徒然読書日記200708
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2007/8/31
「アサッテの人」 諏訪哲史 文芸春秋
例えばプロ野球選手が自分の引退会見の席上で唐突にベルばらのオスカル・ド・ジャルジェの死を悼む発言をすることは 事実上許されないし、冬の日校舎の陰でバレンタインチョコを震えながら手渡してくれた少女に向かって脈絡もなくラバウル戦記における 日本軍の玉砕の美談を熱く語り始めるということは、あってはならない、ありえない現実だ。
「世界には定式に適った言葉とそうでない言葉が存在する」という意味で、「この世界の中で発声されるべきでない言葉」としての 「吃音」により、自らの人生観を決定づけられていたはずの叔父は、ある日突然、その「吃音」を失うことによってひどく戸惑うことになった。
吃音を失った叔父は、しばらくしてもう一度自ら「吃音的なもの」を求めはじめたのではないか。 そして、それが他ならぬ「アサッテ」誕生の瞬間だったのではないだろうか。
今年度「芥川賞」受賞作品。
「ポンパ」「チリパッハ」「ホエミャウ」「タポンテュー」と、脈絡もなしに、意味不明の奇声を発するようになり、 「アサッテ」の世界へと、突然失踪してしまった叔父の半生をたどる「小説」。
を書くために、私が書き溜めていた「草稿」の山と、失踪した叔父の部屋に残されていた彼自身の「日記」からの「抜粋」。
を「順を追って」紹介しながら、間に挟みこまれる「言語についてのある種の哲学的論考」(@宮本輝)。
これを「小説」と呼ぶのが「ふさわしい」かどうかは別として、 (なぜか、読んでいる途中で、江戸川乱歩を読んでいるような「既視感」に襲われてしょうがなかったのだが)
冒頭に引用した部分までの「前半」のメタな展開と、最後に引用する「付記」が(石原には「言葉の不毛」とこき下ろされていたが)
私は結構、気に入っている。
Cの地点に『ピタリ止まる』とあり、『顔右向けてこんにちは。ニッコリ笑って、へえー、だって。』と続く。
この地点で「右を向く」というのは反対側の壁を向くことで、そこにはたしか朋子さんの写真が留めてある。それにニッコリ微笑むの意か。
「ポンパッカポンパ、ポンパッカポンパ。・・・へえー、だって。」
2007/8/29
「株式会社という病」 平川克美 NTT出版
裁判長は、判決を言い渡した後で、ハンディキャップのある子どもを持つ母親からの手紙を紹介し始めた。 「大きな夢を持ち、会社を起こし、上場企業までにした被告に対し、あこがれに似た感情を抱いて働く力をもらった。 ためたお金でライブドア株を購入して今でも持ち続けている。」これが手紙の文面である。
「ライブドア事件」には多くの被害者がおり、堀江貴文はその「善意の株主」の信頼を裏切ったとする、マスコミの論調に対し、 著者は違和感を覚える。
ハンディキャップを負う子どもの母は、どうして「夢は本当は金では買えない」ということを教えようとしなかったのかと、私なら思う。 世のハンディとは、そのために合理的な利益を享受できないというような等価交換の価値観がつくる文脈において、ハンディなのであり、 それを克服するとは、その文脈自体を変えることではなかったのかと思うのである。
前著
『反戦略的ビジネスのすすめ』
(洋泉社)で、 「会社で働くとはどういうことなのか」を斬新な視点から突き詰めて見せてくれた著者が、
今度は「会社とはどういうものなのか」を問い詰め、たどり着いた結論とは、
私は、会社の「内部」を貫徹しているものの考え方というものが、私たち個人の考え方や、渡世の常識といわれるものと齟齬をきたし、 ときには倒立したものとなっているということに、会社というものの本質的な特徴があるのではないかと思っているのである。
「不二家」にしても、「雪印」「三菱自動車」「パロマ」の場合でも、「質の悪い」経営者によって引き起こされた不祥事であると 断を下してしまえば簡単だが、
むしろ「所有」と「経営」が分離しているという「株式会社」というかたち自体が、こういう事件を起こす必然性を持っていると言うのである。
それが「株式会社という病」なのだと。
どこまで行っても会社の目的とは、利益を最大化するということになる。本質的には会社にはそれ以外の目的は存在していない。 そして、その目的は私たち人間の目的でもある。ただし重要なことは、会社にとっては、それが唯一の目的であるが、 人間にとってはいくつかある目的のうちのただ一つでしかないということである。
2007/8/27
「星新一」―1001話をつくった人― 最相葉月 新潮社
どうしてあの人はこうなのかしら―。
香代子は、新一のショートショートを読み返すたびにそう思う。人がみんないなくなる。世界は滅んでしまう。静寂が訪れる。 すると、機械がカタコトと動き出す。そんな物語ばかり。悲観的で、絶望的で、厭世的で、せつなくて、かなしくて。
「戦後SF小説の開拓者」で「ショートショートの第一人者」としての「星新一」を知らないという人は、あまりいないだろうが、
「大製薬会社星製薬の御曹司」で「東大農学部出身のエリート」としての「星親一」が、SF作家「星新一」へと 転身していかねばならなかった事情までをも知っていたという人も、あまりいないに違いない。
「昭和の借金王」とまで揶揄された、大実業家・星一の「毀誉褒貶」相半ばした波乱の人生が活写される導入部。 その偉大な父が、訪米中に急逝した後、遺された「借金まみれ」の大事業を切り盛りしていくだけの「器量」を、親一は持ち合わせていなかった。 「野心」が決定的に欠けていたようなのである。
そこで出会った「SF」の世界。
「星親一」は、あこがれて作家になったのではない。
やむをえずなったSF作家「星新一」の誕生である。
しかし、ノーベル文学賞候補ともなった安部公房と、並び称されるほどの「天才」を評価されながら、 「ショートショート」という個性的なスタイルが徒となり、直木賞さえ候補どまりとなる。
時を超越しようと、「時代風俗」や「感情表現」を極力削ぎ落とし、原稿用紙数枚に圧縮していくその努力は、 抜群の売り上げを誇りながらも、いつしか「子供向けの作家」と認知され、賞を超越した存在として、文壇の奥深く祀りあげらることになった。
「なんでぼくには直木賞くれなかったんだろうなあ」
という新一のぼやきが、真剣に受け止められることはなくなってしまったのである。
講談社ノンフィクション賞受賞。
『絶対音感』
『東京大学応援部物語』
あの最相葉月が、またまた泣かせてくれた、渾身の力作である。
書斎に入るとこもりきりで、原稿が書けずに苦しんでいる姿は家族にさえ見せたことはなかったが、香代子は今、こう思う。
あの人はきっと、目に涙をいっぱいためながら書いていたに違いないと。
2007/8/8
「鹿男あをによし」 万城目学 幻冬舎
「どうして遅刻した」
「駐禁を――取られたんです」
「何だ、お前マイカーでも持っているのか」
「マイカーじゃありません。マイシカです」
所属する大学の研究室内でのトラブルから、教授の勧めに従って「2学期限定」で奈良の女子高に行かされることになった「おれ」を、 赴任早々待ち受けていたのは、
遅刻してきたくせに、えらく挑戦的な女子高生「堀田」の「冗談」と、
「“目”はちゃんと手に入るんだろうな?学校の剣道大会で優勝したら手に入ると言っていたが、優勝できなかったときはどうする?」
「そのときは無理矢理奪うさ。騒ぎになるだろうが、仕方がない」
「いいか、先生。もう時間がない。くれぐれも――あ、ちょっと待ってくれ」
やけに緊迫したその声に何事かと顔を向けると、華奢な足の向こうに小さな丸い糞がぽろぽろと落下していくのが見えた。
えらく真面目に糞をしながら、「日本滅亡の危機」を救う「使命」を伝える「鹿」の「言葉」だった。
「世の中のものはすべて、三点で支え合って初めて安定するのだよ」
春日大社の「鹿」と、伏見稲荷の「狐」と、難波の宮の「鼠」が、交替で、1800年もの長き歴史に渡って司ってきたある「儀式」の謎。
この荒唐無稽の「神業の秘事」の前では、「鹿がしゃべる」ことなど驚くほどのことでもなかったのだ。
実際、春日大社の鹿が、喋ったとしてもおかしくないような雰囲気を醸し出していることは、私も否定しないが、
かりんとうの袋はちゃんとパック加工がされている。これがやけに固くて開かない。一呼吸入れようと、おれは窓の外をのぞいた。 車内の照明の光を反射させた窓には、袋を手にした鹿の顔をした男が薄ら映っていた。
なんて、非日常的なストーリー展開に動ずることもなく、個別のシーンのありふれた「ディテール」が、とても日常ドラマ的に、 描かれていることが、
「結局、おれは鹿になるために奈良に来たのか」
という「ため息」さえもを、実にすんなりと、胸に染み込ませてくれる、万城目の真骨頂なのだろうと思う。
2007/8/4
「ゲーム的リアリズムの誕生」 ―
動物化するポストモダン
2― 東浩紀 講談社現代新書
ポストモダン化の進行と情報技術の進化に支えられ、私たちはいま、ひとつのパッケージでひとつの物語を受容するよりも、 ひとつのプラットフォームのうえでできるだけ多くのコミュニケーションを交換し、副産物としての多様な物語を動的に消費するほうを好む、 そういう環境のなかに生き始めている。言いかえれば、物語よりもメタ物語を、物語よりもコミュニケーションを欲望する世界に生き始めている。
現在の文学の基盤となる「想像力の環境」には、二つの異なったリアリズムがある。
ひとつは、近代以降の文学の「写生」という手法に支えられた「自然主義的リアリズム」であり、
もうひとつは、ポストモダンの「キャラクター」というデータベースの上に成立した「まんが・アニメ的リアリズム」である。
記号にすぎないはずの「キャラクター」が、「死んだり傷ついたりする身体」を獲得することで、「仮構を通してこそ描ける現実」を描くこと、 (自然主義的な)透明な言葉を使うと消えてしまうような現実を発見し、 それを言葉の半透明性を利用して非日常的な想像力のうえに散乱させることで炙りだすような、屈折した過程
こそが、「まんが・アニメ的リアリズム」だというのである。
さて、情報伝達の基盤となる「メディアの環境」には、 「コンテンツ志向」と「コミュニケーション志向」の二つがある。
「送信者」から「受信者」へ一方向的に伝達されるのが、「コンテンツ志向メディア」であり、 前世紀から存在するほとんどのメディアは、こちらに属する。
一方、コンテンツが変更できるという双方向的なメディアが「コミュニケーション志向メディア」であり、 ゲームとネットがその代表ということになる。
「キャラクター」が「ひとつの生を生きる」という「まんが・アニメ的リアリズム」とはまた別の、
「キャラクター」の「メタ物語性」が開く、もうひとつのリアリズムの可能性
シナリオをリセットするごとに新しいプレイヤーが新しい視点キャラクターをともなって参加してくる、 特殊なオンライン・アドべンチャーゲーム
「ゲーム的リアリズム」の誕生である。
2007/8/2
「輝く断片」 Tスタージョン 河出書房新社
いままで女を抱いたことは一度もない。だが、こわくはなかった。女をかかえて部屋にはいり、ドアを蹴るようにしめ、 その女のぐっしょり濡れたスカートから一定間隔でしたたり落ちる血の音を聞いたときから、恐怖は吹きとんでいた。 いや、それより先、歩道のふち石の上に死んで横たわる女を見つけたときから、 そして女の口からもれるうめきとも吐息ともつかぬ音を聞いたときから、そんな感情がはいりこむ余地はなくなっていた。
「53になるまで、友達もできなかった」デパート清掃夫の「おれ」の生活は、「瀕死の女」を道で拾い、 懸命に介抱する(フランケンシュタインを髣髴とさせる手術までやってのけるのだ)ことで激変した。
(八つの小学生のころ。)―彼女は通路をやってきて、チョコを投げかえす。メッシュが机にあたって破れ、彼女の声がひびく。 「こんなのいらないし、あんたなんか嫌いよ。だってそうでしょ、洟なんかたらして」いわれて顔に手をあてると、そのとおりだ。
回想の終わり。ただし、だれかが「どうせ用なしだ」とか似たようなことをいうたびに、必ず思い出のすべてを、 一つ一つを総ざらいすることになる。いくら先伸ばしにしようと、遅かれ早かれ、洗いなおすときがくる。
次第に生命力を回復し、献身的な介護に感謝の気持ちを示そうとする女を、おれは拒絶する。
「あんた、眠れ。おれ、全部やる。」
それは、平凡な日常の繰り返しの中で、おれが初めて手にした、手放すことなどできない『輝く断片』だったのだ。
異能者がその宿命である「孤独」を超えて「品性」を学び、真の「集団人」となる姿に人類の未来を予覚する。
(『BookMap』 工作舎)
と、松岡正剛が「SFの最高傑作」として絶賛していた、『人間以上』(ハヤカワ文庫)を読んだのは、もう30年も前のことになる。
この珠玉の短編集に採り上げられた8篇のいずれもが、『人間以上』と同時期に、つまり1950年ごろに書かれているわけなのだから、 当然これらも「SFの佳品」であるに違いないという、こちらの勝手な思い込みなど、はるかに凌駕して、 私は「物語の極北」ともいうべき高みにまで、一気に連れ去られることになった。
これは『SF』などではない。『SF以上』なのだ。
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