徒然読書日記200811
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2008/11/25
「火を熾す」 Jロンドン スイッチ・パブリッシング
膝ががくがく震え、疲れのあまり目からは涙が出ていた。吐き気に目もくらむなか、リベラの眼前で、憎い顔たちが前後に揺れた。 それから彼は、顔たちが銃であることを思い出した。銃はみな彼のものだった。これで革命は続行できるのだ。(『メキシコ人』)
零下60度という厳寒の荒野を、犬一頭をのみを連れて踏破しようとした男が陥った「本物の寒さ」という窮地(『火を熾す』)もあれば、
食べる物もなく、くじいた足を引きずりながら、「寒さと飢え」の中ただひたすら「目的地」目指して歩き続けることを余儀なくされた男 (『生への執着』)もいる。
「凍えるっていうのは案外悪くない」という心境に至るか、「これだけ頑張った末に死ぬなんて筋が通らない」と目覚めるのか、 「死」という巨大な理不尽にがっちり捉えられてしまった中で、彼らがどちらに転ぶかは、まさに「紙一重」なのだった。
長編小説『野性の呼び声』で著名なロンドンではあるが、
内容的にも、生きることを――相手が過酷な自然であれ、ボクシングの対戦相手であれ、内なる他者であれ―― 基本的にひとつの長い苦闘と捉えていたロンドンの人生観が、凝縮された、かつ一本一本異なった多様な形で表現された媒体として、 短編小説がひときわ重要であるのは疑いのないところだろう。
という訳者・柴田元幸のあとがきにもあるように、 SF風味の才気を感じさせる『影と閃光』『世界が若かったとき』や、「楢山節考」に通じる自然の摂理を描いた『生の掟』など、 「一本一本の質を最優先するとともに、作風の多様性も伝わるよう」厳選された9本が、大満足の1冊に仕上がっている。
なかでも、
「革命に身を捧げる」ための「資金稼ぎ」に励む、若いメキシコ人ボクサーの、不公平この上ない激闘に憎悪で立ち向かった後の、 勝利の「苦さ」に酔った後では、
今は1枚のステーキすら腹に収めることもできない、落ちぶれた老ボクサーが、かつての栄光を取り戻さんと挑んだ死闘の末の、 惨めな敗北の「酸っぱさ」が、胸に堪えるのだった。
腹の底の空腹の震えが、彼を呪わしく苛んだ。みじめな気分に打ちのめされて、両目が濡れてきた。そんなことは初めてだった。 キングは両手で顔を覆って泣いた。泣きながらストーシャー・ビルを思い出し、ずっと昔のあの夜にビルが自分に仕えたことを思い出した。 哀れなストーシャー・ビル!更衣室でビルが泣いたわけが、今の彼にはわかった。(『一枚のステーキ』)
2008/11/24
「嘘発見器よ永遠なれ」 Kオールダー 早川書房
文化のちがいが表れるのは、嘘にどう対処するかであり、そのような嘘を批判し、どのような制度を作って嘘を暴くかである。 嘘を暴くために科学技術に目を向けたのはアメリカだけである。ポリグラフは医療技術を利用した平凡な機械にすぎず、 使われている生理学機械はどの先進国でも一世紀前から入手できた。にもかかわらず、それに尋問という新たな目的を与えた国は アメリカ以外にない。
「嘘発見器」とは、それ自体は尋問に対する被験者の生理的反応、脈拍数、血圧、呼吸の深度、発汗量などを測定する、ごく単純な装置にすぎない。 つまりそれは、むしろ「尋問の技術」なのであり、被験者が「真実を言っているかどうか」を確かめるものではなく、 「真実を言っていると思っているかどうか」を確かめるためのものなのだ。
ということは、
「嘘をついても見破られてしまう」と被験者が信じてくれないかぎり、「嘘発見器は正直者と嘘つきを区別できない」ことになるのだが、 そんなことぐらい、嘘発見器の発明者たちは、当の昔に承知していた。
「にもかかわらず、なぜアメリカは――そしてアメリカだけが――嘘発見器を大々的に使い続けているのだろうか。」
(とはいうものの、日本版のまえがきを読むと、日本も「機械の力で真実を見極めようとする」アメリカと同じ道をたどろうとした国 とされてはいるのだが・・・)
最初の実用的な「嘘発見器」を生み出したのは、アメリカ初の博士号を持つ警官、というジョン・ラーソンだったが、 ラーソンの機械の虜となり、特許を取得した「キーラー・ポリグラフ」をアメリカの嘘発見器の代名詞に育て上げた、 尋問技術の天才、レナード・キーラーが出現したことにより、
皮肉なことにラーソンは、自らが生み出した「機械」が、フランケンシュタインの「怪物」へと成長していくことに惧れを抱き、 自分が作った「被造物」を葬り去ることに、残りの人生を捧げることになった。
あまりにも「誠実」なるが故の「厳格さ」が、対人関係を破壊して、自らを追い込んでしまうラーソンと、 目的のためなら手段を選ばぬ華やかな「野心」が、その輝くばかりの「魅力」を失ったときの落差に、身を滅ぼしてしまうキーラー。
「嘘発見器」を間に挟んで、師弟関係にありながらお互いを「憎悪」しあう、二人の人生を翻弄するかのように、 結局、最後まで生き永らえたのは、彼らが「生み出し」、「育て上げ」てきた「怪物」の方だったのである。
われわれがなぜ嘘発見器を信じるかというと、いくつも大層な理由があげられる。われわれは迅速、確実、人道的な裁きを望む。 精神がなんらかの形で肉体に表れないとは想像できない。科学は現世の事物を包んでいるベールを見透かすことができる。 しかし、こういった理由はみな、しょせん言いわけにすぎないのかもしれない。 それがモモスの窓をのぞき見る機会を提供してくれると思っているからこそ、わえわれは嘘発見器を信じている。 中をのぞいたら何が見えるのか?この誘惑に駆られるからこそ、われわれは――正統派の科学がなんと言おうと――嘘発見器を信じている。
2008/11/19
「悩む力」 姜尚中 集英社新書
漱石とウェーバーは、「個人」の時代の始まりのとき、時代に乗りながらも、同時に流されず、 それぞれの「悩む力」を振り絞って近代という時代が差し出した問題に向きあいました。 彼らの半世紀に及ぶ生涯には、「苦悩する人間」のしるしが刻みこまれています。そんな彼らをヒントに、 また、私自身の経験や考え方も交えながら、「悩む力」について考えてみたいと思います。
「在日」としてのアイデンティティの問題から、立脚点が定まらないまま30歳近くまで「悶々としていた」という著者は、
「私」とは何者か(第1章)という問いを、「私が人生に対して問いかけると言うよりも、人生から私が問いかけられている」のだと、 『まじめに悩む』ことによって、
「自我の悩みの底を『まじめ』に掘って、掘って、堀り進んでいけば、その先にある、他者と出会える場所までたどり着ける」
という突破口を手にしたようだ。
その後、著者は気鋭の政治学者として花開くことになるわけだが、そんな人生の中で体験することとなった幾多の悩み、
「お金」の悩み(世の中すべて「金」なのか)、
「知性」の悩み(「知ってるつもり」じゃないか)、
「若さ」の悩み(「青春」は美しいか)、
「心」の悩み(「信じる者」は救われるか)、
「労働」の悩み(何のために「働く」のか)、
「死」の悩み(なぜ死んではいけないか)、
も、どうやら『まじめに悩む』ことによって、乗り越えることができたらしいのである。
たとえば、
「愛」の悩み(「変わらぬ愛」はあるか)であれば、
結局、愛というのは、ある個人とある個人の間に展開される「絶えざるパフォーマンスの所産」の謂なのであって、 どちらかが何かの働きかけをし、相手がそれに応えようとする限り、そのときそのときで愛は成立しているのだし、 その意欲がある限り、愛は続いているのです。
ことほど左様に、『まじめに愛する』というのは、結構疲れるもののようなのである。
自らが57歳となり、「人生の先達」、漱石(50歳)とウェーバー(56歳)の没年齢を超えてしまったため、 「老い」の悩み(老いて「最強」たれ)に対する解決策は、著者の独断であるというが、
若い人には大いに悩んでほしいと思います。そして、悩みつづけて、悩みの果てに突き抜けたら、横着になってほしい。 そんな新しい破壊力がないと、いまの日本は変わらないし、未来も明るくない、と思うのです。
という、自身は「悩み」を突き抜けたらしい著者から贈られるエールには、「無敵」の潔さを感じることができるのだった。
え?
漱石も、ウェーバーも読んでないから、私には無理だって?
何も心配することはない。
ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか
ニ、ニ、ニーチェかサルトルか
みーんな悩んで大きくなった。
(仲畑貴志)
のである。
2008/11/14
「インターセックス」 帚木蓬生 集英社
インターセックスとは、文字どおり男性と女性の中間に位置するさまざまな性を意味します。人間の性は原始の時代から、 男と女の二つに分類されてきました。宗教の世界でもこの二分法は変わらず、旧約聖書ではアダムとイブから人間の歴史が始まっています。 しかし、男と女に二分する方法は、全くの観念的なもので、自然界の現実を反映していないのです。
@性染色体がXO、XXX、XXYなどで、XX(女性)かXY(男性)のどちらにも属さないもの。
AAIS(アンドロゲン不感受性症候群)。性染色体はXYだが、成長過程でアンドロゲンの影響を受けず、外見は女性化。
BCAH(先天性副腎過形成)。性染色体はXXだが、胎生期にアンドロゲンが過剰生産され、外見は男性化。
C膣無形成。性染色体はXXだが、膣がなく、かといって陰茎もない。外見は普通の女性。
D真性半陰陽。卵巣組織と精巣組織の両方をもち、外見でも男女の特徴を併せ持つ。
おおよそ5つのタイプに分けられる、こうした「インターセックス」の発現率は「100人に1.5人」、 日本でも毎年千人弱は誕生しているはずという、彼(彼女)らの存在が、それにもかかわらずほとんど表に現れてこないのは、 まだ幼いうちに(本人の同意なしに)、両親と医者が「曖昧な局所」を男女どちらかに無理やり近づけようとすることと、 その事実を「死ぬまで隠し続ける人」が大部分であるからというのだった。
(いわゆる「性同一性障害」における「性転換手術」は本人の意志によるという点で、これと区別する必要があるという。)
もちろん、これは「ミステリー」なのだから、
「外見的な性別を強制的に決めて、これに従って生きていきなさいというのは、本来の医療ではない」 という信念をもつ美貌の泌尿婦人科医・秋野翔子が、
「子供を諦めていた夫婦に子供を授け、難産だと懸念していた夫婦に無事赤ん坊を授け、生まれた赤ちゃんの成長を目のあたりにする」 ことを医師冥利につきると考える、生殖と移植に関しては<神の手を持つ名医>岸川卓也が作り上げた、
「産婦人科を中心に置き、そのまわりに、小児科や小児外科、脳外科、泌尿器科、皮膚科などを配置して、自然に総合病院の体裁を整えてきた」 理想の病院・サンビーチ病院にヘッドハンティングされ、
「性差医療」や「インターセックス」の問題に取り組むうちに、サンビーチ病院で亡くなった旧友の死にまつわる「謎」の真相に迫っていく。
わけなのだが、
これを「ミステリー」として読むには「伏線」があまりにも正直すぎて、いささか興醒めの部分もある。
ここのところは是非とも、
「人工授精」や「臓器移植」などの「医療ビジネス」の問題や、「性差医療」と「インターセックス」といった「医と倫理」の問題など、 興味津々の話題がてんこ盛りの「医療をめぐるサスペンス」として、お楽しみいただきたいと思う。
「事実は小説よりも奇なり」なのである。
2008/11/12
「ドキュメント死刑囚」 篠田博之 ちくま新書
今まで数々の金品の差し入れ本当にありがとうございました。JRか近鉄かで、わざわざ何回も大阪へ足を運ばれたあなたを よく想像していました。座席に座れたかな、立っているんじゃないだろうか。風景を見ながら来られるのかな、 それとも雑誌を見ながら来られるのかなといろいろ想像しておりました。
「連続幼女誘拐殺人事件」の宮崎勤。
(89年逮捕、06年死刑確定、08年6月死刑執行)
「奈良市女児誘拐殺人事件」の小林薫。
(04年逮捕、06年死刑確定)
「大阪・池田小児童殺傷事件」の宅間守。
(01年逮捕、03年死刑確定、04年9月死刑執行)
いずれも、力の弱い子どもを犯行の対象にし、精神鑑定で「反社会性人格障害」と診断された彼らは、 裁判では被害者・遺族に対して謝罪の言葉を一切口にすることがなかったばかりか、むしろ積極的に死刑になることを希望すらしていた。
それ以外に、彼らに共通していたのは、3人とも親、特に父親を激しく憎悪していたという事実だった。
3人とも社会から疎外され、社会とコミュニケーションを保てなかった人物だが、彼らにとって家庭とは、 家族とはいったい何だったのだろうか。彼らと接触しながら、私は何度もそのことに思いをはせるようになった。
「お父さんはどうして悪者の味方なの?」
という小学生の息子の素朴な疑問を背中に背負いながら、社会の規範から逸脱してしまった重大事件の犯人たちとの 直接、間接の交流を続けてきた、これは月刊誌「創」編集長の手になる迫真のルポなのである。
もともと世の中がいやになって死にたいと言っていた人間に、死刑を執行したところで、それが罪を償うことになるのか大いに疑問なのだ。 ましてや宅間守のケースのように、社会に復讐するために死を覚悟して事件を起こした人間に死刑を宣告することは、 処罰になっていないような気がするのである。
それは「ほとんど思考停止というべきではないか。」という著者の訴えは、確かに重く受け止めねばならないだろう。
さて、ここからはまったくの余談なのだが、
宅間守の事件には、子どもを持つ親として、被害者の立場に立って「衝撃」を受けた人が多いことは言うまでもないが、 『自分も一歩間違えれば宅間守になっていたかもしれない』と、加害者の側に自分を投影して「共感」を寄せた人も結構多かったらしく、 宅間守が、自らの死刑が確定してから「獄中結婚」したことは世間を驚かせたわけだが、実は結婚を望んだ女性は2人もいた、
などという話を聞いてしまうと、
ワシを下げすむな、ワシをアホにするな。
おまえらに言われたない、おまえらに思われたない、お前らの人生よりワシの方が勝ちや。
処女と20人以上やった事、おまえらにあるか?
ホテトル嬢50人以上とケツの穴セックス、おまえらやった事あるか?医者のねるとんパーティに行って、ベッピンの女、数人とオメコやった事、 おまえらにあるか?歩いている女、スパッとナイフで顔を切って逃げた事あるか?ワシは、全部、全部、 おまえら雑民の二生分も三生分もいやそれ以上の思いも、事もやったのや。おまえら雑民の人生なんかやるより、大量殺人やって、 死刑になる方がええんや。
というのが、この人の持って生まれた「性」なんだろうと思ってしまう。
なんたって、冒頭に引いたのが、宅間との結婚を望んで果たせなかったもう一人の女性に書かれた、宅間守からの手紙なのである。
これはほとんど「結婚詐欺師」の手管ではないか?
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