徒然読書日記200907
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2009/7/29
「それでも、世界一うまい米を作る」―危機に備える「俺たちの食糧安保」― 奥野修司 講談社
「食の民間安保」とは、たんに農作物を作ればいいのではない。国の食糧安保のように業者に丸投げせず、 生産者と消費者をいかにつなげるか、主観的な「安心」と客観的な「安全」をどうやって認証するか、 食糧難がやってきても耐えられる農業をどうやって再生するか、彼らはそんなことを試行錯誤していた。
「それなら、俺たちで食の民間安保をやろうよ」
こう宣言したのが、福島県須賀川市で「ジェイラップ」と「稲田アグリサービス」という組織を率いる元農協職員・伊藤俊彦と、 そんな彼の考えに共鳴し、彼を支えることになった生産者たちだった。
ブランド化のための「逆指名販売」、
収支安定のための「農機具共同化」、
うまい米を作る技術があってこその「無農薬・有機農法」など、
農協職員であるにもかかわらず、80年代初頭からすでに食の自由化の時代を見据えて、農協に依存しない農業を志向していた 伊藤のアドヴァイスに従って、「世界一うまい米」を作ろうとした彼らが行動規範とした信条は、
「作る責任、買う責任」というものだった。
「これからの生産者と消費者の関係は、買う側が再生産できる価格で買い、生産者はそれに応えるために作る責任を果たす。 作る側に責任を果たせと言うなら、その人たちが来年もがんばれるような条件を提示するのが、買う側の責任だと思うんです。」
「食」の消費者には、「経済で食べる消費者」と、「思想で食べる消費者」がいるという。
「経済で食べる消費者」が、「うまくて安全な食べ物を作るにはそれなりにコストがかかる」ことに気がつかないふりをして 「ひたすら安さを求めてきた」のに対し、
「思想で食べる消費者」は、「国産の米や大豆を食べることで農村風景を残したいと思う」ような「未来が想像できる人」だというのである。
2030年に14億人という「巨大な胃袋」を抱えながら、未曽有の経済成長を続ける中国が、やがて大量の食糧や穀物の輸入国に転じる であろうことは容易に予測できる事態であるとして、
その時、食料自給率(カロリーベース)40%、穀物自給率なら28%という、最貧国ハイチをも下回る絶望的な数字を誇るわが日本は、
「はたして穀物を買いつづけることができるのか」
「経済で食べる消費者」が「ポストハーベスト作物」や「GM(遺伝子組換え)作物」を押し付けられることにならざるを得ないのは 「自業自得」であるとしても、
「一本のキュウリ」を、「おいしさ」や「安全性」といったことばかりではなく、「重量、長さ、曲がり具合によって8等級に選別する」 などといった、「形や色への神経質なほどのこだわり」で、「国内の農家が作ったもの」の2割、 「輸入野菜」にいたっては3分の2が捨てられてしまうという、
「歪んだ思想」で食べる消費者(とそれに迎合する流通業者)であるはずのあなたは、
「はたしてこの危機を飢えずに乗り切ることができるだろうか」
これは、私たちに突きつけられた「警告の書」なのである。
「俺たちは、生産者をそういう消費者にダイレクトに結びつけることで、互いの『食』を守りたい。 食糧安保は、安さがすべてだという消費者には無理です。『作る責任、買う責任』は望めない。残念ながら、そういう消費者を見限るしかない。 そうしないと、俺たち自身が生き残れないし、買う責任を果たしてくれた人たちに犠牲を強いることになる。 食の民間安保とは、生産する側と消費する側の合意がないと成功しないんです」
2009/7/18
「SOSの猿」 伊坂幸太郎 讀賣新聞
「僕が触発されたり、見聞きしたりしたさまざまなものを混ぜ、組み立てていくつもりです」。タイトルになったSOSもその一つ。 「小説ってどこかでSOSを発信している人のために存在する気がする。それが核になっていますね」(連載開始にあたって)
イタリアでは「エクソシスト(悪魔祓い)」の弟子だったという遠藤二郎が、叔母さんからの依頼を受けて、 引きこもりの従兄弟を立ち直らせようとする「私の話」と、
証券会社の300億円誤発注事件の原因を探るべく、気真面目にすぎる五十嵐真が調査を続けるという「猿の話」が、 ほぼ何の脈絡もなく(語り口も違えば、高木桜子の手になる挿画のタッチも変えられて)、交互に語られていくことになるのだが、
この「猿の話」なるものが、従兄弟に取り憑いた「孫悟空」の口から語られた、未来の予知なのであり、 その話を聞いた遠藤二郎は、やがてこの「予知」が微妙なずれを生みながら現実となっていることを、実際に確認していくことになる。
というあたりが、さすがに伊坂幸太郎、なかなか手が込んでいるし、プロットの切り替えの早さが新聞連載向きでもある。
物語の中で、「彼は空を飛びました」と書けば、確かにその彼は空を飛んだのだろうし、「横断歩道に孫悟空が現れた」と書けば、 間違いなく、孫悟空が横断歩道に出現するのだ。(連載を終えて)
と言われるまでもなく、私たちの耳には「お師匠様」という言葉とともに、確かに「獣のいやな臭い」を放つ生温い息が 吹きかけられるのさえ感じられたのだから、
「リアリティの構築やその必然性」の問題を抱えながら、「現実離れした出来事も、怯まずに書いてしまえば、きっとそれは起こるのではないか」 という作者の狙いは成功していたようにも感じる。
ただ惜しむらくは、話が収束に向かうあたりの持っていき方が唐突過ぎて、まるで「事情により急に連載を終えることになりました」 とでもいうような割り切れなさが残ったのは、これも新聞連載にはよくありがちなことだろうとは思っていたのだが・・・
物語は作者が作り出すものだから、乱暴に言ってしまうと、自分で考えたクイズに自分で答えるのと同じで、 謎を解き明かすことはいくらでもできる。そうであるのなら、いっそのこと、解明されないもやもやとした要素が残り、 それでも清々しい気持ちになれるお話のほうがより良いのではないか。(連載を終えて)
う〜む。
少なくとも私は
『ゴールデンスランバー』
の読後感のほうが、よほど清々しかったけどなぁ。
2009/7/18
「犬は勘定に入れません」―あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎― Cウィリス 早川書房
小説やヴィドの中では、時間旅行者がちゃんと日付を確認できるように新聞売りの少年が立っていたり、過ぎた日付を バツ印で消したカレンダーが壁に掛けてあったりするものだが、どこを見てもカレンダーはないし、新聞売りの少年もいない。
「六月七日にしちゃあ、今日はいい天気ですな、旦那。去年とは大違いだ。八七年の夏はないも同然だったからねぇ」
なんて都合よく話しかけてくれるような、気さくなポーターも、もちろん近寄っては来はしない・・・
オックスフォード大学史学部の学生ネッド・ヘンリーは、第二次大戦中に紛失した“主教の鳥株”の行方を追うという任務を命じられ 「時間旅行」を繰り返すうち「時代差ボケ」(タイムラグ)に陥り、1888年のヴィクトリア朝に逃避して静養することを勧められる。
時は2057年。
すでに、過去への「時間旅行」は可能になってはいたが、過去から現在へ「物」を持ち帰ることはできず、 歴史的な転換点に影響を及ぼすような行動は不可能という制約がある中で、このお気楽なはずの休暇旅行が、 「時空連続体」の存亡を賭けた使命を帯びていようなどとは、夢にも思っていなかったのだった。
やたらに古典の文章を引用しまくる学生・テレンスとの出会いを皮切りに、婚約者で「ぶりっ子」爆発のお嬢様トシーや、 狂信的に心霊現象に夢中の母親ミアリング夫人と、熱狂的な金魚コレクターの夫ミアリング大佐など、 登場人物はいずれもユニークなキャラクターの曲者ばかり。
1930年代が専門のため、クリスティを始めとする本格ミステリーを新刊で読んでいるというヴェリティが、唯一頼れる相棒として、 灰色の脳細胞を活躍させてはくれるものの、
ここに、騒動の発端となった、性悪のプリンセス・アージュマンド(トシーの飼い猫)と、
ひとり悠然と、この大騒ぎの「勘定に入っていない」、ブルドッグのシリル(テレンスの飼い犬)までが加われば、
フェルディナンド大公の運転手がフランツ・ヨゼフ通りに入る曲がり角をまちがえたことが世界大戦のきっかけになった。 エイブラハム・リンカーンのボディーガードは煙草を吸いに外へ出たばかりに平和を崩壊させた。 偏頭痛に悩まされていたヒトラーは邪魔をするなと命令し、そのおかげでDデイ侵攻について知るのが十八時間遅れになった。 ある中尉が一通の電報に『緊急』のマークをつけ忘れたせいで、キンメル海軍大将は日本軍の真珠湾攻撃が迫っているという警告を 受けとらなかった。
ほんの些細な乱れによってさえ生じる歴史的事実の改変という「齟齬」を、修正するために送り込まれたはずのヘンリーが、 まるで、「屋上から飛び降りようとしている人を助けようとして突き落としてしまう」ような、 波乱万丈で抱腹絶倒の「悲喜劇」が、展開されないはずはないのだった。
「そりゃあ、これはSFですよ。たしかにSFでございましょうよ。けど、冒険小説でもあり、ミステリでもあり、 コミック・ノベルであり、恋愛小説でもあり、歴史小説でもあり、そしてまた主流文学とジャンル文学のいいとこ取りした スリップストリーム小説の逸品でもあるんですから、この大傑作をSF者だけのものにしておいてはならじっ! 読後、SFファンからのコニー・ウィリス奪還を堅く堅く決意した次第でございます」(豊崎由美)
2009/7/16
「差別と日本人」 野中広務 辛淑玉 角川oneテーマ21
辛「(中学二年の時に初めて自分の出自を知って)そこで潰れなかったのはなぜですか。」
野中「まあ、そのことを俺のハンディにしたってしょうがねぇんだと。 それをバネにして頑張りゃいいんだと思ってやってきたからでしょうね。」
辛「『あいつは部落だ』と言われた時のこと、親には言わなかったんですか。」
野中「言わなかった。」
辛「なぜ?」
野中「なぜって、知らんわ、そんなこと(笑)。」
<自分自身の経験を振り返って言えることだが、侮蔑の眼差しを浴びた子どもの大半は、そのことを口にしない。 自分から言わないのはもちろん、たとえその事実を問われても、まるで何事もなかったようにはぐらかすものだ。 なぜなら、それを認めたら親が哀しむことを多くの子どもは身にしみて知っているからだ。
だからこそ、部落差別は「家族を撃つ」と言われている。>(辛)
元自由民主党幹事長の野中広務と、辛口の批評で知られる辛淑玉の対話は、もっぱら「在日」の辛が聞き手にまわり、 自らも苦しんだ「日本人の差別」の問題について、「部落出身者」の野中に語らせようとするスタイルで進行していくのではあるが、 野中によって「語られるはず」と期待していた「多くのこと」が、語られずに終わってしまうため、 辛によるいささか過剰な<解説>が差し挟まれることになる。
「朝鮮人」という呼び方が差別的に使われているからこそ、自分のことを「朝鮮人」だとあえて言っているという辛に対し、 <町議会議員から一貫して「もめごとの処理」で身体を張り続け、「世話役」としてその存在感を示し、 政権党である自民党の幹事長にまで上り詰めた>野中とでは、話が噛み合わない部分も多いのであるが、
<野中氏が足を踏み入れることになった自民党は、学識を必要としない社会だった。>などという挑戦的な決め付けを突き付けられても、 鷹揚に受け流すだけの懐の広さを、野中という人は持っているようなのである。
とはいうものの、「政治的に好きか嫌いかというよりも、人間を見る」ので、
野中「彼が初めて選挙に出た時、福岡の飯塚の駅前で、『下々の皆さん』って演説した。これが批判を受けて選挙に落ちたんだ。 彼はずうっとそういう感覚なんですよね。」
辛「飯塚って在日も部落の人もたくさん住んでいるところですからね。」
野中「何の疑問もなしにそう言うんだ。不幸な人だ。一国のトップに立つべき人じゃない。」
「麻生さんは差別意識が体の中に染み込んでるんだと思う。」(辛)
という彼らに特有の嗅覚の部分では、意見の一致をみるのだった。
いずれにしても、野中広務という人物を少しでも理解しようと思うのなら、
「野中広務 差別と権力」
(魚住昭 講談社)
という力作をこそ読んでいただくことをお勧めしておいて、
この本ではむしろ、野中が聞き役に回った対談の最後段における、辛の激白こそが読みどころだったとしておこう。
辛「人権は好きだけど当事者が嫌いな人はいっぱいいる。当事者と一緒に生きるっていうのはものすごい大変なことで。 だから私野中さんより寂しい人生ですよ(笑)。」
野中「いやあ・・・。」
辛「でも私、わかってもらえない人と一緒にいたら、もっと寂しいなあと思って、一人のほうがいいなあと思ったんですよね。」
野中「まあね、哀しいね。」
辛「哀しいですよ、私。私かわいそうですよね(笑)。」
野中「いやいや、僕、こんな話したの初めてです。」
辛「家族だけは守らなきゃいけない・・・と思ったんですよね。私たち・・・。」
2009/7/15
「行動経済学」―経済は「感情」で動いている― 友野典男 光文社新書
「経済人」というのは、超合理的に行動し、他人を顧みず自らの利益だけを追求し、そのためには自分を完全にコントロールして、 短期的だけでなく長期的にも自分の不利益になるようなことは決してしない人々である。自分に有利になる機会があれば、 他人を出し抜いて自分の得となる行動を躊躇なくとれる人々である。
そんな「神」のような人物が本当にいるのだろうかと、誰もが疑問を抱くに違いないもかかわらず、 「われわれすべてがこのような人物である」という、ほとんどあり得ない想定の下に、標準的経済学の理論は構築されている。
あなたは1000円を渡され、見知らぬ誰かと分けるようにと言われた。自分の分として全額手元に置いてもいいし、一部を自分で取り、 残りを相手に渡してもよい。ただし相手には拒否権があり、相手がその額を受諾したらあなたの提案どおりに分配されるが、 相手がそれを拒否したら2人とも一銭ももらえないとする。あなたなら相手にいくら渡すと提案するだろうか?
という「最終提案ゲーム」を行えば、
相手も「経済人」であるのなら、0円よりは1円でももらうほうがいいと判断するに違いないと予想して、 「999円を手元に置く」ことが、「経済人」たるあなたの提案になるはずなのである。
ところが、初期には「学生」を対象に調査を実施し、やがて「社会人」「社長」「子ども」など、様々なヴァリエーションで実験を行ってみても、 「大半の人は相手に30〜50%の金額を提案する」ことがわかった。
人は標準的経済理論が予想するような利己的な行動をとらないのである。しかしだからといって、「人は利己的ではない」 と単純に結論するわけにもいかない。
「経済は感情で動いている」のだから、
・他人が全体へ貢献していれば、自分も貢献しようとする傾向がある。(ただし、平均よりはやや少なめに抑えようとする)
・公正の感覚や、復讐への恐れから、他人の信頼には応えようとする傾向がある。
・だから裏切りには、自分の利害にかかわりなく、処罰をおこなおうとする傾向がある。
といった「感情」の機微や、「直感」「記憶」などの心のはたらきを重視し、私たちの現実により即した新しい経済学を再構築しよう というのが、「行動経済学」の目論見であり、面白さなのだった。
唯一例外とも言えるのが、ヒルとサリーが行なった自閉症者を被験者とする最終提案ゲーム実験である。 提案者となった自閉症者のうちおよそ三分の一はゼロの提案をした。自閉症者は、他者の心を読むのが不得意という特徴があり、 応答者が拒否するかどうかを予測できないことが多いのである。皮肉なことに、これが経済人の行動予測に最もよく合致する例である。
2009/7/9
「ヒエログリフ解読史」 Jレイ 原書房
フランス軍はイギリス海軍の襲来に備えて、エジプトの海岸線の強化にあたっていた。アレクサンドリアの東では最初の 大きな町であるロゼッタでも、古くからあった要塞をジュリアン要塞の名にあらため、その補強を開始した。 その作業中に、ピエール・フランソワ=グザビィエ・ブシャールという工兵隊士官が三種類の文字が刻まれた花崗岩の石板を発見した。
1801年、エジプト遠征中のナポレオンが率いるフランス軍によって発見されたその「石」は、戦利品の一部としてイギリス軍の手に渡り、 大英博物館に収められることになる。
古代エジプト王国で、ファラオ(王)と高位の神官たちが共同で発した布告を、「ヒエログリフ(神聖文字)」「デモティク(民衆文字)」 「ギリシア文字」の三種類の文字で刻みこんだ石碑、
「ロゼッタストーン」の発見である。
最下段を占めるギリシア語は読むことができ、すぐに、上のエジプト文字も同じ内容を記したものであることがわかった。 とすれば、この石はエジプト文字を読むための鍵になる。文字の解読は既知のものから未知のものへとたどるものであり、 この場合はすでに知られているのがギリシア文字だった。ギリシア語が未知のヒエログリフへと導いてくれるのだ。
神官の中でも優れた知性をもつ者だけが知る「神に捧げる言葉」と呼ばれた「ヒエログリフ」の謎解きに挑んだのは、
イギリスの科学者にして万能の異才「トーマス・ヤング」と、
フランスの芸術家にして語学の天才「ジャン=フランソワ・シャンポリオン」
「古代エジプト学」への扉を開くことになったこの「石」の「解読」は、並はずれた知性を持ちながらまるで性格の異なる、 この二人の天才により、ヤングが方向性を指し示し、シャンポリオンが命を削ってたどり着く、という決着を見るのだが、
それはまた、イギリスとフランスという二つの国家が、そもそもの発見の経緯から、威信をかけて「偉業達成」を競った歴史の象徴 でもあったのだ。
さて、ではそこまで苦労した上で、ようやく解読された「ロゼッタストーン」には、一体何が書かれていたのかというと、 (この本の巻末に全文が紹介されているのである)
出だしは、偉大な「プトレマイオス五世」を褒め称える美辞麗句で溢れてはいるのだが、肝心の中味はといえば、
「エジプトで徴収される税については、あるものは軽減し、あるものは完全に免除した」だの、
「王は神殿を守る者に対し、神官になるために課される税を、父王の治世の第一年より前に課せられていた以上に収める必要はない」だの、
弱冠14歳のファラオに全責任がゆだねられたプトレマイオスの王家が崩壊することを防ぐため、神官達に大幅な譲歩を飲まされた結果 を記したもののようなのだった。
(ちょうど、今から2000年後に、どこかの半島から発掘された石碑の「ハングル文字」を解読したようなトホホな内容 と言ったら言い過ぎだろうか。)
ロゼッタストーンが私たちに教えてくれるのは、こうした古代の歴史である。そこに書かれている内容はたしかに重要だ。 しかし、歴史資料としては、ロゼッタストーンはそれほど大きな意味をもつわけではない。
(中略)
第二の意味合いでの歴史となると、石の役割はがぜん変わってくる。ロゼッタストーンは古代エジプトの Historie 全体の創造者となる。 なぜなら、そのテキストを読むことで、私たちはその歴史について書き始めることができるのだから。 この第二のタイプの“歴史”においては、ロゼッタストーンこそが主役なのだ。
2009/7/8
「おとなのおりがみ」 アル中Masa 山と渓谷社
近年多発する偽札偽造事件などの影響もあるのだろう。新紙幣に集まる世論の注目が経済効果にも繋がるのではといった ポジティブなニュースの一方、自動販売機・ATM等、機器の対応の遅れが懸念されもした。しかし更に一方ではそんな社会的な問題など 一切あてはまらない問題を突きつけられたのが、Masa氏であった。
2004年春、政府・日銀は20年ぶりの新札発行に踏み切った。
千円は「夏目漱石」が「野口英世」に、五千円は「新渡戸稲造」から「樋口一葉」へ、さらに一万円は「福沢諭吉」のままだったが、 そのデザインは一新されて、一万円札・五千円札・千円札が総とっかえされてしまったことで、 Masa氏はそれまでに積み上げてきた貴重な財産を一晩で失ってしまうことになったのである。
この本は、そんなMasa氏が、与えられた試練を不屈の闘志で乗り越えて、見事に復活を果たしてみせた、魂の記録なのである・・・
はずもなく、
これはつまり、キャバクラで披露すれば「受ける」こと必至という、「駄洒落」精神に充ち溢れた、「お札で折り紙」の本なのであるが、 もちろん、渡されたキャバクラ嬢が「家宝」として末永く保存してくれるかどうかは、保証の限りではないのだった。
というわけで、
「作ってみました。」
2009/7/2
「日本の難点」 宮台真司 幻冬舎新書
分かりやすくまとめて言えば「普遍主義の不可能性と不可避性」、もっと詳しく言えば「普遍主義の理論的不可能性と実践的不可避性」 ということになります。不可避性と不可能性のギャップを、どう実践的=理論的に「橋渡し」するかが、 現代政治哲学の最前線の課題だと断言できるわけです。
ときっぱり断言されたところで、<生活世界>のど真ん中で『終わりなき日常』を生きている「へたれ親父」にとっては、 ちっとも「分かりやすく」ないというのがいささか『難点』なのではあるが、
「みんなとは誰か」「我々とは誰か」「日本人とは誰か」といった「線引き」が、実は偶発的で便宜的なものに過ぎないということ、 つまり「すべての境界線は恣意的につくられたものだ」という意味で、“社会の「底が抜けて」いること”に気付いてしまったがゆえに、 「絶対的」なものへコミットメントする梯子を外されてしまった、現代の日本の「ポストモダン」的な隘路を払拭するためには、 そうした「境界線の恣意性」については百も承知の上で、如何にして境界線の内側へのコミットメントが可能になるかという 「コミットメントの恣意性」を探究せよ、
というのが、宮台の基本的な立場のようなのだった。
「この日本で共有されつつある課題意識」を「現状→背景→処方箋」という三段ステップで理解していくために用意された 「評価の物差し」は全部で5本。
「人間関係はどうなるのか」
(「コミュニケーションのフラット化」から「関係の唯一性」へ)
「教育をどうするのか」
(「信頼コミュニケーション」から「スゴイ人への感染」へ)
「幸福とはどういうことなのか」
(「自己決定論」から「社会的包摂」の回復へ)
「アメリカはどうなっているのか」
(「軽武装×対米依存」から「重武装×対米中立」へ)
「日本をどうするのか」
(「<システム>の再帰性」から「<みんな>へのコミットメント」へ)などなど、
<システム>(コンビニ・ファミレス的なもの)が<生活世界>(地元商店的なもの)を全面的に席巻していくという「郊外化」 が蔓延してしまった現代の日本を「手直し」するための「処方箋」が、それこそ、様々な観点から、手を変え品を変え、 矢継ぎ早に提示されてくるのだが、もちろんそれは、それほど生易しい課題であるはずもなく、
「僕の知る限り、東大でも霞が関でも一番優秀な連中は軒並み利他的だから」
と楽観しているらしい宮台の<生活世界>の標高は、<みんな>に比べて圧倒的に高いような気がしないでもないのだった。
本書はこれ以上はあり得ないというほど、噛み砕いて書かれています。本書に難解なところがあるとすれば、それは記述の難解さではなく、 事柄の難解さによるものです。通読すれば眩暈がするでしょうが、それは圧倒的情報量による眩暈ではなく、 <社会>の複雑さによる眩暈でしょう。
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