徒然読書日記200707
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2007/7/29
「綾とりで天の川」 丸谷才一 文藝春秋
近頃は雑学がトリビアとかになって、格が上って、評判がいいやうです。公約がマニフェストになると立派に聞えるやうなものか。
という話から始まって、
まずは『スーパートリビア事典』(研究社)に出ているという 「31/3分 ボンド好みのゆで卵を作るのに要する時間」というのがなかなかトリビアで洒落ているという話。
次に突然、どこかで仕入れてきたという話に移って、「インチキ」は漢字で「陰智機」と書く、とくる。
実はここまでが前振りで、こんな話、どこで仕入れたのかといえば、 『東海道遊侠伝』(天田愚庵)という清水次郎長伝のなかにあるというネタばらしがあって、 ようやくここから、お話は「なぜ博徒には相撲取り崩れが多いのか」という、薀蓄話に突入していくのでした。
角界は、百姓町人の子弟が身分制度の枠を越えて立身できる別世界だったので、挫折・廃業となれば、元の暮らしに戻ることが難しかった、 というのがその理由らしく、地方巡業の興行元としての博徒との付き合いが深かったこともその一因となっているのだそうです。
朝青龍の「骨折サッカー事件」もそうですが、暴行事件で引退に追い込まれた横綱・双羽黒が、 「横綱を辞めればただのデブなのに」と親方夫人に罵倒されていたのを思い出します。
もっとも、最近では「ボクサー崩れ」の方が、その筋との噂は絶えないようで、渡辺二郎事件なんてのもありました。 最初から崩れてしまっているような「兄弟」なんかがいたりもしましたね。
おっと、話がずいぶんわき道にそれてしまいました。 というわけで、こんな興味津々の「トリビア」なお話が、
「牛肉はローストビーフにかぎる」
「マリリンとジャクリーンの共通点」
「ライト兄弟とスミソニアンの確執」
「福澤諭吉のミイラの話」などなど、
次から次へと飛び出してくるわけなので、ついつい「個室」に滞留する時間が長引いてしまうという、困ったお話なのでありました。
2007/7/24
「動物化するポストモダン」―オタクから見た日本社会― 東浩紀 講談社現代新書
近代は大きな物語で支配された時代だった。それに対してポストモダンでは、大きな物語があちこちで機能不全を起こし、 社会全体のまとまりが急速に弱体化する。日本ではその弱体化は、高度経済成長と「政治の季節」が終わり、 石油ショックと連合赤軍事件を経た七十年代に加速した。オタクたちが出現したのは、まさにその時期である。
その社会の成員をひとつにまとめあげるための単一の大きな社会的規範、「理念」や「イデオロギー」といった 「大きな物語」が有効であった時代を「理想の時代」と呼ぶことにすれば、戦後日本の「理想の時代」は70年に幕を閉じ、 その後の時代は、社会的な現実が与えてくれる価値規範よりは、虚構が与えてくれる価値規範を「あえて」重視し、 フェイクとしての「大きな物語」の「断片」としての「小さなドラマ」を「見せかけ」に消費するという「虚構の時代」に突入することになる。
その「虚構の時代」が終焉した95年を象徴する、もっとも華々しい例が、サブカルチャーの想像力で教義を固め、 最終的にテロまで行き着いてしまったオウム真理教の存在だった。
そして、
近代の人々は、小さな物語から大きな物語に遡行していた。近代からポストモダンへの移行期の人々は、 その両者を繋げるためのスノビズムを必要とした。しかしポストモダンの人々は、小さな物語と大きな非物語という二つの水準を、 とくに繋げることなく、ただバラバラに共存させていくのだ。
作品の表層(ドラマ)という「小さな物語」においては、「萌え要素」の組み合わせのみで、「深い」「泣ける」と堪能しながら、 作品の深層(システム)は「大きな非物語」という「データベース」に還元した上で、自分だけのシミュラークル(ありえた別の物語) を構築することを欲望する。
この「解離的」なあり方のどこにも、他者が介在する余地などありはしない。
人間が動物と異なり、自己意識をもち、社会関係を作ることができるのは、まさにこのような(他者の欲望を欲望するという) 間主体的な欲望があるからにほかならない。動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要とする
爛熟し情報化した日本の消費社会を、オタク文化を通して見る限り、(戦後のアメリカ型消費社会の拡大という潮流に50年遅れて、)
日本は「動物の時代」に入ったと言わざるを得ないのだろう。
2007/7/18
「ウルチモ・トルッコ」―犯人はあなただ!― 深水黎一郎 講談社ノベルス
「突然このような手紙を差し上げる失礼をお許し下さい。
・・・・・
貴殿はミステリーの世界に残された、最後の不可能トリックというのを聞いたことがありますでしょうか?
・・・・・
実は私は、その《究極の意外な犯人》を可能にするアイディアを、持っているのです。」
小説家の私の元に、届けられた一通の手紙。
それは、推理小説のトリックを高値で買ってほしいというものだった。
そこに書かれていた「究極のトリック」とは、
「それはずばり、《読者が犯人》というものです。
読み終わって本を閉じた読者に、『私が犯人だ』と言わせることができれば、作者の勝ち、というわけです。」
表紙が「鏡」になっていて、「犯人はあなただ!」と初めから書いてあるわけなので、ここまでご紹介したところで、 「ネタバレ」のルール違反にはならないという趣向である。
そんなわけで、「一体全体、読んでいるこの私が犯人だなんて、どういうトリックなんだろうか」と、 わくわくしながら読み進めることになるわけなのだが、そのお話というのが、
・手紙と一緒に届けられる「覚書」という名の「その男」の「半生記」
・刑事が持ち込んだ、「その男」が容疑者となっている現実の殺人事件の話
・超心理学を研究する博士のテレパシー実験に、私が協力するという、手紙とはまるで無関係の話
が、同時並行で進行していく様子を
・私は新聞に「実験的な連載小説」として、「実況中継」の形で連載していく
だけなのだ。
で、読み終わって本を閉じた読者となってみれば、なるほど、確かに「私が犯人だ」と言わざるを得ないのだけれど、 本筋とは無関係に見えるすべてのエピソードが、それなりに伏線として計算されていることは認めるとしても、 これを「究極のトリック」と呼ぶのは、いささか無理があるような気がする、というのが正直な感想である。
だって、これって「
異常体質
」でしょ?それで「
お前が殺した
」なんて言われてもなあ?
(「 」の中は、既に読んだ方か、今後も絶対に読まない、という方のみ、お読み下さいね。)
2007/7/17
「キリストの棺」 Sヤコボビッチ Cペルグリーノ イースト・プレス
はたしてイエス・キリストは実在の人物だったのか。意外に思われるかもしれないが、 今はこの問いに「ノー」を突きつける学者がたくさんいる。イエス・キリスト(救世主イエス)など、 しょせんは土着の神人信仰や「死と復活」の神話に当時のユダヤ民族の救世主願望が合わさった虚像にすぎないと考えるからだ。 (Jキャメロンの序文より)
1980年、エルサレム南部のタルピオットにある宅地開発の工事現場で、ブルドーザーの一撃が「古代の墓」を掘り当てた。
墓の入り口には「逆V字に輪」の不思議なシンボルが描かれており、その内部には、意味ありげに配置された3個の頭蓋骨に守られるようにして、 10個の骨棺が置かれていた。
それらのうち6つの棺に刻み込まれていた「銘刻」は、
「ヨセフ」「マリア」そして「ヨセフの息子イエス」
「ヨセフ」も「マリア」も「イエス」も、紀元1世紀のエルサレムでは、確かに「ありふれた名前」ではあった。 しかし、それらが「同じ一つの墓」に葬られているという確率はどの程度であるのか?
「骨棺」の「銘刻」には「ヨセ」と「(師と呼ばれた)マリアムネ」というものもあった。
「ヨセ」というのは、マルコ福音書によれば「イエスの弟」の名前である。
「(師と呼ばれた)マリアムネ」は、あの「マグダラのマリア」のギリシア語圏での名前であった。
紀元1世紀のエルサレムに生きたユダヤ人という限定をつけた場合に、「父がヨセフで母がマリア、ヨセという名の近親者がいて、 さらにギリシヤ語をあやつり『師』と呼ばれたマリアとも親しかったイエス」が2人いた可能性は限りなくゼロに近いのではないか。
棺に残された「ミトコンドリアDNA」の検証により、「イエス」と「マリアムネ」は、「母系を同一としない」ことが確認された。 血縁関係のない男女が「家族」として同じ墓に葬られるということは、一体何を意味するのか?
なんと、墓から発見された「骨棺」の中には、「イエスの息子ユダ」という「銘刻」を持つものもあったのである。
ベストセラー『ダ・ヴィンチ・コード』を凌ぐ「ノンフィクション」の世界は、「事実」のみに基づくドキュメンタリーであるだけに、 余計に想像力を刺激してくれるものだった。
2007/7/11
「生物と無生物のあいだ」 福岡伸一 講談社現代新書
シュレーディンガーは『生命とは何か』の中できわめて重要な二つの問いを立てていた。 ひとつ目は、遺伝子の本体はおそらく非周期性結晶ではないか、と予言したことである。ふたつ目は、いささか奇妙に聞こえる問いかけだった。 それは「なぜ原子はそんなに小さいのか?」というものだった。
「物理法則」というものは、多数の原子の運動に関する「統計的な記述」であって、 それはあくまで原子全体の「平均的なふるまい」を近似的に述べたものにすぎない。
その「統計学」によれば、平均から離れて、例外的なふるまいをする粒子の頻度は、「平方根の法則」と呼ばれるものに従うことが知られている。
ここに100個の原子からなる生命体がいたとすると、その10%の10個(ルート100)程度の粒子は、その生命体の活動から外れて、 勝手なふるまいをすることを覚悟しなくてはならない。
これが100万個の原子からなる生命体ということになれば、そのルートは1000個、つまり「誤差率」は0.1%と劇的に改善されることになる。
生命現象に必要な秩序の精度を上げるためにこそ、「原子はそんなに小さい」、つまり「生物はこんなに大きい」必要があるのだ。
「生命とは何か? それは自己複製を行うシステムである。」という二十世紀の生命科学が到達した答え、 「DNAの二重ラセン」の分子生物学的な生物観から出発し、 そんな「プラモデルのようなアナロジーでは説明不可能な重要な特性」=「何か別のダイナミズム」を追い求めた著者が、 様々な遍歴と試行錯誤の上に、「生物と無生物とを識別できるもの」として提示して見せたのは、 「動的平衡」における「かたちの相補性」という概念だった。
シェーンハイマーが提唱した「動的平衡」の概念とは、
肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。 しかし、分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている 分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、 常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支が合わなくなる。
「もう牛を食べても安心か」
(福岡伸一 文春新書)
というものであり、それを可能にしているのが、ジグゾーパズルになぞらえられるような「かたちの相補性」だというのである。
生命とは動的平衡にある流れである。生命を構成するタンパク質は作られる際から壊される。 それは生命がその秩序を維持するための唯一の方法であった。しかし、なぜ生命は絶え間なく壊され続けながらも、 もとの平衡を維持することができるのだろうか。その答えはタンパク質のかたちが体現している相補性にある。 生命は、その内部に張り巡らされたかたちの相補性によって支えられており、その相補性によって、絶え間のない流れの中で、 動的な平衡状態を保ちえているのである。
これほど知的にエキサイティングな読書を体験できたことは、今年最大の収穫であった。絶対にお奨めの1冊である。
2007/7/8
「イングランド・イングランド」 Jバーンズ 東京創元社
「ここでの休暇は高くつくと思われるかもしれませんが、よそでは絶対にできないような体験を存分に味わっていただけるはずです。 それに、ここを訪れたなら、わざわざオールド・イングランドへ行く必要などありません。私たちの原価計算によれば、 もし『本物(オリジナル)』をすべて見るとすれば、三倍から四倍の時間がかかります。ですから、このお値段は実際にはとてもお得なんです」
功なり名を遂げた大富豪のサー・ジャック・ピットマンは、「ブリテン島の下腹に張りつくように位置する」小島・ワイト島を手に入れ、 「イングランド」をテーマとした大規模テーマパークを建設した。
そこに建設されたレプリカの数々は、バッキンガム宮殿、ロンドン塔、ウェストミンスター寺院等々。 市内には赤い二階建てバスや黒塗りのタクシーを走らせ、発行される新聞は「タイムズ」。 パブにはもちろん「生ぬるいビール」があり、郊外の森には「ロビン・フッドと陽気な仲間たち」が暮らす。
ついには本物の国王夫妻までもが移住して、レプリカのバッキンガム宮殿で暮らし始めることになるのだった。 (チャールズ皇太子を髣髴とさせる「国王」に、移住を勧める「くどき文句」が風刺が効いていて秀逸である。)
平和な新興国「イングランド・イングランド」が、偽者なるが故の活況を極めるにつれ、そこには、自分たちが達成した偉業を誇る 「愛国主義」が育ち、やがてはあの忌み嫌うべき「島国根性」までが芽生えようとしていた。 一方で、本物の「オールド・イングランド」は、急激に衰退し、経済的にも道徳的にもどん底の状況に陥っていったのである。
独裁者ジャックの弱みを握ることで、その座を奪うことに成功し、「本物以上の本物」を作るという夢を追いかけていたマーサは、 突如勃発した「ロビン・フッド」の反乱を抑えることができずに失脚し、「オールド・イングランド」へと追放されることになる。
寂れはててしまった元の祖国「イングランド」でマーサが目にしたものは、 皮肉にも、彼女が追い求め続けてきたはずの「古き良きイングランド」の姿だった。
どこぞの国の独裁者の「美しい国へ」なんぞを読むくらいなら、どうぞこちらをお読みください。
哲学的な深さもあり、薀蓄に富んでいて、そのうえ、読んで面白いことは、間違いありませんから。
2007/7/8
「生き延びるためのラカン」 斎藤環 バジリコ
言葉といい転移といい、人間のこころってやつはどういうわけか、「情報」を伝えあうためには、ひどく効率の悪いシステムになっている。 感情や知識が、光ファイバーみたいな回路でさくさく伝えられたら超便利なのにね。でも、その便利さにはどんな意味があるだろう。
僕らは「こころ」のせいで、愚かしい「欲望」を抱き、不合理な「衝動」に身をゆだね、ばかげた「関係性」に身を投じる。
しかし、その「愚かしさ」のゆえにこそ、僕らは「転移」しあい、「関係」しあい、つまり「愛しあう」ことができるのかもしれない。
僕らが「こころ」を持ち、「言葉」を語る存在であるのは、僕らの高くなりすぎた知能に「タガ」をはめるための、
いっけん、とても不便な贈り物だったのじゃないだろうか。
というのが、
「転移の転移は存在しない。」というラカンの精神分析理論に対する、
「日本一わかりやすいラカン入門」という看板を掲げた斎藤的解釈なのである。
(「こころ」がシステムで語られてたまるか!といったところであろうか?)
「語り口」があまりにも「ベタ」なので、なんとなく判ったような気になってしまうけれど、それほど内容が「やさしい」わけではない。 いずれにしても、この本は「斎藤環」が「ラカン理論」をどのように解釈しているか、その「さわり」をご披露しましょうということなので、 読んだからといって「ラカン理論」の真髄がわかるわけではない。 (もちろん、そんなものは誰もわかってはいないのであるが・・・)
しかし、「ラカン」の本当の醍醐味を知りたいという気持ちにさせてくれるという意味では、下記、内田樹の名著と併せて、 格好の「入門書」というべき本である。
その汎用性の高さは、「ラカンがほんとうはなにを言おうとしていたのか、だれにも確定的なことが言えない」 というラカン理論の超絶的な難解さに裏づけられている。あまりに難解であるために、だれにでも使える理論というものがこの世には存在するのだ。 ラカン理論はその希有なひとつである。(『現代思想のパフォーマンス』内田樹 光文社新書)
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