徒然読書日記200808
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2008/8/29
「お母さんの恋人」 伊井直行 講談社
お母さんとお父さんが出会ったとき、お母さんは三十六歳だった。お母さんはわたしを生んだ後、三十八歳で亡くなった。
激流の川に分断された市(まち)の、右岸と左岸という性格を異にする町を、複雑に絡まり合う十数本もの鉄道や道路や歩道を一本に束ねた 「異形の橋」がつないでいる。
そう、あの読売文学賞を受賞した、
「濁った激流にかかる橋」
が、 この小さな恋の物語の舞台なのである。
磯谷健一と大島康明は、ものごころついた時からの親友で、右岸に住む17歳の高校生。 大島は、同級生の中で目立つほど可愛い中子和美と付き合っていた。 ある日、キノコ騒ぎで停学処分となった磯谷と大島は、右岸の橋詰の広場で、背が高くてお洒落の仕方がスマートな「左岸風」の女性とすれ違う。
・・・お母さんだ!やっとお母さんが登場する。
お母さんは・・・まだお母さんではない、その女性は、大島と磯谷の目に、周囲から浮き上がって見える。
きれいだから?わたしもお母さんがその時、すごくきれいだったのだと思いたい。でも多分ちょっと、違う。 お母さんはすごく美人だったわけではない。
その時、17歳の磯谷が一目惚れしてしまった、英語学校校長の小林由希子は36歳の独身で、10数歳も年上の妻子ある男、 北沢秀史に恋をしているところだった。
というわけで、
この物語は、彼ら主要登場人物のそれぞれの視点に切り替わりながら、その都度様々なエピソードが積み重なり、 錯綜した関係を絡みあわせて進んでいくことになるのだが、 それでは、そこに出来上がってくることになったそれぞれの関係や、その関係に対するそれぞれの人物の思い入れがいかほどのものであるか、 ということになると、これが、さっぱりわからないのである。
右岸と左岸を16本もの様々な通路でつないでいるという「異形の橋」が、その全貌を想像することさえ許さないように、 私たち読者は、語り手としての、まだ生まれていなかった「娘」の視点に立って、 きれいだったはずの「お母さん」と、素敵だったはずの「お父さんたち」の物語を、懸命に思いだそうとする以外にないのだった。
二パックの卵を割り尽くそうとする寸前、お母さんはついに一個だけきれいに割ることができた。
「やった」お母さんは少し大きな声を出した。
台所にお母さんの母親が入って来た。
「あなたたち、いったいいくつ卵を割ったの?それを全部プリンにするつもりじゃないんでしょ」
怒るというより、呆れているのだった。
すると、わたしがまた、くちゅくちゅと笑った。
お母さんは、首を小さく左右にふった。
そのときのお母さんの笑顔ほど美しいものを、ママはこれまで見たことがないのだそうだ。 わたしは目をつぶり、懸命にお母さんの笑顔を思い出そうとする。
2008/8/27
「現代語訳 般若心経」 玄侑宗久 ちくま新書
もともと言葉を用いた理知的な解釈は、生のリアリティーを感じるためには誠に不向きである。 自らが状況の内側にいて感じるリアリティーは、外側から理知で眺められれば当然まったく別な事態になる。 霊魂(プシュケ)がある種の「全体性」であれば、むろん理知によって到達できるはずもない。 いかにソクラテスがデルフォイの神託どおり賢明であり、その弁明が優れていたとしても、理知的な分析知は必ずや 「全体性」を分断する方向にはたらく。「全体性」とは、体験的に観ずるものであって分析するものではないのである。
「瞑想」という方法により、ソクラテスのロゴスによっては至ることのできない生命や「しあわせ」の実感にたどり着くこと。
「ブッダ」が提出したのは、理知によらないもう一つの体験的な「知」の様式であり、彼はそれを「般若(パンニャー)」と呼んだ。
「般若波羅蜜多」とは「般若」によって理想郷に渡ること、「智慧の完成」と訳されることが多いキーワードであるが、 いずれにしてもそれは知的に理解すべきことではなく、実践的叡智のみが辿りつける境地として、原語のまま「音写」され、 翻訳することなく放り出されているのである。
「色即是空、空即是色」
我々が知覚するあらゆる現象は、固定的実体がない「空」性である。むしろ「空」であるが故に、あらゆることがそこから現象し 「縁起」してくるのであれば、
「受想行識亦復如是」
同じように、感覚も、表象作用も、意志も、認識もそれじたいに「自性」はないことになるから、
「照見五蘊皆空」
私たちの体や精神作用は全て自性を持たず、これはいわば縁起における無常なる現象なのだと見極めれば、
「度一切苦厄」
一切の苦悩災厄から免れることができる。
では、そのような素晴らしい「境地」に辿りつくためには、どうすればいいというのだろうか。
「無智亦無得」
それは「智」と名づけられるものでもなく、「得る」べき何かでもない。
「以無所得故」
別にあらためて「得る」ものではないのである。
「般若波羅蜜多 是大神呪」
「般若波羅蜜多」とは大いに神秘的な呪文なのだ。
ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー
はらそうぎゃーてーぼーじーそわかー
はんにゃーしーんぎょー
「知る」ことが、必ずしも「しあわせ」に繋がるものではないのである。
奇妙に聞こえるかもしれませんが、いったん記憶された音の連なりは、一切の思考を伴わずに出てきます。 いや、あらゆる思考はその表出を邪魔する働きしかしないと云えるでしょう。 「陀羅尼」は、まるでスイッチを押すと自動的にという感じで出てくるのです。私はこの記憶の在り方に、 どうも「空」が関与している気がして仕方がありません。いわば、五蘊が空であることを常に自覚させる力そのものとして、 陀羅尼は再生されるように感じるのです。全体がまるごと記憶され、それは再生されるたびに「識」を浄化していくのではないでしょうか。
2008/8/26
「人類が消えた世界」 Aワイズマン 早川書房
ワールド・トレード・センターのツインタワーがあっというまに崩壊して人びとが考えたのは、犯人のことであり、 インフラ全体を破滅に導きかねない致命的な脆さのことではなかった。かつて想像すらできなかった大惨事の被害は、 わずか数棟のビルに及んだだけだった。それでも、自然が都市社会の産物を捨て去るのにかかる時間は、私たちが考えるより短いかもしれない。
「私たち全員が突如として消えてしまった世界を想像してみる。」
ヒトだけに害を及ぼすウイルスが私たちを狙い撃ちするとか、人間嫌いの邪悪な魔法使いが精子の生殖機能を無力化する方法を完成させるなど、 その理由はなんでもいい。
「すべてをそのままにして、人間だけを取り去る。人間が消えたあとになにが残るか見てみよう。」
人類消滅から数日後。
排水機能が麻痺し、地下鉄は水没する。
2〜3年後。
下水管やガス管などが次々破裂し、亀裂が入った舗装道路から草木が芽を出す。
5〜20年後。
木造住宅、つづいてオフィスビルが崩れはじめる。もし雷が落ちて溜まった枯れ葉や枯れ枝に引火すれば、街は瞬く間に炎に包まれる。
200〜300年後。
激しい寒暖の影響とさびでボルトが緩んで吊り橋は完全に崩落する。
500年後。
都市はオークやブナの森に覆われ、コヨーテ、ヘラジカ、ハヤブサといった野生動物たちが帰ってくる。
家畜化したイヌはもはや人間なしでは生き延びられないが、ネコはおそらく野生化して自由を満喫することだろう。
私たちがきわめて知能レベルが高いと考えているイルカ、ゾウ、ブタ、オウム、 さらには類人猿のチンパンジーやボノボといった種はおそらく、少しも人間を恋しがりはしないだろう。 私たちはしばしばなんとかそうした種を守ろうとするが、危険をもたらす張本人はたいてい私たちなのだ。
人間の身勝手な文明活動が生み出してきた、大気中の二酸化炭素や、夥しい量のプラスチック粒子、放射性物質などは、 人間が姿を消せば確実に減少に転じるとはいえ、これを元の状態に戻すためには、なお数十万年を要するのである。
つまり『人類が消えた世界』を想像してみるということは、「人類が地球に対してどれほどの負荷をかけ続けてきたのか」を知るための、 極めて示唆に富んだ思考実験だったのである。
「最後の人類は、穏やかな気持ちで最後の日没を楽しむでしょう。エデンの園にかぎりなく近い惑星を取り戻しつつあることを実感しながら」
2008/8/18
「時が滲む朝」 楊逸 文藝春秋
さっきから読んでいた本のページを全くめくっていない父は、いつもの重い顔つきの上に久しぶりに笑いが弾け、 苦労によって刻まれた目じりの皺一本一本に、洗い落とせないほど黒ずんで溜まった時の色が、暗淡とした光に照らされ、穏やかさを漂わせている。
「お前も大学生か、道理で父さんも年だ。勉強って楽しいぞ」父は目を細めて、暗い壁を見つめた。 そこに若い頃の父が北京大学の赤い門の傍で微笑む写真がかけてある。
文化大革命において「右派」のレッテルを貼られ、農村に下放されてしまった「元エリート」の父をもつ梁浩遠は、無事地元の大学に合格を果たし、 「秦漢大学の前で、父よりも格好良い写真を撮らなきゃ」と大望を抱いたのだったが、やがて民主化運動に積極的に参加するようになり、 「天安門事件」をきっかけに労働者相手の暴力事件に巻き込まれ、退学処分となる。
失意のうちに、日本人残留孤児の長女と結ばれ、日本へ移住することとなった浩遠は、それでも「中国の民主化」を叫びつづけ、 「香港返還」や「北京五輪開催」に反対するのだったが、
そんな浩遠が、二十年に及ぶ日本での生活の中で体験することになったものは、日本人社会ではなく、 日本における中国人社会が含みもつ苦い挫折感だった。
本年度「芥川賞」受賞作品。
たとえば国家の民主化とか、いろいろな意味で胡散臭い政治的・文化的背景を持つ「大きな物語」のほうが、どこにでもいる個人の内面や 人間関係を描く「小さな物語」よりも文学的価値があるなどという、すでに何度も暴かれた嘘が、復活して欲しくない
という村上龍の「選評」があるのだが、ここに描かれている「文化大革命」から「天安門事件」にいたる「中国の民主化」の物語は、 村上龍自身が「関心も興味も持てなかった」と断じているように、「薄っぺら」で「類型的」なものなので、 とても「大きな物語」と呼べるような代物ではないように思う。
むしろ、この作品の「読ませどころ」は、
日本でもつい最近まで「このような生活」があったのではなかったか。
「がむしゃら」に、「一生懸命」に「生きる」ということが、「みっともない」ことになってしまったのは、一体いつからなのだろうか。
と、日本人が「失ってしまった」ものの大きさを思い出させてくれるような、そんな「小さな物語」の方にあるのではなかろうか。
「二人の子どもの父親だもんな。苦労が絶えないだろう。お腹いっぱい食べさせるってのは大変なことだ。だから一生懸命にもなるさ。 どこの家だって、国だって同じさ、一度帰ってきたらどうだ。父さんと母さんにも孫の顔を見せておくれ。羊肉泡謨を作って待ってるぞ」
「父さんっ」浩遠は電話を持つ手が震えだし、じっと我慢していた涙が大きな声とともに溢れ出た。
2008/8/13
「アフガンの男」 Fフォーサイス 角川書店
「自爆テロをおこなう者はみな殉教者と自称しています。彼らは自分の行為をどうやって正当化するのです?」
「欺瞞でしかない」
マーティン博士は答えて、いった。
「彼らの中には高等教育を受けた者もいますが、みなだまされているのです。真に聖戦と宣言された戦闘のために闘い、 シャヒード即ち殉教者として死ぬことは確かにありうるし、もっともなことです。でも、そこにもやはりルールがあるし、 それはコーランでも特に強調されています。戦士達は、生還の見込みのない任務に志願したとしても、己が手で命を断つことは禁じられています。 自らの死の時や場所は知ってはならないのです。」
2006年、パキスタン。
アルカイダの資金調達を担当するアルークールは、部下が不用意に使用した携帯電話を、イギリス秘密情報庁SISにより逆探知される。 居所をつきとめられ、追い詰められたアルークールは、使用していたパソコンを破壊し、飛び降り自殺を図ったのだが、 SISが回収し、修復に成功したハードディスクには、英訳不能の「単語」を含んだ一通の手紙が残されていた。
「アル−イスラ」
それは「預言者ムハンマドの人生に起きたある啓示」を指すコーランの言葉であり、 「世界を一変させる何か」を意味する「とてつもなく大規模なテロ」を示唆するものだった。
「アルカイダにだれかを潜入させ、司令部を発見して報告させる」という荒唐無稽の計画。しかし、その者の出自来歴は完璧でなければならず、 アラブ人社会でアラブ人として通用する西洋人など存在しないはずだったのだが、
「うちの兄ならできますよ」
コーラン委員会に招集され、手紙の解読を受け持ったテリー・マーティン博士が思わず口走った言葉から、 イギリス政府は元SAS大佐のマイク・マーティンに白羽の矢を立てることになった。
こうして、5年前にアメリカに拘留され、グアンタナモに収容されているタリバンの英雄、 イズマート・ハーンになりすますという作戦は開始された。
それは、一度は味方として、二度目は敵として、過去に二度の邂逅を経験しているという不思議な因縁の元、 イズマートからマイクへと「アフガンの男」という異名を継承する作戦ということにもなるのだが、
「9.11」は始まりにすぎないというアルカイダの震撼すべき企図を読み解き、世界の危機を未然に救うというこの作戦を、 「アフガンの男」は無事成功に導くことができたのだろうか?
<人その友のために己の生命を棄つる、之にまさる愛はなし>
時計塔の周りに集まった人たちだけが知っていた。すなわち空挺連隊並びにSASのマイク・マーティン大佐は現役引退後、 見も知らぬ四千人の人々のためにこれだけのことを成したのだが、彼らのうちだれ一人として、彼がこの世に存在したことを知らなかった、 という事実を。
2008/8/11
「ラブホテル進化論」 金益美 文春新書
“なんて色気がないんだろう!”というのが、その時の正直な感想である。
しかし、ベッドが回転するというところになぜ私は色気を感じていたのだろうか。一体、私は何を想像していたのか。 よくよく考えてみると、ベッドが回転して何が楽しいのか。
そんな疑問を解決すべく、ラブホテルのデザイナーたちに突撃取材を敢行した著者は、ついに「回転ベッドが回る理由」を知ることになる。
「ストリップ劇場なんかの影響が大きいんじゃないですかね。私がそうでしたね。ライトや鏡と組み合わせることで、 いろんな角度から見れるというような・・・」(亜美伊新氏)
回転ベッドは、鏡と組み合わせることで、はじめてその威力を発揮するのだ。
「カップルの空間を考察する」と題した「ラブホテル」がテーマの「卒業論文」は、「見せてくれ!」という人が続出する超人気論文になった。
資料を貸してもらった「井上章一」(国際日本文化研究センター)に、激賞されるかもとドキドキしながらお礼と報告の手紙を書いたら、
「君の卒論、私の書いたものをまとめただけでつまらなかったけど、大学院に進めてよかったね」
(ガーン)
これはそんな彼女が博士課程に進むことになり、「資料集めや資料探しではない、自分だけのオリジナルなやり方を見つけたい!」と心に誓って、 現役の美人女子大学院生として、様々な現場に足を運び、体当たりで綴って見せた「ラブホテル進化史」なのである。
あなたのラブホテルならではのこだわりとはなんですか?
「プライベートとパブリックをきっちり分けるということですね。・・・」(建築デザイナー)
「ラブホテルだからこそアダルト的な要素を入れるのは大事だと思っています。・・・」(デザイナー)
「落ち着ける空間づくりですね。・・・」(一級建築士)
「バックヤードを意識しますね。従業員が動きやすいように考えますよね。・・・」(設計士)
「ラブホテルを堂々といける場所にしたい。で、堂々と行けるようにするには、カモフラージュしなきゃいけない。・・・」(デザイナー)
「僕がこだわるのは入口よりも出口ですね。出易ければ必ず流行る、だから出口産業というんです。入る時よりも出る時。 入る時は勢いで入りますから。でも、出てくる時は後ろめたいじゃないですか。だから出口が重要なんです。 出口がいいところは必ず(お客さんが)入る。」(デザイナー 亜美伊新氏)
業界には、独特の個性を持ったデザイナーが多く、ラブホテルへのこだわりやシグナルの仕掛け方はそれぞれ異なる。 しかし、日本ではラブホテルを専門とする設計事務所はごくわずかであり、右にあげたデザイナーやコンサルタントの考えが 全国の多くのラブホテルに反映されていることは確かである。そして、今日もラブホテルは独特のシグナルを発しながら、そこに存在している。
2008/8/4
「ルポ貧困大国アメリカ」 堤未果 岩波新書
「あの朝街を出て行きながら、一体どうしてこうなってしまったんだろうと私たち夫婦は茫然としながらも考えました」
家を出た一か月後にインタビューに答えたマリオはその時のことをこう語る。
「正直言ってよくわからないんです。一つだけわかっているのは、単に長年の夢が破れただけでなく、 自分たちがその前の苦しかった時代よりさらに底辺に転がり落ちたこと、しかもそこからは二度と這い上がれないだろうという現実です」
アメリカの住宅ブームが勢いを失い始めた時、不動産業者が次なるターゲットとして目を付けたのは、 貧困ラインぎりぎりの月収があるにすぎないマリオのような不法移民や低所得層だった。 「サブプライムローン問題」は単なる金融の話ではなく、過激な市場原理が経済的「弱者」を食い物にした「貧困ビジネス」に他ならないのだ、 と著者は指摘する。
「家が貧しいと、毎日の食事が安くて調理の簡単なジャンクフードやファーストフード、揚げ物中心になるんです。 多くの生徒は家が食糧配給切符(貧困ライン以下の家庭に配給される食糧交換クーポン、フードスタンプ)に頼っていますから、 この傾向はますます強くなりますね」
学校給食という巨大マーケットを狙って、マクドナルドやピザハットといった大手ファーストフード企業が凌ぎを削る中で、 「国際肥満協会」は、このままいくと2010年までにはアメリカ国内児童の半数以上が肥満児になるだろうと警告している。
ハリケーン・カトリーナの被害で、いまだ路頭に迷っているニューオーリンズの「国内難民」の存在は、 連邦緊急事態管理庁(FEMA)を民営化したことによる「人災だ」と言われている。
「自己責任」の名のもとに「自由診療」を増やした医療制度の改革は、その狙い通り保険会社や製薬会社の利益を上昇させたが、それはまた、 無保険のため高額の医療費を払えない貧困層の患者を病院から(これも狙い通り)排除しただけでなく、 過酷なノルマと高額の医療訴訟損害保険の負担が医師たちをも追い詰めることになったのだった。
「アメリカでは高校中退者が年々増えており、学力テストの成績も国際的に遅れを取っている。学力の低下は国力の低下である。 よってこれからは国が教育を管理する」
という「落ちこぼれゼロ法」という名の教育改革法は、落ちこぼれた貧しい家庭の生徒たちの個人情報を入手し、 「奨学金」などの餌を提示して、軍にリクルートするための「裏口徴兵政策」ともいうべきものだった。
「国民の命に関わる部分を民間に委託するのは間違いです。国家が国民に責任を持つべきエリアを民営化させては絶対にいけなかったのです」
本来、公共が担うべきサービスの分野に、利益第一の民間企業が次々と参入することが、いかに民主主義の破壊につながるか。
こうした「格差」と「貧困」の拡大という現象は、もちろんアメリカという「海の向こう」だけに発生している問題ではない。
「役所がひどいなら民営化すればいい」という安易な考えは、小泉改革以後の日本では、 むしろ主流の行き方となっているのではなかっただろうか?
「教育」「いのち」「暮らし」という、国民に責任を負うべき政府の主要業務が「民営化」され、市場の論理で回されるようになった時、 はたしてそれは「国家」と呼べるのか?私たちには一体この流れに抵抗する術はあるのだろうか?
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