徒然読書日記200804
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2008/4/30
「5分で楽しむ数学50話」 Eベーレンツ 岩波書店
想像していただきたいのだが―たとえば郵便局で―あなたが並びうる列がほぼ同じ長さで五つできていたとしよう。 そのとき、本当に一番早く進む列をあなたがたまたま選んだ確率は五分の一、つまり20%だ。別の言い方をすれば、80%の確率で、 あなたは間違った列で待っていたことになる。そしてあなたがしょっちゅうこうした状況にいれば、 自分は運命によってひどいしうちを受けていると思うのは、ほとんど必然的だ。
(自分の並んだ列はいつも遅い)
といったあたりの議論は、以前このブログで取り上げた、
隣の車線はなぜ速いのか?
隣の車線はだから速いのだ
などという「ひねくれた」議論と比べると、随分「素直」な印象がありますが、
それだけに読みやすく、日常生活に役立つ「有用性」も持ちながら、私たちの「知的好奇心」をも十二分に刺激してくれる 「面白い」数学の小話(その多くは4,5ページ)が全部で50話。
「私は典型的な文系人間」という方には、特にお奨めの内容ではなかろうかと思います。
とはいえ、なかには、
・巨大な素数の作り方と素数であるかどうかの判定の仕方―「メルセンヌ素数」
・ドアの後ろにはずれのヤギが置かれているヤギ問題の考え方―「ベイズの公式」
・巨大素数の素因数分解を利用した公開鍵暗号RSA法の考え方―「mod計算」
など、じっくり腰を据えてかからなければ、とても太刀打ちできないようなものもありますので、
「私は生来の理系人間」という方も、ゆめ夢ご油断召されませぬように。
あなたがベルリンやハンブルクのような大都会に住んでいるとしよう。ちょうどあなたはバスに乗っている。誰かがバスを降りる時、 うっかり傘を置き忘れていく。あなたはその傘を家に持ち帰る。あなたの計画はこうだ。 夕方、適当に七桁の数字を選んでその番号に家から電話をしてみよう。 そうすればひょっとして傘の持ち主のところに電話がかかるかもしれない・・・。
(偶然は出しぬけない)
「そんなことはありえない」と思われた方は、今後「ロト6」は買わない方がよさそうですよ。
2008/4/24
「裏切り涼山」 中路啓太 講談社
広間は重く沈んでいる。まずい事態だ。いつもなら、秀吉の我慢はあるいはもう少しつづいたかもしれないと思ったが、 すべては過ぎたことだ。ぶすりと黙ったままでいる別所山城守を見つめながら、竹中半兵衛の頭は、すでに最悪の事態を考え始めていた。
脳裏に浮かんだのは、かつて戦場でまみえた、裏切り涼山と呼ばれる男だった。
一旦は毛利攻めに協力する姿勢を見せておきながら、突如反旗を翻し、結局は毛利方に走った播磨の名家・別所一族を三木城に囲いこんだ秀吉は、 難攻不落の城を前に攻めあぐねることになる。
病床にあった軍師・竹中半兵衛は、浅井攻めの際に功を挙げた忍壁彦七郎、今は僧形の「涼山」を用い、 三木城内にいるはずの和平派を調伏して開城させようとする。
「滅びようとする浅井家を裏切った者など他にも大勢ござった。世の非難が涼山に集まってしもうたのは、主に尽すときも主を裏切るときも、 あの男の働きが見事にすぎたまで。なにせ、大嶽の砦が落ちたのは、涼山の手柄と言うてもよい」
「裏切り涼山」は「主家を裏切って織田方を勝利に導いた男」だった。
監視役として同行するのは、毛利に滅ぼされた尼子氏の十勇士の一人「寺本生死之介」。
三木城の好戦派を率いる山城守の参謀、下肢が不自由な異形の怪人「降魔丸」は、かつて浅井家家臣として「涼山」と同じ釜の飯を分けた同輩だった。
これらの「主役級」は言うまでもなく、「脇役」に至るまで見事にキャラクターの立った人物造形に、 手に汗握る「攻防の妙」もいや増すのではあるが、
秀吉の「干殺し」戦術により食糧や水が払底し、次第に追い詰められていく中で、開城させるために送り込まれたはずの涼山と生死之介の心が、 懸命に城を守ろうとする城兵の方へと傾いていく、というあたりの「人情の機微」を巧みに描き出して見せていることこそが、 この読み応え充分の物語の真髄というべきだろう。
ようやく篭城1年10ヶ月目にして、涼山の説得が実り「開城」の運びとなった時、自らの切腹と引き換えに城兵の助命がかなう という条件を喜んで受け入れた領主・別所長治から、涼山は意外な事実を打ち明けられることになる。
涼山がついに探し当てること叶わなかった「三木城内にいるはずの和平派」とは、なんと領主・長治その人なのであった。
「この子の母が和議を勧めてくれながら、すぐには決心できなんだ」
長治も同じく、七郎丸を愛おしそうに見つめている。
「織田へ弓引くことで固まっている家臣や民草の心を裏切るわけにはゆかぬと逡巡したのだ。ところが、桔梗はこう申しおった。 『私の父は、主家に民を保つ力はなくなったと見切り、敵に寝返ったと聞き及びます。私は、父は正しいことをしたと信じておりますし、 瞼に浮かぶ父の姿を、いまも遥かな山を仰ぐごとく尊敬いたしております』と」
長治の寵愛を受けた「桔梗」こそは、涼山の裏切りを許すことができずにその元を去り自害して果てた妻が、 一緒に連れ去ってしまった「娘」なのであれば、
今回の「裏切り」は「たった一人の孫」を救うための決死の闘いでもあったのである。
『民の守護者として最善の方途と思し召しであれば、殿さまも毛利右馬頭どのであろうと、叔父御山城守どのであろうと、 恥ずることなくお裏切りになられませ。世に恥ずかしき裏切りがあるとせば、己が心を裏切ることと心得ます』
2008/4/18
「親の家を片づけながら」 Lフレム ヴィレッジブックス
どうすれば、今までタブーだったことを―現実に、しかも法律のお墨つきで―実行できるのか。どんなからくりによって、 ほんの数時間前まで自分の物ではなかった物を、「死」という一瞬が過ぎたあとに“相続”という形で許されるのだろう。
「父なきあと、
ひとり暮らしをしていた母が逝った。
私に残されたのは、一軒の家。
もう住む人がいない家だ。」
自分が恥知らずな人間に思えた。慎み深さのかけらもない。
親のカバンやプライベートな書類をあさり、自分あてではない郵便物を勝手に開封する。
礼節とは何かを教えてくれた親に対し、礼儀の基本すら破るようなことを行う。
「少しずつ整理するうち、
やがて姿を現したのは、
まったく知らなかった
両親の意外な素顔と、
両親が生涯抱えていた
深い心の傷だった―。」
2000年に母が亡くなった時には、7年間の闘病(リンパ腫)の後だったので、「哀しむ」だけの心の準備はできていた。
2年後にその母の後を追うように、父が逝ってしまった時は、意外な事故死だったので、「整える」だけの暇さえなかった。
「親の家を片づける」という行為は、
「何かに触れるたびに、両親と過ごした日々が、様々な形で蘇ってくる」(訳者あとがき)ものなどではなく、
「母(著者にとっては父)を喪った」後の、整理しきれなかった「父(著者にとっては母)の想い」を、 「父(著者にとっては母)」になり変わって「整えて」いくようなものなのではないだろうか。
だからこそ、「親の家を片づける」ということは、
(もちろん、私の両親は「収容所生活」のような「重い過去」などひきずってはいないが、それでも著者と同じように、)
こんなにも
「私は傷ついていた。」
と同時に、
「親の物を捨てることで生きる悦びが高まっていた。」
のではあるまいか。
ちびたロウソク五キロ分にいたっては、誰がほしがるだろう?それはいくつものビスケットの箱の中にどこかしょげた感じでつめ込まれていた。 虹のように色とりどりのロウソクには、細くて長い物、曲がった物の他に、ごくちびている物もあった。 「ロウソクを最後まで使い切る倹約ぶり」という比喩は、この家の場合よく的を射ている。笑うべきなのか嘆くべきなのかよく分からなかったが、 そのうち両親への愛情がそのけちぶりを嘲る気持ちに勝った。
私の場合、それは、
「分刻みで塗り分けられた1日の天気図と、多くは日常の生活行動のみが延々と記された何冊もの手帳」だったのであり、
「2週間に1回、通院するたびにもらってきながら未使用のまま残された大量の湿布薬」だったのだ。
今まで私は勇ましく片づけをこなして来たのに。今さらどうして、糸くずや紙切れ、ロウソクのただひとかけらを見るだけで これほどほろりと来るのだろうか。
2008/4/15
「日本の行く道」 橋本治 集英社新書
どうすれば、地球の温暖化は回避できるのか?
答えは簡単です。「産業革命以前の段階に戻せばいい」です。「そんな落とし所があっていいのか?」と言いたいくらい、めちゃくちゃな答えです。
というのが、橋本治が提示してみせた「いきなりの結論」なのである。
「二酸化炭素の排出量を減らす」などという具体的な対処法は、事が具体的であるために逆に、 「あれもだめ、これもだめ」という現実が浮かび上がってきて、救いのないことになってしまう。
「地球の温暖化の原因」が、産業革命以来の「人間の生活活動の結果」であることは「はっきりしている」のだから、具体的な現実を無視して、 もうちょっとアバウトに考えてみればいいのだ。
「展望のない現実に即して展望のない現実を見る」というのは、とても不毛で救いのないことです。 「対処」ということを考えなければなりません。つまり、「落とし所を考える」です。
しかし「産業革命以前に戻すことは正しいのだ」ということを前提にしても、これを具体的にやろうとすると、 当然それは「唐突」で「めちゃくちゃ」な話になるので、
ここのところは妥協して、「だったら1960年代の前半に戻せばいい」とすると、俄然リアリティーも湧いて来るではないか、というのである。
1960年代前半には、けっこういろんなものがあります。
・飛行機は飛んでいた。新幹線もかろうじてあった。
・東京オリンピックはあったが、「その後」の成長論はないことになる。
・インターネットはないが、コンピューターはあった。
・もう1千万台のテレビがあった。高いけど、カラーもあった。
・大気汚染は進んでいたが、「マイカーの時代」ではなかった。
・まだ「超高層ビル」はなかった。
「そこら辺がいいとこなんじゃないか?」
これだけあったら十分じゃないか、だったら、
「心構えだけでOK」の精神論ですべてを達成するのは、やはり困難で無理があります。だから、「形から入る」という方法もあります。
そこで、
「地球温暖化対策」として、「1960年代前半に戻す」ために「今存在している超高層ビルを全部壊してしまうこと」を、 これからの「日本のあり方」とする。
そうすれば、
・「どう見ても1960年代前半」という外観を得られる。
・溢れた人が「地方」に移り、地方が再生する。
・「虚栄より実質だ」というフェイントで、国際社会が、何より中国がビビる。
だから、
大規模な工事が出来る建設会社がなくなって、老朽化した超高層ビルだけが残っているのは、考えてみたらとても厄介なので、 「壊せる技術と資金力」がある内に
「超高層ビルを解体する」
という結論に至るわけなのであるが、
この本は、なにも「地球温暖化」の対処法を論じるためだけに書かれたわけではない。
「なにかがおかしい」今の日本の社会の「行き場の無さ」は「なにがおかしいのか?」「どうおかしいのか?」、 その途方もない「原因」を探るために、
たとえば「地球温暖化」(この本では、たとえば「いじめ」の問題も論じられている)という問題を例として、考えてみるとこうなったという、
これは、橋本治一流の「戦略的に有効な、かなり衝撃的な攻め方」を示してみせたものなのだった。
2008/4/13
「その数学が戦略を決める」 Iエアーズ 文藝春秋
でもいまや何かが変わりつつある。企業も政府も、意志決定をますますデータベースに頼るようになっている。 ヘッジファンドの話は、実は新種の定量分析屋たち―「絶対計算者たち」とでも呼ぼう―の物語で、かれらは巨大なデータ集合を分析して、 一見すると無関係なものの間に定量的な相関を見いだしたのだ。
分析されることになるデータ集合の規模は「テラバイト」(1000ギガバイト)から「ペタバイト」(1000テラバイト)。
アメリカ議会図書館全体の文字量でさえ20テラバイトにすぎないというのに、ウォルマートのデータウェアハウスは570テラバイトのデータを、 グーグルになると4ペタバイトのデータを持って、リアルタイムで定量計算し続けているのだ。
テラ単位のデータの複数要素の相関関係をコンピューター計算していく「テラマイニング」(=兆単位の発掘)という武器を持つ 「絶対計算者たち」は、いまやあらゆる分野で「直観主義者たち」や伝統的な「専門家たち」を打ち負かすようになってしまった。
「気候と価格との歴史的な相関」のデータ分析から、降雨量や平均気温でワインの品質を予測できるという数式を発表したアッシェンフェルターは、 ワイン業界から「ペテン師」という罵倒を浴びせられることになったが、収獲時点でワインの将来品質を予測してみせた彼の評価は、 どの評論家の観測よりも正しかった。
野球は素人のビル・ジェイムズが作り出した、出塁率を重視して四球の多い選手に高い評価を与えるという「方程式」は、 ジェレミー・ブラウンという好選手の発掘に成功したが、「選手を見るだけで才能を判断できる」はずのプロのスカウトたちが彼に与えた評価は 「ただのデブ」というものだったのである。
『マネー・ボール』
(Mルイス ランダムハウス講談社)
エール大学教授で、経営学部と法学部の両方に籍を置くという著者は、自身がデータ分析によって現実の政策や裁判に影響を与えている 「絶対計算者」として、絶対計算の適用範囲が我々の想像を超えて広がっていることや、そこから生じている社会の変化、 そして抵抗勢力の動きなどを、豊富な事例によって教えてくれる。
「貧困をなくすための福祉政策」や「再犯率を下げるための刑事政策」を決定するのは、いまや政治家ではなく、 「どの政策がもっともうまくいきそうか」を当てる回帰分析なのであり、
患者の症状からどんな病気にかかっている可能性が高いかを洗い出してくれる診断支援ソフトなどの「根拠に基づく医療(EBM)」は、 ひとりの医師の知識の限界を超え、盲点をふさぐことで誤診を防いでくれるはずだが、裁量範囲を狭められることになる医師たちの抵抗は強い。
脚本の特徴だけから(スターはおろか監督さえまだ決まっていないのに)その映画がどのくらいの興行収入をあげるか予測できるという方程式は、 業界の多くの人々には歓迎されなかった。人間の創造性にまで絶対計算に口出ししてほしくないというのだ。
そして、そのことは逆に、方程式を作ったエパゴギクス社に大きなチャンスを与えたことになる。 彼らは方程式を無視して商業的に大失敗した映画の台本を最適化してリメイクすることで、方程式の正しさを証明するつもりなのだ。
絶対計算の結果を人間が裁量で撤回すると失敗することが多い。
「専門家」は必ず「絶対計算者」に敗北するのである。
スタジオの重役たちは、何年にもわたる試行錯誤のあげく、いまだにストーリーの構成要素に正しい重みづけができずにいる。 マシンと違って、かれらは感情的にストーリーを体験はできるが、感情というのは諸刃の剣だ。 エパゴギクスの方程式がそこそこ成功しているのは、何が効くかについて無感動に重みづけをするからなのだ。
2008/4/11
「犬身」 松浦理英子 朝日新聞社
梓は微笑みを浮かべ仔犬に一歩近づいた。仔犬は前肢を立て首を梓の方に伸ばした。尾てい骨のあたりがざわざわとしてうるさい と思ったら、知らないうちに尻尾をぱたぱたと振っていた。梓がかがみ込んで仔犬の頭から首筋にかけてを撫でた。 指先が毛の間に割って入るくすぐったいようなぞくぞくするような感触も素敵だったし、遠慮なくしかし優しく撫でつけられると 気持ちよさ以上に遊びに誘われているような楽しさを感じて、仔犬も思わず立ち上がり梓の膝に頭を押しつけた。
仔犬の名前は「八束房恵」。自分は本当は人間ではなく犬だという「種同一性障害」を抱えていた30歳の彼女は、 怪しげなバーテンダー「朱尾献」に死後は魂を捧げるという契約を交わし、念願の仔犬へと変身を遂げる。
飼主の名前は「玉石梓」。房恵が「あの人の犬になりたい」と憧れていた29歳の陶芸家である彼女は、 この牡犬に「フサ」(毛がふさふさしているから)と名付けて飼うことにする。
こうして、梓とフサの「蜜月」のような生活は始まった。
(八束房恵と玉石梓とくれば、もろに『南総里見八犬伝』なのではあるが、ネーミングを借りた以上に深い含意はないように思われる。)
第59回「讀賣文学賞」受賞作品。
松浦理英子といえば、何といっても、足の親指がペニスになった女性の性の遍歴を描いた、あの『親指Pの修業時代』(93年) の記憶があまりにも強烈なので、
動物は涙を流すんだったろうか。フサの頭は二つに分裂したかのように、彬の腰が盛んに梓に打ちつけられるのを見つめながらも、 直接関係のないことを考え始めていた。海亀が産卵する時に涙を流すのはテレビで観た。一人暮らしの友達が飼っていた猫は、 忙しくてかまってやらないでいると、ある日出かける支度をしている飼主のそばにすわって涙をこぼしたそうだ。犬は?
という、中学生の時から梓に性的虐待を加えてきた兄・彬との、うんざりするような「肉の関係」が並行して物語られてもいくのだが、
これはあくまでも、そこからかえって対比的に浮かび上がらせるための布石というものなので、
「犬好きの人はなぜ犬を愛するのか。犬はなぜ人を慕うのか。言葉も交わせないのに、そこには確実な愛情関係がある。性的欲求とは別の、愛情と、 皮膚感覚の官能的な喜びを描けるのではないかと考えました」(朝日新聞の著者インタビュー)
というのが、この物語の本流なのである。
そんなわけで、私はまったく「犬好き」ではないが、
梓を救おうとして彬に襲いかかり、逆に撲殺されてしまうという「哀れな結末」(彬は「器物損壊罪」に問われるにすぎないのだ) をたどったフサなのではあるものの、
まるで著者が「おまけ」で付けてくれたかのような、底抜けのラストシーンにやられてしまうと、
「こんな犬なら飼ってやってもいいかも」
なんて、思わないでもないのだった。
フサの尻尾はすでに盛んに振られ、朱尾の服に当たってばさばさ音をたてていた。梓の視線が朱尾の顔から胸元に下りた。眼が合った。 梓の顔に顕れた愛情が輝きを放つようにして大きく広がった。泣きたいほどの喜びに胸を甘く疼かせながら、 フサは朱尾の胸を蹴って梓の胸に飛び込んで行った。
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