“Between a high, solid wall and an egg that breaks against it.
I will always stand on the side of the egg.”
もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。
(『僕はなぜエルサレムに行ったのか』文藝春秋)
というのは、イスラエル最高の文学賞「エルサレム賞」に選ばれた、作家の村上春樹さん(60)が、
イスラエル国軍のパレスチナ自治区ガザ攻撃で約1300人の死者が出た直後という「微妙な」時期に、
受賞辞退を求める多くの識者の声を押し切って、エルサレム市の授賞式に出席して語った、「確信」に満ちたスピーチの一節です。
これはもちろん、「イスラエル国軍」が「壁」で、「非武装市民」は「卵」である、という単純明快なメタファーでもありますが、 しかしそれだけではありません。そこにはより深い意味もあります。こう考えてみて下さい。
我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにひとつの卵なのだと。かけがえのないひとつの魂と、それをくるむ脆い殻を持った卵なのだと。
そして、我々はみな、本来は我々を護るべきはずの、「システム」という硬い大きな壁に直面しているのだというのです。
そしてこの、父親の葬儀で挨拶したら、叔父さんから「お前はやっぱり書くことに集中したほうがいいよ」と言われたという、
「口べた」の作家は、今年、日本人が世界に向けて発信したものとしては、もっとも重大なものとなるであろう、
この誠実なメッセージの最後を、次のように締めくくったのでした。 考えてみて下さい。我々の一人一人には手に取ることのできる、生きた魂があります。システムにはそれはありません。
システムに我々を利用させてはなりません。システムを独り立ちさせてはなりません。システムが我々を作ったのではありません。
我々がシステムを作ったのです。
というわけで、快晴の「立山黒部アルペンルート」、有名な「雪の大谷」のウォークラリーに出掛けてきたのですが、
お昼時で超満員だったので、私たち夫婦は、見はるかす雪原にシートを広げて、持参のおにぎりを食べることにしたのでした。
「もしここに白い大きな壁があり、そこにぶつかって割れるゆで卵があったとしたら、私は常にゆで卵の殻を剥きます。」
(『僕はなぜ雪の大谷に行ったのか』暇人肥満児)