徒然読書日記200802
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2008/2/19
「乳と卵」 川上未映子 文藝春秋
あんたは、あたしと口がきけんのやったら、どうでもしい、どうでもしたらええよ、ええわ、と云い、 ひとりで生まれて来てひとりで生きてるみたいな顔してさ、と昨今昼ドラでもなかなか聞けぬような台詞を云って、
「なあ緑子、あたしはいいねん、あたしはええよ」
と、何がいいのかそればかりを繰り返し、これに対して緑子は何も云わず、巻子に背を向けて流しの中を見つめてるままで、 これは大変に鬱陶しいやろうな、と気の毒に思った。
大阪から、東京で暮らす妹の元へ、二泊三日の予定で上京してきた母と娘。 初潮を迎えようとしている小学生の娘・緑子は、東京で豊胸手術を受けようと奔走する母・巻子に対し、しゃべることを拒絶していた。 二日目の夜、「十年ほど会っていなかった元夫」に会ってきたと、母は酔っ払って遅く帰宅する。
ああ、巻子も緑子もいま現在、言葉が足りん、ほいでこれをここで見てるわたしにも言葉が足りん、云えることが何もない、 そして台所が暗い、そして生ゴミの臭いもする、などを思い、緑子の口の辺りの緊張した様子を見ながらに、しかしこんなこと、 なんかが阿呆みたいだ、なんかがどうでもいいのだという気持ちがあって、わたしは台所の電気をぱちんとつければ蛍光灯が 台所の隅々を浮かび上がらせ、巻子は真っ赤になった目を細め、一瞬まぶしそうな顔をしたが、 緑子は自分の太股に手をぎゅっと押しつけたまま巻子の首のあたりを見つめ、突然に、
「お母さんは、ほんまのことをゆうてよ」
と緑子はそれだけを云うのがやっとで、うつむいてそのまま体中に力を込めて立っているということに、いま何かがみなぎっていて、・・・
本年度「芥川賞」受賞作品。
読点のみで区切られた、とどまることを知らない饒舌な「大阪弁」のドライブ感は、町田康を髣髴とさせる滑稽味を醸し出しているのだが、 引用とは違って、本当は「括弧」なしで組み込まれている「会話」の一つ一つや、緑子のメモ帳という形で綴られる独白は、
「容れ物としての女性の体に調合された感情」(@山田詠美)
の機微に満ち溢れてもおり、 いつだって母と娘の壮絶な「口論バトル」を、ハラハラドキドキしながら唖然として見守っているしかないダメ親父にしてみれば、 「とても勉強になりました。」ともいうべき逸品であった。
それにしても、いつものこととはいえ、
「この作品を評価しなかったということで私が将来慙愧することは恐らくあり得まい。」(@石原慎太郎)
なんて、元々何があっても「慙愧」などしそうもない人からそんなこと言われても、困ってしまうのではなかろうか。
2008/2/19
「かたき討ち」―復讐の作法― 氏家幹人 中公新書
江戸時代、武士が合法的に(すなわち殺人の罪に問われる心配なく)敵を討つためには、一連の手続きが必要だった。
@「目上の親族や主人の敵を討とうとする」者は、まず主君の許可を得て、敵討の免状を受け、奉行所に届を出す。
A奉行所の帳簿に届が記載されることを「帳付」といい、討手は敵討許可証の謄本「書替」を受け取る。
B敵を発見した討手は現地の役所に届け出て、敵討を行う許可を願い、役所は敵を捕らえた上で、幕府にその処置を伺う。
C江戸からの指令を受けて、現地では竹矢来などで囲んだ場所を用意して敵討を行わせる。
D無事、敵を討ったら討手は奉行所に「帳消」の手続きを行う。なお、討たれた敵の親族がその敵討をすることは許されず、 返り討ちにされた討手の親族が敵討を繰り返すのも許されない。
気付いた敵がとっとと逃げ出してしまうのではないかと思うほど、あまりの「まだるっこしさ」に討手の「やる気」もうせてしまうような この制度は、徳川幕府が「復讐の作法」としての「敵討」という悪循環のシステムに歯止めをかけようとしたもののようなのである。 その結果、“小さな戦争”のような大規模な復讐戦は姿を消し、一人かせいぜい二、三人の討手による一回切りの敵討が定着した。 管理されると同時に忠孝道徳で染め上げられ、野次馬の喝采を浴びることで、“至情”はゆがめられ、復讐のあり方も変質していく。
「うわなり打」
離縁された先妻が親しい女どもをかたらって後妻の家を襲うこと。襲撃の日時から所持する得物、仲裁が入るタイミングまで、 「作法」に則って行われており、先妻側の憎悪、鬱屈を解消させる儀式的な側面もある。
「さし腹」
怨む相手を指名してから切腹し、相手にも腹を切らせること。一対一では到底討ち果たせそうもない相手を合法的に殺害できるという、 弱者には格好の復讐方法である。
「太刀取」
本来なら自分の手で討ち果たすべき敵が、公権力に捕縛され、法の定めに則って処刑される場合、せめて刑場で斬り手を務めさせること。
これなんて、失言を繰り返す某法務大臣が罷免されないうちに、どさくさに紛れて復活してしまえば、 自民党の支持率も回復するのではないかと思うような、画期的な「復讐の作法」ではないだろうか?
平成13年(2001)11月15日、埼玉県立高校の30代の教諭の遺体が静岡県の山中で発見された。 行方不明になってから4ヶ月後。被害者は、出会い系サイトで知り合った女性の仲間の男に拉致され、殺害されたのだという。
遺体発見翌日の『毎日新聞』は、被害者の60歳の母親が、大粒の涙をこぼしながら、 「犯人が憎い。できるなら犯人と刺し違え、かたきを討ちたい」と語ったと報じた。
2008/2/16
「私の男」 桜庭一樹 文藝春秋
私の男は、ぬすんだ傘をゆっくりと広げながら、こちらに歩いてきた。日暮れよりすこしはやく夜が降りてきた、午後六時過ぎの銀座、 並木通り。彼のふるびた革靴が、アスファルトを輝かせる水たまりを踏み荒らし、ためらいなく濡れながら近づいてくる。
「けっこん、おめでとう。花」
「ありがとう、淳悟。・・・いま、傘をぬすんだでしょ」
2008年6月、24歳になった腐野(くさりの)花が、養父の淳悟と待ち合わせ、婚約者の尾崎と会食する、 というところからこの物語はスタートする。 9歳の時、奥尻島の震災で孤児となった花を、当時25歳の独身の身で引き取って育ててきた従兄弟の淳悟は、 まだ40歳の「花嫁の父」だった。
各章ごとに「語り手」を変えるというスタイルで、物語は2008年の現在から1993年の奥尻島へと時を遡り、 花と淳悟の「濃密な父娘の暮らし」に秘められた真実を浮かび上がらせていく。
深呼吸した途端に、冬の終わりと春の始まりのあいだの一瞬に、町に充満するいやな臭いを思いっきり吸いこんでしまった。 海に蓋をしていた流氷が割れて、海岸から離れてロシアに向かって流れ始め、同時に港が海明けする、この季節。蓋が取れた海と、 加工場に溢れる魚の頭や内臓の臭いが入り混じって、生ぬるい臭気が発散する。風は、おどろくほど吹かない。 冬でも春でもない、ただの、風の季節。これが毎年やってくる。かすかに風が吹くときも、生暖かくていやに湿っていて、 老人の手のひらでじとじと触られているような、いやな感じが全身をくすぐる。
「あぁ、いやだ。」
と顔をしかめる淳悟の恋人・小町の目に映った、坂道を上がってくる二人組みのシルエット。
背の高いひょろりとした若い男。
そのとなりには、彼の胸かお腹の辺りまでしかない小柄な子供。
この物語に一貫して流れている「ムード」のようなものを象徴しているかのような「シーン」。
花が淳悟を見上げて、にこっと笑いかけた。わざわざ足を止めてから、淳悟がすこし乱暴に、子供の頭をくしゃくしゃと撫でた。 花が小首をかしげて、淳悟をみつめる。それはいかにも弱々しくて、嵐から守ってやらなくてはと大人に思わせる、青白い横顔だった。
本年度「直木賞」受賞作品。
物語の途中で、唐突に発生する二つの「殺人事件」の、動機となったらしい「擬似近親相姦」の真相が明らかになっていくというところに、 この物語が一応「ミステリー」に分類される由縁はあるらしいのだが、
淳悟が、しばしば口ごもったように発する「お・・・」という言葉に秘められた、本当の意味を知ってしまえば、 「軽い衝撃」とともに、この物語の本質が、実は「そんな所には全然なかった」ということに気付くのだ。
考えようによっては「おぞましく」もある、退廃的な「肉体関係」の描写でさえも、次第に「ほほえましく」、 時には「美しく」さえ思われてくるほどに、これは「魅力的」な「父娘の関係」のあり方を描いた究極の「恋愛小説」だったのだということに。
「なぁ。自分と同じ血が流れてる、なのに女だ、と思うと、どうしてこんなにたまらない気持ちになるのかな。誰か知ってるだろうか・・・」
2008/2/16
「地頭力を鍛える」 細谷功 東洋経済新報社
「日本全国に電柱は何本あるか?」
※解答に際してのルールは以下の三つ
・制限時間:三分(厳守)
・電卓、PC等は使用不可(紙と筆記具のみ)
・一切の情報の参照不可
いわゆる「頭がいい」人にも、三種類ある。
第一は、記憶力がよく何でも知っている「物知り」の人
第二は、人の気持ちを察知して行動できる「機転が利く」人
最後に、数学やパズルを解くのが得意な「考える力の強い」人(これを「地頭がいい」と呼ぶ)
三つの能力はいずれもビジネス(あるいは日常生活でも)には不可欠な知的能力ではあるが、特に「地頭力」というのは、 未知の領域で問題解決をしていく能力という点で、環境変化が激しく、過去の経験が未来の成功を保証するとは限らない現在において 重要な能力といえる。
「地頭力」とは、
「結論から」考える「仮説思考」
「全体から」考える「フレームワ−ク思考」
「単純に」考える「抽象化思考」
という三つの「思考力」で構成されており、そんな「考える力」としての「地頭力」を鍛えるための強力なツールが「フェルミ推定」である。
「フェルミ推定」とは、 「把握することが難しく、ある意味荒唐無稽とも思える数量について何らかの推定ロジックによって短時間で概数を求める方法」なのである。
たとえば
「シカゴにピアノ調律師は何人いるか?」
「世界中で1日に食べられるピザは何枚か?」
「琵琶湖の水は何滴あるか?」
「答え」は重要ではない。(第一、正解がない)
今、手元にあるわずかな情報だけを使って、自分なりの仮説を立て、仮説に沿ったフレームの中で、 とにかくそれなりの「答え」を導き出すことが重要なのである。
この「フェルミ推定」養成ギプスを、処方すると効果があると思われる方々の症例は以下の通りである。
「検索エンジン中毒」
とにかく自分の頭を使って考える癖をつけること
「完璧主義」
時としてスピードが品質より優先順位が高くなる場合があることを理解すること
「情報コレクター」
情報収集の前に仮説をたて、仮説に従った収集を心がけること
「猪突猛進」
一歩引いて全体像をみる癖を付けること
「セクショナリズム」
常に最終目的を達成することを意識すること
「経験至上主義」
一般化や抽象化によって応用力を広げるという意識を付けること
さて、「流れ星に三回願いごとをすると願いが叶う」のはなぜなのか。予想外だろうが、これにはれっきとした根拠がある。 流れ星とは、「何分かに一回ほんの一瞬だけ現れてすぐに消えてしまうもの」であり、「いつ現れるかわからない」ものなのである。 そして、それこそが「地頭力を鍛える」ための「フェルミ推定」の次のステップともいうべき、「エレベーターテスト」なのだった。
この「神様のエレベーターテスト」に合格するためには、 片時も忘れずに願いごとを単純に凝縮した状態で強く心に思い続けることが必要なのだ。 一つのことをそこまで強く継続して思い続ければ、叶わぬ願いなどない
2008/2/12
「ワープする宇宙」 Lランドール NHK出版
私たちの歪曲した幾何におけるグラビトンの確率関数は、重力ブレーンの近辺ではつねに大きく、 五番めの次元が無限であろうとなかろうと関係ない。前の章で見たときと同様に、グラビトンの確率関数はこの重力ブレーン上で最高値となり、 そこを離れて五番めの次元に入ると指数関数的に減少する。ただし、この理論ではグラビトンの確率関数がどこまでも無限に続いていくが、 ブレーン近くでの確率関数の大きさに比べると、どうでもいいような大きさになる。
なんてことを言われても、想像力が枯渇しかけている軟弱な頭では、何のことやらチンプンカンプンなのであるが、
「ふつう、アヒルは池全体に均等に散らばってはいないで、鳥好きの人が投げ込んだパンくずの近くに集まっている。 したがって、池の大きさはアヒルの分布にとってほとんど無意味である。」
などと「わかりやすい例え」で言ってもらえると、何となく分かったような気がしてくる。
しかし、依然として、では、それがどういう意味を持つというのか、ということになると、私の類推の及ぶ域を超えてしまっているのだが、
「四次元重力(三つの空間次元と一つの時間次元をもつ重力)がまさしく局所的な現象になりうる理由を説明する。 つまり、遠く離れたところでは重力がまったく違って見えるかもしれないのだ。詳しくはこのあと見ていくが、 実際は五次元である空間が四次元に見えている可能性があるだけでなく、 ひょっとしたら私たちは五次元宇宙のなかの四次元重力をもった隔離ポケットにすんでいるかもしれないのである。」
私たちが暮らすこの世界は、前後、左右、上下の空間三次元に、時間の一次元を加えた四次元であるというのが、私たちにとっての常識であるが、 実はこの宇宙にはそれ以外に「第五の次元」が隠れている、というのである。
そして、そんな、折角「隠れて」いる「余剰次元」などという厄介な代物を、何のためにわざわざ掘り出してくる必要があるのかと言えば、 そう考えたほうが、様々な事象がうまく説明できるから、というわけなのである。
確かに、物理学が扱う4つの力(重力、電磁気力、弱い力、強い力)のうち、重力だけが「とても弱い」のはなぜか、という「階層性問題」を、 最初に解く鍵を見出したらしい究極の一元化理論「超ひも理論」では、「10次元空間における紐」の挙動が考えられてきたわけで、 これに比べれば、「5次元の世界で運動する素粒子」というのは、私たちにとってまだしも「とっつきやすく」、 しかも、それが近い将来、「高エネルギー粒子衝突型加速器」の性能が上がったおかげで、この目で実際に見ることができるかもしれない、 などと聞かされれば、ますます「親しみ」もわこうというものなのである。
ちなみに、ハーバード大学の物理学部で女性初の終身教授となったという著者が 「女優のジョディ・フォスターにも似た風貌」であることが、私がこの本を手に取ることになった動機のうちの、 どの程度の割合を占めているかということについては、「ヒ・ミ・ツ」である。
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