟が、自分同様に体を売っていた ことを告げられた14歳の兄は、弟の誇りを傷付けぬよう「聞かなかった」ことにしてほしいと懇願する。(パキスタン・ペシャワール)
「怖い人は嫌だけど、食べ物もくれるし、ベッドで寝させてもらえる。それに、ずっと抱きしめてくれるもん」と、まるで父親のような人に 強く抱擁してもらうことに「ぬくもり」を求めているかのような、浮浪児のレジミーはわずか7歳なのだった。(バングラデシュ・ダッカ)
そして、「その土地の人々とともに暮らし、働き、同じ飯を食らいながら、己に何ができるかを模索してみよう」と決めていたという石井が、 そんなレジミーに「お願い、抱っこして」とせがまれながら、「ごめんね、僕は君を助けられないんだよ」と背を向けつづけたのは、
「我が身を守ろうとする団子虫のように丸くなって、勃起するペニスを押さえつける。」自らの無様な姿を、レジミーには決して悟られたくなかった からだったということまで含めて、読者の前にさらけ出してしまういう、
これはある意味では「悪趣味な」実体験に基づく、しかしそれゆえにこそ「胸に迫る」という、まことに希有なレポートなのではある。
どれだけ歩き、どれだけ出会っても、自分の小ささ、弱さ、情けなさ、醜さ、そんなものしか見えてこなかった。
おそらく、それだけ私と彼らとの間に大きな隔たりがあった、ということなのだろう。きっとその大きく深い溝こそが、 私たち日本人と彼らとの懸隔なのだ。
2010/5/7
「坂の上の雲」 司馬遼太郎 文春文庫
まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。
その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は、讃岐、阿波、土佐、伊予にわかれている。伊予の首邑は松山。(中略)
この物語の主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれないが、ともかくわれわれは三人の人物のあとを追わねばならない。
フランスから導入した騎兵戦術によりコサック騎兵集団と互角に戦って見せた「秋山好古」。
その弟で、日本海海戦においてバルチック艦隊を壊滅に追い込む作戦をたてた「秋山真之」。
その同級生で、俳句、短歌といった日本のふるい短詩型に新風を入れて、その中興の祖となった「正岡子規」。
このある意味では日本一「有名な」物語を読みだしたのは、実は昨年末のNHKドラマの開始前だったのだが、 こんなことなら『龍馬がゆく』の方にしておけばよかった(今からならぎりぎり間に合うか?)と思うくらいに時間がかかってしまったのは、 必ずしも、文庫本にして8冊(構想5年、新聞連載4年半)の、その長大なボリュームだけに理由があるのではないだろう。
司馬がとりあえず後を追うことにした三人の、実に魅力的な人物たちが、物語の主役として活躍するのは初めのうちだけで、 (正岡子規にいたっては、ごく早いうちに病死してしまい、檜舞台から姿を消してしまうのである。) 203高地で有名な「旅順大戦」と、バルチック艦隊に勝利した「日本海海戦」の叙述が、物語の後半部分を埋め尽くすことになるのであり、
特に「旅順大戦」における、乃木希典将軍の愚鈍なまでの戦いっぷりが、倦むことを知らぬ筆致で延々と語り続けられる部分を読みとおすのには、 いささか辛いものもあった。(これに比べれば、「日本海海戦」におけるバルチック艦隊の「諦めっぷり」のよさには、 いっそすがすがしいとまで感じてしまったくらいなのである。)
もちろん、この物語で司馬が描こうとしたのは、「日露戦争」を日本はどう勝利したか、などということではなかった。
「米と絹のほかに主要産業のないこの百姓国家の連中が、ヨーロッパ先進国とおなじ海軍をもとうとした」 近代国家の仲間入りをすべく、息せき切って先進国に追い付こうとしていた明治維新直後の日本においては、
「近代騎兵科の成立と育成が、秋山好古大尉という青年の手に任された」ように、「大学で哲学なら哲学を専攻するということは日本の哲学の 草分けになるということ」だった、
「資格の取得者は常時少数」であるとしても、「その気になりさえすればいつでもなりうる」という、「国家」というひらけた機関のありがたさを、 誰もが信じて疑わなかった、
「明治」という時代の雰囲気を、この物語は見事に描き出しているのである。
楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が かがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
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