徒然読書日記201002
サーチ:
すべての商品
和書
洋書
エレクトロニクス
ホーム&キッチン
音楽
DVD
ビデオ
ソフトウェア
TVゲーム
キーワード:
ご紹介した本の詳細を知りたい方は
題名をコピー、ペーストして
を押してください。
2010/2/28
「蝶々は誰からの手紙」 丸谷才一 マガジンハウス
「論じるに値する本であれば、しかるべき筆者によって十分な紙数で論じてもらいたい」
「五枚あるとキチンと自分の意見が述べられて全体の構成ができる」
「本の案内役であると同時に、それ自体一つの娯楽読物になっている。 それを読むと世の中やジャーナリズムの動向をある程度キャッチできる」
日高晋、向井敏との鼎談「東京ジャーナリズム大批判」(『東京人』91年12月号)を読んだ毎日新聞の斎藤明(前社長、当時編集局長) からの依頼で、「あの線で、ご意見通りやって下さい」と全部任せられて始まった、毎日新聞の書評欄『今週の本棚』。
これは、そこに載った丸谷才一の、まるでお手本のような「書評」78本を中心にした、書評集なのだから、
文章の名手が大好きなものについて書けばよい随筆集ができる。たとえば室生犀星の『女ひと』。石川淳の『江戸文学掌記』。 吉田健一の『私の食物誌』。それはよくわかってゐたが、短編小説について、しかも英米文学の研究者が書いて、 こんなにおもしろい本ができるなんて、思ひがけない話だった。
(ショートストーリーの快楽――若島正『乱視読者の英米短編講義』)
なんていうのに出会えば、丸谷さんの確かな鑑識眼に導かれて、購入予定本リストに書き加えねばと思ったりもするのだが、
翻訳書には「日本語版への序」といふのがよくある。語らないものばかりで、目を通さぬことにしてゐるが (これは役に立つ読書訓かもしれない)。 しかしこの本の場合は別。中身があって藝が光る。才気煥発の著者といきなりわかる。
(同時代人たちの苦悩の代表者――Sグリーンブラット『シェイクスピアの驚異の成功物語』)
だったり、
あの敗戦の年を元日から大晦日までたどる。第一部は八月十五日までで十四巻の予定。注目に値する現代史の試みなので、 第一部完結のときまとめて取上げたい。ここでは話を一点にしぼる。昭和天皇の言語能力について。
(帝の言語能力――鳥居民『昭和二十年 第一部=10 天皇は決意する』)
というものになると、教わらなければ決して手に取ることはなかったであろう本との幸福な出会いを果たしたと思ったのも束の間、 教わってしまったが最後、改めて現物に当たる必要もないように感じてしまうという意味で、
「本の案内役であると同時に、それ自体一つの娯楽読物になっている」理想の書評なるものは、 書店の隅に隠れた売れない名作の著者にとって、まことに厄介な代物というべきなのかもしれない。
なにはともあれ、誰に頼まれたわけでもない「読書感想文」を、だらだらと垂れ流し続けている我が身としては、 せめて丸谷さんの「毎日新聞書評欄の方針」という“極秘文書”を鏡として、切磋琢磨していかねばなるまいと思うのだった。
「話を常に具体的にして、挿話、逸話を紹介したり、ときには文章を引用したりしながら書いて下さい」
「受け売りのできる書評を書いて下さい。『ああ、あの本はね』と勤め先でしゃべる、バーでしゃべる、その材料となるような」
「最初の三行で読む気にさせる書評をお書き下さい。現在までの大新聞の書評は一般に、最初の三行でいやになります」
2010/2/23
「バイオポリティクス」―人体を管理するとはどういうことか― 米本昌平 中公新書
なぜ二一世紀初頭に、日欧米の先進三極ではない韓国で、ヒト胚を扱う最先端技術の領域における未曾有の科学データ捏造事件が 発覚したのか、問いを立ててみるとよい。これまでこの種の問題は、バイオエシックス(生命倫理)に属するものと考えられてきた。
たしかに「女性研究員による卵子提供」という疑惑は、バイオエシックスが扱うべき課題であるように見えるが、 国際的な面子を重んじる韓国であれば、「国家的な研究のお役に立つのであれば私の卵をお使いください」と、 自発的に申し出てくる女性が現れる可能性も十分にある。
「一人当たりのGDPに正比例して、生命倫理的規範が精緻なものとなり、強化される社会となる。たとえば、卵の提供に対する許容度は 概してこれに逆比例して小さくなる。」
北朝鮮からの脱北者<延辺朝鮮族自治州の住民<韓国人<日本人
という経済格差の階梯の中で「売春」が行われてしまうのと同じような関係が、「卵子提供」や「臓器売買」でも成立してしまうという意味で、 今や「生命科学」は極めて「政治的」な問題であるというのである。
そもそもバイオポリティクスとは、「繁殖や誕生、死亡率、健康の水準、寿命」など、生物学的な「種」の側面に介入しこれを管理しようとする 「権力の働き」(M・フーコー)を指す言葉だった。
しかし本書において著者は、「先端医療や生物技術に関する政策論」にまで視野を広げ、「遺伝子組み換え」や「ES細胞」などを端緒とした 国際的な議論の枠組みを懇切丁寧に紹介しようとする。
ヒトのゲノムが完全に解読されるなど、「生命」を取り扱う技術が急速に革新されていく中で、「発症前遺伝子診断」「男女産み分け」 「臓器売買」「クロ―ン人間」など、様々な「倫理」の問題が世界各国で議論を巻き起こすようになっているが、
「人の命はいつ始まるのか」
という「究極の選択」問題ひとつを取ってみても、日本のアカデミズムはきわめて及び腰なのであり、 にもかかわらず(それゆえにこそ)、私たち日本人の理解はあまりにも「ウブ」なのである。
「市民は何も知らされていない」?
とんでもない!
(そんな)被害者意識まる出しの言い方は、先進国では日本くらいでしか通用しないものである。だいの大人が自らを小児的地位に 位置づけることが当然視され、それが政府批判の論法たりうるのは、科学技術情報がエリートに独占されていた一昔前の発展途上国の 社会でのみ見られた光景である。
「普通の人が、ただただ面白がり、工夫をこらして調査を始めること。」
それこそが、こんな日本社会の現状を打開するパワーになるというのが、著者の主張なのだった。
2010/2/21
「聖なる怠け者の冒険」 森見登美彦 朝日新聞
「我が輩が戦っている相手はある特殊な犯罪組織である。とうてい警察の手に負える相手ではない。その正体を見極めようと、 我が輩はさまざまな努力を重ねてきた。その結果、この憎むべき組織の中央に一人の男がいることが明らかになった。 その男は、街を覆う陰鬱な蜘蛛の糸の中枢にあぐらをかき、善良な市民のようなツラをしながら、この一年で少なくとも千人を超す人々を 苦しめてきた。彼こそ悪の帝王である。我が宿敵である」
「それがおまえだ!」
と、正義の味方「ぽんぽこ仮面」から、身に覚えのない罪状を突き付けられた時から、「聖なる怠け者」たる、我らが主人公小和田君の 「なんと充実した土曜日」の冒険が始まったのだが、
「風が吹けば桶屋が儲かる」ようなこじつけで、本人も気付いていない「この不幸な出来事が、すべて一人の人間が作り出した小さな不幸が 集まったものだ」と難癖をつけられ、思わず「そんなことで、いちいち正義の味方にやっつけられてはかなわない」と口走ったばかりに、
「恋する男女を仲違いさせ、うら若き乙女のコンタクトレンズを紛失させ、二人の男の首の筋をおかしくし、バーの常連客たちの人間関係を 崩壊させ、そのあげく交通事故を発生させ、絶望した男たちを包丁を振り回すまで精神的に追いつめ、四条大橋を通行止めにして、 この炎天下に警察官たちを立ち尽くさせ、通行する観光客と京都市民に多大な迷惑をかけておきながら、 それを『そんなこと』だとは、よくも言った。」
「やはりおまえは大悪人である!」
なんて、「悪の帝王」のレッテルを貼られてしまったのでは、本来はいたって温和な小和田君が、 「それはあんまりだ」と居直ってしまうのも無理はないというものなのである。
いまや話題の人気作家、森見登美彦の朝日新聞連載が終了。
この「前代未聞」の怪事件は、ひょんなことから、ぽんぽこ仮面の基地に潜入した小和田君が、自分の活躍を報じた新聞記事を スクラップしているのを発見したことで、一気に終焉に向かうことになる。
「きっと本物の正義の味方であろうと、必死で努力したに違いない」のであれば、「ぽんぽこ仮面にこれ以上文句を言うつもりはないんだ」 と静かに宣言する小和田君は、なるほど『聖なる怠け者』なのだった。
まるで子どもみたいだった。自分の活躍を一つ一つ楽しんでいる。でも後の方になると、それは丁寧で一分の隙もないけれど、 まるでロボットの仕事みたいだ。すごく機械的な作業なんだ。見れば分かる。やらなければならぬという気持ちと、やりたくないという気持ちが、 スクラップ帳にぎゅうぎゅう詰めになってる。
というわけで、この書評でも何でもない、ただの粗筋紹介みたいな雑文で、本日のブログを済まそうとしている「暇人肥満児」も、 このごろどうやら『聖なる怠け者』なのである。
2010/2/18
「101/2章で書かれた世界の歴史」 Jバーンズ 白水社
ノアは相当に悪い奴だったが、しかしそれ以外の連中ときたひにはそれ以上だった。神が過去を清算しようとしたことはわしらには 大した驚きじゃない。むしろひとつわからないのは、創造したことがとくに創造主にとって名誉となるわけでもない人類というこの種を、 神がいくばくかでも残そうとしたことだ。
まんまと潜り込んだキクイムシという、神に選ばれなかった「密航者」の視点で語る「ノアの方舟」の物語から、この実にユニークな『世界の歴史』 の試みは幕を切って落とすことになるのだが、
様々な国籍の従順な夫婦づれが乗り込んだクルーザーがアラブ人のテロリストにハイジャックされるという事件が、 サスペンスタッチに描かれたり、
「メデューサ号の筏」という大惨事を、巨匠ジェリコが「名画」という芸術に仕立て上げた顛末が、学術論文風に分析されたり、
インディオによる「神父抹殺」という事件を、300年後になぞる羽目に陥ったある男優の悲劇が、 関係が破綻しつつある妻への書簡形式で展開されたりと、
種々雑多なモチーフを持つ独立した10章の短編という、まことにバラエティーに富んだ「形式」によって、それは記述されていくわけなので、
(挿入された1/2章にいたっては、まるで作者自身の「愛」に関するエッセイなのでさえある。)
最近、巷で評判らしい『もう一度読む山川世界史』のようなものを期待して読み始めたものにしてみれば、 これの一体どこが『世界の歴史』なのか?というのが、率直な感想ということになるだろう。
しかし、
中世フランスで、司教の玉座を腐蝕させた咎により破門されることとなった「キクイムシ」を巡る「宗教裁判」の記録があったり、
月面で啓示を受けた宇宙飛行士が、「ノアの箱舟」の残骸を回収するためアララト山に出掛けたり、
ましてや、彼がそこで発見することになったものが、なんであったのかということを知れば、
そこに一貫して流れているテーマなるものの存在に、薄々気付かされるような仕掛けも、万全というものだ。
歴史とは起こった出来事ではない。歴史とは歴史家がわれわれに語る話にすぎない。・・・それはタペストリー、出来事の流れ。 つながりを与えられた、説明可能な、複雑な語り。ひとつのうまくできた物語は別の物語を生み出す。・・・ そしてわれわれ、歴史の読者であり、歴史の被害者であるわれわれは、その模様を細かく調べ、そこに希望に満ちた結論、 未来に通じる道を探し求める。
であるとすれば、せめて私たち読者にできるのは、「飽くことなく」未来永劫に繰り返される『世界の歴史』というモチーフを、 まさに「飽きることなく」様々に描き分けてみせるという、この希有の才能を持つ作者の「夢」の物語を、 十二分に味わいつくすことしかないというべきなのだろう。
目がさめる夢を見た。古くからある夢だ。たったいまそれを見た。
2010/2/2
「神社の系譜」―なぜそこにあるのか― 宮元健次 光文社新書
まず『古事記』によれば、建御雷(たけみかずち)神が天鳥船(あめのとりふね)神と共に地上へ降り立ち、 地上の神である建御名方(たけみなかた)神と相撲をとったという。これはむろん寓話であり、実際は日本の支配者を決する戦争を 示しているとみられる。結局、建御雷が勝ち、建御名方は、諏訪へ逃げて国を譲ったというのだ。そして勝者建御雷は鹿島神宮に祀られ、 敗者建御名方は諏訪神社に祀られたわけである。
茨城県の常陸(ひたち)にある日本最古の神社「鹿島神宮」は、「日立ち」つまり太陽の昇る東のはずれに位置している。
その鹿島神宮に祀られる建御雷に破れ、敗走した建御名方が祀られた、長野県にある「諏訪神社」の位置を地図で調べてみると、 なんと鹿島神宮の真西にあることがわかる。つまり、
鹿島神宮のある常陸は「常世」であり「日立ち」であり、太陽の昇る再生の地をあらわしている。 それに対し諏訪は太陽の沈む黄泉の地なのである。
鹿島と諏訪が東西の軸線上にあるということは、諏訪からは春分・秋分の日の出がちょうど鹿島の方角に拝めるということになる。 もちろん、これはここだけの特別なことではない。
このような「夏至や冬至、春分・秋分に特定の場所から日の出没が起きるしくみ」を「自然暦」というが、 よく調べてみれば、日本のいたるところに、とても偶然とは思われない、神の配置の「意図」が立ち現われてくるというのが、 この本の主張なのである。
今、「嘘だぁ」と思われた方は、どうぞグーグルマップなどで確認してみてほしい。
鎌倉にある「瑞泉寺」、「建長寺」、「妙法寺」という源頼朝所縁の三つの古刹が、それぞれ同じ正三角形の頂点に位置し、 しかも、正確に南北軸に位置する「建長寺」―「妙法寺」の「底辺」の中点に「鶴岡八幡宮」がある。 この時、「鶴岡八幡宮」―「瑞泉寺」は東西軸上にあることを証明せよ!
なんて、まさに驚くべき「幾何学的」な配置の中に、 鎌倉の永続的な繁栄を意図した源氏政権の、宗教的な意図が込められていたことが、読み取れたりもするのである。
う〜む、なるほど。
京都の「西本願寺」と「東本願寺」が、東西に並んでいることに、これまで何の不思議も感じずにいたわけだが、 それは、大阪・豊国神社に祀られた豊臣秀吉を、神の座から引きずり降ろし、 各地に築いた「東照宮」に「自然暦」を施すことで、自らの神格化を図ろうとした徳川家康の、壮大な企みによるものだったのである。
家康は西本願寺と豊国廟を結ぶ軸線上に二つの寺院を建立した。(中略、智積院と)もう一つが東本願寺。本願寺に相続争いが起きると、 家康はこの内部分裂に乗じて西本願寺から東本願寺を独立させて、やはり秀吉の東西線上に土地を与えた。 内藤正敏氏(『鬼が作った国、日本』光文社)によれば、これら二つの寺院は、秀吉の東西線を分断して、 神への再生を阻止する目的をもっているという。
先頭へ
前ページに戻る