徒然読書日記200806
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2008/6/26
「Y氏の終わり」 Sトマス 早川書房
すると、一瞬(といってもカミソリの刃よりも薄く鋭い感じだったが)のうちに、わたしは落ちていった。 黒いトンネルに落ちていったのだ。本のなかでY氏が書いていたのとおなじ黒いトンネルに。・・・(中略)
そして、すべてが真っ白になり、わたしはトンネルから出た。
大学ではデリダの哲学を専攻し、科学全般を扱う雑誌にコラムを書いていた才媛のアリエルは、宇宙物理学、量子力学、進化生物学等の 「理論物理学」の取材活動を進めるなかで、「英文学部」の博士課程にスカウトされる。
19世紀イギリス文学界の異端作家トマス・E・ルーマスを研究対象としている指導教授バーレムに触発され、 「思考実験」をテーマに研究活動を開始することにしたアリエルだったが、バーレムが突如姿を消し、大学の建物が崩壊するという事件の後、 ひょんなことから作家ルーマスの「希覯本」を入手することになる。
「Y氏の終わり」。
それは「ドイツの銀行の貸金庫に一冊存在しているものの、それを収蔵している図書館はなく」、 「読んだものは死ぬ」と信じられている「呪われた本」だった。
わたしは、極度に密集した細長い通りに立っていた。足もとはアスファルトだ。前方には、かつてはきらびやかだったかもしれない 薄汚れた高層ビルがある。左右には、店頭に絵はがき、新聞、靴、カメラ、帽子、お菓子、おとなのおもちゃ、 布地などがディスプレィされたさびれた商店がならんでいたが、どれも営業しているようには見えない。
ルーマスの「処方箋」に忠実に従うことによって、アリエルが足を踏み入れることができた別世界「トロポスフィア」。
それは、すべての人の「思考」によってできている「世界」であり、「距離」は「時間」であり、「物質」は「思考」であるような 「地形」なのだから、
現実の世界においては「人から人へとジャンプすることが可能」であり、
記憶の世界においては「個人から先祖へとジャンプすることも可能」ということなのである。
わたしはどこへ行くの?
すると、金属的な女性の声がわたしにこう告げた。
あなたには、選択肢が十四あります。
悪戦苦闘の末、ようやく再会を果たしたバーレムから、『Y氏の終わり』をこの世から消去してほしいという依頼を受けたアリエルは、 トロポスフィアでの移動方法「ペデシス」を駆使して、「記憶の世界」を遡行するための「ジャンプ」をくり返し、 ルーマスの家の居間にたどり着くのだった。
あなたには、選択肢がひとつあります。
あなた・・・わたし・・・
わたしたちは、すきま風が吹きこむ居間で、いつものように執筆中だった。書かずにはいられない。 書きあげなければならないこの本を・・・。
デリダ、ハイデッガー、ボードリヤールの哲学から、
アインシュタイン、シュレディンガーの理論物理まで、
そこにダーウィンや、バトラーが彩を添えるとあれば、
「工学部蘊蓄(ウンチク)学科」卒業の暇人には、読み応え充分の逸品でありました。
ところで、この本は冒頭、次のように始まるわけですが、
あなたには、選択肢がひとつあります。
あなたには・・・
わたしが研究室の窓から首を出してこっそり煙草を吸いながら、・・・
これって、つまり・・・
2008/6/25
「ミトコンドリアが進化を決めた」 Nレーン みすず書房
(ミトコンドリアの周辺で成長を遂げたさまざまな研究分野における)一連の答えは、生命そのものの起源から、 複雑な構造の細胞や多細胞生物の誕生を経て、大型化・有性生殖・温血動物の登場へと至る進化の道のりをすべて途切れなく語り、 加齢による衰えや死にも踏み込む。
「物語はそれ自体の理解に資する。出来事がどのように起きたのかがわかれば、なぜ起きたのかも見えてくるのだ。」(F・F・アルメスト)
とすれば、「生命の物語」を、「ミトコンドリア」と「その宿主」とが協働した「進化戦略」の結果として読み解けば、
「われわれはそもそもなぜ地球に存在するのか」
「宇宙で孤独な存在ではないのか」
「なぜひとりひとりが別個だと感じられるのか」
「なぜセックスする必要があるのか」
「どこまで祖先をたどれるのか」
「なぜ年老いて死ななければならないのか」
といった「生命の意味」が見えてくるというのである。
ミトコンドリアは細胞内にある小さな器官で、われわれがもつほぼすべてのエネルギーをATP(アデノシン三リン酸)の形で生成する。
外部からエネルギーを取り込まねばならない単細胞の細菌が成長しようとすると、体積が2倍になれば当然エネルギーも2倍必要になってくる。 しかし、その表面積は2/3乗でしか増えないことが、成長の足枷となっていたわけだ。
ある日、大型の細菌がたまたま小型の細菌を飲み込んでしまったところ、それが「生命の発電所」ともいうべきミトコンドリアで、 お互いの利害が一致した両者は、虚々実々の駆け引きの末、共同生活をすることに決めた。
というのが、どうやら「生命の進化の物語」の始まりだったようなのである。
ところで、「ミトコンドリア・イヴ」という言葉もあるように、「宿」を借りているにすぎないミトコンドリアが、 独自に持ち運んでいる遺伝子は、母系にしか継承されないのは有名な話である。
有性生殖では、ひとりの子をつくるのにふたりの親が必要だが、無性生殖や単為生殖では母親しか要らず、 父親の存在は余分であるばかりか、スペースと資源の無駄でしかない。
「進化の多様性」のために性があるのだとしても、「子作り」のために選べる相手は「集団の半分」しかないというのは、 「性が一つ」(誰とでもOK)や「性が沢山」(同性以外OK)に比べて、圧倒的に不利なのである。
それでは「なぜ性はふたつあるのか」?
ふたつの性がなければいけないのは、一方の性が卵細胞のミトコンドリアを子孫に伝え、 他方の性が精子のミトコンドリアを子孫に伝えないように特殊化する必要があるからだ。
異種のミトコンドリア同士が、新しい宿主の中で覇権を競って争いだすと肝心のエネルギー生成に支障をきたし、生命存亡の危機となるため、 どっちが譲るべきか最初から決めてある、
という「我が家の掟」のようなものなんでしょうかね?
2008/6/19
「生命のバカ力」 村上和雄 講談社+α新書
もう一つの謎は、六十兆個の細胞の中にある人間の遺伝子の情報はみな同じでありながら、なぜ心臓の細胞は心臓にしかならず、 髪の毛の細胞は髪の毛にしかならないかということです。
もとは一つの細胞が、DNAは全く同じものなのに、全く別の細胞に分化していくのは、細胞が分化すると、 そこで不要になった大多数の遺伝子が休眠状態に入ってしまう、つまり、OFFの状態になるからだと考えられています。
ということは、逆に、みんな違った存在として生きているように見える人間も、遺伝子のレベルで見れば、天才であろうと、凡人であろうと、 実はその99.9%はまったく同じなのだから、
遺伝子にはON・OFFの仕組みがあり、ある種の刺激や環境によってスイッチが入ったり切れたりするという事実は、 私たちに別の意味での光明をもたらしてくれるような気がします。
つまり、
「人間の全遺伝情報のうち、タンパク質生成のために使用されている部分はせいぜい3%ぐらい」で、そのほかの97%は「眠っている」のだから、
「都合のいい遺伝子をON」に、
「都合の悪い遺伝子をOFF」に、
ある程度意識的にできるようになれば、私たちの人生にとって、新しい可能性が展開される大きなチャンスと言える、
「誰にだって天才になれる(可能性がある)」
というわけです。
では、どうすれば「遺伝子は目覚める」のか?
高血圧の黒幕酵素「レニン」の遺伝子解読に、世界で初めて成功した村上先生の経験によれば、
「火事場のバカ力」
「病は気から」
「退路を断って」
「絶対にできる」
「ピンチを逆手に」 などなど、
「あなたの思いが遺伝子のはたらきを変える」
ということを、疑うこともなく信ずることができるような「究極のプラス思考」が、どうやらその秘訣のようなんですが、
残念ながら、私のようなひねくれ親父がこの本を読むと、間違った遺伝子にスイッチが入ってしまって、 心臓に毛が生えてしまう」かもしれません。
2008/6/16
「日本の10大新宗教」 島田裕巳 幻冬舎新書
あらゆる宗教は、最初、新宗教として社会に登場するとも言える。
「仏教」は、インドの伝統宗教「バラモン教」から、
「キリスト教」は「ユダヤ教」から生まれている。
「イスラム教」の聖典『コーラン』には、ユダヤ教の預言者モーゼや、キリスト教の救世主イエスも登場する。 預言者ムハンマドも、信仰する神は彼らと同一なのである。
新宗教としてはじまったそれぞれの宗教は、時間を重ね、信者を増やして、社会のなかに定着していくにつれて、 既成宗教としての性格をもつようになっていく。新宗教の場合、その信者になる人間たちは、それまでの宗教を捨て、 自らの意思で信仰を獲得する。それに対して、既成宗教の場合には、親などから自動的に信仰を受け継ぎ、 信者たちは自らの意思でその宗教を選択しなくなる。
日本人の多くが、自分たちのことを「無宗教」と考えるのは、生まれた時から「神道」と「仏教」が組み合わさった 「既成宗教」の信者になってしまうからなのである。
明治以後に成立した「新宗教」の中から、代表的な10教団を取り上げ、「教祖誕生」の劇的なドラマから、「事件発生」による弾圧の物語や、 「組織分裂」による盛衰と消長の歴史など、
ひも解いてみせたのが、オウム事件でバッシングを受けた、あの「島田裕巳」とくれば、下世話な期待も盛り上がろうというものだが、
そこは意外に淡々と「オトナの解説」に終始しているというところが、いささか喰い足りないとはいえ、 日本の新宗教の現状の「見取り図」としては、必要にして十分といえる内容ではある。
よく「苦しいときの神頼み」といった言い方がされる。たしかに、人が宗教に頼るのは、悩みや苦しみを抱えているときである。 だが、本当に苦しいときには、人は神頼みはしない。不況が長く続き、深刻化しているときには、豊かになれる見込みがないので、 神仏に頼ったりはしない。むしろ、経済が好調で、豊かになれる見込みがあるときに、人は神仏に頼る。高度経済成長は、 まさに神頼みが絶大な効力を発揮した時代だったのである。
という、高度成長期に勢力を拡張した、「立正佼成会」「霊友会」「創価学会」に加えて、
取り上げられたのは、その勢力を伸ばした時期ごとに、
戦前からの老舗 「天理教」「大本」「生長の家」
戦後の混乱期の 「天照皇大神宮教」「璽宇(じう)」
全共闘世代には 「世界救世教」「神慈秀明会」「PL教団」
バブル以降では 「真如苑」「GLA」
「オウム真理教」「統一教会」「エホバの証人」などは、反社会的な教えを含む「カルト教団」として、選択から除外されている。 「幸福の科学」についてはコメントすらないというのが、島田なりの位置付けなのだろうと思う。
これからどのような新宗教が生まれ、その勢力を拡大していくのか。それは、日本の社会がどう変化していくかにかかっている。 新宗教に集まってくるのは、その時代の大きな流れについていくことができなかったり、社会のあり方に不満をもっている人々である。 社会が変われば、不満の中身も変わるし、どういった人間が不満をもつかも変わる。 その点で、新宗教は時代を映す鏡としての性格をもっている。
2008/6/7
「思考の補助線」 茂木健一郎 ちくま新書
問題の総量は減らないにしても、見え方が変わるということはある。ちょうど、幾何学の問題で、たった一本の補助線を引いただけで、 解答への道筋が見えるように、「思考の補助線」を引くことで、私たちは今までとは少し違った態度で、世の中の謎に向き合うことができる。
「すべての場所に、同時にいることはできない」
のだから、知性の総合性などしょせんは幻想である、などという「悟ったような知」のあり方がもてはやされるようになってしまった。
そんな昨今の日本の「知のデフレ」現象の蔓延に対し、茂木は心の底から怒っているのである。
「この世における森羅万象の息づかいに感染すること」
・素粒子のふるまいから、宇宙の中の潮流まで
・すぐれた文学作品からポップなミリオンセラーまで
・保守本流から進歩主義まで
世界という奇妙な場所で起こるさまざまなことを引き受けて人間の内的な宇宙へと写像し、それらのことごとについて、 身を切るようなリアリティを内包した言葉で語る。そのような役割は、いったい誰が担えばよいというのか。 それとも、現代は、さまざまなことを引き受けた概念世界の吟遊詩人を必要としないとでもいうのだろうか。
「総合的な知性」こそが、ある専門性における「鋭利な達成」にたどり着くことができるのではないか。
茂木はそんな確信に基づいて、「対立する概念」の間に「うまい具合」に線を引き、関係ないと思っていた部分を結びつけることで、 問題を解くという方法を提示する。
「理系と文系」(ちなみに、茂木は東大の物理から、法学部へ学士入学し、再度物理に戻って博士号を取得しているが、 そんなことを言いたいわけではないらしい)「科学と思想」「曖昧と厳密」「個別と普遍」「個性化と同化」「仮想と現実」「差別と平等」
そもそも、「意識が脳に宿る」ことは疑いようのない事実であるが、「脳」という対象の、その一つ一つの部分を理解できたとしても、 「意識が宿る」ことの必然性など、解明できはしない。
とするならば、
茂木にとっては「物質である脳からいかにして意識が生まれるのか」という、自らの生涯のテーマを解く鍵ともいうべき 「クオリア(感覚質)」という切り口の発見こそが、「精神と物質」の間に引かれた「思考の補助線」だったのだ。
本当のことを知るために、学問に情熱を取り戻すために、補助線を引きたいと思う。脳はいかに働くかを探求する日々。 諸学とうるわしく連携し、学問を熱いものにしたい。読者のみなさんも、ぜひ参加してほしい。 そうすれば、「知のデフレ」など、過去の遺物になるはずだ。私たちはいつの間にか再び知を総動員して生き始めているはずだ。
2008/6/2
「『食い逃げされてもバイトは雇うな』なんて大間違い」 山田真哉 光文社新書
この本の目的は2つあります。ひとつ目は、数字が苦手な方が、「数字の裏側」を読めるようになること。 数字は人を騙す凶器です。数字のウソを学ぶことで、数字に騙されない“考える力”を鍛えます。
「数字のウソから数字を学ぶ」とは、
・数字を見たら疑ってかかる
・数字をそれほど信頼しない
・数字だからといって特別視しない
という「数字の裏側を読む」姿勢を習慣化することだというのである。なぜなら、
「この売り場から1億円が12本出ました!」
「3世代世帯は子育てを助ける」
「工場勤務、時給千円、月30万円可、寮完備」
などなど、我々が日々生活している世間には、
「作られた数字」(はじめから結論ありき)
「関係のない数字」(さも関係ありそうな)
「根拠のない数字」(もっともらしく聞こえる)
「机上の数字」(実際にはうまくいかない)
という「禁じられた数字」が蔓延し、あなたを騙そうと手ぐすね引いて待ち構えているからだ。
特にビジネスの世界においては、
「計画信仰」と「成長への圧力」から生みだされた「禁じられた目標数字」が、ビジネスから自由を奪い、
「費用対効果」という錦の御旗が、目先の利益を優先させる「会計的な行動」に軍配を上げる結果、 長期的な視野に立った「非会計的な行動」を脇に押しやって、会社を疲弊させてしまう。
だから、
『食い逃げされてもバイトは雇うな』
という「会計の観点からしか見ていない短絡的な考え」は、(自分で言っておきながら)大間違いだというのである。
「あらゆる経済活動は、会計と非会計のバランスをとりながら動いて」おり、
「会計は世界の1/2しか語れない」のだから、
「ビジネスでも生活でも、大事なのは複数の視点を常に持つこと」というのが、
「さおだけ完結編」がたどり着いた、結論」なのだった。
2つ目の目的は、「会計がわかればビジネスもわかる」といった会計に対する誤解を解くこと。 ビジネスに「会計が必須の教養」であることが常識となりつつありますが、会計とビジネスでは世界が180度異なります。 会計の限界を知らずに使っている人が、ビジネスに混乱を巻き起こしています。 そこでこの本では、ふだん語られない“会計の本質”に光を当てます。
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