徒然読書日記200909
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2009/9/17
「街場の大阪論」 江弘毅 バジリコ
街で「知らない人なのに知っている人」に出会うこと。そういう機会がまだまだ多いのが大阪という街の特徴であり、 そういうところをわたしたちは多分に感覚的な言い方で「街場」などと呼んだりしている。
「知らない人なのに知っている人」というのは、その人の名前やその人の属性、どこで何をやっている人なのかは「知らない」けれど 「知っている人」のことであり、逆にどこで何をしているのかを「知っている人」なのに「知らない人」もいるという、 「顔見知り」の関係性の中で、地元感覚のある「街場」の雰囲気が醸成されてくるというのである。
「人と人とが出会わなくても経済が回る」システムとなっているコンビニやファミレスでは、 「あそこはオレの行きつけの店だから、今度マスターに紹介してやるよ」といった「顔見知り」関係も出来ないようになっている、 というのと同様の意味で、
顔がない「一人ぼっちのみんな」でいっぱいの街「秋葉原」では、「居場所」を見つけることができなくなった犯人が、 「現実でも一人。ネットでも一人」という悲痛な叫びを残して、「通り魔殺人」事件を引き起こすことになった。
「コテコテ」、「お笑い」、「たこ焼き」、「あきんど」、「おばちゃん」、「ヤクザ」、「阪神タイガース」・・・
そんなステロタイプのイメージ像で「情報化」された「大阪情報」の露出のされ方に、大阪の町や店や人が長きに渡って傷付いてきたのは 事実だが、大阪で生まれてそこで現に生活していると、聞いていても話していても「断然おもろい」のは、やっぱり 「商売人のえげつない銭もうけ」や「おばちゃんの無自覚」や「ヤクザものの与太」といった街場の話なのだから、
だからこそ書いたり編集したりする際の意識としては「それを語らずして、それを語る」みたいな引き裂かれ方になるか、 読者の前で「ほらっ」と脱臼してみせるしかない。
「うどんとお好み焼きと洋食(おっと鮨も)は自分の『地元』のが一番うまい」のであり、 「街場のお好み焼屋では、地元のおっさんやおばちゃんが正しいと決まっている。」のだった。
誰かの「おう、もういけるで」の声におのおの箸を伸ばし、時々「うまいのお」と唸りながら、きれいに身をさらう。 そしてていねいにアクをすくい、アラ身にクチバシの部分や鍋皮が加わるものの、第二ラウンドも以下同じ。おっと、厳冬期に美味くなる白子、 あるいは秋なら松茸というのもアリだ。ほかの具はやっとそこから入り、豆腐そして白菜、春菊のみ。それもさっと食べる分の少しずつ。 そういういわば、てっちり的文脈を無視して最初から野菜などを入れる無精者には、
「ちゃんこ違うぞ。」
これは、たっぷりの「シズル感」に、ちょっぴりの「ペーソス」を溶け込ませた、大阪論の白眉なのである。
2009/9/17
「終の住処」 磯崎憲一郎 文藝春秋
夜明け前、彼は目を覚ました。すると暗闇のなか、じつは妻は起きていて、一晩じゅう彼を睨みつけていたのではないか という思いに囚われた。ほんの数分のあいだにもその思いはだんだん強くなって、抜け出すことが困難なほどに膨れ上がり、 仰向けに上を向いたまま彼の首は固まって動かなくなってしまった、すぐとなりで寝ている妻の様子を確かめることができなかった。 逃げるように、しかし静かに彼は起き上がり、ちらりと振り返らずにドアを閉めて外へ出た。
「別にいまに限って怒っているわけではない」
新婚旅行のあいだじゅう不機嫌だった妻は、新居第一日目に生理になってしまい、
幼い子供を連れて出掛けた遊園地の観覧車に乗った翌日から、十一年間、彼と口を利かなかったが、
朝の通勤電車の中で「子どもの笑い声」を聞くという啓示を受けた彼が、「家を建てるぞ!」と宣告した時、
「そうね、もうそろそろ、そういう時期ね」
と、まるで十一年間ずっとこの応答のなかに留まり続けていたかのように、滑らかに自然に応えた。
いままで俺は複数の、さまざまに異なる女と付き合ってきたつもりになっていたが、これではまるで、たったひとりの女と付き合っている のと同じことだ。それはひとつの人格と付き合っているといっても良いのかもしれない。
新婚初夜にドアを閉めて外へ出て以来、「何を考えているのか分からない」妻に、 仰向けに上を向いたまま顔をそむけることしかできなかった彼を、
「妻はずっと睨み続けていた。」
というふうにしか、私には読めなかったのだが、
この不条理な物語を、ある意味で既視感あふれるように感じてしまったことも、また隠しようのない事実なのである。
本年度芥川賞受賞作品。
すると、もう二十年以上前にこの女と結婚することを決めたときに見た、疲れたような、あきらめたような表情がありありと よみがえってきた。不思議なことに彼も妻も、ふたつの顔はむかしと何ら変わっておらず、そのうえ鏡に映したように似ているのだった。 その瞬間彼は、この部屋で、これから死に至るまでの年月を妻とふたりだけで過ごすことを知らされた。 それはもはや長い時間ではなかった。
2009/9/9
「リスクにあなたは騙される」―「恐怖」を操る論理― Dガードナー 早川書房
変化の一部は小さなものだった。あるいは起きたことに比べれば些細に思われた。例えば、人々は飛行機に乗るのを止めた。 テロ攻撃の数日後に民間航空機の運行が再開したとき、離陸した飛行機はほとんど空だった。
3千人近くの人が亡くなった9.11のテロの後、人々は飛行機を危険だと恐れ、車での移動に切り替えたのだった。しかし・・・
残念ながら、飛行機は車より安全である。
テロリストが1週間に1機のジェット旅客機を米国内でハイジャックし激突させたとしても、、1年間毎月1回飛行機を利用する人が ハイジャックで死ぬ確率は、わずか13万5千分の1であり、車の衝突で死ぬ年間の確率6千分の1と比べれば些細な危険率と言える。
「航空会社による通常のフライトを利用するとき最も危険なのが空港への車の運転の部分であるほどである。」
にもかかわらず、多くの人たちがテロから身を守るために空港を避けて、米国の路上で衝突し血を流して死んでいったのは、 いったいなぜなのか?
私たちの「思考」は、直感的で、素早く、感情的な「腹」と、計算高く、遅く、理性的な「頭」という、二つのシステムを持っており、 素早い対応が求められるような「リスク」と直面したときには、直感的な「腹」の素早い「判断」に振り回されて、 理性的な「頭」は、「腹」の出した「結論」に、もっともらしいだけでなく、間違っている可能性が非常に高い「理屈」を でっちあげようとするのである。
・私たちは、直感的に「いいもの」と判断されるものに関するリスクを低く見積もり、「悪いもの」と判断されるものに関するリスクを 高く見積もる傾向がある(「良い・悪い規則」)
・私たちは、実例をより鮮明に思い起こせるリスクに対しては、そうでないリスクに比べて不釣合いなほど強い警戒感を抱く(「実例規則」)
そして、そこには「恐怖を掻き立てることに利害関係のある多くの個人や組織」の存在がある。
いたずらに「恐怖」を煽るばかりのメディア、「安心」を売リ付けようとする企業、自らの勢力の拡大につなげようとする政治家や活動家、 ・・・
「我々が唯一恐れなくてはならないのは恐怖そのものだということです。」(エレノア・ルーズベルト)
まさに、大恐慌は米国を傷めつけることができるかもしれないが、恐怖は米国を崩壊させることすらできるのである。
どのような難題に直面するにしても、先進国に暮らしている者は、これまで生きてきた人間の中で最も安全で、最も健康で、 最も裕福な人間であることが、議論の余地もなく本当であるのに変わりはない。依然として死を免れることはできないし、 死ぬ原因になる多くのことが存在する。ときには心配するべきである。ときには怖がりさえするべきである。 しかし、「今」生きていられていかに非常に運がいいかを常に思い出すべきである。
2009/9/9
「麗しき花実」 乙川優三郎 朝日新聞
期待と同じ濃さで緊張もしながら、駿河炭と椿炭を使って慎重に研いでゆくうち、仄かに光る狐の行列が見えてくると、 彼女は息をつめたまま興奮した。現れた陰影は紛れもなく夜のものであったし、この瞬間の喜びを人と分け合うことは不可能であった。 蒔絵は穴蔵でひとりでするものだと思った。研ぎすぎないように優しく細かく炭を動かし、漆の帳から狐たちを引き出す間、 周りのことは目に入らなかった。この孤独な終盤の作業こそ職人の喜びかもしれなかった。
江戸での修業を志す兄の付き人という口実で、理野が故郷・松江の蒔絵師の家を出たのは、出戻りの娘に対する窮屈な世間の目を 逃れるためでもあったが、過労で亡くなった兄の後を継ぐように、原羊遊斎のもとでの修業を重ね、蒔絵師としての自らの才能を 研ぎすませていくうちに、彼女はまた、職人であることの葛藤にも目覚めていくとになった。
朝日新聞の連載が終了。
最近人気が出てきたらしい「原羊遊斎」を筆頭に、酒井抱一や鈴木其一ら、実在の江戸琳派の絵師たちの、「美」に立ち向かう生き様の違いや、 彼らを取り巻く女性たちの人間模様を、鮮やかに描き出していく作者の筆の冴えは、まるで「羊遊斎の挿櫛」に蒔かれた文様が 浮かび上がっていくところを、目の当たりにするようなものだった。
「あなたらしい棗だ」
しばらくして其一が言った。
「甲に女の人がいる」
「そうです」
「愚かな、激しい気性の人かもしれない」
「そうです」
「これを使う茶人は小座敷で心の揺れと闘うことになる、妖しいときめきを感じないわけにはいかないし、情炎とでもいうのか暗い喜びがある」
「そうです、そうです」
これは、渡辺淳一の「へなちょこ話」なんかより、余程に「エロい」と、私は思う。
理野はなぜ目が潤むのか分からなかった。其一の言葉がいちいち身を刺すのであった。破格な表現の山茶花は生きやかに彼の手の中で 燃え立っていた。紅い情念が黒い理性を揺るがしている。男の上気した顔がそう言っていた。胡蝶のいう「分かる人」が目の前にいるのであった。
2009/9/1
「世界は分けてもわからない」 福岡伸一 講談社現代新書
そんなある日、研究室に新人がやってきた。マーク・スペクター。二十四歳。紅顔の美少年という形容詞がぴったりの、 端整で細身の立ち姿。スペクターはポスドクではなかった。博士号ももっていない。これから学位の取得をめざす。 初々しい大学院一年生としてラッカー研究室に入ってきた、まさに新人だった。しかし、スペクターは単なる新人ではなかった。 彼はあらゆる意味で、天才だった。
この本の後半部分(第8章から11章)を占めるおよそ80ページの「小さな物語」は、「ガンの原因をタンパク質のリン酸化過程に求める」 というスリリングな仮説を実証するための、至って地道な実験の過程を、いまや「理科系随一の書き手」となった福岡先生が、 一編の良質なミステリーに仕立て上げてみせたともいうべき逸品なのではあるが、
むしろ前半部分において、
「たとえば電車に揺られながら座っていて、ふと目を上げると向かいの誰かがこちらを見ている視線とぶつかった、という経験はよくある。」 (第1章「視線とは何か」)
という話が、膵臓の「ランゲルハンス島」発見の話につながっていったかと思えば、
「あなたは奥から日付の新しいものを取り出してカゴに入れ、しめしめ、と思っていませんか。日付の若い商品は、 確かに製造年月日が新しいわけですが、同時に、そこに含まれている『毒』もまた新しいということに注意してください。」 (第3章「コンビニのサンドイッチはなぜ長持ちするか」)
というネタを枕に、人体には無害の「ソルビン酸」が腐敗を遅らせるということの意味を語ってみたりもするわけだ。
「(受精卵の細胞分裂が始まって)このとき細胞は何をしているのか。彼らは互いに自分のまわりの空気を読んでいるのである。」 (第4章「ES細胞とガン細胞」)
お得意の「ピースが失われたジグゾーパズル」の話からイメージをふくらませて、 ES細胞とは「KYなれど、それゆえにこそ、ひとたび適切な空気に触れると、その万能性を発揮する」 ガン細胞とは「(一度は何者かになったことのある細胞が)あるとき、自分の分を見失い、自分探しを再開する。自分を探しつつ、 無限の増殖だけはやめない」と、「擬人化」による分かりやすさの追求も、いつもながらに冴えわたっているのだった。
「たしかに生命現象において、全体は、部分の総和以上の何ものかである。この魅力的なテーゼを、あまりにも素朴に受け止めると、 私たちはすぐにでもあやういオカルティズムに接近してしまう。ミクロなパーツにはなくても、それが集合体になるとそこに加わる、 プラスαとは一体何なのか。」(第6章「細胞の中の墓場」)
それは「生気」などといった蠱惑的な代物などでは決してなく、「ミクロなパーツを切りぬいてくるとき、私たちが切断しているもの」 つまり「流れ」(エネルギーと情報)なのだから、
この本の後半部分を占める「小さな物語」の面白さは、巧みに構成された前半部分の上に成り立つていると言わねばならない。
そして、この世界のあらゆる因子は、互いに他を律し、あるいは相補している。物質・エネルギー・情報をやりとりしている。 そのやりとりには、ある瞬間だけを捉えてみると、供し手と受け手があるように見える。しかしその微分を解き、次の瞬間を見ると、 原因と結果は逆転している。あるいは、また別の平衡を求めて動いている。つまり、この世界には、ほんとうの意味で因果関係と 呼ぶべきものもまた存在しない。
世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからないのである。
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