徒然読書日記200809
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2008/9/23
「天平冥所図会」 山之口洋 文藝春秋
みなは広虫の部屋に戻って車座になった。戸主はそのまん中に寝ころがる。
「なんだったんでしょうね、あれ」清麻呂の鼻息が心持ち荒い。
「しーッ、失礼ですよ」たしなめる広虫も顔を赤らめている。あんな衣装で表を歩くなど裸で外に出るようなものだ。
「うーむ」寝呆け眼で二人の後ろ姿を見送っていた真備が、真っ白な顎鬚をしごいている。「あの衣装、大昔にどこかで見たような気がするが」
「あの桃の木の衣装をですか」
「いや。色じゃなくてあのひらひら具合がね。唐の長安でだったかしらん」
「お父様は女の着るものにもお詳しいのね」由利が父親をからかう。「若気の至りでよからぬ店にでも出入りなさってたのではなくって」
広虫の部屋で車座になっている面々というのは、
物語の主人公「葛木連戸主(へぬし)」と、
その妻「藤野別真人(和気)広虫」
広虫の弟「藤野別真人(和気)清麻呂」
広虫の友人「吉備由利」
そして由利の父「吉備真備」
「ひらひら」を着て歩いているのは、
「道鏡」に手を引かれた「称徳天皇」
とくれば、その舞台は「宇佐八幡宮神託事件」があった「奈良時代」ということになるわけで、この物語はなんと、 「聖武天皇」から「光明皇后」を経て「称徳天皇」(孝謙天皇が重祚)に至る時代の、天皇一族の権力争いにまつわる 「歴史上の出来事」に題材をとった、抱腹絶倒の一大時空絵巻なのだった,
聖武天皇による「東大寺の大仏建立」
光明皇后による「正倉院への宝物献納」
恵美押勝こと「藤原仲麻呂の乱」
怪僧道鏡と和気清麻呂による「宇佐八幡宮御神託」
これらはいずれも「日本史上に残る大事件」として、だれもが一度は教科書で学んだことがあるに違いないのだが、 「小説」として取り上げられることはあまりない時代であり、 ましてや「葛木戸主」などという、没落氏族の「平城宮の小役人」を主人公として、 無益な「権力争い」を斜に構えながら眺める視線で描かれているために、 結果の見えている「古びた物語」であるはずが、新鮮な驚くべき解釈を与えられて、私たちの胸に迫ってくるのである。
なんたって、広虫が「ただ一つの背」としてすがることのできる戸主というのが・・・
「馬鹿ね、あなたは神様なんだから、成仏するみたいなこといわないで」
「そうか」
「そうよ」
「そうだな。おれは一言主命と同じ神様だからな。はは、はははは・・・・」
「ですから、どうか神様同士、一言主様の口から、そのことをよく考え、道鏡を帝位から遠ざける御神託を下されるよう、 宇佐八幡様に話していただきたいのです」
戸主はもう一度頭を下げる。筋の通った話だからよもや断られることもあるまい。ところが、
「そういわれても困るがな」一言主はいつになく歯切れが悪い。「わてらは民事不介入ちゅうてな」
「ほう」戸主は神様相手に思わず声を荒げた。困ったときの神頼みというのに、当の神様に困られてはますます困る。 「民事はいけませんか。それではなにならいいんです」
「神事や」一言主は本領を発揮してズバリと答えた。
2008/9/18
「MBA老師のサラリーマン説法」 井上暉堂 ソフトバンク新書
私は、この本を禅の入門書として書いているつもりは毛頭ない。
というのも、禅とビジネスとは基本的には相反するものだからだ。禅で徹底して求められる自己の探求とは、 執着という飾りを一切捨て去った実物(ほんもの)の自分を見出そうとする作業だが、 これはビジネス界の競争にありがちな“なりふりかまわず”というのとはまったく異なる。
暴走族あがりのプロボクサーから、代議員秘書、経済誌記者、ロッキー青木の秘書などを経て、起業に成功したという著者は、 なぜかMBAホルダーにして、臨済宗の最高位「老師」の位を拝命しているというのだが、
残念ながら、著者の波乱万丈の人生に、何の共感も感じることのできなかった者にとっては、むしろこの本は、 とてもわかりやすい「禅の入門書」として、重宝な本ではあった。
たとえば、禅の開祖・達磨大師が唱えた四聖句なんてのも、
「不立文字」(言葉でアレコレ言ってもダメだ)
「教下別伝」(お経を読んでもつかめはしない)
「直指人心」(本当の自分をしっかりつかむ)
「見性成仏」(それができたらみな仏)
坐禅は姿勢の問題ではない。頭の解釈抜きに、じかに「いのち」を感じ抜くこと。心の中に一点の染みもない・・・ その原点に自らがお目にかかることなのだ。
これを「禅」と形容するに過ぎない。だから、足の痛さに耐えているより、椅子に腰かけて背筋を伸ばし、ゆったりと息づいているほうが 真の坐禅の中身にかなっている。だから、坐禅とはいつでも、どこでもできる頭の切り替え法ともいえるのだ。
なんて、体験的に語られてみると、なんだか、とっても腑に落ちるではないか。というわけで、
著者が各文章の冒頭に記した「公案」(いわゆる「禅問答」)の中から、今の自分の気持ちにフィットしたものをいくつか取り出すと、
「これを放てば手に満てり」
(手放してこそ、本当に大事なものが手に入る)
「水を掬すれば月手に在り」
(あなた自身の働きかけがあって初めて、月はあなたの心に入る)
「放せ」ばいいのか、「掴め」ばいいのか、「一体どっちなんだぁ」なんて、怒ってはいけない。
「そもそも公案とは非論理的なのである。その非論理的さをわからせるために、白隠禅師(江戸時代の禅の中興の祖)がこれを体系化した。 非論理的な公案をドーンとぶつけて、分別の届かぬ境地に突入させるのが目論見だ」(小池心曵『まあ座れ』)
2008/9/13
「磯崎新の『都庁』」―戦後日本最大のコンペ 平松剛 文藝春秋
「おい、磯崎、あそこに君の都庁が建っているじゃないか。コンペには負けたんじゃなかったのかい?」
「え?・・・ああ・・・いや、違うんだ。あれは丹下さんの仕事なんだよ(笑)」
そう、コールハースが指差していたのは、お台場に工事中のフジテレビ新社屋ビルだったのである。
時は「バブルの予感」漂う1985年11月、東京都新都庁舎設計競技審査会は、コンペに参加する設計事務所、9社の名簿を発表した。
本命と目されたのは、丹下健三。
言わずとしれた日本建築界の天皇は、旧都庁舎の設計者で、鈴木俊一都知事のブレーンという立場でもあるため、 逆に「出来レース」と看做されることを恐れていた。
合言葉は「ぶっちぎりで勝とう!」。
所員たちはこれまでの仕事とは違う丹下の意気込みをはっきり感じ取っていた。
対抗馬は、磯崎新。
ポストモダンの巨匠として、すでに世界的に著名な存在となっていた磯崎は、当時スランプの真っ最中で、 なぜか「超高層」の実績がないにもかかわらず、居並ぶ巨大組織事務所に伍して指名を受けたことに戸惑いを覚えていた。
キーワードは「錯綜体(リゾーム)」。
超高層が当然の前提とされる新都庁舎のコンペにおいて、かつての師・丹下に闘いを挑むべく、 磯崎親分が所員たちに示したのは「低層案」だった。
「光の教会 安藤忠雄の現場」
(建築資料研究社)
で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した平松剛の、次のターゲットは「丹下VS。磯崎」。
丹下を中心とした戦後の日本建築界の動向の中で、丹下と磯崎の「師弟関係」が描かれ、 師から独立した磯崎親分のもとに結集してきた若き才能たちとのエピソードの中で、磯崎が構築してきた「手法」の世界が活写される。 この親分と所員たちとのやりとりが、まるでその場に居合わせたかのような臨場感に溢れていて絶妙である。
(なんたって、超高層二棟案を割り当てられて「つまんない」とぼやいたり、偉いカメラマンの模型写真に「やだなぁ」 と言いながらインクを入れる、菊池誠クンは、我が同級生なのである。)
というわけで、「最高傑作は、常に次回作」という磯崎ではあるが、 「東京新都庁」の「落選案」が、この時点での「集大成」であったことは間違いないように思われる。
さて、コンペの結果が発表になったとき、建築雑誌で華々しく取り上げられ、世界的に注目を集めることになったのは、 磯崎の「落選案」のほうだったと記憶している。
当時はそれが「出来レース」に対して、わざとコンペの要項に「違背する」という、磯崎さんの「異議申し立て」なのだと思っていた。 「建てない」ことを承知の上の「反建築(アンビルド)」なのであると。しかし・・・
「僕はね、東京都に案を提出した当時は、超高層ではなく低層だ、とか、そういうインパクトが前面に出てて、議論を巻き起こすという、 そちらの方に僕自身もちょっと気を取られたところがあったんですけれども。今になって思うと、コンペの時に出したデザインというのは、 そのままつくっても十分成立するし、全く実現可能なリアルな案だったと思います。やっぱりあの案は、ちゃんとできるし、 磯崎さんがコンペを“獲ろう”と思って出した案だったと、今は思いますよね」(青木宏)
などという回想を聞けば、「建たなかった(アンビルト)」ことが本当に惜しまれ、「建ってしまった」丹下案の廃墟の上に、 「見えない都庁」を幻視してみたくもなるのだった。
ジャングルジム型の立体格子、天辺に浮かぶ巨大なチタンの球体。確かに、姿かたちは磯崎の新都庁舎コンペ案によく似ている。 この才気煥発なオランダ人建築家でさえ、勘違いしてしまうのも無理はない。・・・いや、それともコールハースは、 本当はそれが丹下の設計であることをちゃんと知っていて、わざと磯崎をからかっていたのだろうか・・・。 知的で、また、イタズラっぽくもあるその表情からは、窺い知れなかった。
かつての愛弟子の拵えた新都庁舎案を最もよく理解していたのは、結局、その師だった、ということなのかもしれない。
2008/9/11
「刈りたての干草の香り」 Jブラックバーン 論創社
ほんの少しずつ、ぎくしゃくした動きで、扉がゆっくりと開いている。このゆっくりした動きには、信じ難いほど真に迫るものがあった。 トニーは急に自分が画面の中に入り、世界の果ての誰もいない通りでその家を眺めているかのような気がした。 そして扉が開くのを見つめ、蝶番の軋む音を聞きながら、何が出てくるのか待ち構えた。
ロシア北西部の辺境地、30万平方マイルの土地に非常線が張られ、住民はすべて収容所に入れられ、 何十という村は軍隊によって隅から隅まで焼き払われている。
英国外務省情報局長カーク将軍の下へ、諜報員X10から、そんな不穏な情報が届けられる。
「X10、別名ポール・マキエスキー、(中略)1958年ワルシャワにて死亡」
「そう、ポールは死んだ」カークは立ち上がって暖炉へ歩き、赤く光る火格子の前で手をこすり合わせた。
「え、1958年に死んでしまった諜報員の情報が何で今ごろ?」
と思ったら、迂闊なことにこの小説、ブラックバーンが1958年に書いた「デビュー作」ということは、 50年も前の作品ということになるわけで、まさに「早すぎて世に容れられない才能、というのが存在する」(笹川吉晴) と評されるとおりの、スリルとサスペンスに満ち溢れた本格ホラー・ミステリーなのである。
まあしかし、現在の基準でこれを読めば、
物語の「ヒロイン」が「よせばいい」のに首を突っ込んで、それが結局問題解決の糸口となるというのは、 ある意味「お定まり」のパターンではあるし、
怖いはずの「モンスター」の詰めが甘くて、クライマックスの緊張感がイマイチであるとは思うけれど、 (もっとも詰めが甘くなければ、物語は終わらず、地球が終わってしまうわけですが、)
「扉の陰」にいる間の、自分の頭の中で想像する以外にない「存在」の怖さと、 何といっても「題名の秀逸さ」が印象に残る、なかなかの佳作ではありました。
「わかった。では、保菌容疑者は全員収容し、現時点で他に患者は出ていない模様ということなんだな。よくやった。 それ以外に知らせることはあるか」
「いや、もうない。知らせるべきことは全部話したと思う。ただ、一つだけ気になることがある。まあ、当たり前と言えば当たり前の話で、 何の役にも立たないかもしれないけれど、あの生き物のにおいのことでね。とても変わっているんだ。菌類のものとはまったく違う。 何と説明したらいいんだろう。そう、刈りたての干草に似たにおいだ」
2008/9/10
「愚か者、中国をゆく」 星野博美 光文社新書
私はいまでも「中国」という言葉を聞くと、駅の切符売場を思い浮かべる。中国の駅は、当時の中国を象徴するような場所だった。
まずは「当日券」の窓口の長蛇の列に並ぶ。一時間待って、ようやく自分たちの番が回ってくる。興奮気味に行き先と列車番号を伝えると、
「没有(ない)」という無情な一言。
「明日はないのですか?」
「明日のことは知らない」
そこで私たちは肩を落とし、「明日」の窓口の長蛇の列の最後尾に並び直すのである。
「あるか、ないか」を聞くだけのために。
なぜバックパッカーは、何日も並んで安い座席をとり、ホテルはあまたあるのにドーミトリーのある安宿を目指し、 なるべく速度の遅い乗り物に乗り、ホテルやレストランではなく路上の屋台で食事をしたがるのだろう?
交換留学生として香港の大学に渡った著者は、1987年、アメリカ人の友人マイケルと一緒に、中国へ旅立った。 そこは、天安門事件という大きな分岐点を2年後に控える過渡期の世界だった。
「金では買えない貴重な体験をする」ために。
しかし「香港」→「広州」→「西安」→「敦煌」→「ウィグル」へと、憧れのシルクロードを目指した、4週間にわたる「列車」の旅は、 まるで「体力がもつぎりぎり遠く」を目的地とした「切符」を入手することだけが目的であるかのような、本末転倒の様相を呈しはじめ、 次第に無口になっていくマイケルは、観光にも出かけずひたすらベッドでドストエフスキーの「Idiot」 (とっさに愚か者と翻訳、あとで『白痴』であることに気づく)を読みふけるという、気まずい雰囲気が漂っていくのだった。
「ドストエフスキーの、ばか!」(本の帯)
旅の始めに「列車の出発時間の少し前に来ればいいものを、なぜ人民は好き好んでこんなに長時間を駅で過ごすのか?、」 と疑問を感じていた著者が、4週間たって戻ってきた広州の駅。
旅の終わりに、駅に群がる人民の気持ちが漠然とわかりはじめたように感じている自分を発見する。
ある人は希望する切符が取れるまで何日間でも並ぶという「努力」をし、またある人は何日並んでも買うことができず、 できる限り早くから並んで少しでもよい席を確保しようと「努力」する。 各自の努力の結果が「駅で無為に過ごしているように見える膨大な数の人々」なのではないだろうか。
いま目の前で疲れきって呆然としている人たちは、「それぞれの理由で自分なりの努力をしている人々」なのである。
2008/9/4
「お金は銀行に預けるな」 勝間和代 光文社新書
まず最初に分かってもらいたいのは、「自分のお金を銀行などの口座に預金として預けてさえおけば安全」であるどころか、 それは人生設計上、リスクになるということです。
これはどういうことかといいますと、多くの人が「お金に働いてもらう」ということを知らないがゆえに、 本来なら得られるべき収入を実は放棄していることを意味するからです。
「金融はリスクに応じてリターンが生じる」という基本原則があり、
「リターンはコントロールできないが、リスクをコントロールすることは可能である」のだから、
「金融リテラシー」という、金融を主体的に判断できるようになる視点を身に付ければ、 ゆとりある豊かな生活をおくることができるようになるというのだ。
「私たちは金融の相場は予測することができない」と断言する著者が奨める「金融でしっかり儲ける秘訣」とは、
@分散投資あるのみ
A高望みをしない
Bタダ飯はない
C投資にはコストと時間がかかる
Dリターンは管理できない
という、しごくありきたりで、極めて真っ当なもので、まずは「月3万〜5万円」で投資信託を買うところから始めてみましょうというのである。
「そんな投資に回せる余裕資金なんてないよ」という方には、ご心配なく、
@住宅ローンを組まない(持ち家は不利)
A車を買わない(車は無駄)
B生命保険を定期逓減型にする(保険は過剰)
という、懇切丁寧な「節約」の奨めまであるのだった。
まあ、著者のアドヴァイスに従って、投資を実践するかどうかは、読んだ方それぞれの判断にお任せするとして、 ではなぜ、私たち日本人はもっと「投資」をする必要があるというのだろうか?
安全資産を多く持っているということは、家計に占める資産のほとんどを労働による収入に頼らなければならないことを意味します。
リスク資産を回避することで、日本人は長時間労働に頼らざるを得なくなり、それが日本の「少子高齢化」につながっている。
つまり、家計がよりリターンの高い金融資産を持ち、労働収入にすべてを頼らない収入を持つことになれば、 「ワークライフバランス」の改善が可能だというのである。
さらに、「自分の身を守るためだけの運用や蓄財という視点」だけではなく、 「社会がより良い方向へ進むためにどのようなことに貢献しているのか」という観点で投資企業を絞り込むという 「社会責任投資」の考え方を取り入れれば、「金融には、政治と同じように社会を変えうる力がある」のだから、
安易に『お金は銀行に預けるな』ということになるのだった。
逆に、定期預金などにお金を預けっぱなしにしておくということは、選挙時に投票に行かないことと同じで、 資本主義に対する責任を放棄している、とまでいえるのかもしれません、
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