徒然読書日記200901
サーチ:
すべての商品
和書
洋書
エレクトロニクス
ホーム&キッチン
音楽
DVD
ビデオ
ソフトウェア
TVゲーム
キーワード:
ご紹介した本の詳細を知りたい方は
題名をコピー、ペーストして
を押してください。
2009/1/21
「蓮池流韓国語入門」 蓮池薫 文春新書
自分を拉致していった国の言葉など最初はとても勉強する気になれなかった。だが、招待所に閉じ込められるなか、 時間をもてあますようになった。これから自分の運命がどうなるのかという不安と恐怖も付きまとっていた。 一体、北朝鮮という国はどんな国であり、何を考えているのか?今、自分はどういう立場におかれており、これから自分の運命はどうなっていくのか。 それを知るためにも、韓国語を学ぶ必要があると思い始めた。こうして韓国語の勉強が始まった。
与えられた教材は、最初は「日・韓・米・中4カ国語会話ブック」という薄っぺらいパンフ1冊だけ。
次に与えられたのが「金日成著作選集」の日本語版と韓国語版。(政治教育兼用)
ようやく手元に届いた金日成総合大学の留学生用の教科書を開いてみれば、それはすべて韓国語で書かれており、
アメリカ兵が勇敢な北朝鮮兵士によってやっつけられるという「戦闘談」らしきものが挿絵を交えて次々に出てくるのを見ると、 とたんに気が重くなってしまった。
決してよいとは言えない「学習環境」のなか、「結果的に1年もしないうちに、大体のことは読み、書き、聞き、言うことができるようになっていた。」 のは、「日本語と韓国語に共通点が多い」からだと、蓮池さんは言う。
なにしろ、日本語と韓国語は「語順」と「助詞」が同じなのである。
「私 は 母 が 作った 料理 を 食べました。」
と、外国語で言いたければ、
(私 食べた 料理 母 作った)
と、英語のように「語順」を入れ替えなければならない場合がほとんどなのだが、
<ナ ヌン オモニ ガ マンドゥン ヨリ ルル モゴッスムニダ>
と、韓国語の場合は「語順」はそのままで、対応する単語だけを入れ替えていけばいいのである。
この他にも、日本語と韓国語には「省略表現」「こそあど」「敬語表現」などに共通性がある。
さらに、韓国では現在「漢字表記」はせず、すべてが「ハングル」で書かれるようになってはいるが、元になっている「漢語」には、 単語として日本語と共通するものが多いため、「韓国語音から日本語を推測してみる」という習慣をつけることにより、 一気に語彙を増やすことが可能になる。
たとえハングルで書いてあっても、<サフェ>が「社会」で、<フェウォン>が「会員」であることを知っていれば、 <フェサウォン>は「会社員」であると、頭の中に漢字を思い描いて類推することができる、というのが、「蓮池流韓国語入門」の極意なのだった。
とはいえ、この本の大半を占める「実践編」は、微に入り細を穿つような「韓国語文法」の解説書のようで、 ハングルを読めない人にはおそらくチンプンカンプンの代物なのだが、
それにしても、あの「金正日」ですら、ひょっとしたら知らないのではないかと思われるようなことまで、蓮池さんはなぜ学ばねばならなかったのか?
それはおそらく、「蓮池薫」は「金正日」とは違って、
ハングルを覚えずに生きてはいけなかった。
からなのではないかと思われるのである。
2009/1/15
「告白」 湊かなえ 双葉社
愛美は事故で死んだのではなく、このクラスの生徒に殺されたからです。
事故死だと思われていた4歳の娘が、実は自分のクラスの生徒に殺害されたことを知ったシングルマザーの高校女教師は、 奇想天外のやり方で自分なりの復讐を果たしたことを全生徒の前で「告白」する。
小説推理新人賞を受賞した短編、第1章「聖職者」。
「殺意はあったけれど直接手を下したわけではない」少年Aと、「殺意はなかったけれど直接手を下すことになった」少年Bの、 復讐を受けた後の顛末を、同級生の少女の目で描いた続編、第2章「殉教者」。
少年Bが壊れていく姿を、外に出てしまった大学生の姉の立場で、(実際には、最愛の息子に殺されてしまうことになった母の目で、) 母の遺した日記という形で描いた完結編、第3章「慈愛者」。
第2章、第3章は、ひょっとしたら、第1章が書かれた時点では構想すらされていなかったのではないかと思われるが、 視点の移動が洒落ているし、ストーリーの持って行きかたとしてもよく練られていると思う。
ここでやめておけばよかった、のではないだろうか?
今回「長編デビュー」するにあたり「書き下ろし」て付け加えられた、少年Bが「告白」する第4章「求道者」、 少年Aが「告白」する第5章「信奉者」は、第1章の「短編」としての解釈に「ふくらみ」をもたらすというよりは、 むしろ「狭めて」しまっているようだし、
高校女教師が再登場して「落とし前」をつける第6章「伝道者」では、なんとか話をまとめようとする「ご都合主義」の底の浅さが露呈して、 第1章で折角編み出して見せた「復讐」の切れ味を、自分で台無しにしてしまったようなのである。
そのあたりのことは、著者もわかってやっているように思えなくもないけれど・・・
馬鹿ですか?ラブレターの中には、散々、馬鹿という言葉が使われていました。あなたはいったい自分を何様だと思っているのでしょう。 あなたがいったい何を生み出し、あなたが馬鹿と言いながら見下す人たちに、何の恩恵を与えているというのですか?
2009/1/9
「出星前夜」 飯嶋和一 小学館
七百もの群衆を目の前にしても、痩せて小柄な影は少しの気後れも見せず、説教台の上から両手を挙げて聖歌を止めた。 右手にはロザリオが握られていた。
「ジェロニモ益田四郎である。『降誕祭』を一月後にひかえたこの日、上津浦に集われし方々へ申し上げる。 今こそ、主が仰せられたことを思い出されよ。『わたしが門である』」
「天草四郎」に先導され、幕府に弾圧されたキリシタンが立ち上がったとされる「島原の乱」は、 実は、不在領主による信じられぬほどに不当な年貢取り立てという、過酷な搾取に苦しみながら耐え続けてきた農民たちの、 追い詰められた果ての一揆でもあった。
第35回「大佛次郎賞」受賞作品。
前作
『黄金旅風』
で完膚無きまでにやられてしまった者としては、 次回作を待つこと実に4年、待ちにまった感のあるこの作品は、
「島原の乱」に題材を取りながらも天草四郎はあくまで脇役として、
「海の民である島原の人々が築いてきた土地の歴史を一方的な検地などで踏みつぶし、等しく農民としようとした権力への戦い」
とし、そうした荒波に翻弄され苦悩しながら、自らの誇りを貫き通そうとした二人の男の生きざまを通して描き直した、骨太の快作なのであれば、 待った甲斐もあったというものなのである。
村人たちからは「裏切り者」と蔑まれながら、圧政に耐えることを選んだ有家村庄屋・甚右衛門は、村人たちの蜂起が避けられぬとなるや、 陣頭に立って戦うことを決意し、かつての有馬家の重臣・鬼塚監物として、知略の限りを尽くすことになる。
常に幼き者たちが真っ先に失政の犠牲となることに疑問を感じ、若者たちの先導役となって蜂起の口火を切った異貌の混血児・矢矩鍬之介は、 蜂起に成功したとたんに単なる暴徒と化してしまった仲間たちの姿に失望を通り越した怒りを覚え、 医者・寿安として病者を救う道に進むことになるのだった。
幼い頃は耐えがたいものを感じていた呼び名は、いつの間にか少しの抵抗も感じられなくなっていた。蜂起でも、傷寒でも、赤斑瘡でも、 多くの生命が目の前で消えて行った。死こそが実は永遠の本源であり、生は一瞬のまばゆい流れ星のようなものに思われた。 その光芒がいかにはかなくとも、限りなくいとおしいものに思えた。
2009/1/6
「アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない」 町山智浩 文芸春秋
「今まで世界大戦は何回あった?」
「三回?」
第二次世界大戦を経験している老人の答えだ。
「ヒロシマ、ナガサキといえば?」
「ジュードー?」
「ベトナム戦争でアメリカは勝った?負けた?」
「え?もちろん私たちの勝ちでしょ!・・・ベトナム戦争ってアメリカがしたんだっけ?」
これはもちろん「ヤラセ」や「仕込み」などではなく、答えているのも小学生やチンピラではない。「きちんとした服装」の道行くアメリカ人に、 小学生レベルの質問をぶつける、というテレビ番組のワンシーンだというのである。
(もっとも、どこかの国にも「羞恥心」とかいうグループがいたりして、お正月のテレビでは「いかに物を知らないか」 を競い合うクイズ番組が花盛りではあったが・・・)
アメリカ人が知らないのは、なにも戦争や外交だけではなく、自分たちの生活ですらよくわかっていないらしい。 「18歳から34歳のアメリカ人で新聞を読むのは3割に満たない」し、基本的に全国紙ではなく、 地元のことしか書いていないローカル紙しか読まないというのだ。
(もっとも、某有名国立大学の学生でも、朝日新聞は受験までしか読んでいないらしいが・・・と、いちいち日本の話を引き合いに出すのはやめよう。)
アメリカ人がこれほど無知なのは、「無知こそ善」とする思想「反知性主義」があるからだ、と著者は指摘する。 たとえば反知性主義のひとつ「キリスト教福音主義」においては、「聖書以外の本は読まない」ことは誇りであり、 「聖書を一字一句信じてその通りに生きんとする」、そんな「福音派」が、アメリカの全人口の3割を占めているというのである。
それが強力な「票田」になることに気付いた共和党は、「伝統的モラルへの回帰」を掲げて大統領選挙を戦い始めた。
「ゲイ同士の結婚の禁止」
「絶対禁欲性教育と中絶の禁止」が錦の御旗?
「ニュースを知らない人たち」
「外国に興味のない人たち」
「アメリカ人の無知」こそが、2004年の大統領選挙でブッシュが再選された理由の一つだったのだ。
「無茶な戦争」
「デタラメな政策」
「メルトダウンする経済」
「右翼メディアの暴走」
「教育の崩壊」
しかし、こんなアメリカの「笑うしかない現実」をとことん紹介してくれる、 こんな素晴らしい本がちゃんと発信されてくるというのもまた、確かにアメリカの「笑うべからざる現実」なのである。
「リベラルの人たちはハンディキャップのある人が努力して社会で成功するのを称賛しているわ。だったら、ブッシュのことも認めるべきよ。 彼は知的障害にもかかわらず、大統領にまでなったんだもの」 (『民主党支持者に少しでも脳ミソがあれば共和党員になってるはずよ』アン・コールター)
2009/1/4
「中国名言集 一日一言」 井波律子 岩波書店
『千里の行は足下に始まる』とは、
すべては小さな積み重ねから始まるが、だからといって無理する必要はなく、自然体で対処するのがよい
という脈絡で述べられた、道家思想の祖「老子」の言葉です。
「孔子を祖とする儒家思想は、教養を高め社会的に有益な存在となることを重視する。 これに対して、道家思想はあるがままに、のびやかに生きよと説く。」
とはいうものの、これは「1月4日」の「一言」てとして取り上げられているので、 へこたれた年末を何とかクリアして、新たな年を「気分一新」で迎えた、ほろ酔い気分の親父にとっては、
「そうだ。何事も「まずは一歩」を踏み出さなければ始まらない。」
と、萎えた心を奮い立たせてくれるような「一言」であるような気にもなろうというものなのです。
というわけで、よく知られた極め付きの名言に加え、隠れた名言や、人生や人の世の機微を鮮やかに映しだす俗諺をもとりあげた、
『中国名言集 一日一言』
を、まさに「一日一言」ずつ、昨年一年かけて読み終えたのですが、
「ときに叡智の結晶した言葉の重みに蕭然とし、ときに寸鉄人を刺す言葉の切れ味に感嘆し、ときに洒脱なユーモア感覚あふれる言葉の面白さに哄笑し、 ときに鮮やかに世界を凝縮した詩句に心を酔わせるというふうに、さまざまなニュアンスに富む多種多様の名言」
を、その折々のさまざまな「気分」のなかで味わうというのは、なかなかに趣のある読書体験ではありました。
なんたって、同じ「一文」を次に読むときには、別の「気分」で読むことになり、また違った味わいを楽しむことができるというのが「優れ物」。
え?
同じ本を「もう一回」読むのか、ですって?
どうぞご心配なく。
一年前に読んだことなど、すっかり忘れてしまっている、というところが「優れ物」の優れ物たる由縁なのでありました。
先頭へ
前ページに戻る