徒然読書日記200810
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2008/10/31
「世界の測量」―ガウスとフンボルトの物語― Dケールマン 三修社
何をおっしゃいますか、とフンボルトはどなった。では科学とは何なのです?
ガウスはパイプの煙を吸い込んだ。男性がひとり、書き物机に向かっている。前には一枚の紙があり、あとはせいぜい望遠鏡があるだけです。 窓の向こうには澄んだ空がある。彼が何かを理解するまであきらめないとすれば、それが科学かもしれませんな。
その男性が旅行をするとしたら?
ガウスは肩をすくめた。遠く離れた場所にある裂け目や火山、あるいは鉱山などに何が隠れていようが、それは偶然であって重要なものではない。 世界がそのぶんだけ明快になるわけでもないでしょう。
「世界をそのぶんだけ明快に」せんがため、探検家として世界中の未踏の地へ出かけていったのは、
「近代地理学の祖」アレキサンダー・フォン・フンボルト
「言葉を口にするよりも前に計算ができた」という逸話を持ち、あらゆる事象の背後に潜む因果関係を思考で解き明かそうとしたのは、
「数学の王」カール・フリードリヒ・ガウス
ドイツが生んだこの二人の大天才は、1827年、ベルリンで開催されるドイツ自然科学者会議に、フンボルトがガウスを誘ったことで、 初めて出会うことになる。時に、フンボルト58歳、ガウス50歳、すでに功成り名を遂げ、老境に入っていたお互いの「半生」を貫くテーマは、 奇しくも「世界の測量」。
しかし、
「一万以上のデータを集めてきた」と、あらゆるものを蒐集し、統計を取ろうとする(村の女の編まれた毛髪のなかに生息するシラミの数まで) 無類の「行動派」と、
「ただ足を引きずって歩けばよいというものではない。」と、どんな時にもひたすら考え抜こうとし、その結果を書きとめておかずにはいられない (新婚初夜の行為の最中に思いついた惑星軌道計算の修正方法まで)偏屈な「頭脳派」であれば、
互いの精密な「測量」の結果として、そこに描き出された「世界像」には、おのずとして大きなズレが生じて来るのだった。
これが「小説」なのである。しかも、ドイツ国内では発売以来130週以上にわたってベストセラーに入り、120万部を売り上げ、 「ダ・ヴィンチ・コード」や「ハリーポッター」を抑えて「2006年・世界のベストセラー」第2位にランクされた、 などと聞くと、いささか驚いてしまうのだ。
いや、確かに面白い本ではあるのだが、「科学」にテーマをとった小説をベストセラーにしてしまう、ドイツという国が、という意味である。
さしずめ、日本でいえば、『伊能忠敬と関孝和』
あ、確かに、日本人なら読みたくなるかも・・・(伊能忠敬は井上ひさしがもう書いたけど)
たとえば私たちは23週間旅行を続け、1万45百ペルスタの距離を進み、658の郵便馬車の駅を訪れた。ここで一瞬、彼は間を置いた。 そして、1万2224頭の馬を使用したことを考えてみれば、混沌が整理されて理解可能な状態になり、勇気が得られるのだ。 しかし、ベルリン郊外の最初の集落が飛ぶように過ぎていき、ガウスはいまこの瞬間も望遠鏡で天体を見ているだろう、 そしてその軌道を単純な公式で把握できるのだろうと考えたとき、もはやフンボルトには、ガウスと自分のどちらが旅をしてきた者であり、 どちらがずっと家にいたのかわからなくなっていた。
2008/10/29
「<勝負脳>の鍛え方」 林成之 講談社現代新書
バッターは、ピッチャーが投球動作をしている段階から、ボールが手元にくるまでの軌道をイメージ記憶をもとに予測して、 バットを振るのです。だから、時速150キロ以上の豪速球でも打つことが可能になるのです。
脳がボールを見て「打て」と体に命令してから、実際にスイングを完了するまでの時間(0.5秒)より、 ほんの少しだけボールが到達する時間のほうが短い(0.45秒)ので、コーチが言うように「ボールをよく見て」打っていたのでは、 振り遅れてしまうことになるのである。
「バッティングの達人とは、過去に成功したときのイメージ記憶を膨大に蓄え、 それをあらゆるボールに対して当てはめることができる人のことです。」
脳死寸前の患者の生命を救った「脳低温療法」により、世界にその名を知られることになった脳外科医が、 今度はなんと北京オリンピック日本選手団を相手に講義したという「勝負の勝ち方」の処方箋。
それは、
@目的と目標を明確にする。
A目標達成の具体的な方法を明らかにする。
B目的を達成するまで、その実行を中止しない。
という、「サイコサイバネティックス」理論の応用から始まって、
(パッティングではカップインではなくボールの転がり方をイメージせよ)
「最初から百パーセント集中せよ」
(イチローは初球のヒットが多い)
「相手の攻撃は最大のチャンス」
(明日のジョーのクロスカウンターねらい)
「相手の長所を打ち砕け」
(弱点を攻めて勝っても一流にはなれない)
「相手の立場になって勝ち方のイメージをつくれ」
(マラソンはわざと抜かせて抜き返せ)
などなど、その多くは「こんな簡単なことなら言われなくてもわかっている」というもののようでいて、 これがなかなかに侮れない指摘となっているのだ。
とはいうものの、それはもっぱら、その一つ一つの指摘に、最新の「脳科学」の理論的裏付けがあるような気がするから、なのかもしれない。
何たって、あの北島康介も絶賛しているわけだし。
人間はある刺激や情報を感知すると、それに対して外界に反応する(外意識)一方で、脳の内側にもそれらの刺激や情報を送り込む(内意識)。 (中略)
私はこのように推論しました。
ドーパミン系神経は、意識(内意識)によってもたらされる刺激や情報によって、何かを思ったり感じたりするという働きをしている。 人間の「心」と呼ばれるものは、このとき発生しているのであり、具体的には、脳の中の海馬回をはじめとするドーパミン系神経群が 「心」の生まれる場所なのだと。
もうひとつ重要なことがあります。海馬回は「記憶」を司る場所でもあるということです。つまり、人間の「意識」「心」「記憶」は、 海馬回でつながっていて、それぞれが連動しながら機能していると考えることができるのです。(「モジュレーター理論」)
2008/10/22
「金正日の正体」 重村智計 講談社現代新書
金正日総書記に面会した人々によると、金正日総書記は「女性のようにかわいかった」という。握手した手は、とても柔らかかった。 また、顔つきも「ぽっちゃり」していた。「肌も女性のように美しかった」。147頁の写真を見ていただきたい。この証言の通りではないか。
金正日にはダブル(影武者)が4人おり、そのうち2人はそっくりだが、後の2人はそれほど似ていない。 だいいち「二人のうち一人は女性だ」というのである。
とはいえ、金正日に影武者がいたところで、それは、それほど驚くほどのことではないだろう。
1992年、人民軍創建60周年記念パレードにおいて、金日成、金正日親子暗殺計画というクーデター未遂事件が発覚し、 それ以来、金正日は「暗殺」を極端に警戒するようになったと言われているわけだし、実際に、
「アメリカのスパイ衛星の画像分析の結果、金正日の身長が2.5センチ伸びている。」
「韓国の映画監督が自らが拉致された証拠として持ち帰った金正日との対話の録音テープと、韓国マスコミ向け記者会見の声を比較すると、 声紋が違う。」
など、影武者が現実に存在し、「将軍様」を装っているのではないかと疑われる証言は、枚挙にいとまがないくらいなのである。しかし、
「ここ数年の北朝鮮首脳部の政策は、決定の速度が遅く、一度下した決定が覆されることも多く、まるで集団指導体制のようだ。」
「金正日が最も嫌う後継者争いが発生し、ロイヤルファミリーに逮捕者が出たらしい。」
など、金正日が健在なら、絶対に認められないであろうはずのことが、なぜか頻繁に起きているらしいとなると、話は別で、
「本人は、すでに死亡し、ダブルが役割を演じている」
つまり、2003年秋に金正日は死亡した、というのであれば、これは驚くべき事実と言わねばならない。
2004年に二回目の訪朝を果たした小泉純一郎元首相が面談した“今の将軍様”とは、一体誰だったことになるのだろうか。
2007年秋から2008年にかけ、金正日総書記の息子の一人に会った人物がいる。
この人物は、率直に聞いた。
「いつ、後継者になるのか」
彼は、次のように答えた。
「私は、後継者にはならない」
「“今の将軍様”が死ぬまでは、後継者は決めない約束だ」
2008/10/19
「赤めだか」 立川談春 扶桑社
「あたしが悪いんじゃないの。大家さんが夢にしちゃえって云ったのよ。大家さんが悪いのよ」
人間って極限まで追い詰められたら他人のせいにしてでも云い訳しちゃうもんなんだ。鈴本で聞いた「落語は人間の業の肯定だ」 という談志の言葉を思い出した。聴く者の胸ぐらをつかんでひきずり回して自分の世界に叩き込む談志の芸は、志ん朝の世界とは全く別物で、 聴き終わったあと僕はしばらく立てなかった。好き嫌いや良否を考えるスキも暇も与えてくれない五十分が過ぎたあと、思った。
志ん朝より談志の方が凄い。
身長が伸びすぎて「競艇選手」になるという夢を断たれた「僕」は、国立演芸場で初めて談志の「芝浜」を聴き、弟子入りを決意する。 十七歳だった。
「二階のベランダ側の窓の桟が汚れている、きれいにしろ。葉書出しとけ。スーパーで牛乳買ってこい。・・・(中略)・・・ 家の塀を偉そうな顔して猫が歩きやがる。不愉快だ、空気銃で撃て。ただし殺すな。重傷でいい。庭の八重桜に毛虫がたかると嫌だから、 薬まいとけ。何か探せばそれらしきものがあるだろう。なきゃ作れ。オリジナリティとはそうやって発揮していくもんだ」
朝の挨拶もそこそこに、四人の前座に向けて立て続けに云いつけられる、とても覚えきれないほどの指令。
実力優先主義が通らないことを嫌って「落語共同体」を飛び出し、「立川流」という独自の歩みをはじめた「談志(イエモト)」の下で 「修業とは矛盾に耐えることだ」った。
覚えきれない量の雑事をなんとか覚えて、こなして、四人揃って談志(イエモト)に報告する。談志(イエモト)が笑って、 「じゃ、飯にするか」と台所に入って自分でチャーハンを作りだす。肉は百グラムしか入っていないけれど、五人分で卵はたった一個だけれど、 この人は一体何が作りたかったのだろうと思うような塩加減の時が多かったけれど、みんなで食べる。
「喰ったって死にゃーしねェが、このチャーハンは体によくねェな」
談志(イエモト)の一言で皆笑う。その一瞬が欲しくて僕達前座は目の色変えてシャワーを直し、パニックになりながら猫を追う。
それにしても、多くは爆笑物の、そして時にほろりとさせてくれるエピソードの、それぞれの「シーン」で交わされる一つ一つの会話が、 際立つほどに鮮やかなのである。
NHKのBSで、爆笑問題が司会した「談志まるごと8時間」(のようなタイトルだったと思うが)という番組があって、 まさに「談志」とはこのような人であり、「立川流」とはこのような集団ではあったから、実際にあったことを「その通り」 書いたのではあろうけれど、
自分が見たこと、聞いたことを、「その通り」書くだけで、これほどまで見事に、その「人物」を「その人らしく」描き出せてしまう というところに、古典落語を語らせたら、今や「オレよりうまい」と談志(イエモト)にも認めさせたしまった、「談春」の天才があるのだろう。
「大きくならない」ところも好みだと談志(イエモト)が可愛がっていた「金魚」を、前座たちはあれは金魚ではなくて「赤めだか」 だと馬鹿にしていた。
「赤めだか」は「金魚」になったのだろうか。
「先へ、次へと何かをつかもうとする人生を歩まない奴もいる。俺はそれを否定しない。芸人としての姿勢を考えれば正しいとは思わんがな。 つつがなく生きる、ということに一生を費やすことを間違いだと誰が云えるんだ」
「やるなと云っても、やる奴はやる。やれと云ったところでやらん奴はやらん」
弟子を集めて談志(イエモト)はよくこう語る。そして最後につけ加える。
「まァ、ゆっくり生きろ」
2008/10/16
「アフリカ苦悩する大陸」 Rゲスト 東洋経済新報社
あまりに多くの政府が国民を食い物にしている。政府は正しく統治するためではなく、権力を行使する人間が私腹を肥やすため だけに存在しているように見える。官僚たちは仕事の見返りに袖の下を要求する。警察官は正直な市民から金品を奪い犯罪者たちは野放しだ。 多くの場合、国で一番の大金持ちは大統領だ。彼らは大統領に就任してから、地位にものを言わせて富を溜め込んできたのだ。
直線距離にして約500キロ、予定では18時間の旅程のカメルーン南東部のジャングル地帯を走破して、 ギネス社の60トントラックが目的地に到着した時には、その旅は4日間に及び、積み荷はわずか3分の2に減っていた。 途中47回もの路上検問があったのである。
「きみたちは銃を持っているかね?答えはノーだ。私は銃を持っている。だから規則を決めるのは、私なのだ」
(第31番目の検問所の官憲の教え)
携帯電話サービスを起業しようとしたジンバブエのエンジニアは、国営企業である自分たちが排他的な独占権を持つと主張する政府の妨害を受ける。 そんな国営の固定電話網の回線を引くのには10年もかかるのである。
「天然資源」恵まれていることが逆に抗争につながってしまう悲劇と、そのあまりにもずさんな管理。
貧困が「あきらめ」という悪循環につながり、結果として蔓延してしまうことになるHIVウイルスと、 驚くほどに奔放な少女たちのセックスに対する観念。
権力者の政争の具として利用され、自らの支持者にのみ配分される国の利権をめぐって、展開される「部族」間の争奪戦は 殺戮合戦にまで発展してしまう。
この30年間、世界各国から大量の国際援助が続けられてきたにもかかわらず、なぜそれは功を奏さないのか?
「ボツワナ」と「ザンビア」。
両国とも天然資源に恵まれ、文化もよく似ている国なのだが、海外からの援助はボツワナを貧困から救いだし、 ザンビアでは浪費されてしまうという結果になってしまった。
両国の明暗を分けた最も大きい違いは、ボツワナが優れた経済政策を立案し、現実に実行したのに対し、 ザンビアはそうしなかったという一点にあるにすぎないというのだ。
「アフリカが貧しいのは、政府に問題があるからだ」
と断言する著者は、だからこそ、このルポを発表したのであるし、なぜとなれば、アフリカの成長と発展を決して悲観してはいないからなのだった。
貧しい国々では、政府がきちんとしていなければ、国民の生死に関わるのだ。誰かがフランス政府から数百万ユーロを騙し取ったとしよう。 犯罪だからそいつは投獄されるべきだが、一般のフランス国民にとっては事件があってもなくても快適な暮らしは続くだろう。 一方、もしマラウイの政治家が緊急支援用の穀物を略奪したとしたら、その結果国民は飢えてしまうのだ。 積極果敢な報道こそ、権力の腐敗をチェックする上で欠くことのできない手段なのだ。
2008/10/11
「本日、東京ロマンチカ」 中野翠 毎日新聞社
どうも、人気のない所で隠棲するのではなくて、人気の多い所で隠棲したい――というヘンな趣味があるようだ。 「群衆の中の孤独」なあんていう言い古された言葉があるけれど、まあ、それに近いかな(「孤独」って言葉は字面が何だか陰気くさいけど)。 その種の孤独感は、私にとっては決してイヤなものではない。むしろ、味わい深く心安らぐものだ。俗臭の中で<ひとり>を楽しみたい。 「喫茶店病」もその一つの表れのような気がする。
というだけあって、一度その唯我な雰囲気に「馴染み」になってしまえば、逆にそれがとても信頼できるものに思えてくる、 「映画評論」「書評」そして辛口の「社会時評」が満載のエッセー集なのである。
「愛し合うカップルに刺激されて娼婦を買うが、みじめさが深まるばかりという場面がおかしく、せつない。こういう場面まで描き込んでいるから、 主人公は特殊な時代や状況を超えた普遍的な人物像として迫って来るのだ。」(ドイツ映画『善き人のためのソナタ』)
と読んでから、慌てて録画しておいたDVDを引っ張り出し、う〜むなるほどと、おっしゃる通りの感慨にふけるのも「あり」だし、
「私に言わせればこの本は品格ある人間について書かれた本ではない。なぜなら『品格』という言葉にこだわるなら、 孤立を怖れないということこそ、品格ある人間の大事な必要条件だと思うから。そしてこの本は、 人びとの孤立を怖れる気持ちにこたえようとしている本だと思うから。」(坂東真理子『女性の品格』)
と聞けば、「孤立を怖れて」くだらない本に手を出し、貴重な読書時間を無駄にせずによかったと、 身替わりになってくれた著者に手を合わせることになる。
「そのほうがオカネになるからなのだろうが、浅知恵じみて、くだらない。プロ的な格闘技だったらプロレスをはじめ、いろいろあるじゃないか。 格闘技とかスポーツとかの言葉からはみ出す何か(例えば儀式性)があるからこそ柔道なんじゃないか。そこが面白いんじゃないか。 柔道本来の魅力をねじまげるようなことまでして、『世界に通用』させてもらわなくても構わないやい・・・と思ってしまう。これ、鎖国思想か?」
というボヤキには、感性の似通った評論家がこの世に存在し、毎年新しいエッセー集を生み出してくれる幸せを感じながら、 思わず首をぶんぶん振ってうなずいてしまうのだった。自分が「便器に座っている」という情けない姿であることも忘れて・・・
(時間調整で喫茶店に入り、結局試写会をサボってしまった帰り道に)
桜並木を見あげながら、地下鉄駅まで歩く。甘い淋しさのようなものが胸に広がる。この気分、逃がさないで味わいたい。東京ロマンチカ。 何だかんだ言いながら、私はやっぱり東京が好きだなあ。
2008/10/9
「イカの哲学」 中沢新一・波多野一郎 集英社新書
この瞬間、大助君は歓喜に満ちあふれて叫び声を揚げたのです。「そうだよ!大切なことは実存を知り、且つ、感じるということだ。 たとえ、それが一疋のイカの如くつまらぬ存在であろうとも、その小さな生あるものの実存を感知するということが大事なことなのだ。 この事を発展させると、遠い距離にある異国に住む人の実存を知覚するという道に達するに相違ないのだ。」
早大在学中に徴兵されて航空隊に配属、特攻命令を受けながら出撃直前に敗戦を迎え、シベリアに勾留、 4年間の炭鉱労働を経てようやく帰国すると、今度は米国に留学し、プラグマティズム哲学を学んだ「波多野一郎」。
この「グンゼ」創業者の孫が、帰国後に自費出版した『烏賊の哲学』は、留学中の夏期休暇を利用して、学費を稼ぐために出かけた「イカの水揚げ」 というアルバイトを触媒として、それまでの様々な特異な体験が昇華したことによる「ある思想」の結晶とも言うべきものだった。
と、この「とても平易なことばで書かれている」薄っぺらな本を、すでに学生時代に発見していた、という中沢新一は「深読み」する。
「イカ的なもの」は個体ではなく、多数の個体を集めた「群れ」で思考し、活動している。一匹一匹のイカの思考、イカの活動は、 個体性をこえた知性の働きによっている。つまり、イカの中では、脳をこえた知性が働いていて、 その知性は地球的な規模の自然のネットワークにつながっているために、めったなことでは間違いをしでかさないのだ。
「イカ的なもの」(ライアル・ワトソン『未知の贈り物』)
私たちの生命と知性の中でも活動を続けている、これまでごく大雑把に「無意識」と表現されてきた、この柔らかい流動的なもの、 それこそが、生命のギリギリの体験をとおしてつかみだされた波多野の生命論の土台なのであり、 ただ戦争に反対するだけでは乗り越えることの出来ない戦争の原理を踏まえた、「新しいタイプの強靭な平和学」へと 飛躍することを可能にしているというのだった。
本当にそんなに「難しい」ことが書いてあるのだろうか?
人間以外の生物の生命に対しても敬意を持つことに関心のない在来の人間尊重主義は理論的に弱く、そして、 動物達と人間を区別しようとする境界線がとかく曖昧になり勝ちであります。それ故、在来の単なるヒューマニズムは、われわれの社会で、 しばしば叫ばれるものであるけれども、それ自体には、戦争を喰い止めるだけの力が無い。と、大助は結論したのであります。
2008/10/6
「地図男」 真藤順丈 メディアファクトリー
その296枚にわたる地形図、市街地図、主要都市拡大図といった縮尺をとわないほぼ全頁に、所有者の記入がある。
意味不明の×やマーキングだけではない。うねうねと縦横無尽に軌跡をえがく矢印、そのすきまを埋めつくす書きこみ、書きこみ、書きこみ。 虫眼鏡をつかって書いたような細かい文字で、異様な密度のハンドライティングがなされている。
「関東地域大判地図帖」を抱えて、関東エリアを行動範囲に漂流しているらしい「地図男」。
「紙面がわしゃわしゃ生やした毛髪みたいに無数の付箋」(ポストイット的なものからルーズリーフの切れ端、ファーストフードの包装紙や、 煙草のケース裏に書きこまれたものまである)
が貼られた、その地図帖に書きこまれていたのは、それぞれの土地に深い関連性を持ちながら、 混沌と錯綜し、ときには重ね書きまでされた記入はどれも――物語の断片だ。
「第3回ダ・ヴィンチ文学賞大賞」受賞作。
「日本ホラー小説大賞」と「ポプラ社小説大賞特別賞」という主要新人賞3賞を、それぞれ別の作品で同時期に受賞した「驚異の新人作家」 の作品ということなので、
千葉県鎌ケ谷市に生まれ、三歳にして自立を目指し、宅配トラックの荷台に忍び込んで家出した<M>は、トラックが目的地に停車するごとに、 オリジナル曲を仕上げていく「音楽の天才」だった。
とか、
たとえば、素もぐり、羽根突き、大食い、いろはかるた・・・およそ120種類の中からアットランダムに選出された<種目>によって、 勝ち抜きで競われるという、東京都区部のアンダーグラウンダー=夜の住人たちの地元愛と矜持をかけた壮絶な激闘、 「二十三区大会」はけっこう由緒ある大会だった。
なんて、
「地図男」が地図帖を開き、周囲のなにものも見えていないような表情で、だれかに語りかけるように、語りながらがりがりと書きこんでいる、 「語りおろされた」物語の断片というのは、作者独特のドライブ感とウィットにあふれていて、とてもワクワク、ドキドキさせてくれるのだが、
肝心の「地図男」の物語がまるでとってつけたかのような代物で、興味あふれる存在であるはずの「地図男」に どうしても魅力を感じることができない、というところが、とても評価の難しい作品であるように思う。
「なぜだかあんたに遭遇できなくなった時期、俺はやたらと焦ったんだけど、いまその理由がわかったよ」
「え、なんで?」
「俺はあんたの物語、好きなんだ」
「ほふ!」
地図男は口元をほころばせ、一番風呂に浸かったような声をあげた。
その物語群に、俺も呑みこまれる。俺はそのとき、ここにはいない。
2008/10/2
「iPS細胞」―世紀の発見が医療を変える― 八代嘉美 平凡社新書
自分の細胞を材料にして心臓や肝臓といった細胞を自由自在につくり出せれば、便利に違いない。 お酒の飲みすぎで肝臓病になってしまったら肝臓をつくり出して置き換えればいいし、心筋梗塞になったら新しい心臓細胞をつくってやればいい。 これまで臓器移植を受けなければ治療できなかった病気が、臓器提供者の出現を待つことなく治療することができるようになる。 もしかしたらアルツハイマー病で失われてしまった脳細胞すら補うことができるかもしれない。そんな希望を現実にしようというのが 「再生医療」のコンセプトだ。
私たちの体を形作っている60兆ものさまざまな細胞には、実は「再生」する能力が秘められている。1日に約15兆もの古い細胞が死んでいき、 たとえば皮膚の細胞は約1ヶ月で新しい細胞と入れ替わってしまう。
しかし、一旦皮膚になってしまった細胞からは、皮膚しか再生できないのもまた事実であり、 私たちの皮膚がいきなりほかの種類の細胞になるなんてことはない。
元は1個の「受精卵」が分裂を繰り返して多様な臓器を生みだしてきたということを考えると、これはいささか不思議な事態である。
受精直後の「胚」の段階では、細胞が持っていたに違いない「多能性」という能力を、私たちは成長のどこかの時点で失ってしまうのである。
「ES細胞」(胚性幹細胞)とは、
そうした「胚」の段階の細胞が持つ「多能性」を取り出して、「どのような細胞にもなりうる」という「万能細胞」 を作り出そうという試みだったということになるが、であればこそ、それは必然的に、
「ヒトES細胞」は、壊さなければ「他人」として生まれてくることさえできるはずの「ヒト胚」を使用することになるという点に、 大きな倫理的問題を抱えることになった。
「iPS細胞」(人工多能性幹細胞)は、
「大人の人間の細胞」を原料にして、「いろいろな細胞になれる細胞をつくる」ことができたというものであり、 どうしてそのようなことが可能であったのかといえば、「多能性」という能力そのものではなく、 それを成長のどこかで失ってしまう「仕組み」の方に着目し、「未分化」の力を維持する遺伝子を発見することに成功したから、 ということなのだろうと思う。(そのように私は理解した。)
自分自身の細胞にその遺伝子を組み込めば、「倫理的問題」はもちろんのこと、「拒絶反応」の課題さえクリアすることができるのだ。
「これは不老不死へと疾走するiPS細胞研究の現在とその全貌だ。」(筒井康隆)
それにしても、なんで「帯」が筒井康隆なんだ!
山海教授らが興したベンチャー企業がサイバーダイン社(映画「ターミネーター」に登場する企業)を名乗り、 ピストリウスのあだ名がブレードランナー(人造人間の“命”を描いた映画のタイトル)であるというのは偶然を超えて、 もはや時代の要請なのだろう。今も技術は意識を、そして世界をドライブしている。iPS細胞は、老と若の境界、性の境界、 そして身体と技術の境界が融解されていく世界の象徴でもあるのだ。
2008/10/1
「国のない男」 Kヴォネガット NHK出版
まだ気づいていないかもしれないから言っておこう。選挙で選ばれたわけではないわれわれの指導者たちは、 何百万人もの人々に対してきわめて非人間的な扱いをしてきた。それも、宗教や人種の違いを理由にして。われわれは好き勝手に、 そういう人々を痛めつけ、殺し、拷問し、刑務所に放りこんできた。
それが簡単でいい。
「われわれはいま世界中の人々から、かつてのナチスと同じくらい恐れられ、憎まれている。それもちゃんとした理由があってのことだ。」
そういうわけで、
「わたしには国がない。」
20世紀後半のアメリカを代表する作家「カート・ヴォネガット」の「遺作」となったこのエッセイ集は、 「ユニークな発想」と「たくまざるユーモア」とを、作者の独壇場ともいうべき、過激なまでに「強烈なアイロニー」で包み込んだ代物だった。
そして、そこで展開されるのは、いつもの通り徹底的な「アメリカ批判」と「現代文明批判」ではあるのだが、
「年寄りに聞こう、なんて思うなよ。おまえとちっとも変らないんだから」
という、82歳のじいさんが、孫の世代の読者に最後に語りかけようとした言葉には、
「幸せなときには、幸せなんだなと気づいてほしい。叫ぶなり、つぶやくなり、考えるなりしてほしい。」
という「願い」が託されてもいたのだ。
そう、これはまさしく、どうしようもなく「手の施しようもない」状況に陥ってしまった、それゆえにこそ「愛すべき国」アメリカに贈る、 心やさしい作者からの「照れ」でまぶした「遺言」なのである。
すべての物事が、つじつまが合うものであってほしいと思う。そうすれば、われわれはみんなハッピーになれるし、緊張しなくてすむ。
だからわたしは嘘をいくつもついてきた。
そうすれば、すべてが丸く収まるし、この悲しい世界を、楽園にすることができるからだ。
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