徒然読書日記200910
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2009/10/22
「日本人はどこまで減るか」―人口減少社会のパラダイム・シフト― 古田隆彦 幻冬舎新書
カンムリクマタカのつがいは、数日の間に続けて二つの卵を産む。その順序で雛がかえると、最初の雛は次の雛を攻撃して 数日の間続けるが、親鳥は決して干渉しない。その結果、次の雛は常に殺され、一匹だけが生き残る。猿などの中型哺乳類を主食とする親鳥が、 二つめの卵を産むのは、一つめが壊れた時の予備的行動であるが、食糧が希薄な環境の下では、メスが幼い雛を育てている間、 オスは一羽だけで食糧を探さなければならず、三羽分の獲得が供給限界となる。そこで、一羽の雛を殺すことによって、三羽が生き延びる。
「環境収容力(carrying capacity)」という概念がある。生物学や生態学において、一定の空間の中に生存しうる個体数の上限を こう呼ぶのであるが、人間もまた動物である以上、同じようなことが起こっているのではないか、 つまり、わたしたち人間にも「人口容量」なるものが存在するのではないか。
であるとするならば、
日本の人口は、2004年の1億2784万人をピークに減少に転じ、政府やメディアはその理由を「少子高齢化」に求めて、 「少子化対策」の必要性を訴えているのだが、「少子化対策で人口は回復できる」という発想は大きな誤解であるというのが、 著者の主張するところなのである。
これまでの歴史の中で、日本の「人口容量」には四つの大きな壁があった。
1.旧石器文明(紀元前1万年)の3万人
2.新石器文明(紀元前500年)の26万人
3.粗放農業文明(西暦1300年)の700万人
4.集約農業文明(西暦1800年)の3250万人
新しい文明による技術開発の導入などが、前の文明の壁を乗り越え、「人口容量」を飛躍的に伸ばすことを可能にするのだが、 それもいつかは限界に達して停滞し、やがて減少するという「波」を繰り返してきたのであり、 近代工業文明による「第5の波」が、ついに1億2800万人という「壁」に突き当たってしまった、というのが今の日本の現状で、
「人口容量」=「総生息容量」/「一人当たり生息水準」
なのであれば、私たち日本人は、限りある「総生息容量」の分配方法について二者択一を迫られることになる。
親世代は自らの生息水準を下げて子どもを増やすか、生息水準を維持して子どもを諦めるか、の選択を迫られる。 また子ども世代は自らの生息水準を下げて老年世代を扶養すべきか、生息水準を維持して老年世代の扶養を縮小するか、の選択を迫られる。
そして「すでに一定の豊かさを経験した世代の多くは、その生活水準を落とすことを嫌う」から、彼らはあくまで無意識のうちに、 親世代は「晩婚・非婚」や「避妊・中絶」を選んで「出生数」を減らし、 子ども世代は「親の介護拒否」や「年金負担忌避」に走って「死亡数」を増やすことになるだろう。
つまり、日本の人口減少の原因は、「少子・高齢化」にあるのではなくて、「少産・多死化」にあるのだから、 両親の負担を減らす「少子化対策」は、その分だけ両親の生活水準と自由度を上げることで、 人口をますます減らす結果になるだろうというのだった。
2009/10/17
「ラカンはこう読め!」 Sジジェク 紀伊国屋書店
強迫的に映画を録画しまくるビデオ・マニア(私もそのひとりだ)ならほとんど誰もが知っているはずだ――ビデオデッキを買うと、 テレビしかなかった古きよき時代よりも観る映画の本数が減るということを。われわれは忙しくてテレビなど観ている暇がないので、 夜の貴重な時間を無駄にしないために、ビデオに録画しておく。後で観るためだ(実際にはほとんど観る時間はない)。 実際には映画を観なくとも、大好きな映画が自分のビデオ・ライブラリに入っていると考えるだけで、深い満足感が得られ、 時には深くリラックスし、無為(far niente)という極上の時を過ごすことができる。
「まるでビデオデッキが私のために、私の代わりに、映画を観てくれているかのようだ」
最近私は、新刊本の購入を控えるようになった。厳しい経済情勢のなかで自由に使えるお金が激減してしまったということもあるが、 人生80年を全うできたとしても、残りはあと25年、たとえ今の読書ペースを維持できたとしても、これから読破できる本はわずかに2500冊。 これまでに「後で読むから」ととりあえず購入し、本棚に並べておくだけで安心していた本のすべてを、 残された時間の中では到底読みきれないということに、今さらながら突然気付いたのである。
<相互受動性 interpassivity>(対象そのものが私から私自身の受動性を奪い取り、その結果、対象そのものが私の代わりに、 楽しむという義務を肩代わりしてくれる)の居心地のよさを維持するために、<現実界 real>的なことが起きるのを阻止するために、 狂ったように能動的になり<偽りの行動 false activity>に走る。
ラカンに言わせれば、「これこそが強迫神経症者の典型的な戦略である」ということになるのだろうか。
というわけで、
この本は、現代思想界の奇才・ジジェクによる "How to read Lacan" なのではあるが、しかしこれは、 <想像界・象徴界・現実界><対象a>や<大文字の他者>など、ラカンが駆使した難解な精神分析用語の解説をしてあげよう という本ではまったくない。
そういう本がお望みだという方には、
『生き延びるためのラカン』(斎藤環 バジリコ)
の方がお勧めである。
「最良のラカン読解法とは、ラカンの読書法をみずから実践すること、すなわちラカンとともに他者のテクストを読むことではなかろうか。」
というジジェクは、この本で今日の政治、社会現象、文化、芸術などなどを、ラカン的に読もうとしているわけで、 これが知的好奇心を刺激するとても面白い読み物となっている。
ラカンになって『カサブランカ』を観れば、「あの3.5秒の間」に「二人はそれをしたのか、しなかったのか。」という、 誰もが抱くに違いない疑問など、簡単に氷解してしまうというわけなのだ。
そして、確かに「ラカンはワカラン」と両手を挙げて降参する以外ないほどに、その理論は難解なのではあるが、 難解は難解のままに置いておいたとしても、いざ「道具」として使ってみれば、ラカンという「ハサミ」の切れ味は 怖ろしく鋭いことを思い知ることになるのだった。
閉ざされた集団の全員が、ある醜悪な事実を知っている(しかも「全員が知っている」ということを全員が知っている)。 にもかかわらず、誰かがその事実を不注意に口にすると、全員が動揺してしまう。なぜか。 口にされたのは誰にとっても耳新しい事実ではないにもかかわらず、どうして誰もが当惑するのだろうか。 それは知らないふりをする(知らないかのようにふるまう)ことができなくなったから。いいかえれば、 いまや<大文字の他者>がそれを知っているからだ。
2009/10/15
「「科学的」って何だ!」 松井孝典 南伸坊 ちくまプリマー新書
(松井)さっきの血液型みたいなものも含めて、結局「信じる、信じない」、あるいは「納得する、納得しない」のレベルの話であって、 これは、「神様を信じるか信じないか」という話と同じなんです。
(南)科学的に根拠はないけれど、別に血液型を信じたって害はないから、先生も雑談にはつきあう。
(松井)その辺は区別して話題につきあうことにしています。私がここで言う「科学的な議論とは無関係」というのは、結局、 科学というのは「わかるか、わからないか」という世界の話だからです。
惑星物理学が専門の松井孝典・東京大学教授が、「プロの素人」として名高い聞き手・南伸坊さんの「科学に対する素朴な疑問」 に明快に答えてみせようという試みなのであるから、
(松井)要するに、どういうことが予想できてどういうことが予想できないかということは、ふつうにちょっと考えてみれば、 わかると思うんですけどねえ。
(南)いや、その「ちょっとふつうに考えてみる」が、なかなか(笑)。
と、笑っているうちはまだいいとしても、
(松井)素人の人は残念ながら絶対にその境界に行けないんです。ようするに、「わかる世界」と「わからない世界」の境界は 科学者でないとわからないんですよ。ふつうの人には何がわからないのか、具体的にはわからないんです。
「何がわかっていて、何がわからないか」をわかってない限り、わからない世界はわからない。
なんて、松井先生にうまくはぐらかされそうになって、
「素人に何がわからないのかをわかっていない」のは、あんたの方じゃないのか?
と、さすがに温厚な伸坊さんも、いささか反発を覚えたのではあるまいか。
(南)立体の現象が平面表現になっていますから、僕らのような、目で見て納得するタイプの人間からすると、 それは空間が曲がっている状態じゃないわけですよ。ただ単に平面の一部がおちこんでいるだけです。
(松井)ええ。いまの喩えでは、三次元的に表せないから二次元で考えれば、という話ですからね。
(南)三次元的に表せないことを二次元で表して、説明したと思っているところが、間違いの始まりじゃないかという気がするんですけどね。
と、なかなかに鋭い突っ込みに、松井先生も一瞬たじろいだようなのだ。
「もともとは、重力があったときにまわりの空間がどうゆがむか、という問題です。それはポテンシャル(重力場で粒子の持つ位置エネルギーを、 位置関数で表したもの)として、数学的に表現された形でそのまま、絵にも何にも描かずに理解できれば、そのまま理解できるわけですが、 普通の人はそれができないから、比喩的な表現を使うわけですね。」
なんて、「一流の科学者」に「まともな講釈」をたれさせた時点で、おそらくこの勝負、「素人」の側の圧勝に終わったのではないかと思われる。
なんたって、
「プロの素人」は「曲がったこと」が「でっ嫌い」なのだ。
2009/10/14
「家庭の医学」 Rブラウン 朝日新聞社
anemia【貧血】
1 循環血液中の赤血球数か血色素量、もしくはその両方が減少した状態。
2 活力の欠如、生気のなさ。何か別の病気の第一の徴候だという可能性もある。したがって、貧血を早期に正しく診断することによって、 病気自体に対する正しい早期治療も可能になる
という解説に始まって、【薄暮睡眠】、【転移】、【無能力】・・・という章立てで続いていくこの本は、 もちろん「医療用語辞典」の家庭版などではない。
これは、エイズ患者のホームケア・ワーカーを描いた『体の贈り物』など、「介護文学」のすぐれた書き手であるレベッカ・ブラウンが、 癌にかかった自らの母親の闘病に立会い、その最後を看取るまでを、彼女特有の抑制の利いた筆致で、 それこそ「辞典」のように淡々と描いてみせたノンフィクションなのだった。
このように拡がることを、転移(metastasis)という。略して「メッツ」。
二人ですべてをもう一度確認し終えると、医者は「大丈夫ですか?」と言って私の肩に触った。
「ええ」と私は答えた。
「申し訳ありません」と医者は言った。「私どもとしては、出血を食い止めるだけで精一杯だったのです」
本気でそう言っているのだとわかった。この人はできるだけのことはしてくれたのだ。
十七年ほど前、母が癌に侵されていると告げられた時、私が真っ先に医師に尋ねたのは、それが体のどの部分のどの程度の不具合であり、 どのような治療をどの程度続けることになるのか、ということだった。専門家でもないのに、まるで、 それさえ教えてもらえれば一安心できるとばかりに、正式な病名や、採用される治療方法や、使用される薬の名前など、 患者にとってはどうでもいいような情報ばかりが気になったことを覚えている。
私もまた、「母がこの世からいなくなってしまうかもしれない」という「事実」をうまく受け止めることができなかったのだろう。
私はあのころ、母が死ぬ姿を思い描くことができなかった。いまふり返ってみて、母が徐々に死んでいく姿がやっと見えてくる。 ふり返ってみるなかで、母は何度も何度も死ぬ。
「髪の毛が抜けて、毛糸の帽子をかぶるようになった」
「立ち上がることができなくなり、紙おむつをするようになった」
「よく知っていた」はずの「母の姿」が少しずつ壊されていき、それとは別の「新たな母の姿」を胸に刻み込んでいく中で、 私も少しずつ心の準備を整えていったのだっただろうか。
ある朝、母ははっと目をさました。ベッドの上でまっすぐに体を起こし、「支度できた?」と言った。
母の寝顔を眺めていたレベッカの兄は、幼いころに聞き馴染んだ母の口癖に、思わず「うん」と答えてしまう。
「支度できたよ、母さん。何もかもちゃんとやってあるよ」
とんでもない。およそ母を持つ者は誰しもが、母の子を気遣う思いの深さを、母を失ってから思い知ることになるのだ。
母が死を押し戻そうとしていたあいだずっと、支度はできたよとあのとき母に言いはしたけれど、私たちは支度なんかできていなかった。
2009/10/8
「新世界より」 貴志祐介 講談社
「・・・先史文明において、長くオカルトの薄闇の中に置かれてきた念動力現象、すなわちサイコキネシス(PK)が、 科学の曙光によって照らし出されたのは、キリスト教暦2011年のことでした」
その後、人間の社会は4種類の相容れない単位に分断される。
1.少数のPK能力者が多数の一般人を支配する「奴隷王朝」
2.奴隷王朝の脅威を逃れ、隠れ住む非能力者の「狩猟民」
3.家族単位で放浪し、PKによる襲撃を繰り返す「略奪者」
4.先史文明の遺産を維持し、細々と科学文明を伝承していた「集団」
500年にも及ぶ、血で血を洗うような抗争の暗黒時代の幕を閉じたのは、それまでは歴史の傍観者に徹してきた「科学文明の継承者」たちだった。
それからさらに500年が経過して・・・
物語の舞台となっているのは、すべての人間が「呪力」という万能の力を手にしているらしい、あれから千年後の、 北関東(利根川沿い)にあると思しき町、「神栖66町」。
町は「八丁標(はっちょうじめ)」という注連縄が張り巡らされ、外界からは隔絶されており、全国各地にこのような町がいくつか点在しているが、 どうやら東京は壊滅しているらしい。
子供たちのまわりには、人間に忠実で奴隷のように酷使される「バケネズミ」を筆頭に、「ネコダマシ」「風船犬」「ミノシロモドキ」など、 怪しげな生き物の噂話が跋扈していたし、大人たちはどうやら「悪鬼」と「業魔」の伝説を真剣に恐れているようなのだが、
主人公の早季が無事に「呪力」を身に付けて「和貴園」(小学校)を卒業し、幼馴染の瞬、覚、真理亜、守らが待つ「全人学級」 (呪力の実技を磨く学校)へ進むまでの物語は、実に楽しげに進展していくのである。
夏休みのキャンプで禁止区域に踏み込んで、「ミノシロモドキ」を捕獲し、先史時代の恐るべき真実を耳にするまでは・・・
「ミノシロモドキ」とは、西暦2129年までに日本語で出版されたすべての書籍の内容が詰め込まれたパナソニック製の自走型アーカイブ 「国立国会図書館つくば館」だったのである。
ここから先は、めくるめくような驚天動地の「貴志ワールド」が展開されて、波乱万丈のスリリングな冒険の中で、 いくつもの謎が解き明かされていくことになる。
「呪力」とは「宇宙の根源に迫る神の力」であるがゆえに、使い方を間違えてしまえば、人間に何の恩恵も与えない 「悪魔からの贈り物」ともなるのだった。
ここからは、ネタばれとなるので、「もう読んだ」か「絶対に読まない」という方以外は、立ち入ってはいけない。
たとえ、この「八丁標」を侵すことがあったとしても、絶対に「空白部分」をなぞったりしてはならない。
「では、野狐丸。おまえに弁明の機会を与えよう」
「私の名は、スクィーラだ!」
スクィーラは、叫んだ。激しいブーイングが起きる。
「獣であるおまえに、町より下された、有り難い名前を、不遜にも否定するのか?」
「私たちは、獣でも、おまえたちの奴隷でもない!」
この言葉で、観衆の怒りは、最高潮に達した。漏出した呪力により、臨時の法廷の中は、頭が痛くなるような緊張した気に包まれる。 しかし、死を覚悟しているらしい野狐丸は、怯まなかった。
「獣でないとしたら、おまえは、いったい何なのです?」
スクィーラは、ゆっくり法廷の中を見渡した。一瞬、わたしと視線があったような気がして、どきりとした。
「
私たちは、人間だ!
」
2009/10/8
「中世日本の予言書」―〈未来記〉を読む― 小峯和明 岩波新書
東海姫氏国 百世代天工
(東海姫氏の国では百世の時代を経て天に変わり、人の治める国となった。)
右司為扶翼 衡主建元功
(有力な臣下が補佐して、賢子が政道を遂行する。)
時は8世紀、遣唐使・吉備真備が、その才を恐れた中国皇帝から突き付けられた最大の難問を、蜘蛛の糸に導かれて読み説いたと伝えられる 「五言二十四句」の漢詩、
『野馬台詩(やまたいし)』
には、君臣あい和して保たれていた秩序が乱れ、ついには滅びゆく世界が暗示的に描かれていた。
白龍游失水 窘急寄胡城
(白龍が水を失うように王の威は衰え、窮余の策に胡の城に身を寄せる。)
黄鶏代人食 黒鼠喰牛腸
(黄鶏が人に代わって食し、黒鼠が牛の腸を喰らうように、下克上で世の秩序は崩壊する。)
末法世相に揺れた院政期から鎌倉時代にかけては、「黄鶏」とは「光仁天皇」であり、「黒鼠」とは「道鏡」であると読みならわされたのが、 吉備真備にまつわるこの伝承の肝なのであるが、
室町から江戸期にかけて、「黄鶏」とは「将門」であり、「黒鼠」とは「清盛」のことだという解釈が流布するようになる。 源氏武家権力の確立により、平氏の政権を内乱と一括する歴史観が成立したのだった。
もちろん、『野馬台詩』のみならず、この本で並んで取り上げられている『聖徳太子未来記』にしても、どちらも明らかに偽書である。
つまり予言は事が起きてしまった、事後にこそ問題にされるもので、事が起きてからその当否が問われるものなのである。 我々は時間をさかのぼらせたり、くりあげたり、イメージのなかで自在に時を往き来させて、みずからを納得させているわけである。
どうやら<未来記>とは、乱れた世の中を憂える誰かが、その時代に突きつけた問題提起の書とでもいうべきものであるようなのだ。
百王流華竭 猿犬称英雄
(百王の流れはついに尽きて、猿と犬が英雄を称して覇権を競いあう。)
青丘与赤土 茫々遂為空
(戦乱によって、青々とした丘陵と赤土に覆われた大地もむなしく空に帰し、世界は崩壊する。)
武智鉄二『邪馬台の詩』(白金書房ノア・ブックス)によれば、継体天皇以降から起算すると、現天皇がちょうど百代に相当するのだという。
さて、誰が「猿」で、誰が「犬」になるのだろうか?
考え出すと、夜も眠れないのである。
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