徒然読書日記200912
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2009/12/28
「優しいおとな」 桐野夏生 讀賣新聞
桐野 母親から見た子供の喪失を書いた『柔らかな頬』から10年たって、子供の側から見た大人って何だろうと最近考えるんです。 だから、「子供と大人」の関係を考える小説にしたい。子供は、本能的に優しい大人とそうでない大人を選別しているから、 「優しいおとな」とつけてみた。皮肉も少しこめてね。(連載開始にあたって)
15歳の少年イオンは、福祉が崩壊し貧富の差が拡大した近未来の渋谷の街を流離うストリートチルドレンだった。
幼い頃に一緒に暮らし、兄のように慕っていた「銀」と「銅」の双子の兄弟との再会を願って、地下の世界で生活する少年達の 仲間入りをしたイオンは、「浮浪児狩り」の手から逃れ、排水溝からの脱出を果たした場所で、記憶喪失となった「銅」との再会を果たすが、 「ケミカル」の愛児を取り戻すべく、再び舞い戻ることになった地下世界で、自らがロッカー屋の婆さんから奪った拳銃で 逆に撃たれて植物状態となる。
かつて、地上で何くれと面倒を見ようとしてくれたにもかかわらず、「人を愛することを知らない」がために、 その手を冷たく振り切って別れてきてしまった「モガミ」、その「モガミ」が病床で身動きの取れないイオンの耳元で、 囁くように語る物語を聞いた時、薄れゆく意識の中で「イオン」はようやく気付くのだった。
「モガミ」こそが、本物の「優しいおとな」であったことに・・・
というような「お話」だったと思うのだが、いかんせん、毎週土曜日の週1回の連載なので、あまりよく覚えていない。
とはいえ、そこは桐野夏生なのであるから、毎回楽しみにして読んできたのではあるが、
その讀賣新聞の連載が、あえなく47回で終了。
最後がまるで、大河ドラマの予告編の総集編のような怒涛の終焉であったのは、新聞連載の宿命だろうか。
新進気鋭のイラストレーター「スカイエマ」の「ハイテック」な挿絵がとてもキュートだった。
桐野 今はネットがあるから、一人でも何となく人とつながっているような幻想が社会にあふれている。でも他人とのつながりがなくて、 人間は、生きていけるんでしょうか。親子や兄弟がどういうものか知らないイオンは、かつて一緒に育った双子を探すことになるはずです。 顔形がそっくりな双子にこだわって、血縁というものを目で見て確認したいと思うのです。人は愛がなくて生きていけるのか。 結局、それを書くことになるのでしょう。
2009/12/14
「日本辺境論」 内田樹 新潮新書
はるか遠方に「世界の中心」を擬して、その辺境として自らを位置づけることによって、コスモロジカルな心理的安定をまずは確保し、 その一方で、その劣位を逆手にとって、自己都合で好き勝手なことをやる。
この国際関係における微妙な(たぶん無意識的な)「ふまじめさ」、つまり、「作為的な知らないふり」をほとんど無意識にできるということこそが、 日本人が「辺境人」であることの手柄ではないか、というのである。
「華夷秩序」というコスモロジーの中で、燦然と中心に輝く「中華」と、それに対する「対概念」という位置付けで初めて意味を持つ「辺境」 なのであれば、「小中華」であることを自認し、「東方礼儀ノ国」として「臣下の礼」をとってきた朝鮮からは、いかに「無知で野蛮な国」 と蔑まれることになろうとも、
「王化の光の遠く及ばない辺土」としては、「情報に疎いのでどうするのが正式なのかわかりません」と「知らないふり」をすることは、 むしろ日本人にしかできない、かなり高度な外交術だったのではないか、というのだった。
ゲームはもう始まっていて、私たちはそこに後からむりやり参加させられた。そのルールは私たちが制定したものではない。 でも、それを学ぶしかない。そのルールや、そのルールに基づく勝敗の適否については(勝ったものが正しいとか、 負けたものこそ無垢の被害者だという)包括的な判断は保留しなければならない。 なにしろこれが何のゲームかさえ私たちにはよくわかっていないのだから。
という「起源からの遅れ」を本態とする「辺境人」のハンディを逆手にとって、「遅れている」という自覚を持つことは、 「なんだかわからないけれど、この人についていこう」という「清水の舞台から飛び降りるような覚悟」を持つ才能につながり、 私たち日本人は「師弟関係」という、学ぶことについては世界で最も効率のいい「装置」を開発した国民ともなった。
しかし、つねに「呼びかけられるもの」として世界に出現する私たちには、「呼びかけるもの」として、自分が事実を創出する側に立って考える ということはできないことになる。
つねに「起源に遅れる」という宿命を背負わされたものが、それにもかかわらず「今ここで一気に」必要な霊的深度に達するためには、 主体概念を改鋳し、それによって時間をたわめてみせるという大技を繰り出すしかないというソリューション、
それが、武道と禅家が思いついた、西洋の哲学用語にはおそらく翻訳不能の、「機」という特異な時間概念だった、というのである。
「機」というのは時間の先後、遅速という二項図式そのものを揚棄する時間のとらえ方です。どちらが先手でどちらが後手か、 どちらが能動者でどちらが受動者か、どちらが創造者でどちらが祖述者か、そういったすべての二項対立を「機」は消去してしまう。 後即先、受動即能動、祖述即創造。この「学ぶが遅れない」「受け容れるが後手に回らない」というアクロパシーによって、 辺境人のアポリアは形式的には解決されました(繰り返し言いますけれど、「理屈では」です)。
「日本人とは何ものか」という「大きな物語」を、丸山真男の「性格論」と澤庵禅師の「時間論」と養老猛司の「言語論」に、 つまりは「受け売り」の「使い廻し(ブリコルール)」に、「辺境」という「補助線」一本引くことで、そこに繰り返し反復してあらわれる 「パターン」を析出して見せた。
これは、内田樹言うところの「どぶさらい」による、「私家版・日本文化論」の試みなのだった。
この仕事はボランティアで「どぶさらい」をやっているようなものですから、行きずりの人に懐手で「どぶさらいの手つきが悪い」 とか言われたくないです。
2009/12/14
「プルーストとイカ」―読書は脳をどのように変えるのか?― Mウルフ インターシフト
私たちはけっして、生まれながらにして文字を読めたわけではない。人類が文字を読むことを発明したのは、たかだか数千年前なのである。 ところが、この発明によって、私たちの脳の構造そのものが組み直されて、考え方に広がりが生まれ、それが人類の知能の進化を一変させた。
私たちの脳には、本来、視覚専用としてではなく、視覚を概念形成機能と結び付けるために設計された古いニューロン経路が備わっており、
1.古くからある構造物間に新たな接続を形成する能力
2.情報のパターン認識を行うために精巧に特殊化された脳領域を形成する能力
3.それらの脳領域から得られた情報を自動的に採用して関連付ける能力
という独創的な三つの設計原理をもつ、いわば「文字を読む脳」を活性化することで、どうやら、私たちは初めて「意のままに」 文字を読めるようになるものらしい。
古代の楔形文字などの「発現」がどのように私たちの脳を変え、文明の発展とともに洗練されたアルファベットが「誕生」する中で、
「脳はどのようにして読み方を学んだか?」(PartT)
大好きな大人のひざに抱かれて、よどみなく流れる言葉に一心に聞き入っていた幼な子の「いとけない脳」が、 人類2000年の発達史のあらゆる部分を駆使して、わずか2000日で「読字修得」の準備を整えるとすれば、
「脳は成長につれてどのように読み方を学ぶか?」(PartU、ここで「プルーストのマドレーヌ」が引き合いに出される)
エジソン、ダ・ヴィンチ、アインシュタインもそうだったといわれる「ディスレクシア」(読字障害)は、 「文字を読む」能力を損なわれている代わりに、それとは別の「非凡な才能」の恵まれることの多い障害のようなのだが、
「文字を読む脳」についての理解を深めることで、ディスクレシアを別の観点から見直せば、脳が秘めている驚くべき可能性が 見えてくるのではないか?
という「脳が読み方を学習できない場合」(PartV)を「まとめ」として、
文字を読むことによって、脳がそれまでよりも深く思考する時間(天与の数ミリ秒)が生まれるということ、 (ここで「素早く泳げないイカ」が取り上げられる)つまり、「超越して思考する時間」こそが、「文字を読む脳」からの 「最大の贈り物」だと結論する著者は、
小児発達学と認知神経科学の教授で、言語と読字とディスクレシアの研究者であると同時に、
ディスクレシアの息子を持つ母親なのである。
私の子どもたちの世界が Google 中心に回っているのを考えるにつけ、読字のこのユニークな側面が私の大きな悩みの種になり始めている。 膨大な量の情報が瞬時に表示されるコンピューター提示型の文章一辺倒になったら、読字の中核を成している発展的な構成要素は変化し始め、 もしかすると、退化してしまうのではないだろうか?
2009/12/3
「狂気と王権」 井上章一 講談社学術文庫
今日の裁判では、当事者の精神状態がしばしば問題とされることがある。被告は犯行当時、はたして正常な識別力をもっていたかどうか。 某証人はこう証言するが、それは錯乱による妄想でないといえるのか。以上のような応酬が、法廷でたたかわされたりする。
1923(大正12)年、当時の皇太子・裕仁(後の昭和天皇)は、大正天皇の摂政として国事行為を代行していたが、 帝国議会の開院式に向かう道すがら、沿道の群衆から飛び出した男により、ステッキ銃の狙撃を受ける。
「不敬」の大罪は本来なら死罪であるが、懺悔の色を示せば天皇陛下のお慈悲により、無期懲役もという当局者の期待に反し、 「七度生まれ変わっても、大逆事件を繰り返す」という確信犯としての立場を貫き通す大助の態度に、周囲の苦悩は深まっていく。
「願わくば狂人であってほしい」
という、テロリスト・難波大助による「虎ノ門事件」を始め、元女官長・島津ハルが昭和天皇を排斥しようとした「不敬事件」、 津田三蔵がロシア皇太子のニコライを襲撃した「大津事件」、相馬家が藩主を座敷牢に幽閉した「相馬事件」など、 いわゆる「不敬罪」をめぐる事件を横に並べて、「精神鑑定のポリティクス」という補助線を引くと、
「反・皇室分子=狂人」というレッテルを貼ろうとする、時の政治権力側の思惑が透けて見えてくるというのである。
実際、当時の精神医学界の権威である東京帝大教授・呉秀三の勇気ある見立てにより、「精神的には何等欠陥を認めず」と 「狂人ではない」ことが認められ、本人の望み通り「絞首刑」が執行されることになった難波大助については、
「大助ハ社会主義者ニアラズ摂政宮演習ノ時某処ノ旅館ニテ大助が許婚ノ女ヲ枕席ニ侍ラセタルヲ無念ニ思イ復讐ヲ思立チシナリト云ウ」
などという、とんでもない「噂」が、当局の手によって意図的に流布された可能性も指摘されている。 恋人を摂政にとられて正気を失っていたのだ。そうでもなければ、あのような犯罪を犯せるはずがない。 (こちらの方がよほど「不敬」なのではないか。)
そこまでして守られねばならない「王権」の尊厳の重みというものが、やがては「君主」に向けられるようになるのは、歴史の必然である。
ノイシュバンシュタイン城の建設という「道楽三昧」により、国家存亡の危機を招いたルードヴィヒ二世に、 「精神錯乱」というレッテルを貼って退位に追い込み、国を守ろうとした「バイエルン王国」。
その王国の憲法を範として、「君主権」を謳った「明治憲法」なのであれば、その文字が示す通り「王権」には「狂気」を孕むのであった。
「わたしの国民はわたしが非常に好きである。わたしを好いているからこそ、もしわたしが戦争に反対したり、 平和の努力をやったりしたならば、国民はわたしをきっと精神病院かなにかにいれて、戦争が終わるまでそこに押し込めておいたに違いない。 また国民がわたしを愛していなかったならば、かれらは簡単にわたしの首をちょんぎったでしょう」 (『マッカーサーの謎』Jガンサーにある昭和天皇の会見談)
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