徒然読書日記200801
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2008/1/30
「警官の血」 佐々木譲 新潮社
「警官は、現場で覚えます。現場で学習します。より大きな犯罪と微罪と、被害者の出た犯罪と被害者のない違法行為と。 何をどう秤にかけて、警官はどう対処すべきなのか。現場の警官は、日々そのことに直面し、瞬時に判断しているのです」
「現場の警察官が判断してよいことじゃない。判断は幹部がする。警察官は、指示に従えばいい」
和也は笑った。はっきりと、嘲笑するように。
戦後の混乱の中で、食いはぐれのない職業として「駐在」を選んだ祖父「安城勝二」は、自らの管轄内で発生した二つの未解決殺人事件を 個人的に追ううちに、不可解な死を遂げる。
父の「民雄」は、公安の秘密捜査官として北大の過激派に潜入し成果をあげるが、過酷な任務の中で人格を破壊され、 祖父の後を追うかのように「駐在」へと転身し、祖父の死の謎を追いかけるうちに、傷害監禁事件の混乱の中で殉職してしまう。
「駐在」ではなく「捜査官」の道を歩むことを選んだ「和也」は、マル暴担当の凄腕捜査官の部下となり、その素行を探るという任務を与えられる。
いわば管理部門のスパイとして「仲間を売る」ことを余儀なくされた「和也」は、その使命を果たしたことにより、 「祖父」と「父」の死の真相をも知らされることになる。
それは「警察」という巨大な組織の論理とは決して相容れることのない、親・子・孫三代にわたり連綿と受け継がれた 「警官の血」の物語でもあった。
というわけで、
戦後の「犯罪史」と絡み合うように展開されていく、「濃い」エピソードに満ち溢れた、それぞれの人生の道筋は、それぞれが、 それだけで一つの「物語」といって過言でなく、さすがに「直木賞」候補作ともいうべき、読み応え十分だったわけですが、 ストーリー全体を貫く「謎」をとく「鍵」であるはずの、「オカマ殺人事件」が「謎」でもなんでもないために(速攻で犯人が読めてしまうんです) 最後の「謎解き」がまるっきり迫力不足に終わってしまったのが、受賞を逃した原因なんでしょうね。
「おれたち警官は、境目にいる。白と黒。どっちでもない境目の上に立っている」
「ありえますか。どっちでもないって」
「ありうるさ。おれたちのやっていることが市民から支持されている限り、おれたちはその境目に立っていられる。 愚かなことをやると、世間はおれたちを黒の側に突き落とす」
「すべては、世の中の支持次第?」
「それが警官だ」
2008/1/19
「宿神」 夢枕獏 朝日新聞
眼を開いて、首を横に向ければ、庭が見える。
昼の光が、すぐそこの簀の子の上にまで差している。
軒から、青い空までが見え、明るい庭で桜が咲いているのまでが見える。
満開の桜だ。
『願わくば 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ』
と、自らが詠んだ歌の通りに、 歌聖・西行が入滅したのは、文治六年(1190)2月15日、ちょうど桜が満開の時であったというのは、よく知られた「事実」であるが、
その西行が、元々は佐藤義清という、鳥羽法皇に仕える北面の武士であり、流鏑馬や弓の名手として名を馳せ、 あの平清盛と交誼を交わしていたということや、
鳥羽法皇の女院・待賢門院璋子との不倫の恋という、満たされることの叶わぬ想いから、出家するに至った事情などは、 この連載小説を読んで、初めて知った「事実」だった。
とはいうものの、夢枕獏がその圧倒的な想像力で描き出してみせたこの「物語」は、 鞠の名手・清経から、幼い頃に手ほどきを受け、自らも名手となった義清が、 清経からもらった「金糸の鞠」を、高く蹴り上げ続けているうちに、宙に紛失してしまうという「不思議」のうちに、 迷い込んでしまった魑魅魍魎が跋扈する「怪しの世界」で、 鞠が手元に落ちてくるまでの、ほんの一瞬の間に見た「一炊の夢」に過ぎなかったのかもしれない。
ざわっ、
と、桜の枝を揺らして、花の中から何かが庭に落ちてきた。
白い、丸いもの−
その丸いものは、小さく、金色の光を放ちながら、ぽーん、ぽーんと庭をはずんで、簀の子の上に落ち、ころりころりと転がって、 西行の枕元の、申が置いた桜の傍で止まった。
2008/1/11
「臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ」 大江健三郎 新潮社
肥満した老人が、重たげな赤い樹脂製のたわむ棒(フレクス・バー)を左手に、早足で歩いて行く。その右脇を、 肥満した中年男が青いたわむ棒(フレクス・バー)を握って歩く。老人が右手を空けているのは、足に故障のある中年男が重心を失った時、 支えるためだ。狭い遊歩コースで擦れちがう者が興味を示すけれど、たわむ棒(フレクス・バー)の二人組は、かまわず歩き続ける・・・
老人が(私だ)、
なんて冒頭に言われなくったって、二人組が「私と(息子の)光」であることは、このノーベル賞作家の最近の作品を読んでいる者にとっては、 当然にわかることであるし、大学時代の友人(今回は映画プロデューサー木守)が登場して、「厄介事」に首を突っ込まされることになる、 というのも、半ばマンネリ化したといってもいい、いつものパターンなのではある。
しかし、序章と第四章で、70歳となった私の「今」(なんだ君はこんなところにいるのか)を、 間に挟んだ、第一・二・三章では、この物語の発端となった30年前の「近い過去」の事件を、ともに「現在」の出来事として語りながら、
「塙吾良」と共有する松山の高校時代の記憶(これもいつものパターン)という「遠い過去」の出来事を、 戦後すぐに、若くして一世を風靡した女優・サクラさんの「復活」のドラマとして、同時に描き出すことを可能にしてくれたのは、
私の「遠い過去」の記憶の奥底に焼き付けられていたのは、ポーの「アナベル・リイ」の詩を元に撮られた少女の「痛ましい映像」という、 ある一篇の8ミリ映画のフィルムの「切れ端」だった、
という「事実」が象徴しているように、この作家が新たに獲得したらしい「映画的」な文体のせいなのである。
冒頭に引いたテクストなど、まさに8ミリ映画の「映像」そのものではないか?
Kenzaburo、きみはもうすでに、いったんシナリオを書いた。それが映画になればどういうものであるか、きみ自身には見えてただろう。 それを思い出して書いてもらいたい。小説の玄人として、映画の小説を書いてもらいたい。 それをテクストに、サクラさんが自由に映画を撮影する。彼女こそ映画の玄人だ。それはできる。
2008/1/7
「無人島のミミ」 中沢新一 讀賣新聞
少年時代、「私」の足元には赤い小さな子供がいつも立っていて、私のズボンの裾をひっぱったりして身動きをとれなくさせた。 おかげで「私」は、ほかの子供たちのように屈託なく遊び回ることができなかったし、大人が望むのとは反対のことをするはめになった。 その赤い子供の名前は「ミミ」。大きくなった私は、その精霊の子供を探す旅に出る・・・。(連載開始にあたって)
小学生のぼくは、民俗学者だった父の友人から台湾の精霊だという「椰子の実をくり貫いたお面」をもらう。
「椰子の実の人形にあけられた2つの目の穴は暗く、穴の向こうはどこまでも深い、底なしの空間が広がっている・・・・ その目に見入られ吸い込まれるようで怖かった。」
いつでも、どこからか「その目」に見られているような気がしてしまい、社会生活がうまくできなくて、 自分が半端な人間だと感じていたぼくに、父は言う。
「こういうものを怖がってはいけないよ。ほんとうのものはみんなこんな姿をしているものだから。」
そんなある雨の日。
八幡神社の社殿に忍び込んだぼくは、抜け穴を抜けるように「マタギの村」に迷い込み、 わけもわからぬまま「イノシシ狩り」に借り出されて崖から転落し・・・
烏天狗・慈良との心温まる交流。
水の宮の番人のおじいさんの教え。
そして「無人島のミミ」との束の間の出会い。
八幡神社で眠っている間にみた「長い長い夢」であるにしては、随分「懐かしい」思いが込み上げてきてしまうのは、 吉田戦車の「挿絵の力」だけではあるまいと思われる。
ぼくは、こちら側の世界に戻ってきてしまった。それは、何より確かで悲しい現実だった。 あの時、ぼくは、自分が夢の縁を滑り落ちるのを感じた。蓮のつぼみのようにすぼみかけた夢の尻尾を、ぼくはつかみそこねた。 (最終回『美味しいお魚』)
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