徒然読書日記201001
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2010/1/30
「三島屋変調百物語事続」 宮部みゆき 讀賣新聞
川崎宿の旅籠の娘・おちかは、ある事件をきっかけに他人に心を閉ざし、神田三島町で袋物屋・三島屋を営む叔父夫婦に預けられた。
ある日叔父の伊兵衛はおちかを呼ぶと、店を訪ねてくる人たちから『変わり百物語』を聞くように言いつけ、出かけてしまう。
という趣向で始まった『あやかし 三島屋変調百物語事始』の、題名からわかるとおりこれは続編なのだが、 前作(もっとも私は未読なのではあるが)同様に、今回も五話(だと思うがちょっと自信がない)で終了してしまったので、
「怪談話を百話語り終えると、本物の怪が現れる。」とされる『百物語』を、聞き取り終えた17歳のおちかが、 叔父の思惑通りに、逆にその「怪し」によって、固く閉ざされてしまった心のしこりを、解きほぐされる日を迎えるのは、 まだまだ先のことになりそうなのだった。
昨年1月から始まった讀賣新聞の連載が終了。
「お旱(ひでり)さん」や「くろすけ」など、挿画が南伸坊ということもあって、物語られるキャラクターには結構愛嬌があるのではあるが、 そこはそれ、さすがに宮部みゆきなのだから、
「私は怖い話がめちゃくちゃ好きで、一話終わるとロウソクを1本消していく百物語をいつか書きたいと思っていました。 それが、このシリーズの始まりです。でも、朝から辛気くさいのもなんなので、おちゃめなものも入れるつもりです」
などと言いつつも、
人形の体一面に針が立ったり、粗末な木仏が哄笑しながら宙を舞ったりと、朝っぱらから「結構怖い」のである。
2010/1/22
「鞍馬天狗のおじさんは」―聞書アラカン一代― 竹中労 ちくま文庫
・・・なぜなら、上流・中産階級は知らず四十歳以上の日本人で、アラカンの鞍馬天狗を見たことがないという庶民はまずいないからだ。 四十本(四十二本という説もある)、これはシリーズとして日本記録であり、おそらく破られることはあるまい。ということはつまり、 これほど庶民に支持された英雄像は他にないのである。
私が物心ついた頃には、まさに「アラカン」(=アラウンド還暦)の域に達していた「アラカン」こと「嵐寛寿郎」であったから、 残念ながら私は「アラカンの鞍馬天狗を見たことがないという庶民」ということになるのだが、 そんな私にとってさえも、「鞍馬天狗」といえば「アラカン」であり、「アラカン」といえば「むっつり右門」であったのは、 「嵐寛寿郎の他に神はなかった」時代の熱気が、「全盛期を過ぎた古くからの大スター」の面影の中に、色濃く染み付いていたからだったのだろう。
「しかるに、アラカンは差別されてきた。」
和田山滋(岸松雄)は、山中貞雄『抱寝の長脇差』の批評の冒頭に、わざわざこう断っている。<寛寿郎プロの作品を見るなどということは、 ごひいきの方か、さもなければわれわれのようにどんな映画でも見なければならない商売の者か、いずれにしても相当な心掛けをもった者 でなければ出来ないこと>(キネマ旬報昭和7年2月中旬号)である云々。アラカンに対する知的エリートの偏見・いわれのない侮蔑は、 この数行に間然とするところなく露顕している。
そんな事情もあって、今聞いておかなければ永遠に失われてしまうに違いない、「大衆文化」としての日本映画の青春時代の記憶を、 語るに最もふさわしい往年のスター「嵐寛寿郎」への聞き書きを中心に据えて、
「声を立てて笑うほどおかしゅうて、急に悲しくなってくる本」(マキノ雅裕)にまとめあげた、これは反権威のルポライター・竹中労の 畢生の名著(初版1976年)なのではあるが、
「へえ、生い立ちから、話さなあきまへんか?」と始まった「アラカン一代記」は、波乱万丈の浮き沈みにもかかわらず、
女に家建ててやる・着物買うてやる・貯金通帳持たせる、別れるときはそっくりカマドの灰まで渡して、おのれは身一つで出る。 そのくりかえしや。世間はよっぽどお人好しやとおっしゃいます。そら吾ながら利口やないと思いますわ。けど考えてもみなはれ。
鞍馬天狗・むっつり右門。コワモテの二枚目が、女と財産とりあいできまっかいな?ファンがどう思うやろうと、それが先に立ちますねん。
飄々とした京都弁の語り口の中で、驚天動地、悲喜こもごもの「色ざんげ」にも満ち溢れていて・・・
そうなのだ。
いつだって『鞍馬天狗のおじさん』は、我ら「杉作」の頭の上を、軽々と跳び越えて行ってしまうのである。
ええ本がでけますやろ、一つだけ注文つけてよろしいか。値段を安くしてほしい、映画の料金より高くならんように。アラカンの本でおます、 二千円、三千円もの定価をつけられたらかないまへん。
生涯の記念やから豪華版を、そうゆうてくれる方もある、せやけど、ワテは大勢の人にこの本を読んでほしい。円タクの運転手さん、 パチンコ屋の店員はんやら高校生や中学生にも。ほてからにチャンバラ、面白いもんやないか。こんな苦労も裏話もあるんやなあと、 市井の人たちに理解してほしい。それでこそ、生涯の記念や。
2010/1/4
「ポケットの中のレワニワ」 伊井直行 講談社
徳永さんは俺をガタと呼ぶ。俺の名字が安賀多だからだ。ティアンを町村さんと呼ぶ。
俺は町村さんをティアンと呼ぶ。町村桂子になる前の名前が、グエン・ティ・アンだったからだ。
伊井直行には、ことさらに人間関係をややこしくしようとする「企み」があることは、
『濁った激流にかかる橋』
以来の愛読者である私のような者にとっては、もはやお馴染みのことではあるのだけれど、
俺が派遣された先の「鴨電コールサービス」で、正社員の教育係として働いていた町村桂子との出会いが、 同じ団地に住んでいたベトナム人のティアンとの、小学校以来の再会だったなんて、「偶然にもほどがあるだろう、なぁガタ」と、 職場の上司の徳永さんに肩を叩かれたり、
「今晩、必ず来い。でないと、死ぬ。」などと、たびたび携帯メールを発信してくる「コヒビト」というのが、離婚した母の再婚先の義理の弟で、 「ひきこもり」の「ネットおたく」の「ハンドルネーム」だったりなどすると、
それでなくても、複雑に絡み合った「国際」関係が錯綜する物語の、開始早々頭が混ぐらがってきて、 「ややこしいにもほどがあるだろう」と溜め息の一つも付きたくなってしまうのだ。
しかも<レワニワ>である。
レワニワはインドシナ半島の奥地に生息する両生類と爬虫類の中間くらいの動物で、未だ生態がつかめておらず、生物学上の謎とされている。
「レワニワは、話しかけると言葉を覚えて仲のいい友達になる。」「言葉を覚えたレワニワは、言葉を教えてくれた人の願いをかなえる力を持つ。」 「願いごとを聞いたレワニワは、その欲望に染まった心を養分にして巨大化し、人間化して、ついには人食い鬼になる。」
だから「決して願い事をしてはいけない」という<レワニワ>が、隣の棟の軒下で発見されたらしいから見に行こう、 というのは、同じ団地に住むベトナム人の美人妻に近寄りたいがために、小学生の俺をダシにした父親の口実にすぎなかったはずなのだが、
かつての仲間たちと再会したことがきっかけとなってベトナムに失踪したティアンを、追いかけようとする俺の部屋に、 なぜか突然現れた<レワニワ>は、あろうことか励ましのメールまで送ってきたりするようになってしまうのだった。
君の人生、本当につらいんだろう。
だけど、あほくさいと思わないか?いや、用心深い君は、あほくさいのは承知の上って言うんだろうが。
願い事は「金か地位か女」にしとけよ。まったく。どの一つだって、君は手に入れたことがないじゃないか。 この先も自力では手に入らないに決まってるじゃないか。
そう、俺は「決してしてはいけない」はずの願い事を、ひからびてピクリともしない<レワニワ>と、 まさに刺し違える覚悟でしてしまったのだが・・・
「なぜ、なんのために、俺が生きているのか教えてほしいんだ。曖昧じゃない、明確な答えがほしい。そもそも、俺は何者なんだ? 何のために生まれて来た?なんで、こんな惨めな暮らしをしている?金持ちになるあても、出世どころか正社員になるあてさえもない。 結婚だって難しい。子供のいる家庭を持つことは、夢のまた夢だ。幸福なんて、死ぬまで味わえそうにない。 おまけに、生きていて、なにか特別にしたいことが一つもない。ない、しか俺にはない。なんえ、こんあことになってるんだ?」
という「無理な望み」を、より「簡単な望み」に翻訳した上で実現した「生きる意味を実感する方法」、 これが、もうポケットの中にはいなくなってしまった<レワニワ>の示した「答え」だったのだ。
追いかけてティアンのすぐ後ろまで来たとき、ティアンの手と俺の手が触れた。最初はぎこちなく、やがてしっかり握り合った。
「デートだね」俺は照れ隠しに言った。
「本当のデート、かな?」
「小学校三年生の時以来だ。今日まで、ずいぶん長い時間がかかった」
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