徒然読書日記200711
サーチ:
すべての商品
和書
洋書
エレクトロニクス
ホーム&キッチン
音楽
DVD
ビデオ
ソフトウェア
TVゲーム
キーワード:
ご紹介した本の詳細を知りたい方は
題名をコピー、ペーストして
を押してください。
2007/11/26
「変わる家族 変わる食卓」 岩村暢子 勁草書房
六日目の朝は「最近忙しくて買物にも行っていないので」冷凍庫に唯一残っていた冷凍のハンバーグを母子三人で分けて食べている。 寝坊した夫は食事抜き。昼は遊びに出かけ、途中で買った菓子パンとアップルジュース。 夜は「たまにはゆっくりと夕食したい」とカラオケへ出かけ親子で焼きうどんを食べている。 七日目は、残り物とハンバーガーと、うどんの朝、昼、夕であった。
驚くなかれ、この主婦(27歳)が用意した一週間の「夕食」メニューは、
1日目 友達と遊んでいて時間がなかったので「あり合わせ」
2日目 休日で疲れていたから「すぐにできるもの」
3日目 実家に行ったので、手伝いもせず「実母に作ってもらった」
4日目 実家から帰ってくるのが遅くなって「適当に」
5日目 帰りが遅くなり時間がないので「テイクアウト弁当」
というものだったのである。
それとも、もしかしたら、これはもう驚くほどのことではなくなってしまっているのかもしれない。
まずは「首都圏に在住する1960年以降に生まれた(子どもを持つ)主婦」を対象として、 「食事作りや食生活、食卓に関する意識」について、アンケートを実施する。
次に、そんな彼女たちの「一日三食一週間分連続で、毎日の食卓に載ったもの」について、 「使用食材の入手経路やメニュー決定理由、作り方、食べ方、食べた人、食べた時間」などを、「日記と写真で記録」してもらう。
最後に、アンケートへの「建前的な回答(言っていること)」と「実態(やっていること)」を突き合わせて、 「矛盾点や疑問点を中心に背景や理由を細かく問う」という詳細面接を行う。
この「あなたねぇ、言ってることと、やってることが、全然違うじゃないの」とでも言うような、いささか意地の悪い調査「食DRIVE」 (@アサツーディケイ)は、私たち日本人の「家族の日常」が、食卓から崩壊してしまっている現実を見事に暴きだしてしまったというべきだろう。
「朝は起きられないので、夫が何を食べているか知らない」
・朝食はヨーグルト、ジュースや菓子パンなどを買い置きしておくので、各自好きなものを冷蔵庫から出して食べていく
「食べることに手をかけるより、親として、してやりたい大切なことがある」
・お昼は時間がなくてスイミング教室の見学コーナーでコンビニのおにぎりを子どもと食べた
「お好みのものを、お好きなだけどうぞ」
・スーパーでうなぎ、フライ、コロッケなど各自の好きな惣菜を選んで買って夕食にした
「好き嫌い言わずに食べなさい!と躾けられないお父さん」
・夫はハンバーグは嫌いだと言って一人でレトルトカレーを出して食べ始めた。魚の日は一人だけ卵や納豆を出して食べる
「日本の正しい朝食が、崩壊しようとしている」
・夫はトーストに野菜ジュースとサクランボ、祖母はモンブランケーキにコーヒーとホウレンソウのお浸し、 主婦はチョコレートプディングにカフェオレとニラの卵とじ味噌汁、長男は調理パンに牛乳
「栄養バランスを考えて、家では必ず野菜を料理につけている」と、事前アンケートではキッパリと答えている主婦が、 実際の1週間の夕食では「たまに冷凍のインゲンが添えられている程度」であるのは、 「レトルト食品に含まれる野菜や、冷凍のホウレンソウ、冷凍のインゲンをたまに少し付け合せる程度で必要な野菜は足りている」と考えており、 「生の野菜は高いから買わない」からなのである。
「日頃どうしているか」「どう思っているか」を尋ねたら、「日頃どうすべきだと考えているか(答えておくべきか)」 「日頃どうすべきだと思っているか」の建前を回答されてしまうと考えた方がいいだろう。私はこれを、現代主婦の「正解主義」と呼んでいる。 人に聞かれたら、実際自分がそうしていなくても、あるいは本気ではそのように思わなくても、自分の行動や気持ちに照らしてみずに、 とっさに「正解」と思われるものにマルをつけてしまう。
2007/11/20
「愛しの座敷わらし」 荻原浩 朝日新聞
「大手メーカーに勤める40代の会社員が地方支社に移動を命じられる。老母を含む家族5人はそれぞれに問題を抱えており、 会社員は自然豊かな環境の中で心機一転、家族のきずなを回復できないかと、あえて郊外での田舎暮らしを始める・・・、 とその新生活に異変が起きる。家にどうも、もう一人いるらしい。座敷わらしだ。」
という、連載開始前の「あらすじ」紹介が、まるでそのまんまに、物語はほぼ予想通りの展開で進んでいく。
「会社人間」の「父さん」は、左遷されてしまったショックを、憧れの「田舎暮らし」でまるで穴埋めできるかのように、 妙にはしゃぎまわっているが、 「都会の生活」を捨てきることのできない「母さん」には、待望の「庭付き一戸建て」が突然実現してしまったとはいえ、 どうしてもこの「古い大きな家」での暮らしを認めることができない。システムキッチンどころか、トイレは水洗でさえないのだ。
「携帯メール」の仲間の輪から外されるという「いじめ」を受けていたらしい女子高生の「姉ちゃん」は、そんなことにはまるで無関心に、 着信のない携帯画面を眺めて、ため息ばかりついている。
「喘息もち」でよわっちい小学生の智也は、広い庭を駆け回りながら、地元の子どもたちのサッカーの仲間に入れてもらえるだろうかと、 小さな胸をときめかせていた。
「純粋な子供の心を持つ者にしか見えない」らしい「座敷わらし」に、一番最初に気付いたのは、 家族からは少し「ボケ」が始まっていると思われていた「バァバ」だったが、幼い時に亡くなった弟の幽霊だろうと思っていた。
というわけで、「座敷わらし」の存在が、家族それぞれが抱えこんでいた「問題」を解消するきっかけとなり、ついには、 バラバラだった「家族の絆」を取り戻す結果につながることになるのだが・・・
ある日突然、「父さん」が再び東京の本社に呼び戻されることになり、ようやく愛着を覚え始めたこの「古い大きな家」や、 愛すべき隣人・友人たち、居心地のいい「田舎暮らし」に別れを告げて、「家族」としての再出発を決意する。
それは、まずは「めでたし」の、家族の物語の結末ではあるのだけれど、智也にはたった一つだけ心配なことがあった。
「けんだま」の遊び方を見せてあげても、「ほわぁ」と口をまんまるにして驚くばかり、 知らないうちに「母さん」の背中に、甘えるようにおぶさって、鼻ちょうちんをふくらませるだけ。 そんな「座敷わらし」なのに、これからたった一人でどうなってしまうのだろう。
東京への帰り道、「飯でも食うか」と立ち寄ることになったのは、 「あそこには一軒もなかったのに、東京ではどこでも看板を見かける、メニューも味もよく知っているファミレス。」 そういえば、鏡に映ったその姿を初めて目にしてノイローゼになってしまった「母さん」のために、 会社を早退した「父さん」と家族揃って外食したのも、こんなファミレスだった。
その時初めて「バァバ」と智也が、それは「座敷わらし」だ、という秘密を明かし、それが「家族の絆」を取り戻すきっかけになったのだった。 父さんには結局最後まで見えなかったけれど・・・
朝日新聞の連載が本日終了。
というわけで、最後の最後の「落し前」の付け方が、「ふんわり」と暖かな気分にさせてくれるというのが、
『明日の記憶』
(光文社)
以来の、さすがは荻原浩ともいうべき「真骨頂」なのである。
家族全員で、入り口の近くで待っていると、ウェイトレスさんがやってきた。智也たち五人をぐるりと見まわして、それから言った。
「六名様ですね」 (完)
2007/11/18
「ハル、ハル、ハル」 古川日出男 河出書房新社
了解したか?これはただの前口上だ。きみが読んできた全部の物語の続編をここに記しはじめるためのイントロダクションだ。 ここから語りはじめるための。登場人物は三人いる。年少のほうから順に紹介する。十三歳。男。十六歳。女。四十一歳。男。
それらが順に登場する。
「元気でね」という書置きと、一万円札十枚で、弟と二人、母親に置き去りにされた「藤村晴臣(ハルおみ)」。
三人目の父親に「蝕まれ」、父母に精神的に依存することを拒絶し、小さな家出を繰り返すようになった「大坪三葉瑠(みハル)」。
会社のエリート昇進レースから脱落し、タクシー運転手に「落ちぶれ」て、妻が娘を連れて出て行ってしまった「原田悟(ハらださとル)」。
それぞれの「ハル」が抱える、それぞれの「物語」の詳細は、ここでは問題とならない。
「この物語では。きみに語る三葉瑠の来歴はない。それは勝手にきみがイメージしろ。」
「悟には悟の物語があってそれが突然ここに連結されたのだ。この物語に。」
そうなのだ、そんな三人の「ハル」の物語が、たまたま一つに重なり合っただけなのに、 まるで運命の糸に導かれてでもいるかのように、三人は新たな「家族」となってコンビニを襲撃し、 家族強盗「ハル、ハル、ハル」の物語は、犬吠崎の突端目指して疾走を始めるのだった。
「アラビアの夜の種族」
(角川書店)
「ベルカ、吠えないのか?」
(文藝春秋)
で、現代の「語り部」としての異才をいかんなく発揮して見せてくれたあの古川日出男が、自ら「僕は完全に新しい階梯に入った。」 と高らかに宣言したように、 これは、疾駆する「リズム」に駆り立てられるかのような「ドライブ感」に満ちあふれる、新感覚の「短編集」なのである。
この物語はきみが読んできた全部の物語の続編だ。ノワールでもいい。家族小説でもいい。ただただ疾走しているロード・ノベルでも。 いいか。もしも物語がこの現実ってやつを映し出すとしたら、かりにそうだとしたら。そこには種別(ジャンル)なんてないんだよ。
2007/11/15
「渋滞学」 西成活裕 新潮選書
皆さんにはこんな経験はないだろうか。運転していていつの間にか渋滞に巻き込まれて、またいつの間にか渋滞から抜け出てしまった。 渋滞から出ても運転手には結局原因が何だったのかまったくわからないという、狐につままれたような渋滞だ。
「渋滞の先頭の運転手は一体何をしているのか?」という「よくある疑問」にお答えすると、
2位「事故や道路工事に捕まっている」(29%)
3位「合流部で躊躇している」(28%)
「料金所で小銭を探している」というありそうな答えに至っては、なんと4%とETCの導入で激減してしまっているのに対し、 1位は「サグ部」という「緩やかに下りから上りに変わる坂道」を何にも知らずに走っている(35%)のである。
上りに差し掛かったことに気付かない先頭の車のスピードが落ちると、車間の詰まった後続車は軽くブレーキを踏み、 その後ろの車はもう少し強く踏み、その後ろは・・・と続くうち、ついに何台目かの車は停止してしまうことになる。
車間が詰まってもブレーキを踏まなくてもよいギリギリの車間距離は、高速道路の場合40メートル。 つまり、1キロあたり25台の車が走っている状態が、「渋滞相転移」に至る「臨界状態」なのである。
それでは「人の渋滞」は?
(明石歩道橋の事故はどうして起こったのか)
「アリの渋滞」は?
(盲目でフェロモン頼みのアリは、混むほど速く進むんです!)
「インターネットの通信」は?
「電車の発車待ち時間調整」は?
「エレベーターのダンゴ運転」は?
様々な分野に現れる「渋滞」という現象を、鮮やかに分析してみせる武器は、「セルオートマトン」法。
「自己駆動」(ある条件のもとに独自で動く)
「排除体積効果」(1つの箱には1つしか入れない)
という「ごく単純」なルールをそれぞれの粒子に適用するだけで、これほどに複雑な現象が、これほど見事に記述できてしまうとは。 なんせ、この著者にかかれば、お金だって「渋滞」してしまうのである。 (もしお金の渋滞を起こす方法がわかっても、誰もその結果を公表しないのではないかと思われる、とまで書いてあるのだ。)
制御がなければどんどん富が集中するというのは、裕福な人と貧しい人の距離がますます大きくなる、ということだ。 これは列車においてダンゴ運転になると、ダンゴの先頭の列車は遅れ始め、その前を走る列車との距離がますます大きくなることに対応している。
2007/11/14
「その名にちなんで」 Jラヒリ 新潮クレストブックス
文字列は楽観するような右肩上がりに、ページの隅へ向かっていく。「この男が名前をくれた――名前をつけた男より」 と引用符で囲んだ書き込みが添えられる。こんなことが書いてあったのかと、いまになって見ているが、 さらにその下に彼の生年月日と1982という年が書いてある。この部屋のドアのところに、 いま彼が坐る位置から手を伸ばせば届きそうな距離に、父は立っていた。
14歳の誕生日に、初めて父から貰ったプレゼントは、去年のクリスマスの「余り物」の包み紙を使い、合わせ目を不器用にテープで貼ってある、 分厚いハードカバーで、カバーの折り返しの隅を三角に切って、値段がわからないようにしてあった。
その本のタイトルは、『ニコライ・ゴーゴリ短編集』。
新婚ほやほやでインドからアメリカに渡ってきた、若きガングリー夫婦の間に生まれた赤ん坊に、名づけられた名前は「ゴーゴリ」。 それは、父アショケがインドで遭遇した列車事故の際に、握り締めていたお陰で救われたという、 命の恩人ともいうべき『外套』を書いた作家の名にちなんだものだったのだ。
しかし、そのような「言葉にしがたい」父の想いを聞かされることもなく、 インド系にもかかわらず、ロシア系の、しかも苗字の方を、名前にされてしまった少年は、 アメリカに移住しながら、なおインドの習慣を捨て去ることのできない両親に対する乗り越えようのない距離を感じ始める のと時を合わせるかのように、自らの奇妙な名前にも次第に違和感を覚え始める。
あの衝撃のデビュー作
『停電の夜に』
(Jラヒリ 新潮社クレストブックス)
で、すでに「短編の名手」の呼び名を獲得してしまった美貌の作家の、これは待望の長編第一作なのである。
ついには「ニキル」という新しい名前を獲得し、両親の暮らす「世界」とはまったく離れた、自らの「居場所」を構築していくことになるのだが、 ようやく手に入れたはずの「居場所」が突然あっけなく破綻し、今は母が一人で暮らす実家に戻った「ニキル」は、 「いままで読んだこともなく、全く忘れていた本」の表紙の内側に、「ゴーゴリ・ガングリーへ」という、亡き父の穏やかな筆跡を発見する。
それは、鼻の奥が酸っぱくなるような、「痛み」と「哀しみ」とともに、「ゴーゴリ」の胸深くに突き刺さったことだろう。
書き込みは息子が見つけるにまかせ、この本をどう思うかなどとは聞かず、二度と話題にはしなかった。 この筆跡を見ていると、大学時代に送り続けてくれた小切手を思い出す。卒業してからも、生活費、敷金、 初めて買うスーツ代などの援助をもらった。何の理由もないのにくれたこともある。あんなに嫌いだった名前、 ここに隠れて保存されていた名前こそ、父が初めてくれたものだった。
2007/11/12
「声をたずねて、君に」 沢木耕太郎 讀賣新聞
あの期間、声が出なくなった僕は、ただひたすら人の話を聞きつづけていたような気がする。 そして人も僕に多くのことを語りたがっていた。そう、たったひとりを除いて・・・。
目の前を通り過ぎていくバスの最後部に、振り返ってこちらを見ている「自分自身の顔」を発見する、 という奇妙な体験をした夜に、高熱を発して寝込んでしまったディスクジョッキーの私は、 ようやく熱がおさまった時、大切な商売道具の「声」を失ってしまったことに気付く。
というわけで、ノンフィクション作家の沢木耕太郎が初めて挑む「恋愛小説」として話題を呼んだ連載が、 438回に及ぶ長丁場を記録してついに終了した。
「失った声」を探し求める旅は、「生まれ変わり」という自らの「出生の秘密」や、かつての恋人との破局の因となった「国のハシラ」、 そして、「おてふれ」という「真泉」の「みチカラ」を継ぐヒトとの因縁に満ちた出会い、などなど、 予想外の展開を見せて進んでいくのではあるが、
そこはそれ、沢木耕太郎の抑制の効いたタッチで、むしろ淡々とストーリーが運ばれていくものだから、 朝っぱらから「これはどうよ」と思われるような「絡み」のシーンも、意外とさっぱりとした後味なのであったのだが、
「ハシラ」と「みチカラ」に加えて、「オクムラさん」というこれまた魅力的な女性との、「声」を失ったことによって深まった関係も、 いずれも中途半端にとっ散らかしたまんまで、突然「声」が回復して連載が終わってしまうなんて・・・
あれから十年たったいまも、二十九歳のときのあの冬の二カ月はいったい何だったのだろうと思うことがある。
それは、こっちの方が言いたいセリフだぁ。
2007/11/8
「世界一やさしい問題解決の授業」 渡辺健介 ダイヤモンド社
問題解決とは、ひらたくいえば、「現状を正確に理解し」「問題の原因を見極め」「効果的な打ち手まで考え抜き」「実行する」ことです。
「原因」や「打ち手」を漏れなく洗い出すための「分解の木」
洗い出して考える道筋を、簡単な質問に置き換えるだけで明確にしてくれる「はい、いいえの木」
具体的な「課題」に対して、あらかじめ仮の結論とその根拠を明確にしておくための「仮説の木」
「仮設」を検証するためには何を調べる必要があるのかを見極めるための「課題分析シート」
何かを決めるための優先順位をつける時に役立つ「意思決定ツール」
という「問題解決」のツールを活用して、
「キノコちゃんは、友だちのナスビくん、ハンペンくんと力を合せ、中学生バンド『キノコLovers』のコンサート客の増員」を目指し、
「CGアニメの映画監督になることを夢見る小学生のタローくんは、6万円の中古パソコンを買う」という目標を立てるのだった。
え?小、中学生相手の「子供だまし」に毛の生えた程度の「入門書」じゃないかって?
冗談じゃない!
壁に直面すると「わたしなんてどうせダメよ」とすぐにあきらめてしまう「どうせどうせ子」ちゃんや、
自分なりの意見は持っていて、人にあれこれ指図はするけど、言いっぱなしで自分では何もやらない「評論家」くんや、
うまくいかないときでも「ダメなのは気合いが足りないからだ」と何でも精神論で片づけてしまう「気合いでゴー」くんが、
そのまま大きくなってしまったようなタイプがほとんどの「大人」に比べれば、
彼ら「問題解決キッズ」は、自分で考え、行動し、ときに方向修正して、ゴールに最短ルートで到着することができるのだ。
何たって、この本で紹介されている「問題解決の手法」は、著者が経営コンサルタント会社「マッキンゼー」で身につけたものなのである。
ぼくは22歳でこの思考法と出会い、そのとき、「これが『考える』ということなのか!なぜこれをもっと早く教えてくれなかったんだろう」 と強く思いました。
2007/11/5
「王様は裸だと言った子供はその後どうなったか」 森達也 集英社新書
「手込めにしちゃいなよ」
祖母は言った。狼はぽかんと、耳まで裂けた口をだらしなく開けている。
「手込め?」
「やっちゃいな」
「・・・無理ですよ」
「無理なもんかね。女はね、何だかんだ言ってこれに弱いんだよ」
嫁の言いなりの息子に、厄介者のように森に追いやられてしまった「おばあさん」は、ある日、顔なじみになっていた「おおかみ」から、 「おばあさんの孫娘に恋をしてしまった」という相談を受ける。
今こそ憎らしい嫁に一泡吹かせる絶好のチャンスだと、思わず過激なことを口走ってしまった「おばあさん」ではあったが、 その外見にはまるで似合わない「おおかみ」の一途さや善良さに、少しだけ絆されていたのもまた事実なのだ。
しかし、まるで純情可憐なはずの孫娘は、「おおかみ」から慕われているということに、薄々ではあるがとっくに気付いていたのだった。
「孫娘はなぜ一人でお使いに行ったのか?」
「病で臥せっている祖母は、なぜ森の中で一人暮らしなのか?」
「なぜ狼は、祖母の家の場所を聞いたその時点で、孫娘を食べてしまわなかったのか?」
初めて読んだ時に、純真無垢な子供であれば誰もが感じたであろうはずの「違和感」を、すっきりと見事に解消してくれる、 これが「赤ずきん」の新解釈だというのだ。
そんなわけで、この本は、オウム真理教の荒木広報部長が主役の映画『A』や、取材活動の挫折の経緯の方が話題となった著作
『下山事件』(新潮社)
で、 話題を呼んだドキュメンタリー作家・森達也が、
古今東西の誰でもが知っているような15の童話や物語を題材にとって、痛烈に現代の世の有様を皮肉って見せた、 毒気溢れるパロディの連作なのである。
ところで、『王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』?
「場の雰囲気を感じ取ることが、生来的に苦手」だったこの子供は、
@要領が悪いのでお嫁さんすら来ない「平凡な農夫」になっていた。
A革命家として王制を打倒したが、鈍いゆえに民の苦しみがわからない「残虐な独裁者」になっていた。
さて、皆さんはどちらだと思いますか?
2007/11/5
「シマウマの縞 蝶の模様」 SBキャロル 光文社
同じ動物でも、体の大きさ、形、色、組織などにこれほどの多様性があるのを目の当たりにすると、動物の形態の起源に関して、 大いなる疑問が湧き起こる。個々の形態は、それぞれどのようにしてつくられたのだろう。これほど多様な種類はどのようにして進化したのだろう。
「生命は、もろもろの力と共に数種類あるいは一種類に吹き込まれたことに端を発し、重力の不変の法則にしたがって地球が循環する間に、 じつに単純なものからきわめて美しくきわめてすばらしい生物種が際限なく、なおも発展しつつあるのだ。」(『種の起源』)
1859年にダーウィンが示した『進化論』(生物は、共通の祖先から分岐を繰り返すことで、多様な種類に分かれてきた) という「一応の答え」から、150年近くの空白を経て、ようやく私たちはその「驚きの答え」を手に入れようとしているらしい。
「ほぼ全ての動物に共通する体づくりの遺伝子が発見された」ことで、「発生生物学」および「分子生物学」から 「進化学」へのアプローチが可能となり、
「進化発生生物学」
(Evolutionary Developmental Biology)
略して Evo Devo(エボデボ)という、革命的な学問の領域が誕生したのだった。
この「エボデボ」がもたらした最初の大発見は、「あらゆる種類の動物をつくっている遺伝子は古い起源を持つ」というものだった。
つまり、これまでは異なる動物グループがそれぞれ独自に発明したと考えられていた「眼」「心臓」「肢」などといった類似の器官や構造は、
「個々のグループで独自に無から何度も生じたものではなく、同じマスター遺伝子の指令で古い起源をもつ 調節ネットワークの変更によって進化したものなのだ」
「シマウマの縞」(白と黒のどちらが縞か、あなたはご存知ですか?)や「蝶の翅の目玉模様」が、同じような起源を持ちながら、 胚が分裂していく際の、スイッチが入るタイミングによって、見事に「縞」は「縞」となり、「翅」は「翅」となるように、
「鰓」は「鰓」に、「肢」は「肢」になっていく、めくるめくような驚異の「発生」の現場が、息を呑むような美しい写真とともに、 次々と示されていく時、私たちは目の前に別の世界が開けていくのを感じることになる。
確かに、DNAの塩基配列で比較すると、「チンパンジー」と「ヒト」は99パーセント近く共通しているというのは、 今ではよく知られた事実なのである。
14歳になる私の姪のケイティーは、フロリダ州タンパの動物園で類人猿と対面し、父親に鋭い質問を投げかけた。 「パパはいつも、人間とチンパンジーは99パーセントも同じだって言ってたわよね。じゃあ、私たちは何で違っているの」
先頭へ
前ページに戻る