徒然読書日記200805
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2008/5/25
「テレビ標本箱」 小田嶋隆 中公新書ラクレ
ナンシーの死に対してのテレビの側の反応の冷淡さ。そして、ナンシーという巨大な監視装置の突然の消失を受けて、 明らかに安堵している人々の横顔を空しく眺めていなければならなかった経験が、私に、この畑違いの仕事を決意させたのである。
ナンシーというのは、もちろん、
「ナンシー関大全」(文芸春秋)
のナンシーなのであるが、
「問答無用 ナンシー関よ あとは引き受けた」という売り文句ほどのものでもない、と思ってしまうのは、 小田嶋特有の「自分ツッコミ」の語り口に、その原因があるようだ。
「アッコにおまかせ!」では、文字通り和田アキ子という一人の代理オヤジに世界の解釈が丸ごと委ねられている。 で、日曜日のオヤジの無気力につけ込む形でアッコ節が炸裂する。末世だ。
とか、
結局、私の書斎は、みの常駐型のテレビのおかげで、嫌いな上司が巡回しているオフィスみたいな感じの、 容易にくつろげない空間になっているわけだが、どうだろう、ソニーあたりが、みの強制削除機能付きのテレビを開発したら、おれは買うぞ。 10万までは出す。
なんて、連載当初は「胸のすくような」切れ味を見せてくれていたのだが、これはどうやら「ナンシー」を相当に意識していたもののようで、
今回の引退劇は、だからサッカー界の話題ではない。むしろ広告業界の新しいイベントだと私は見ている。
うん、ひねくれた見方だ。でも、パスには意外性が必要だ、と、このことを、私は、ヒデから学んだ。だよな?ヒデ。
なんて、ナンシーという、重すぎた「肩の荷」をようやく下ろしたあたりからの方が、封印していた「自分ツッコミ」で息を吹き返した、 小田嶋「本来の味」が出てきているような気がするわけだ。
結局、小ぶりのナンシーの背中のファスナーを開けてみたって、「誰も出てこなかった」ということなのだろう。
ただ、この五年で10キロほど体重が増えたのは、ちょっとだけナンシーが降りてきているからなのかもしれない。ナンシーよ。もうわかった。 勘弁してくれ。
2008/5/22
「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」 内山節 講談社現代新書
山村に滞在していると、かつてはキツネにだまされたという話をよく聞いた。それはあまりにもたくさんあって、 ありふれた話といってもよいほどであった。キツネだけではない。タヌキにも、ムジナにも、イタチにさえ人間たちはだまされていた。 そういう話がたえず発生していたのである。
たとえば、
山道を歩いていて険しい場所にさしかかったので、持っていた弁当を岩の上に置いて岩をよじ登ってみたら、忽然として弁当が消えていた。
「しまった。キツネに悪さをされた。」とか、
夕方道を歩いていたら、向こうから旅人が歩いて来て、河原に湧いている温泉を教えてくれる。気持ちよく浸かっていると、しばらくして人の声。
「おい、この寒いのに川の中で何やっているんだ。」とか、
あるいは、有名なところでは、
「忠信」が「狐」になったわけ
なんていうのもある。
ところが驚いたことに、著者によれば、1965年以降「キツネにばかされた」という話は、日本の社会から発生しなくなってしまったのだという。
キツネにだまされたという物語を生みだしつづけた歴史を、なぜ私たちは失ったのか。私たちが暮らしている歴史世界とは何なのか。
いったい、1965年(昭和40年、東京オリンピックの翌年)という年に、何が起こったというのだろうか?
「高度経済成長」時代に突入する中で、「経済性」や「科学性」という「知性」でとらえることのできない世界は、認識できなくなってしまった。
「TVの普及」により、一方通行に垂れ流す情報を受け取ることに慣れ、情報を読み取る能力が衰退してしまった。
「地方共同体が崩壊」し、「何かの折に伝えられ」、伝えられていく中で「脚色が伴われる」という、 自然を媒介とした人間的なコミュニケーションのあり方が変遷してしまった。
つまり私たちは、「情報を瞬時に正確に伝達できるようになった。」ことで、
「キツネにだまされる能力を失ってしまった。」というのである。
題名だけ見ていると『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』の「柳の下」を狙ったように思ってしまいそうだが、 (そういう意味では、私はまんまと「キツネにだまされた」ことになる)
これは極めて真っ当な「歴史哲学」の試みなのだった。
「ぼくもたぶんキツネにだまされたりはしないだろう。そして、それがこんなにも重要で、 悲しいことだとはこの本を読むまで知らなかったのだ」(高橋源一郎)
2008/5/20
「怖いくらい通じるカタカナ英語の法則」 池谷裕二 講談社ブルーバックス
多くの日本人は「animal」を「アニマル」と発音します。たしかに英語の授業でもそう習いました。 でも、この発音ではいつまで経っても通じることはないでしょう。理由は単純です。割り当てるカタカナが間違っているのです。 本当は「エネモウ」と言わないといけないのです。これを読むときには変に気取って英語ぶる必要はありません。 そのまま素直にカタカナを読み上げればよいでしょう。それで十分に通じます。
たとえば、
「What do you think about it?」は
(ホワットドゥーユーシンクアバウトイット?)
「ワルユーテンカバウレッ?」になります。
嘘だと思った人は、実際に声に出して読んでみてください。何度か繰り返してみれば、確かにこちらの方がはるかに「英語っぽい」 ということが分かるはずです。
「耳に聞こえた通りに発音する」というと、
「What time is it now?」を
「掘った芋いじるな」という「ジョン万次郎式」を思い出しますが、
こちら「池谷式」の凄いところは、「丸暗記」するのではなくて、「カタカナ」化するための法則が確立されているところなのです。
「最後の L はウ」の法則
「A はエア」の法則
「I はエ」の法則
「T はラ行」の法則
「NT の T は消える」の法則 などなどがあるので、
「Please send me some money as soon as possible.」
(プリーズセンドミーサムマネーアズスーンアズポシブル)
なんて、ちょっと複雑な文章でも、これらの法則を当てはめれば、ごく機械的に「カタカナ」化できてしまうのです。
ちなみに、池谷さんは「英語学者」ではなくて、この欄でもたびたびその著書をご紹介した、新進気鋭の「脳科学者」ですから、 この本の最後には「言語習得と脳の関係」についての理論的な解説も付いてはいますが、
「自転車の乗り方を解説本で読んでも、実際に乗れるようにはならないのであって、何かをやる方法って、実際にやる、 という経験によって培われます」
(『海馬』池谷裕二 新潮文庫)
さあ、ご一緒に70回、声に出して言ってみましょう。
「プリーッセンミスマネズスーネズパセボウ」
「カタカナ英語の法則」を知っているとヒアリングにも効能があるでしょう。なぜならば、 本書の法則は耳で聞こえるままをルール化したものだからです。もし本書のカタカナ音が実践の場であなたの耳に届いたら、 それはあなたの頭の中で元の英文に化けることでしょう。つまり、いままで聞き取れなかった英語が聞き取れるようになるのです。
2008/5/20
「ゴールデンスランバー」 伊坂幸太郎 新潮社
くしゃっと丸め、ポケットに突っ込もうとしたところで、ふと、開いてみた。皺だらけの紙を広げたところで、はっとした。 鼓動が一瞬だけではあったが、強く跳ねた。
「俺は犯人じゃない。青柳雅春」自分で書いた文字が残っている。少し斜めになった、見なれた字だ。問題はその脇だった。 青柳雅春の字よりも薄い文字で、綺麗な筆跡で、こうあった。
「だと思った。」
仙台でパレード中だった首相が、ラジコンヘリの爆弾で暗殺された。思い当たる理由もなく、暗殺犯に仕立て上げられてしまった元宅配運転手の 青柳雅春は、情報監視網「セキュリティポッド」が張り巡らされた仙台の町で、「何か巨大なもの」の魔の手から逃げ切ることができるのか?
第一部「事件のはじまり」と第二部「事件の視聴者」では、暗殺事件の捜査の進捗状況を、時々刻々と伝えるテレビ報道により、
そして、第三部「事件から二十年後」では、事件のその後の顛末を、ノンフィクションライターの調査報告という形で、
つまり、「第三者」の視点で事件の概要を簡略に描いてみせた後、
いよいよ、第四部「事件」において、ケネディ暗殺犯オズワルドのように「巨大な陰謀」に巻き込まれた青柳の、 死にもの狂いの逃亡が始まるわけなのではあるが、
世界のすべてが敵のような「絶望的」な状況の中で、ふと顔を出すこれまでの人生で出会った人々との「エピソード」と、
「最大の武器は、習慣と信頼」だという友人・森吾の言葉を頼りに、彼らを信じて綱渡りのような「逃亡」を続ける青柳にとって、
「使えるものは何でも使う」
という「伊坂ワールド」のスタイルこそが、頼りの綱だったということになる。
伊坂には「無駄な伏線」など存在しないのである。
2008年度「本屋大賞」「山本周五郎賞」受賞作品。
第五部「事件から三ヶ月後」の後始末を読んでから、再度、第一〜三部を読み直してみなければ、青柳の「逃亡」ゲームは本当には完遂しない。
「なかなか洒落が利いてるお便りが」と彼女は広げていた紙を差し出してきた。
満面の笑みを浮かべつつも、今すぐにでも泣き崩れそうな顔の妻にたじろぎつつ、青柳平一はそれを受け取った。
どうも感触が妙だと思えば、薄い和紙で、広げてみると筆で、書初めさながらに字が書かれている。大きく、「痴漢は死ね」とあった。
2008/5/16
「こんなに使える経済学」 大竹文雄・編 ちくま新書
デパートの化粧品売り場では「クリスマス限定セット」と称して口紅やクリームなど数点を組み合わせて販売している。 お正月恒例の福袋も、いろいろな商品が詰め合わされていて、楽しい。このように、複数の商品を束(バンドル)にしてまとめ、 一つの価格で売ることを「バンドリング商法」と呼ぶ。抱き合わせ販売と言う方が馴染みがあるかもしれない。
(「セット販売商品はお買い得か」鈴木彩子)
「なぜこのような商法がとられるのだろう。」
ここに「ワープロ」と「表計算」のソフトがある。
Aさんは「ワープロ」なら120円まで払ってもいいが、「表計算」は100円でなければいらないと考えている。
Bさんは逆に「ワープロ」には100円しか払えないが、「表計算」には120円払うつもりがある。
「ワープロ」と「表計算」をバラバラに販売しようとすると、どちらも100円以下でなければ、Aさん、Bさんの両方には売れない。 つまり最大の売上は400円ということになる。
ところが、これをセットにして220円で売れば、Aさん、Bさんとも納得して購入し、売上は440円となるのである。
つまり「バンドリング商法」とは、消費者の「お得感」(これを「消費者余剰」と呼ぶ)を限りなくゼロにする、 売り手側「必勝」の戦略だったというわけなのだ。
といった感じで、日常の「ありふれた問題」を、「経済学」的な考え方という、ちょっと角度の異なる視点から眺めてみると、 風景が変わって見えてくるという話題が27本。
「なぜあなたは太り、あの人はやせるのか」
肥満の人は時間割引率が大きく、せっかちな人(辛抱のできない人)ほど、肥満による将来の不利益を大きく割り引いて考えるため、 目先の食欲が我慢できない。
「美男美女への賃金優遇は不合理か」
容姿を知力や体力など他の資質と区別する理由はない。生まれつき賢い人とそうでない人の差や、体が丈夫な人とそうでない人の差を 事前に解消する政策はないのに、容姿による差だけを解消しようとするのは冷静な議論とは言えない。
「教師の質はなぜ低下したのか」
1960年代から始まった女性の雇用機会均等が教員の質を低下させた。男女差別が解消されてくると、かつては教師になるしかなかった 優秀な女性は教師よりも給与が高い仕事、より魅力的な職種を選べるようになり、昔に比べて教師になる人は少なくなった。
等々、「目から鱗」の議論続出で、どなたが手に取ろうとも、必ず一つや、二つは「買って良かった」とご納得いただける作りになっている。
なるほど、この本自体が「バンドリング商法」を実践していたなんてね。
さて、
7勝7敗の力士が千秋楽に勝ち越すか、負け越すかは、多くの場所を通してみれば本来半々の割合で起こるはずだが、 実際は勝ち越す場合の方がはるかに多いというのが計量経済学を用いた2人の研究データから明らかになっている。
(「談合と大相撲の共通点とは」青柳真樹・石井利江子)
「大相撲」が「談合」と似ている?
いえいえ、「驚くことにその勝ち越した力士が、次の対戦では同じ相手に負けやすい」なんて、 「大相撲」の世界の方がはるかに「義理固い」というのは、「業界」に身を置く者としての切実な実感なのでありました。
2008/5/11
「てつがくこじんじゅぎょう」 鷲田清一 永江朗 バジリコ
哲学においては、論理よりも
情熱的なヴィジョンの方が重要なのだ(中略)、
論理はヴィジョンのあとから、
その根拠づけを見つけるだけである。
(ウィリアム・ジェイムズ『多元的宇宙』)
鷲田「知りたいと思わなかったら、いくら論理をこねくりまわしてもわからない。」
永江「そうですね。でもそれって、『モチベーションがないと、仕事はうまくいかんよ、君』といっている 中小企業経営者みたいな感じじゃないですか。」
と言われて「なるほど」とわかったような気になってしまう自分が、とことん「中小企業経営者」であることが哀しいが、
古今東西の哲学者23人の「殺し文句」(グッとくる一言)を題材に、「哲学好き」のフリーライターが、気鋭の「臨床哲学者」に 個人授業を受けるというスタイルのこの本は、
「意味はよくわからない」が「かっこいい」フレーズの、その「かっこよさ」のよってきたる理由を、「ああでもない」「こうでもない」 と論じ合うことの快楽を、十分に堪能させてくれる本なのである。
運動における私の決意と私の身体との関係は、
魔術的な関係なのである。
(モーリス・メルロ=ポンティ『知覚の現象学』)
江「この文章はかなり昔に読みました。『身体の経験と古典的心理学』という章に出てくるんですが、難しすぎて全然わからない。 とくに古典的心理学って何のこと言うてるんか。でも、このフレーズはごっつうわかりますわ、感覚的に。」
と、メルロ=ポンティに「だんじり」という「補助線」を引くことで、見事に料理してしまうという「臨場感」は、 我々にしたって「酒」が入れば経験しないわけではないし、
<同>の審問は<他>によってなされるのだ。
他者の現前によって私の自発性がこのように
審問されること、われわれはこれを倫理と呼ぶ。
(エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』)
内田「ぜんぜんわからないですね。これぐらいわからない人も珍しい。グッときたところというのは、何が書いてあるのかよくわからない のだけれども、なんだかすごそう、というところですね。これがわかるようになったらいいんじゃないかな、って思うでしょう? あまりにわからないので笑っちゃう。」
と、あの内田樹ですらが、「初めて読んだ時から二十数年間」ずっと喉に小骨が刺さったままなのであれば、
「中小企業の親父」がまるっきしお手上げなのも、それほど卑下する必要はないのである。
2008/5/8
「二十億光年の孤独」 谷川俊太郎 集英社文庫
人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする
(『二十億光年の孤独』)
19歳の「ひとりぼっち」の人類は、
宇宙空間の彼方に「仲間」を夢想する。
火星人は小さな球の上で
何をしているか 僕は知らない
(或はネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
「それはまったくたしかなことだ」
と、確信を持って言い切ることができるのは、
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
からというのである。
あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい
(『かなしみ』)
この若者が、二冊のノートの中に構築して見せた広大な「孤独」の空間は、 「新しい時代の詩」として、驚きをもって迎えられたらしいのだが、
しかし私には、「感性」溢れるというよりは、どちらかといえば「理性」で組立てられた「構築物」であるかのような印象があった。
Universal gravitation is the power of solitudes
pulling each other.
と英訳されたほうが、すんなりと頭に入って来やすいのは、そのせいではなかろうかと思ったのだが、
「二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした」
若者は、それから二十年後に、そのような「見かた」を否定している。
題名の軽みは、そのまま最終行の<くしゃみ>に呼応しているようだ。これを一種のオチと見る人もいるが、自分ではそうは思いたくない。 当時の私はそれほどすれてはいなかったはずだ。(『自註』)
2008/5/2
「ほんとうの環境問題」 池田清彦 養老孟司 新潮社
地球が温暖化すれば困るからといって、その予防のためにと、CO2排出量削減に多額の金を注ぎ込んでいる。 そんなことをしてもたいした予防もできないのは客観的に明らかであるにもかかわらず。
もしほんとうに温暖化すると様々な問題が生じるのなら、問題が生じた後の対策をどうするのか、ということについて策を講じるべきだ。 それをしないで、ただただ危機を煽っているだけで何になるのか。(池田)
「京都議定書を守っても二酸化炭素の量は減少しない」(池田)
全体でせいぜい2%程度しか炭酸ガスの排出量は減らない。しかも「増える量」が「減る」だけなのであって、総量が「減る」わけではないのだから、 ほとんど焼け石に水であるにもかかわらず、日本政府は京都議定書を守るために年間1兆円もの金を注ぎ込もうとしているというのだ。
年金問題解決に関して政府の責任者が「公約違反だとは思わない」というようなことを言ってごまかそうとしたくらいだから、 京都議定書に関しても、「議定書という約束は交わしたけれど、その約束を守ると言った覚えはない」とか言ってみてほしいものだね。 対外的には日本政府はそういうしたたかさはない。(養老)
「100年後の温度がどうなるかを計算しても意味がない」(池田)
日本のGDPの増加率とCO2排出量の増加率は連動しているらしい。つまり、経済発展をやめて、景気を悪くしない限りCO2は減らせない ということなのである。石油があと40年後ぐらいでなくなるのであれば、100年後の温度の予測など無意味である。 枯渇の危機にある石油の無駄な消費を防ぐために、中国に日本のエネルギー効率のいい機械を売れば、排出権の購入の代わりになる という主張をこそすべきではないかというのだ。
だから、「石油は日本に使わせろ」ということですよ。同じ量の石油でも、日本がいちばん効率よく使えるのだから。
日本の国土からは一滴も石油が出ない。つまり、日本は全部、買ってやってるんだよ。それなのに、なんでイラクの復興を助けなければいけないんだ? 話が逆だよ。貧乏人が金持ちの放蕩息子を助けているようなものだよ。(養老)
「少々温暖化しても、日本の国民は平均的にはまったく困らないと思う」(池田)
大型生物の大量絶滅は地球が寒冷化したときにしか起こっていないので、地球上の生物にとっては寒冷化するぐらいなら温暖化したほうが メリットが大きいことは歴史が証明している事実である。ハリケーンなどの異常気象は増えていない。 蚊が増えても衛生的なインフラの整備があればマラリア感染症が増えるわけではない。100年間で35センチの海面上昇は、 干満の水位差2メートルに比べてどれほど問題になるというのか、というのだ。
溶けかかっている氷の上をホッキョクグマが餌を探して彷徨う姿を撮った映像を見て「深く考えさせられる」と言っている人がいるけれど、 そういう人は何を深く考えているんだろうね。(池田)
「環境問題とはつまるところ、エネルギーと食料の問題である」(池田)
にもかかわらず、「地球温暖化」などという瑣末な問題にかまけ、しかも「CO2排出量」という一面的な指標に絞込み、 「CO2削減に協力しない奴は非国民だ」というキャンペーンを推し進めてしまう批判精神の欠如こそが、
「環境問題」という「問題」だというのである。
もちろん、環境問題をめぐる議論には様々な立場があり、それぞれにそれなりの根拠があることは間違いないのだろうが、 「頭のいい」方々の物言いの方に軍配を上げたくなってしまうのは、仕方のないことであるように思う。
2008/5/1
「独断流「読書」必勝法」 清水義範 講談社
つまり私が言いたいのは、芥川は疲れちゃっている、ということである。思考する体力が、かなり弱っているのだと思う。 だから、誰にでもわかるように説明する気力がわいてこないのだ。理由はいいじゃない、とにかくそうなったのよ、という語り方をしてしまっている。 (『河童』)
これは「読書の方法」について教えてくれる本ではなく、「読書での勝ち方」を教えてくれる本だというのである。 しかし「読書」に勝ち負けがあるのだろうか?
吉川英治文学新人賞を受賞した『国語入試問題必勝法』において、清水は「設問の字面」という「表層」からその「意図」を読む という「裏技」を駆使することで、「出題者に勝つ」という「最強の必勝法」を伝授してくれた。
それにしても、あの小説はどうして『坊っちゃん』なのだろうか。
そんなの決まってるじゃないか、と言われそうだな。ひとつには、下女の清が主人公を、坊っちゃんと呼ぶから、それが題名になっているのだ。 そして、もっと重要なことは、他人からは坊っちゃんと呼ばれるような、世間知らずで大人の狡知を持たない主人公が、 醜い大人のやり方に生玉子をぶつけて制裁を加えるという小説だから、肯定的な意味を込めて『坊っちゃん』という題名になっているのだ。 それはその通りである。
しかし私には、こんな考えも浮かんだ。
という『坊っちゃん』から始まって『伊豆の踊子』『金閣寺』までの日本文学10篇と、 『ロビンソン・クルーソー』から『罪と罰』『若い芸術家の肖像』までの外国文学10篇を、交互に選んで論評を加えていくこの本では、
「これはどのあたりがすごいのか」ということを、得々と解き明かして見せようとする。「私にはお見通しだ」というわけだ。
そんな清水は「作者」に勝とうとしているかのように見える。
ところで、
このシリーズでは、久しぶりにサイバラとコンビを組んでいる。そして連載の始まる前、私はサイバラに対して、ひたすら、 楽しいかきまわし役を期待していた。取りあげる小説など読まなくていいから、激烈で破壊的なマンガを気の向くままに描いてくれ、 と思っていたのだ。
ところが、連載を始めてみると、どうもサイバラの様子が思っていたのと違う。
「お父さんの文章っていつごろから読めた?」
「今でも読めません」(よしもとばなな)
「ほらね。この人が読めんのやから私が読めんてフツー」
と「三島の難解さ」を茶化してみせるサイバラ(西原理恵子)が、ところどころで顔を出して、絶妙の「突っ込み」を見せてくれるのが、 この本の最大の魅力になっているのだが、
どうやらサイバラは「シミズ」に勝とうとしているように見えるのである。
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