徒然読書日記200906
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2009/6/26
「人を殺すとはどういうことか」―長期LB級刑務所・殺人犯の告白― 美達大和 新潮社
私もかなり特異な性格なので、一緒に暮らす仲間である受刑者たちには、いろいろと立ち入った質問や話をさせて貰いました。 単に知りたいという以上に、人が人を殺めるとはどういう仕組みで起こるのか、本当の反省、償い、贖罪とは何なのか、 他の人はこの問題にどう向き合っているのか、本音を聞きたかったというのが大きな動機でした。
「反省って、事件のでしょう?」
「うん」
「そうだなあ、やっぱ指紋を残しちゃまずいですよね。あとは、共犯に口の軽いのはダメですね。今回は勉強になりました」
(・・・そんな反省してどうすんだよ・・・)
思わず突っ込みを入れそうになったという著者自身が、2件の計画殺人を犯し「無期懲役」の刑に服している、 ここは、罪が重くて犯罪傾向が進んでいるものが収容される「B級」で、しかも服役期間が長期(8年以上のL級)の 「LB級」刑務所なのであれば、
この本は、約半数は「殺人犯」という「極悪非道の犯罪者達が蠢いている」獄中で綴られた「受刑囚たちの観察記」なのだった。
「当職は、30年の職歴の中でこのような奇跡的な知能レベルに遭遇することは初めてであり、他の症例を調査しても前例がないものである」
と「鑑定人」を驚かせるほど「高い知能」を有し、人並み以上の「社会的な成功」を収めていたにもかかわらず、 「殺人という行為は、考えるまでもなく悪い行為です。しかし、そこに至るプロセスに自分なりの理由がある」と 取り調べにあたった検察官に主張するほど、 「理は自分にある」という歪んだ価値観から、2人の尊い生命を奪ってしまいながら、罪の意識はまったく感じていなかったという著者は、
検察や、弁護士や、被害者の家族の「言葉」によって、他の人は物事をどのように感じているのかということを知るにつけ、 自らの合理的な価値観なるものが、まことに身勝手な「論理の誤り」にすぎなかったということを、思い知らされることになる、 という「半生記」(反省記?)が語られるのが前半部分であるとすれば、
そんな著者が、「懺悔の日々」を過ごす「長期刑務所」の中で出会った「殺人犯の肖像」を描いたのが、後半部分なのであるが、
盗みに入って、居合わせた被害者を殺しておきながら、
「あんな所にいるからだ」
「大体、向こうが声を出すからだ」
「あいつさえいなきゃ、俺もこんな重い刑にならなくて済んだんだ」
と毒づくのはまだしも、夜間に侵入して火を点けた空き巣常習犯にいたっては、
「どうして?何の恨みも落ち度もない人達でしょう」
「うーん。これは分かって貰えるかどうかなんですが、僕は仕事で入った訳です。でも大した物もなく無駄な仕事をさせられました。 それが、まあ・・・恨みというか腹が立ったんですね。こっちはそれなりの手間を掛けて入ったのに何もなく、 向こうはぐーぐー寝てるという状況に無性に腹が立ってきて・・・。ま、それでやっちゃったんですね」
などなど、「あまりにも人道から外れた感覚」や、「罪の意識の欠如」に、「人として恐ろしいことだ」と気付くことになるのだった。
「そういう美達さんだって人殺しじゃないの。人のこと言えないよ。」
2009/6/22
「ノンフィクションと教養」 佐藤優・責任編集 講談社MOOK
「佐藤さん、高橋洋一さんがたいへんなことになったよ。盗みで書類送検されたということだ」(田原総一朗)
「エッ、盗みですか。逮捕されたんですか」
「逮捕されていないみたいだ。高級時計とカネを盗んだという話だ」
「論座」「諸君!」「月刊PLAYBOY」と月刊誌が相次いで休刊に追い込まれていく「ノンフィクション冬の時代」(@佐藤優)に、 こちらも「月刊現代」を休刊した講談社が「ノンフィクションの逆襲」と銘打って出版してみせた、編集部「意地」の1冊。
目玉は何といっても、一流の「書き手」でありプロの「読み手」でもある10人が、それぞれに100冊を厳選した 「100冊×10人」のノンフィクション1千冊。
その10人というのが、加藤陽子、佐藤優、佐野眞一、岩瀬達哉、魚住昭、重松清、二宮清純、野村進、原武史、保坂正康の、 名だたるツワモノ揃いとくれば、これはもう見逃すわけにはいかない代物なのである。
「小説家の書いたものを」(重松清)、「スポーツノンフィクション」(二宮清純)、「20世紀以降のもの」(原武史)、 「昭和史関連」(保阪正康)などなど、それぞれの選者ごとに「興味」や「基準」が異なっているので、 そのリストには選者ごとの「アンバランス」が見てとれて、それだけでも面白いのだが、
重複を許すのであれば、おのずと「総合ベスト10」なる人気投票も成立するわけで、それが、
1.「日本共産党の研究」(立花隆)
2.「戦艦大和ノ最後」(吉田満)
3.「レイテ戦記」(大岡昇平)
4.「昭和史発掘」(松本清張)
5.「誘拐」(本田靖春)
6.「ベスト&ブライテスト」(ハルバースタム)
7.「テロルの決算」(沢木耕太郎)
8.「苦海浄土」(石牟礼道子)
9.「サンダカン八番娼館」(山崎朋子)
10.「自動車絶望工場」(鎌田慧)
という、ある意味「妥当な結果」に落ち着いたというのも、さすがといえばさすがなのである。
これにさらに、アーサー・ビーナード以下30人の「体験的ノンフィクション論」や、 岩瀬達哉、魚住昭、高山文彦の「ノンフィクションライターのできかた」、 青木理の「メイキングオブ死刑執行」までがついて1200円は、お買い得であることは間違いないが、
「霞が関すべてを敵に回した男」あるいは「霞が関の埋蔵金を白日の下に晒した男」として知られる高橋洋一が、 「財務省からにらまれているから、これから何があるかわからない」と語っていたという「対談」を、 「国策捜査」で起訴休職中の佐藤優が、高橋の了解を得て暴露するとなれば、 これはもう、どう考えても買わねば後悔すること必至なのである。
高橋さんが埋蔵金問題で明らかにしてしまったのは、「霞が関官僚たちはどうも数学に弱いのではないか」 「実は偏微分になると全然理解できない」・・・そういう事実なんですよ。
2009/6/13
「奇跡の脳」 JBテイラー 新潮社
職場であるマックリーン病院への道を思い描いたとき、わたしは文字通りバランスを崩しました。 右腕が完全に麻痺してからだの横に垂れ下がってしまったからです。
その瞬間、わかったのです。
(ああ、なんてこと、のうそっちゅうになっちゃったんだわ!のうそっちゅうがおきてる!)
そして、次の瞬間、わたしの心にひらめいたのは・・・
(あぁ、なんてスゴイことなの!)
37歳の気鋭の神経解剖学者の「左の脳半球」を突然大きな脳卒中が襲ったとき、彼女が真っ先に感じたことは、
(そうよ、これまでなんにんのかがくしゃが、脳の機能とそれがうしなわれていくさまを、内がわから研究したことがあるっていうの?)
という、小躍りしたくなるような「幸福な恍惚状態」だったというのである。
(おぼえていてね、あなたが体験していることをぜんぶ、どうか、おぼえていてね!こののうそっちゅうで、認知力がこわれていくことで、 まったくあたらしい発見ができるように――)
「左脳」から出血したことで、「自分自身を、他から分離された固体として認知する能力」と「言語中枢」を失ってしまった彼女は、 「言葉」や「色」や「形」のない世界に投げ出され、「体内時計」という生活の時間的リズムを見失うことになったのだが、 「左脳」の判断力という「堅苦しい回路」の束縛から解き放たれることになった「右脳」が、歓喜に心躍らせるかのように、 「左脳」に代わってその「機能」を開花させることになる。
左の脳の「やる」意識から右の脳の「いる」意識へと変わっていったのです。小さく孤立した感じから、 大きく拡がる感じのものへとわたしの意識は変身しました。言葉で考えるのをやめ、この瞬間に起きていることを映像として写し撮るのです。 過去や未来に想像を巡らすことはできません。なぜならば、それに必要な細胞は能力を失っていたから。わたしが知覚できる全てのものは、 今、ここにあるもの。それは、とっても美しい。
もちろん、このような著作を書きあげることができたのだから、彼女の「左脳」は見事な回復を遂げたということなのであるが、
(そしてもちろん、ここに至るまでの「母親GG」との壮絶なる「リハビリ」の日々も、この本では語られているわけなのだが、)
「精神的には障害をかかえましたが、意識は失わなかった」ために、「起きたことすべてを憶えている」ことができた彼女にとって、 「左脳の否定的な判断がありませんから、自分なりに、自らを完全無欠な素晴らしい傑作だと感じる」ことができた、 「あの日」の「深い心の安らぎ」にいつでもつなぐことができる回路を探ることこそが、彼女の残りの人生の命題となったのである。
つまりこの本は、一流の脳科学者による、至福の「臨死体験」レポートということになるだろうか。
内なる安らぎを体験するためにわたしが最初にするのは、自分がより大きな構造の一部であることを思い出すこと。 いいかえると、決して自分と切り離すことのできないエネルギーと分子の、永遠の流れの一部であることを思い出すこと。 自分が宇宙の流れの一部だと気づくことによって、わたしは生まれながらに安全だと感じ、最上の天国としての人生を体験できるのです。 自分を包み込む全体と一心同体なのですから、自分が脆いなんて感じるはずがありません。
2009/6/9
「多読術」 松岡正剛 ちくまプリマー新書
ぼくにとっては「多読」と「少読」はつながっています。本質は同じです。少読がしだいに多読になるわけではなく、 多読によって少読がより深まるということもありうるわけで、そこが読書のおもしろいところだと思いますね。
「粗読」に比べて「精読」のほうが、いつでも読書力が深まっているというわけでもなければ、 ひょこひょこと読む「狭読」が、底辺を広げて読む「広読」を妨げているということもない、 「読書っていろいろな方法によって成立しうる」というのである。
『千夜千冊』という、前代未聞で無謀ともいうべき驚愕の「企み」を達成してしまったばかりか、 千冊を軽々と超えて、今なお続行中という「本読みの達人」が、「読み方」のコツを伝授しようという、 これは「読書好き」にとっては「垂涎の書」なのであるが、
「三割五分の打率で上々」
(たまには「空振り三振」するのも大事なこと)
「目次をしっかり読む」
(「無知」から「未知」への醍醐味を前戯で味わう)
「本と混ってみる」
(読書は「書き手」と「読み手」のコラボレーション)
「本にどんどん書き込む」
(われわれは「マイナスに穿たれた書物」である)
などなどの、具体的で実戦的な「読み方」の技に学ぶというのもさることながら、 著者の持っている「書くモデル」の特徴をつかもうと意識する作業を積み重ねることで、 読者独自の「読むモデル」を作り上げることができれば、本は随分読みやすくなるということ、つまり、
「読書することは編集すること」である。
というのが、松岡さんの「多読術」の極意のようなのである。
メッセージが途中で変化しているのに、それでもコミュニケーションが成立すると思えるのはどうしてか。 それは、社会のどこかに必ず「理解のコミュニティ」があるからです。そういう“理解の届け先”をそれぞれが想定しあっているからです。 それが社会というものです。だからみんなも生活できたり、仕事ができる。ただし、全員一致のコミュニティなんかではありません。 何らかの「ズレと合致のゲーム」が成立しようとしているようなコミュニティです。
2009/6/9
「親子三代、犬一匹」 藤野千夜 朝日新聞
マルチーズ探偵とびまろは、トコトコ町を歩くだけで、あとはなにもしない。
町の小さな事件は、いつもいつも、みんなの幸せな勘違いで終わる。
「うん。オチはいつも同じ」
夕樹が言い、
「結局なんもなーい」
章太がそれに応えるのは、柴崎家では定例の儀式だった。
高校生の夕樹と、名門中学に進学したばかりの章太の姉弟に、小説家の母親・也子と祖母・美代の親子三代、四人家族の柴崎家に、 章太が幼い頃に亡くなった父親の弟で、どうやら母親・也子に特別の感情をもっているらしい明彦が突然戻ってきて、
何やら事件の予感が・・・「結局なんもなーい」
朝日新聞の連載が終了。
「結局、あまり嫌なことの起こらない、ゆるい話を書き切れたことを、個人的にはやはり満足に思っている。」(『連載を終えて』藤野千夜) らしいのだが、
毎年のことだから、きっとみんながやさしくしてくれる歌として、トビ丸はちゃんと理解しているのだろう。 夕樹も入れた四人が、なお一生懸命、お祝いの歌声を合わせると、トビ丸は嫌がりもせず最後まで大人しく歌を聞く。 そして全員がロウソクに息を吹きかけると、自分も参加しなくてはと思ったのか、急に慌てた表情をした。
とどのつまりは、「犬一匹」が主人公である(少なくとも「トビたん」本人はそう思い込んでいる)に違いないこの「ゆるい」連載を、 決して「犬好き」というわけでもない男に最後まで読ませてしまったというところが、藤野千夜の手柄かな?
2009/6/4
「悼む人」 天童荒太 文藝春秋
どうやら人間であるらしいその影は、左膝を地面につきました。次に、右手を頭上に挙げ、空中に漂う何かを捕らえるようにして、 自分の胸へ運びます。左手を地面すれすれに下ろし、大地の息吹をすくうかのようにして胸へ運び、右手の上に重ねました。 横顔が見えるあたりへ回り込むと、その人物は目を閉じて、何かを唱えているらしく、唇が動いています。
「何をしているんですか」・・・
「いたませて、いただいていました」
「・・・、彼女のことをお聞かせ願えませんか。彼女は、誰に愛されていたでしょうか。誰を愛していたでしょう。 どんなことをして、人に感謝されたことがあったでしょうか」
その言葉を聞いたとたん、胸の奥にしまい込んでいた彼女の思い出があふれてきました。
若くして過労死してしまったかけがえのない親友の「命日におこなわれる一年祭への出席を忘れてしまった」ことで、 心に痛手を受け深く傷つくことになった「静人」は、新聞やラジオのニュースで得た事件や事故の情報をもとに、 全国各地の「人が死んだ場所を訪ねて歩く」という旅に出る。
「不審者」として警察に尋問され、「偽善者」として遺族からは罵られ、「宗教」と誤解されながらも、黙々と続けられる 「苦行」のようなこの旅に、いったい何の意味があるというのか?
「・・・覚えていられないか、と思ってる。なんとか覚えつづけていられないかって・・・」
本年度「直木賞」受賞作品。
すれっからしのルポライター「蒔野」、末期がんに侵されながら静人の帰りを待つ母親「巡子」、夫を殺し刑務所から出所したばかりの「倖世」、 物語は、そんな「静人」の「真意」を探ろうとする3人の視点から描かれていくことになるのだが、
「静人」のこの不可解な行動を、「洗い出そう」(蒔野)とし、「随き従おう」(倖世)とし、「見つめ直そう」(巡子)とした 3人のそれぞれの「旅」は、そしてもちろん、「読み解こう」とする、私たち読者一人一人の「旅」にとっても、
これはむしろ、「悼む人」から突き付けられた「愛とは何か」「死とは何か」という自分自身への「問い」への、 自分なりの「答え」を見出すための「旅」であったことに気付くことになるのだった。
彼のことを知りたいです。あのときもですけど・・・時間が経つごとにいっそう、彼のことをどう考えればいいのか、 わからなくなってきたのです。
彼はいまどこですか。何をしていますか。なぜあんなことをしていたのでしょう。いまもああした行為をつづけていますか。何が目的ですか。
<悼む人>は、誰ですか。
2009/6/4
「近くて遠い中国語」 阿辻哲次 中公新書
中国から労働組合関係の代表団が日本に来て、ある工場を見学していた。工場の壁に大きな字で「油断一秒、怪我一生」 と書かれた紙が貼られていた。それを見た中国代表団の1人がしきりに感心し、「日本の工業が大発展をとげた背景には、 こんなに厳格な個人の責任感が大きく作用していたのですね」と述べた。
中国語では「油が一秒でもとぎれたら、私を一生とがめてください」という意味にしか読めなかったのである。
本来「漢字」は「表意文字」なのだから、その文字の「字形」だけで、その「意味」を伝えることが可能である。たとえば「川」という字が 「かわ」を意味することを理解するのに、それを中国語ではどう発音するのかということを知る必要はないのである。
「漢字」が東アジア地域一帯の広い地域に伝播し、国際共通文字としての役割を発揮して、「漢字文化圏」とも呼ばれるべきものを 形成出来たのは、この「表意文字」であったという「漢字」の特性によることは間違いないが、 「ふだん口で話すことば」とは大きく異なった「書きことば」によって、様々な国の人々がまがりなりにも意志の疎通を果たすことができたのは、 そこに共通のスタイルとして、古代中国の規範的文体があったからであるということを忘れてはならない。
つまり「漢字」は「儒学」の伝播とともに、「漢文」という「文体」を通して伝わったのである。
第2次世界大戦後、東アジア各国ではアルファベット(朝鮮ではハングル)による「表音文字表記化」が進み、 「漢字」を読める人が激減していく中で、本家中国では逆に、「漢字」普及のための文字改革として、 「簡体字」による字形の簡略化が押し進められた。
もちろん、日本においても、「当用漢字」などの採用により、字形の簡略化と使用する字数の絞り込みが進められた。
さて、このような現実のなかで、はたして、「中国人と筆談は可能か?」
もしも、あなたが「漢文」にいささかの素養を持っておられるというのなら、いくらかの望みはあるだろう。
しかし逆に、現代の中国人は「漢文」をすらすら読めるのだろうか?
「あなたは『枕草子』が読めますか?」
古典文化に関する教育がこれほどまでに衰退している現状を目の当たりにしながら、それでも漢字を使っている日本人なら 中国語や漢文くらいはなんとでもなるだろう、という安易な発想が社会に蔓延していることを心底許しがたく思い、 それに対する警鐘をならしたいと思うだけである。
2009/6/3
「動的平衡」―生命はなぜそこに宿るのか― 福岡伸一 木楽舎
食べ物として摂取したタンパク質が、身体のどこかに届けられ、そこで不足するタンパク質を補う、 という考え方はあまりに素人的な生命観である。
それは生物をミクロな部品からなるプラモデルのように捉える、ある意味でナイーブすぎる機械論でもある。 生命はそのような単純な機械論をはるかに超えた、いわば動的な効果として存在しているのである。
コラーゲンを添加された食品をたくさん食べたところで、残念ながら衰えがちな肌の張りを取り戻すことはできない。 (ほかの健康・美容補助食品にしたところで、事情は同じである。) 食品として摂取されたコラーゲンは、消化管内でばらばらのアミノ酸に消化・吸収され、血液に乗って全身に散らばり、 そこで新しいタンパク質の合成材料となるが、それはほとんどの場合、コラーゲンにはならないからだ。
つまり生命活動とは、アミノ酸というアルファベットによる不断のアナグラム=並べ替えである、というのである。
新たなタンパク質の合成がある一方で、細胞は自分自身のタンパク質を常に分解して捨て去っている。 なぜ合成と分解を同時に行っているのか?この問いはある意味で愚問である。なぜなら、合成と分解との動的な平衡状態が 「生きている」ということであり、生命とはそのバランスの上に成り立つ「効果」であるからだ。
『もう牛を食べても安心か』
(文春新書)
『プリオン説はほんとうか?』
(講談社ブルー・バックス)
『生物と無生物のあいだ』
(講談社現代新書)
『できそこないの男たち』
(光文社新書)
と「新著」が発売されるたびに、新鮮な驚きを感じながらご紹介させていただいてきた「福岡センセ」の、今回の著作は、
<生命、自然、環境――そこで生起する、すべての現象の核心を解くキーワード>「動的平衡」論の集大成
かと思いきや、雑誌『ソトコト』に連載したものを加筆・再編集したものだったので、前著と重複する記述も多く、期待の大きさの割には、 いささか物足りない思いはあった。
むしろこの本から入って、その他の著作に進むのがわかりやすいのではないかという意味で、 これが「福岡」初体験という方にはお勧めの一冊なのである。
2009/6/1
「もしもあなたが猫だったら?」 竹内薫 中公新書
人間の世界には、三原色ってありますよね。一般的には、光の三原色と色の三原色があって、光の三原色だと赤・緑・青、 色の三原色だと青・赤・黄。どちらの三原色でも構わないんですけれど、問題は、「なぜ三つの組み合わせから、全部の色が作れるのか?」 ということなんです。
生物の進化の過程をたどると、恐竜や鳥の時代には網膜上にあって色を吸収する錐体細胞を四種類持っていたが、 哺乳類は恐竜の時代を生き延びるため夜行性となり、真ん中の二つの錐体細胞を失ってしまった。 最近になって、突然変異により錐体細胞が一つ復活し、人間は不完全な三原色の色の世界を持つことになった。 だから、鳥は今でも紫外線の領域も含めた四原色の世界を立体的に生きていることになるし、
「もしもあなたが猫だったら?」
今のあなたが見ているよりも、もっと色の区別のつかない世界に棲むことにはなるが、 「動いているものに反応する能力」と、「暗いところでもよく見える目」を持つことになるのである。
『99.9%は仮説』(光文社新書)
では、「思いこみで判断しないための考え方」を伝授しようとした「猫好きの科学作家」の、今回のテーマは「思考実験」。
「もしも重力がちょっぴりだけ強かったら?」
宇宙があまりにも重すぎると、自らの重力で潰れてしまう。逆に軽すぎると、どんどん広がっていってしまう。 だから、私たちの宇宙は「人類が快適に暮らせる環境に「ぴったり」の「ゴルディロックス・ゾーン」(三匹のくまさん)にあるというわけで、 この宇宙を作っている物理的な数字が、きわめて狭い範囲で微調整されていなかったなら、 我々のような生命体はありえなかったことになるのだが、
では、いったい「誰」がダイヤルを微調整したのだろうか?
「この宇宙は神様が作りました。」?
いえ、いえ。
マーチン・リースやスティーブン・ホーキングは、「無数の並行宇宙があるかもしれない」と言うんです。そして、それらの宇宙は全部、 ダイヤルが違っている、と。
つまり、無数にある宇宙の可能性(「マルチパース仮説」)のなかに、「たまたま」私たちがいるような宇宙も存在していたというのである。 そこに「宇宙」が存在したから「私たち」が生まれたのではなくて、「私たち」(という知的生命体)が生まれたからこそ、 そんな「宇宙」が存在することが認識されたということだろうか。
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