徒然読書日記200803
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2008/3/25
「梅原猛の授業 道徳」 梅原猛 朝日新聞社
日本の伝統の宗教である仏教を中心にして、儒教、神道、キリスト教を取り入れた道徳を、 しかも現代日本の社会の要求に応じて説いた書物はほとんどないといってよい。これはまさに日本で初めての仕事であるが、 その仕事には前回以上の努力が必要であった。
と著者が「あとがき」で述べているように、
この本は、京都有数の名門校・洛南高校附属中学の三年生を対象に行なわれた「仏教」の授業が大好評だったのをうけて、 引き続いて行われることになったという「道徳」の授業の記録である。
全部で十二時限ある授業のうち、最初の五時限では「道徳とはなにか」ということについての概論が語られる。 仏教を中心とした宗教との関係性の中で、日本においては「道徳」というものがどのように捉えられてきたのか、 という歴史的な流れも踏まえながら、 それでは「これからの日本の道徳」はどのように考えたらいいのだろうかという著者の考え方が、わかりやすく説き起こされている。
「自利」と「利他」のバランスがとれているという意味での「道徳」は、動物には自ずから備わったものであるが、 欲望が複雑で肥大しがちな人間においては、「母の愛」という「利他」の心に「道徳」の根源を置いて、社会の秩序を守っていかなければならない、 というのが著者の主張のようである。
授業の後半部分は、そんな著者が考える「道徳」の実践編として、
「人を殺してはいけない」
「嘘をついてはいけない」
「盗みをしてはいけない」という「三つの戒律」と、
「努力と創造」
「愛と信」
「感謝と哀れみ」という「人生をよりよく生きるための徳」について、
「みんなでよおっく考えてみましょう」みたいな構成になっているのだ。
というわけで、
まあ確かに、おっしゃる通りで、特に宗教のお話なんかはとってもわかりやすくて、さすがだとは思うのであるが、 「隠された十字架」や「水底の歌」の、あの梅原先生なんだからと、
「呪の思想」
(白川静 梅原猛 平凡社)
のようなお話に分け入っていくことを期待した向きには、いささか喰い足りない思いが残ることになった。
ちなみに、暇人らしくもなく、なんで「こんな本」を読んだのかというと、ある経営者団体の「読書会」の課題図書だったからなのである。
2008/3/25
「今夜も落語で眠りたい」 中野翠 文春新書
それよりも私が、そして世間一般が笑いころげたのは新作落語のほうだった。柳亭痴楽の「痴楽綴り方狂室」であり、 三遊亭歌奴(のち圓歌)の「授業中」であり、桂米丸の漫談風の人物スケッチなのだった。なぜあんなにおかしかったんだろう。 とにかく、おなじみのフレーズ―「柳亭痴楽はいい男、鶴田浩二や錦之助、それよりグーンといい男」や 「山のアナ、アナ、アナ・・・あなたもう寝ましょうよ」を何度でも聞きたいのだった。
と、小学校時代の思い出を語る著者は、古今亭志ん朝が真打に昇進した昭和37年に高校生だったというのだから、 私より7,8歳年上ということになるが、このあたりの「落語遍歴」は不思議なことに私と共通している。 私も小学校低学年の頃から、ラジオで痴楽や歌奴や、さらには桂三木助や、都家かつえなどを聞いており、 スーパースター柳家金語楼は落語家であるという認識を持っていなかった。
それにしても、どうしてあんな際物に近いものを、当時は一生懸命聞いていたのかと、確かに今から思えば、まことに不思議なのである。
そんなわけで、
当時まだ文楽も志ん生も(八代目・可楽まで!)健在だったわけだが・・・ああ、何て悲しいことだろう、何て勿体ないことだろう、 私はほとんど記憶にないのだ。姿かたちだけは知っていたものの。
という同じ「悔い」を胸に抱きながら、 ここ二十年間は毎晩、一日の終わりに、桂文楽、古今亭志ん生、古今亭志ん朝、金原亭馬生の4人の名演を楽しみながら眠りについているという、 著者の「至福の時間」のお裾分けに与ることになるのだが・・・
ある日突然「目からウロコが落ちたかのように」古典落語の魅力に目覚めてしまったのは、1985年12月16日の深夜、 テレビで古今亭志ん朝の『文七元結』を見てから、というだけあって、とりわけ「志ん朝」の在りし日の姿を語る、その「語り口」は熱いのである。
ああ、DVDが欲しくてたまらない!
志ん朝さんは言う。「言葉にしてもそう。同じ“描く”でも、眉だったら“引く”、口紅だったら“注す”と使い分けて来た。 こういうことは、どうでもいいと言ったらどうでもいい。けれど、大事と思ったらとっても大事なことなんです」。
私は思う。“教養”とはまさに「どうでもいいけれど、どうでもよくないこと」なのじゃないか。 そして、落語家・古今亭志ん朝をつくりあげたのは、父・志ん生ではなく母・りんさんだったのではないか、と。
2008/3/20
「死因不明社会」―Aiが拓く新しい医療― 海堂尊 講談社ブルーバックス
別宮 たった2パーセント、ですか(絶句)。
白鳥 つまり98パーセントは、体表からみた検案で死亡診断書が書かれているんだ。
別宮 でもまあ、今さら死んだ人が生き返るわけでもなし、しゃかりきにならなくても。
白鳥 ほら、そういう幼稚な一般人の認識が、我が厚生労働省を増長させて、解剖システムを脳死状態にさせちゃったんだ。 社会的には死因を確定することは、その人の尊厳を守る当然の義務であり権利なんだ。 だけどそれが日本ではものすごい不平等状態に置かれている。
我が国、日本における年間100万人以上の死者のうち、最終的に解剖されているのは、わずか3万人にすぎない。 一方、「異常死」と呼ばれる原因不明の死亡者は、全死亡者の15パーセントに達すると言われている。
では、解剖が行われなかった、それら「異常死」の死因は、どうやって調べているのか?
別宮 体表から見てわかったんじゃんないですか。
白鳥 体表から見て死因が確定したものは、異常死ではありません。
別宮 あれ、あれ?それじゃあ一体?ま、まさか・・・。
白鳥 (大きくうなずきながら)その通り。ほったらかしでいい加減な死亡診断書、あるいは死体検案書を記載することで済まされているんです。
別宮 ひ、ひどい。
「死因」を特定するための、有力な手掛かりを与えてくれるはずの「解剖」が、次第に行われなくなってきているのは、
@「解剖」は遺族の了承を取りにくい
A「解剖」には膨大な手間と高額の費用がかかる
B「解剖」しなくても画像診断の進歩が著しい
など、様々な理由があるようだが、
C「解剖」に対し、国からの費用拠出が行われていない
という驚くべき事実が、その大きな原因の一つとなっているというのである。
白鳥 ひどいですか?でも、国家はそれで構わないと容認しているんです。
別宮 えええ?なぜですか?
白鳥 お金がないからです。
別宮 そんな。ひどすぎます。
白鳥 そう、現実はひどい。だけど官僚のごまかし方が上手だから、誰も気づかずそうした問題が放置され続けている。
別宮 知らなかった。
白鳥 無知は罪なんだよ。特に葉子ちゃんのようにメディアに関わる人の無知は、拡大再生産されるからね。
「チーム・バチスタの栄光」
(海堂尊 宝島社)
に登場した厚生労働省の変人役人・白鳥圭輔に対する、記者・別宮葉子の独占インタビューという形式を各章ごとに間に挟んでいるため、 軽快でコミカルな印象があるが、
明らかな犯罪行為や児童虐待すら見逃してしまう「無監査医療」がはびこる日本の「死因不明社会」という闇の問題を早急に解決するために、 CTやMRIを利用した「死亡時画像病理診断」(Ai)の導入が急がれるという著者の、現役医師としてのその指摘は重く受け止めねばならない。
「死因究明制度」という言葉は、医療界の人間は使ってはならない。それは国家公務員が「国民に対する奉仕業務を検討する会」 を結成するのと同じだ。公務員の本分なのだから、そんな検討会は存在させてはならない。 同様に、死因究明とは医師が当然行わなければならない基本業務だから、制度構築を改めて意図する公式な検討会など、運用させてはならない。
・・・
「死因不明社会」解消の処方箋は、死亡時医学検索の拡充に尽きる。それは、社会安寧のためだけでなく、医学の進歩のためにも必須である。 現代社会において、死亡時医学検索を拡充させるために最も有効な手段、それがAi、すなわちオートプシー・イメージングの導入である。
2008/3/16
「ナイフ投げ師」 Sミルハウザー 白水社
ナイフ投げ師、ヘンシュ!もちろん私たちは彼の名を知っていた。有名なチェスプレーヤーや手品師と同じく、誰もが彼の名を知っていた。 私たちにとっていまひとつ定かでなかったのは、では彼は実際何をするのか、という点であった。
すぐれた投げ技をもつヘンシュには、自他ともに認めるナイフ投げの名手という名声とともに、ある種の不穏な噂がつきまとっていた。 「彼は、ナイフ投げという無害な芸に、技巧的な傷という概念を導入した」つまり、「的」に「血のしるし」をつけるというのである。
(ナイフ投げ師)
という、毀誉褒貶の苦さに満ちた「表題作」を初っ端に読まされてしまえば、
「仕事から帰ってきた父さんが細長い包みを小脇に抱えていたときも僕は驚かなかった。」 近所の家の裏庭でも見かけるようになった「絨毯」に乗って、空を飛ぶ練習をした、「つねに終わりかけ」ていて「いつまでも続いた」 僕たちの夏の日々を描いたり
(空飛ぶ絨毯)
「これは今夜、夢の青さをたたえた冒険と啓示の夜に―彼女が僕を問いただしもしない、ありえない訪問の夜に―たまたま一晩だけ起きたことなのか」 眠れぬ夜の散歩で15歳のぼくは、月光の下で野球に興じる同じクラスの4人の女の子に出くわしたり
(月の光)
といった、甘酸っぱい少年時代の「心の震え」のようなものを感じさせてくれる「佳品」もさることながら、 12編の短編からなるこの本の「真骨頂」が、
きわめて職人的な芸術家が登場し、その芸を見る見る高めていって、世間にももてはやされるが、やがて芸があまりに高度になっていって、 大衆から見放されるものの、芸の道はいっそう究められ、もはや自壊するしかないところまで上りつめていく。
(柴田元幸@訳者あとがき)
事の次第を、追い詰めるかのように精緻な筆致で描きこんでいく、一連の作品のほうにあることは、間違いないと言ってよいだろう。
色あせていくばかりの古びた百貨店を買収し、大改装した歴史的遺産の模造やレプリカの展示そのものを売り物にしようとしたり
(協会の夢)
「娯楽にとって最大の敵は退屈である」ことを追求するあまり、遊園地の出し物を「悪魔的に」ゆがめていってしまったり
(パラダイス・パーク)
しかし、何といっても、極めつけは、
「二十四歳にしてすでに、からくりの動きのこの上なく微妙な複雑さを極めた」自動人形芸術の名匠ハインリッヒ・グラウムが、 最後にたどり着くことになった極北を描いた
「新自動人形劇場」
であろうと、私は思う。
「新しい自動人形たちは、ぶざまとしか形容しようがない。すなわち、古典的な人形の何よりの特徴である動きの滑らかさの代わりに、 そこにあるのは、素人の作ったからくり人形のぎくしゃくとした唐突な動きである。」
しかも、
「彼らはどう見ても人間には見えない。実際これら新しい自動人形たちは、何よりもまず自動人形に見える。」
ところが、
「グラウムの新しい自動人形たちは、苦しみ、あがく。これまでの自動人形に劣らず、魂を持っているように見える。 ただし持っているのは人間の魂ではない。ぜんまい仕掛けの生き物、自己意識が芽生えたぜんまい仕掛けの生き物の魂なのだ。」
彼らは私たちの生と並行した、だが私たちの生と混同してはならない生を生きている。彼らのあがきはからくりのあがきであり、 彼らの苦悩は自動人形の苦悩である。
2008/3/10
「エレクトラ」―中上健次の生涯― 高山文彦 文藝春秋
「この原稿は発表できない」
と、痩せた男は単刀直入に言った。
「これはあなたが作家になろうとする動機だ。あなたはこれを書かなきゃいけなかった。だから作家になろうとしているんだ。 しかし、これを書くには、まだ熟していない。だから、おれは発表できない」
巨漢は思いあまって、
「これがおれにとって、どんな作品なのかわかってるのか」
と、憤りを押し殺した声を投げつけた。
昭和47年の暮れに近い寒い一日。御茶ノ水駅のそばの喫茶店。痩せた男は河出書房新社の編集者、鈴木孝一(27歳)。 巨漢は、中上健次(26歳)。
生まれ育った紀州から東京に「パッシング」してきたという健次に、「果肉ばかりをしゃぶっていて、梅干しの殻を破っていない」 と煽るように書かせてしまった「作品」を、鈴木は原稿のまま突き返さざるを得なかった。
その作品の名は『エレクトラ』。
残念がら未発表のまま、火災で焼けてしまったというその作品は、健次自身の原体験をかなりナマなかたちで綴っているという意味で、 やがて芥川賞を受賞することになる『岬』から、『枯木灘』『地の果て 至上の時』へとつながっていく原点とも言うべきものではあったが、
「父の血」の問題がテーマとなっていく後の小説とは違って、そのタイトルが暗示している通り、この作品のメインテーマは「母殺し」だった。
鈴木が予言した通り、「すべてはこれを書くためにあった」と満を持して発表した『岬』は、
「読者はむしろ、作者の歌を聴きたいと希っている。中上氏の『岬』から聴こえて来るような、個人の心から湧き上がってくる歌を」(江藤淳)
「(今日の文学者には書くことがないのではないかという時代にあって)この作家にとっては、書くべきことは今あり余っているに違いない」(大岡信)
と、激賞をもって迎えられることになるのだが、 そんな中上健次の激烈な生涯に秘められたもの、「なぜ俺は作家になったのか」ということの意味を突き詰めるかのように、
「ひとりの文学志望の青年が、作家として目覚め、世の中に出てゆくまでの神話時代」
に着目し、親戚・友人・知人への綿密な聴き取りを重ねることで、
本人が好むと好まざるとにかかわらず、生まれ育った熊野新宮の被差別部落という場所が、あるいは霊地たる熊野総体が、 殺戮されてきた自分らの声や叶えられぬ望みを伝える物語の記述者として健次を選び、彼をこの世に送り出したのではないかと思えてくる。
と喝破してみせたこの著者が、まるで「共振」するかのごとく、健次の「魂の叫び」をその手で紡ぎ出すことができたのは、
彼もまた、霊地・高千穂に生を享けたものであったればこそなのではないか、という思いに至る。
そうなのだ、
『火花』
(飛鳥新社)
『水平記』
(新潮社)
を、まるで我が身を削るようにして著して見せた高山文彦もまた、
「これを書かなければ生きていけないというほどのいくつもの物語の束をその血のなかに受けとめて作家になった者」
なのであった。
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